老子の言説は謎に充ちている。老子思想の核心をズバリ表した文言は、たとえば次のようなものであるが、我々はこれをどう理解すればよいのだろうか。
「是以聖人、處無爲之事、行不言之教。」
(読み下し文:「ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行なう。」
現代語訳:「聖人は, 無為のままに事に対処し,言葉にできない教えを説く。」)
後半の「言葉にできない教えを説く」は、禅宗でいう「不立文字(ふりゅうもんじ)」に通底する考え方で、これ自体が言語的な理解を拒んでいる。だからこれはひとまず措くことにするが、それでは前半部分の「聖人は, 無為のままに事に対処する」とは、どういうことなのだろうか。
それを理解するために、前回取り上げた、老いと若さの例について考えてみよう。きのうの朝、私はベッドからの起き上がりに難儀し、「ああ、自分も歳をとったものだなあ」と、切実な老いの実感にとらわれたのだった。この事態に対して「何もしない」ということ、つまり「無為のままに対処する」ということは、簡単にいえば何もリハビリをしないことを意味する。
そうすると、私の身体的機能はますます衰え、私は老化の一途をたどることになるだろう。「それじゃあ」――と言う人がいるに違いない。「聖人」は寝たきりになって、やがて一人ではベッドから起き上がれなくなり、石ころのように死を迎えるだけではないか。そんな前途を、私は選ぶ気にはなれませんね、と。
たしかに老子を批判的に受け取れば、そういうことになるのだろう。しかし好意的に受け取れば、次のように言うことができるのではないだろうか。
「老いた、とか、若い、とか、そんなことをちまちま考えずに、もっとおおらかに、無邪気になって、子供みたいに野原で思い切り駆け回りなさい、そうすれば、あなたの身体的機能だって、おのずと回復するはずですよ」
老子は、そういうことを言おうとしているのではないか、と私は思う。
これはまあ、私個人の私的体験に関わることだから、ひとまずこれで良しとしよう。でも、事が日本国民全体の生き死にに及ぶ場合はどうなのか。たとえば北朝鮮の核武装に対して、我々はどう対処すべきなのか。「無為のままに事に対処する」と、一体どういうことになるのか。
(つづく)
「是以聖人、處無爲之事、行不言之教。」
(読み下し文:「ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言(ふげん)の教(おしえ)を行なう。」
現代語訳:「聖人は, 無為のままに事に対処し,言葉にできない教えを説く。」)
後半の「言葉にできない教えを説く」は、禅宗でいう「不立文字(ふりゅうもんじ)」に通底する考え方で、これ自体が言語的な理解を拒んでいる。だからこれはひとまず措くことにするが、それでは前半部分の「聖人は, 無為のままに事に対処する」とは、どういうことなのだろうか。
それを理解するために、前回取り上げた、老いと若さの例について考えてみよう。きのうの朝、私はベッドからの起き上がりに難儀し、「ああ、自分も歳をとったものだなあ」と、切実な老いの実感にとらわれたのだった。この事態に対して「何もしない」ということ、つまり「無為のままに対処する」ということは、簡単にいえば何もリハビリをしないことを意味する。
そうすると、私の身体的機能はますます衰え、私は老化の一途をたどることになるだろう。「それじゃあ」――と言う人がいるに違いない。「聖人」は寝たきりになって、やがて一人ではベッドから起き上がれなくなり、石ころのように死を迎えるだけではないか。そんな前途を、私は選ぶ気にはなれませんね、と。
たしかに老子を批判的に受け取れば、そういうことになるのだろう。しかし好意的に受け取れば、次のように言うことができるのではないだろうか。
「老いた、とか、若い、とか、そんなことをちまちま考えずに、もっとおおらかに、無邪気になって、子供みたいに野原で思い切り駆け回りなさい、そうすれば、あなたの身体的機能だって、おのずと回復するはずですよ」
老子は、そういうことを言おうとしているのではないか、と私は思う。
これはまあ、私個人の私的体験に関わることだから、ひとまずこれで良しとしよう。でも、事が日本国民全体の生き死にに及ぶ場合はどうなのか。たとえば北朝鮮の核武装に対して、我々はどう対処すべきなのか。「無為のままに事に対処する」と、一体どういうことになるのか。
(つづく)
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