“ This task was appointed to you, Frodo of the Shire. If you do not find a way, no one will. ” ( 映画 LOTR:RotK より ) |
今回の 「 登場人物別 :PJ版を振り返る 」 は、
ガラドリエルについてです。
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PJ版に登場するエルフたちは、
残念ながら、キャスティングの限界という問題もあり、
概して、高貴な雰囲気があまり感じられなかったのですけれど、
ガラドリエルの奥方だけは、さすがに 別格 でした。
原作と較べ、ガラドリエルの贈り物が、
その重要性というか、神聖さを失っていた一方で、
( これは、FotR劇場版に入らなかったことを受けてなのか、
元々の設定からしてそうだったのかが、微妙なところではありますが。。 )
彼女自身について言えば、一段高みにある者としての存在感が、
より際立っていたように思います。
PJ版のガラドリエルは、
まさに、指輪棄却の旅と仲間たちを導く 「 しるべ 」 でした。
皆が困難に陥り、運命を大きく左右するであろう分岐点において、
そこでは、いつも、奥方の言葉が甦ってきます。
◇ FotR終盤、旅の仲間たちがバラバラになってしまったことで、
「 すべて、無駄になったということか 」 と落胆するギムリに、
“ Not if we hold true to each other. ”
という言葉をアラゴルンは返しますが、
これは、ロスロリアンでのガラドリエルの台詞、
“ Stray but a little, and it will fail to the ruin of all.
Yet hope remains while company is true. ”
に繋がっていました。
◇ TTTでは、指輪戦争の成り行きに大きく影響するであろう、
ヘルム峡谷での合戦を前にして、
“ It is the risk we all took. (略)
The time of the Elves is over.
Do we leave Middle-earth to its fate?
Do we let them stand alone? ”
というガラドリエルの言葉を受けたエルロンドが、
エルフ軍の派遣を決断します。
( このときの、ガラドリエルとエルロンドの会話が
一体、< いつ >< どこで > 為されたものなのか というツッコミや、
角笛城へのエルフの援軍そのものに対する “ 物言い ” については、
ここでは、敢えて、ふれないことにします。。 汗 )
そして、極めつけは何といっても、
RotKでの、フロドの心象風景としての登場シーンでしょう。
からくも、シェロブの巣から逃げ出したと思ったら、
背後からゴラムに襲いかかられ、しかし、彼は勢い余って崖下へと転落。。
体力的にも、精神的にも、混乱とどん底にあったフロドが、
力尽きて倒れたときに、ガラドリエルの姿を見るわけですね。
この場面は、タイミングからいっても、
フロドの中にある < 善 > の資質と強さが作り出した、
彼自身の心象風景なのかなぁと、私は解釈しているのですが、
実際はどうなのでしょうか?
This task was appointed to you, Frodo of the Shire. If you do not find a way, no one will. |
ロリアンの水鏡の場面で、ガラドリエルに言われたのと同じ言葉を、
幻のなかで耳にしたフロドは、彼女の手を取るかのようにして
再び立ちあがりますが、 この一瞬を経て、
彼の表情が毅然としたものに変化するところなどは、
原作の要素を垣間見ることができる描き方だったなぁと思います。
映画のガラドリエルは、ほんの僅かな時間しか登場しませんが、
そのどれもが、彼女の存在感を十分にいかした場面となっていて、
演じるケイト・ブランシェットの凄さに、うならされてしまいました。
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― さて。 ガラドリエルといえば、
灰色港のシーンを外すことはできません。
ここからは、すこし話題を変えて、
「 灰色港 」 について書いていこうと思います
PJ版では、指輪所持者たちと一緒に、
ケレボルンまでもが旅立ってしまう展開で、少々驚かされてしまいました。
多分、映画としては、絵的にも演出的にも 「 あり 」 なのかもしれませんが、
原作を考えてしまうと、やはり、いろいろと思うところがあります。
第三紀の終わりに灰色港から船出した
指輪所持者 ( 各指輪の最後の所持者 ) たちには、
原作の場合だと、それぞれ第四紀のことを託したと思われる、
後に残していく親しい存在がいます。
◇ フロド ⇒ 言わずと知れた、サム。
そして、サム自身にも、いずれ西へと旅立つ日が
やって来るだろうことが告げられます
◇ ガンダルフ ⇒ 「 白の木 」 の苗木の場面からして、
やはり、その相手はアラゴルンと言えるでしょうか
◇ エルロンド ⇒ 双子の息子エルラダンとエルロヒア、
それに、不死の命を手放したとはいえアルウェンもかな?
◇ ガラドリエル ⇒ ケレボルン
( “ 託す ” とは、少し意味が違うのかもしれませんが。。 )
で、ここから先は、もう完全に、
私の独り言状態なのですが ( それは、いつも だから ; ) 、
原作での灰色港からの “ 旅立ち ” とは、
指輪所持者たちへの < 赦し > であったと同時に、
彼らの負った < 義務 > でもあったのだ。。という気がするのです。
原作の 『 王の帰還・下 ~ 第5章 執政と王 』 には、
ガンダルフからアラゴルンへと向けられた、次の台詞があります。
中つ国の第三紀は終わり、新しい時代が始まった。 新しい時代の始まりを整え、保存してさしつかえないものは これを保存する、これがあんたの仕事じゃ。 というのは、多くのものが救われたとはいえ、 今や多くのものが消えていかねばならぬからな。 三つの指輪の力もまた終わった。 ( 下線は柚子緑 ) |
そして、上記の下線部分は、原書だと次のような表記になっています。
For though much has been saved, much must now pass away |
この 「 消えていかねばならぬ / must now pass away 」 についてですが、
私の場合、邦訳では < 衰えゆく運命にあるもの > というイメージが強く、
エルフに代表される、「 指輪の力により均衡を保たれていた世界 」 を
指し示しているように思っていました。
しかし、原書で読むと、< 留まっていてはならないもの > といった印象になり、
第三紀という時代を動かしてきた “ 力の象徴 ” である指輪と、
それに深く関わりすぎてしまった指輪所持者たちというのは、
すなわち、「 第四紀に存在してはならなかった 」 のかもしれない、
と考えてしまうのですよね。。
だからこそ、原作では、去りゆく指輪所持者たちの意志を継ぐかのような、
後に残される者たちの存在を、それぞれに設定してあるのでしょうか。
その別れがどんなに辛いものであっても、中つ国の時は流れつづけ、
過去の哀しみすら呑みこみながら、“ 現在 ” にまで至るのだという
歴史的な拡がりを感じさせる原作の世界観は、やはりスゴイなぁと思います。
PJ版で、灰色港のエピソードが描かれたことは
とても嬉しいことで、何度観ても好きな場面ではあります。
しかし、「 白の木 」 の苗木のエピソードも、
裂け谷の双子の息子たちも、この映画には登場しません。
ケレボルンが奥方とともに、海を渡ってしまった一方で、
PJ版のサムは、どうやら、西へ行くことはなさそうです。
・・ 確かに、映画にそこまで求めるのは “ 酷 ” だということも、
わかってはいるのですけれどね。
ただ、中つ国の第三紀までには存在していたはずの、
< 美 >< 力 >< 畏怖 > に連なるもののすべてが、
いっせいに過ぎ去ってしまったようで、
あまりにもキレイに、物語の舞台が閉じられてしまったというか、
映画の方が、作品世界との断絶感をより強く感じてしまい、
そうした意味で、原作以上に寂しい気持ちになってしまうのが、
私にとっての、PJ版の 「 灰色港 」 のシーンなのです。。
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05年9月8日付の 『 デネソール 編 』 は、
一部文章を修正してあります ( 2005.9.9. 済 ) 。