ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

教育勅語 道徳教材としての是非を問う

2017-04-06 13:46:33 | 日記
読売新聞は4月6日付で《教育勅語 道徳教材としてふさわしいか》と題
する社説をかかげている。読売といえば、自民党現政権に好意的で、比較
的右寄りの印象が強い新聞である。このような傾向を持つ新聞が、教育勅
語問題についてどういう見解を示すのか、興味が湧いた。

ざっと目を通したところ、この社説は以下のような3つの見解から成り
立っている。

①「歴史を学ぶ教材として、教育勅語を用いることは、何ら問題がない」
②「道徳などで教育勅語を規範とするような指導をすることは、厳に慎ま
ねばならない」
③「親孝行や夫婦愛など、現在にも通じる徳目を説いている面はある。し
かし、教育勅語を引用しなくても、これらの大切さを教えることは十分に
可能だ」

まず、①の見解はおおむね妥当だと言えるだろう。教育勅語を日本の歴史
の負の遺産として取り上げるのは、むしろ望ましいと、私は考える。負の
遺産だからといって、これに目をつぶるようなやり方は、かえって悪しき
歴史修正主義に陥りかねない。負の遺産は、それなりに受け入れがたい反
面教師として、きちんと俎上にのせるべきだ。私もそう考える。

②の見解はアンチ保守・右翼の匂いのする、読売らしからぬ見解である。
そのためか、読売はこの見解の説明にはかなり気を配っている。この社説
の説明は、以下の通りである。やや長くなるが、デリケートな部分なの
で、そのまま紹介することにしよう。

(教育勅語は)「皇祖皇宗」以来、連綿と続いてきた「国体の精華」の維
持を教育の根源とした。危急の大事には、皇室・国家のために尽くすこと
を、天皇が国民に求めている。
天皇中心の国家観が、国民主権や基本的人権を保障した現憲法と相容れな
いのは明らかだ。
道徳の教材に用いれば、学校での特定の政治教育を禁止した教育基本法に
も抵触する可能性がある。

この読売の説明に、異論をはさむ余地はない。天皇を絶対至上の君主とし
て戴(いただ)く帝国主義国家を、やはり絶対至上の存在とみなし、その
ために命を投げ出すことを当然だとするような教育は、主権在民を旨とす
る戦後の教育理念とは相容れない。

では③はどうか。社会を維持するために必要なルールは、最小限の社会規
範として、いつの世でも通用する。しかし、これを道徳的な徳目として
謳っても、そのままでは拘束力を持つ規範として通用しない、という嘆
かわしい人間社会の現実がある。
だからこそ、古代ユダヤ教は道徳的な徳目を「唯一神ヤハウェの教え」と
して掲げたし、明治政府はこれを「現人神である天皇の教え」として国民
の脳みそにすり込もうとした。
こうした「権威づけ」の操作は、人間の本姓を考えれば、ある意味やむを
得ないこととして、受け入れるしかないのではないのだろうか。
もっとも、「天皇=現人神」とする信仰が、現代では通用しないことは、
言うまでもない。
コメント
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