ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

「国立大学の法人化」を振り返る

2024-04-10 12:37:31 | 日記
きょう朝日新聞の社説を読んだとき、昔の悪い記憶がよみがえった気がした。きょうの社説のタイトルは、

国立大学政策 失敗を直視し見直す時

今から20年前に行われた、文科省主導の「国立大学の法人化」の政策を取りあげている。
朝日新聞はこの政策を「失敗」だったと断じ、その「見直し」を訴えている。

この社説を読んだとき、なぜ私のなかに悪い記憶がよみがえったのか。それは20年前のその当時、私は国立大学の教員として、「国立大学の法人化」の議題について、教育組織(私が勤務する大学では、それを「学類」と称していた)の会議で同僚たちが喧々諤々の議論を戦わせているのを横目で眺めていたからである。

横目で眺めていた、と私は書いたが、当時の私は、この(アホらしい)議題に熱心に関わりあう気にはなれなかった。
この「法人化」の試みの意図は明らかだった。朝日の社説が言うように、この文科省主導の(上から大学改革を進めようとする)政策は、「人件費や光熱費にあてる運営費交付金を減らし、研究費の多くを競争して得る仕組み」を導入しようとする企てだった。
大学の研究者の間に競争原理を持ち込み、研究費というニンジンをぶら下げれば、研究者はこのエサにありつこうとして、これまで以上に研究成果を上げようと努力するようになるだろう、ということである。

そんなことをすれば、研究者は当座の研究成果を上げようとして、目先しか見なくなり、息の長い基礎研究は疎かになるに決まっている。ーー何年か前、私はブログでそんな意見を書いたが、20年前の当時は、そんなふうに思うことすらしなかった。

当時の私は、興味を持った哲学の古典文献を読み、書きたいことを赴くままに書く、そんな思索の営為に没頭できれば、それだけで満足だった。喧々諤々の教員会議の議論に首を突っ込んだり、研究費を獲得するために厖大な申請書を書いたりすることに時間を費やすことは、労力の無駄遣いだと思っていた。

「大学を法人化すれば、研究者は目先の研究にしか目を向けなくなり、息の長い基礎研究は疎かになる」というブログでの私の意見は、私が定年退職してしばらくたち、昔の職場を客観的な目で振り返ることができるようになるとともに、ヒマを持て余すようになってから書いた、いわば後付の理屈にほかならない。

朝日の社説は次のように述べている。

競争を促しさえすれば成果が上がると短絡的に考えるのは誤りだ。飛躍的な研究成果には自由な発想や多様性、裾野の広さが欠かせない。長い目で見て支援すべきなのは、有力大や応用研究以上に、若手研究者が成長する場でもある地方大や基礎研究だ。
(朝日新聞4月10日)

私が言いたかったのも、そういうことである。これは今だからこそ言える意見で、もし私が若かったら、私はそうは思わなかったかもしれない。
20年前の当時といえば、私は53歳。もう若くはなかった。パーマネントの教授という地位を得て、目先の研究成果に汲々とする必要もなかった。
もし私がもっと若く、任期付きの職に就いたばかりで、目下売出し中の研究者だったら、朝日新聞の社説の言葉は、その私にどんなふうに届いていたのか。

そんなことを考えると、懐かしいような、物悲しいような・・・。

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