「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

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第四十七回 乙女通信 「残された時間」

2013年12月01日 | ゆるちょ!のドラマ・レビュー!
大河ドラマ「八重の桜」感想 乙女通信

「「男性大河ファン」の直感的で素直な感想」

●残された時間はもう少ない!若い頃の志は今も熱く燃えるけど・・・だからこそ、自分を追い込んでいるように見えるよ!でも、僕がやらねば!そう人は目的のために生きるのだ!最後の瞬間まで、その目的達成のために生きよう!それでこそ死の時、満足感を持てる!僕らはその為に生きているのだ!

もう、47回になりますね。大河ドラマ「八重の桜」レビュー、「残された時間」ということになります。今週もどうぞ、お付き合い下さいませ。


しかし、もう、12月ですよ。大河ドラマ・レビューをやっていると、この季節は寂しくなりますねー。

大河ドラマというのは、この季節になると、昔出ていた人物が出てきたり、自分の人生を振り返ったり、大事な人物が死んだりと、そういう少しさびしい季節になります。


今回も槇村さんが出てましたねー。老いてなおカクシャクとしている。いいじゃないですか、このキャラ大好きでしたね。いい感じに押し付けがましくて。

僕も年老いたら、ああいうキャラになりたいですね。


あと3回・・・その中で、描かれるのは、同志社大学設立に奔走する新島襄と、その生きる目的である大学設立に間に合うかどうか・・・というお話です。


僕は歴史を知らない。それがどうなるのかは、あえて、調べません。知ってしまっては物語を楽しめませんからね。

ま、そう言いながらも、来週の予告を見てしまえば、新島襄が客死する様子がわかってしまう。


大河ドラマを見ていると、偉人は、生きている間に目的を持ち、それを実現しようと苦闘し、準備し・・・その実現をするのか、実現できぬまま、死ぬのか、

その2パターンだということがわかります。


彼は日本国民の将来のことを考えて、自分なりに準備をし・・・憲法を持つ国民にふさわしい教育機関を創りあげようと考えた。

どこまでもやさしい・・・そういう人間だったのが、人間、新島襄だったということになりますね。


まあ、大河ドラマもこの時期に来ると、ある程度未来がわかってしまうので、作劇がわかりきってしまうところがあります。

新島襄が大学設立の為に奔走し、それが為に死んでいく・・・その状況が見えてしまうから、少し哀しい。


大人になるということは、どういうことかと言うと、協力者を得られる・・・ということだと思います。


今回、新島襄の建学の精神が著されていましたが・・・皆、自分なりのベクトルを持って生きているんですよ。人生のベクトルを。

そして、毎秒修行している。・・・だからこそ、その人間のベクトルは修練され切っ先が鋭くなっていて、いつしか、時代を切り裂くチカラを持つ。


つまり、他人から見て、

「こいつは僕の人生に、僕の事業に利用出来るぞ」

と思わせることが大事なんです。


そこまでの価値を作り上げることが「真の大人」のあり方になるんです。


誰からも相手にされず、孤立し、馬鹿にされて終わっているようでは・・・それは単なる「ガキ」のあり方に過ぎない。生きる価値すらない。誰からも相手にされないからね。


「真の大人の男性」は、多くの女性から支援を受け、そのチカラで持って、財界の人間に利用される・・・そうでなければいけないんです。

新島襄は、今回、そのあり方を僕らに教えてくれた・・・僕はそう思いますね。


「始めに言葉ありき」・・・聖書の最初にある言葉です。


すべては言葉なんですよ。どういう言葉を作り上げるか・・・それこそが大事。今回新島襄を評価した財界人は新島襄の言葉に感動した。

まあ、僕的にはちょっと浅い言葉で説得力にかけるのでは?と思いましたけどね。


結局、人間とは、どれだけ説得力のある言葉を吐けるかにかかってくる。


そのアウトプットを出せるには、全力で人生を生きること・・・このインプットが必要なんですよ。


人生を毎秒全力で生き、周囲に否定されながらも、自分のめざしたベクトル通りに生き、生き、生きる。

自分を否定する人間がいても、それはその人間の価値評価に過ぎない。

自分を信じていれば、そんな人間相手にする必要もないことを軽く理解する。


結局、人を批判したい人間の正体は誰からも相手にされない嫉妬心の塊なだけな、人間の屑だ。


そんな人間をたくさん見てきました。


結局、自分じゃあ、何も出来ない人間達が、人を批判することで、自分アゲを図ろうとしているに過ぎない現状を理解しました。

よくいるでしょ?さえないおっさん。ださい口臭いおっさん。新聞見て政府を批判したり、他国のあり方に怒りを感じたり・・・政治批判している人間は、

ほぼ1000%、人間の屑です。


自分の人生をしあわせに出来ないから、自分の人生にまともに向き合えないから、他人を否定することで、自分アゲを図っている。


くだらない人生・・・そのものです。


だから、誰からも相手にされない結果を自分で作っている。未来永劫誰からも相手にされず、もちろん、女性からは、その存在を嫌われる。

その人間の存在など、誰も関知しないし、その人間が何をしようが、誰も何も言いません。未来永劫。


絶対的な孤独・・・ま、「俺偉い病」と「逃げ込み者」の将来は、そうなること必至ですけどね。


日本人は、自分の今日を輝かせることで精一杯のはずです。

政治など担当者が必死に食らいつけば、それでいい。

僕は僕の今日を精一杯生きる・・・それだけで十分です。


将来、政治に関わる事態になったのなら、世界的に他を圧倒し、日本メソッドの素晴らしさをこの世に示せばいい。


素晴らしい物は素晴らしい・・・それを認めるチカラこそ、世界を牽引するチカラになる。

下らない国益競争などには、興味はありません。


他者をサゲることで、自分アゲをするなぞ、愚の骨頂・・・そんな政治をしている国の文化など、誰も相手にしませんよ。


結局、「負のエネルギー」しか出せない存在は、自分に「負のエネルギー」が集中し、疲弊し否定され、孤立し、誰からも顧みられず、悲しく死んでいくだけですから。


その法則は厳然たる事実として存在する。それだけです。


そして、世に「ハッピーエナジー」を出し続ける存在こそ、周囲から「ハッピーエナジー」を集中してもらって、しあわせになっていくんですね。


それだけです。この世のしあわせの原理は。


「原因があるから結果がある」とゴータマシッダールタさんは言いました。ほんと理系だ、彼は。


ま、そういう事ですねー。


世の原理は、シビアに結果を顕す・・・それだけのことだと思いますよ。


さて、話を戻しますか。


新島襄さんは心臓を患ってるんですね。

財界からも支援を受け、自主独立の気概を持った、キリスト教の私立の大学設立・・・勝海舟は、

「不平等条約改正の為に、西洋人を納得させる為の方便。サル踊りと馬鹿にされた鹿鳴館と一緒」

と、それと同じ文脈上に同志社大学の設立があると揶揄するシーンがありましたが・・・日本人は、過程がどうあれ、欲しいものを獲得出来れば、

その間に起こる揶揄や批判など、なんとも思わない、精神的に超強い民族です。


新島襄は、強い意思で、同志社大学設立を願ったのでしょう。その建学の精神の根本は、「自由」と「良心」です。


江戸時代、士農工商の身分制に別れ、身分差別が現実的にあった、そういう時代を生きた人からすれば、「自由」とは、フリーダムとは、非常に魅力的な世界だったと、

思います。同時期に慶應義塾を作った、福沢諭吉の思想も、「天は、人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」の「平等」を建学の精神の基本としました。


慶應義塾大学について調べてみると、「自由、平等、権利の尊さ」を建学の精神として謳っています。「独立」「実学」を奨励し、

「気品の泉源、知徳の模範たらん」ということが説かれています。


結局、これって、その時代に無かったモノを新たに創造した・・・そういうことだと思いますね。


これ、求めているモノが「知恵」であって、「知識」ではないことに僕は食いつきますね。「知識」とは「死んだ知識」であって、こんなもの持っていて当然です。


というより、僕は反吐が出るくらい「知識者」を嫌います。


「知識者」は「知識」があることをすごく誇り、言葉にしようとします。


しかし、江戸時代の言葉にあるように、

「論語読みの論語知らず」

にすぐ陥る・・・「俺偉い病」を創り出してしまうんですね。


だいたいネット時代の今、「知識」などすぐに持てます。ちょっと検索して、ウィキを読めば、「知識」など、すぐに取り込める。


新渡戸稲造大先生がその著書「武士道」に著している通り、日本人は「知恵」を作る為に、生きてきたんです。


「知恵」を作れる人間になることが、日本人の目的だったんです。

その為に、いろいろな経験を積んで、尊い「知恵」を作れるようになった時、初めて、一人前の大人になれる・・・それを知らなければ、大人とは言えませんから。


例えば、女性は「知識」を誇るオタクな人間を蛇蝎の如く嫌うでしょ?


「生きる知恵」を駆使出来る男性を女性は愛する。


「死んでる知識」を誇る男性は、女性の敵です。不快を通りこして、視界にすら、いれない・・・それが「知識者」のなれの果てです。


「生きている知恵」を作れる「知恵者」になってこそ、女性は、はじめて評価してくれるし、視界にいれてくれるのです


そして、もうひとつ大事なのは、「徳育」でしょうね。


日本の社会を見ていると、価値のある人達は、ごく普通に「徳」を身につけている。


「徳」とは何か?


「徳」とは、つまるところ、「大人の愛、子供の恋」という言葉で僕が作った、「大人の無償の愛」ということだと思います。


つまり、相手のことだけを考えて、相手の気持ちをよくすること・・・「おもてなしの心」そのものだと思いますね。


「子供の恋」は、自分のことばかり考えています。


だから、「奪う恋」になる。相手の唇を奪う、相手の処女を奪う、相手の時間さえ奪ってしまう。


自分のことしか考えられずに行動しているひとは、外見が大人でも、中身は、ただの子供・・・そういうことになるんです。


年齢を重ねても、子供のままの人間がいかに多いことか・・・その行動で、精神性が「ガキ」のままか、大人なのか、簡単に測れてしまいます。



ま、そういう「ガキ」は、相手にしないことです。結果、人は離れていき、孤立する。


まあ、「俺偉い病」や「逃げ込み者」は精神性が「ガキ」のまま・・・そうとも言えるでしょう。


「ガキ」なんて、金輪際相手にするな。時間の無駄だから・・・それが僕の基本的な人生の運用方法ですね。


そうやって、関係性を切った人間は、多数いますねー。


結局、相手に対しての「おもいやりの心」が無い人物は、この日本においては、関係性を切られ、孤立する、ということです。


周囲に対する「おもいやりの心が無い」という原因があるからこそ、「周囲から、関係性を切られる」という結果になる・・・わかりやすいですね。


つまり、「ガキ」はいらないってことですよ。


だからこそ、相手の属性が「ガキ」なのか、「大人」なのかは、シビアに判定することが大事なんですね。


「大人」属性の人間はしあわせになる権利を有するが、「ガキ」属性の人間は、しあわせになる権利はない・・・周囲が認めないから・・・そういうことになるんですね。


厳しいですよ。日本は、そういうあたり。


まあ、子供の頃見た、「南総里見八犬伝」では、徳を「仁義礼智忠信孝悌」として表していましたし、新渡戸稲造大先生の「武士道」にも、その構造について、

記されていますが・・・結局はすべて「相手を思いやる心のあり方があるからこその行動」・・・そうなるんですよね。


それが出来て、初めて一人前に大人と言える・・・ここはシビアに見切っていきましょう。


で、そういう人間を創ることを目的とした・・・同志社大学の建学の精神・・・「自由」と「良心」が基本となっているんですね。


「良心」・・・まあ、いろいろな表現がありますが、日本においては、「相手にとって良かれと思うこころ」・・・と言ったあたりでしょうか。


「自分以外の何かの為になるなら妥協をしない勇気」という言葉を見つけましたが・・・結局、これ、「おもてなしの心」につながるよねー。


というか、「勇気」という言葉なんですが、経験の無い弱い人間が好んで使う言葉ですよね。この「勇気」って言葉。


つまり、「ガキ」の使う言葉なんですよ。


精神的に大人になっていれば、「勇気」なんて言葉をわざわざ、持ち出さなくても、思ったままに行動出来ます。


だから、「勇気」という言葉を使う人達は、そういう子供たちにモノを教える職業のひとか・・・「ガキ」自身が使う・・・そういう他者の本当の価値を判断する時の、

キーワード的な言葉になる・・・そういう「知恵」につながるんですね。


だって、本当の大人だったら、「勇気」なんて言葉を持ち出さずに、思ったように行動出来るでしょ?普通に。


それは様々な経験が後押しするから、出来ることであって、僕だって、子供の頃は、それは「勇気」が必要でしたよ。


初めて女性に告白したり、「好きだ」って意思表示したり、「あ、目が笑っている」って、笑顔で言われたり、様々な経験をしてきました。


そういう経験こそが「知恵」に昇華出来る。


逆に「知識者」は情報を取って、頭に入れているに過ぎない。


経験というのは、情報量にすれば、映像情報、音声情報、感、勘、接触情報、その他、多量の情報があります。


テラバイト、ヘキサバイト、ペンタバイト・・・それくらいある。


しかし、「知識」というのは、ウィキ程度の情報です。数キロバイトから数十キロバイト程度のテキスト情報に過ぎない。


そんな情報・・・この情報化社会の中で言えれば、ゴミ程度の情報にしか過ぎない。


明らかに「知恵者」の方が、多量の情報を処理し、その中から、情報の結晶とも言える、「知恵」を創りだしている。


だからこそ、「知恵者」には価値があり、「知識者」は有害と言えるんです。


「知識者」は「知識」があることで、その「知識の牢獄」に囚われ、間違った判断を下し、不幸になっていく例が非常に多い。


「知識」があることを誇り「俺偉い病」になり、周囲から蛇蝎の如く嫌われ、不幸になっていく例を僕はたくさん見てきました。


この情報化社会の時代、ネットにつないで、言葉を撃ちこめば、その言葉に関する情報はあまたの数だけ表示されます。


だから、この時代、「知識」などあって当然なんです。


だって、毎秒ネットに言葉を打ち込めば、その言葉に関する情報は得られるのだから・・・。


その行動を人生のうちに何回出来るかです。そして、その「知識」に対して、思考し、言葉を吐く・・・その行動を何回出来たかです。


そこから新たな「知恵」が創りだされていくんです。


新たな「知恵」の創造こそ、人類に与えられた尊い行いなんですよ。人類にのみ、与えられた尊い行動と僕は言えると思いますね。


そして、「知恵」こそ、人を楽しませるエンターテイメントになり得るんです。唯一。


さて、話を戻しましょう。


どうも超朝の時間帯に書いていると、思ったことが駆け巡ります。話が思わぬ方向へ流れていってしまう。悪い癖です。


今回は、大学設立に奔走する新島襄と病に蝕まれた身体・・・それを心配する八重と徳富蘇峰・・・そして、その大学設立に協力する徳富蘇峰という話でした。


「熊本バンドの出世頭たい」


と徳富蘇峰さんは、言われてましたが・・・「熊本バンド」という言葉、懐かしいですね。


「あんたは、「ぬえ」たい」


と八重さんに言い放った徳富蘇峰さん・・・よくモノが見えるひとだったんですね。


だからこその、オピニオンリーダー。


というか・・・もう、随分話が整理されてしまいました。


大学設立は、出来るのか?新島襄は・・・そこに話が集約されてしまった。


そして、新島襄、運命の関東への出張。


話が煮詰まった感がありますね。


そう言えば・・・大日本帝国憲法発布の祭典・・・「どっかでこの映像、見たことあるよなー」と思っていたら、懐かしい「坂の上の雲」での映像でした。


懐かしい・・・あの作品もレビューしました。というか、初めてレビューしたのが、あの作品でした。


日清戦争なのに、昭和の軍人さんが出てきて、「軍人さんは偉いのだ。清國の人にも愛されているのだ」と主張してました。その作劇について、


「あれはNHKの左派をわざと視聴者に攻撃させるため」


とレビューしたのを覚えています。結構、その記事、好評でしたね。


ドラマというのは、製作者側の意図があって、作られているんです。


そこを汲むのが・・・レビューアーの基本になると僕は思っていますね。


この「八重の桜」は、どんなネガティブにも積極的に怒りながらエネルギーを創り、負けなかった八重さんの生涯を表現することで、


東北のいち早い復興を支えるモノです。


今、物語が語り終える・・・その時期に来ていますが、一日も忘れず、東北の復興に邁進しよう・・・その思いは強いですね。


それから・・・ネガティブに立ち向かう時、八重さんみたいに怒りのエネルギーを使うと、結構、多量なエネルギーで乗りきれることをこの作品で勉強しました。


「んなこと言ってっがら、駄目なんだべ。おれがやるから、見てろ。そのやり方を」


と八重さんに怒られる日々も・・・もう終わっちゃうんですね。


会津戦争での、鶴ヶ城で奮戦する八重さんをもう一度見たかったです。


もう、あと三回ですか・・・もう12月ですもんね。


おもしろかった「八重の桜」・・・さ、レビューも、あと三回・・・気合いれていきましょう。


気がついたら、もう、クリスマス・シーズンなんですね。


今週の喜び

新島襄さんが、病にやられて・・・どんどん疲弊していく姿は、ちょっと見ていられないモノがあります。


若い頃から目的を持ち・・・その実現の為に常に前を向いて歩いてきた新島襄にとって、志半ばで、死を迎えるのは、無念・・・その一言に尽きるでしょう。

僕も毎秒、自分の価値を追求する生活に入り・・・日々変化していく周囲の状況を見ながら、楽しく過ごしていますけど、

「生活の充実」

というのは、何モノにも変えられない感じがありますね。


考えてみれば、若い頃は、女性にも嫌われていたし、人生をとこへ持っていけばいいかもわからず、ただただ毎日さまよっているような毎日でした。


充実感など、程遠い。


その頃に比べれば、今は全然・・・充実感を毎秒感じています。結局、でも、その人生を作ってきたのは、自分ただひとりなんですよ。


自分の人生は自分で創るモノ・・・誰のものでも無い、自分一人で創るモノ・・・だからこそ、「充実したライフスタイル」を作れた自分を褒めてあげることが出来る。


「真の大人の男性」とは、そういう多量のネガティブをポジティブに変えてきた過去があるからこそ、経験がチカラとなり、「知恵」として、昇華させることが出来る、


周囲の男性も女性も笑顔に出来る・・・そういう人間を言うんだと思います。


他人をサゲることでしか、自分アゲが出来ない孤立した人間・・・こういう人間は誰も相手にしません。


何の努力もせず、ただ、毎日のんべんだらりんと生きてきた結果、


「孤立者」


という、ふしあわせスパイラル一直線な人生を歩んできた人間を言うんです。


「専業主婦型「俺偉い病」」も結果的に「孤立者」になります。言わば「絶対的不幸者」です。


関係性はすぐに切るのがベター・・・そういう評価になりますね。一切、会話を交わしてはいけません。奴らは、不幸を伝染させようと、虎視眈々と狙っているからです。


社会を生きていれば、それくらいの「知恵」は作れます。


そういう人間は、基本、「負のエネルギー」を周囲に放っています。


まるで、落日の「平家」のように。最も平家の場合は、「俺偉い病」になって「負のエネルギー」を周囲に放ち過ぎたために、


周囲から「負のエネルギー」の集中を受け、居場所を無くし、西海に沈んだ・・・そういうケースですけどね。


そういう意味で言ったら、新島襄は・・・「ハッピーエナジー」を放っているんですよ。


だからこそ、財界の人間や、大隈重信が、「ハッピーエナジー」を返してくれた。


まさに「情けは人の為ならず」ですねー。


その人間を評価するとき、その人間は、自分にとって、「ハッピーエナジー」を放っているのか、「負のエネルギー」を放っているのか、判断すればいい。


「負のエネルギー」を放っているのならば、関係性は即切ればいい。


「ハッピーエナジー」を放っているのであれば、関係性を充実化する方向に進めばいい。


それがこの関係性を重視する「日本社会」での歩き方です。


勘違いしてはいけないのは、結果的に「ハッピーエナジー」になっている言葉を吐く人間は大切にしなければ、いけないということです。


本当の事を「直言」してくれる友人や親・・・「おまえ、こんなんじゃ駄目だろう?お前、今にダメになるぞ」・・・こういう本当の事を言ってくれる人を、


どう扱えるか・・・が、その人間の一生を決めます。


僕は本当の事を直言する「直言者」でもあります。それによって、関係性を切られた人間は、あまたの数います。


でも、僕はその生き方を変える気はさらさらありません。


なぜなら、その関係性を切る人間達は、自分の限界を知っているからです。


つまり、そういう関係性を切った人間すべてが「逃げ込み者」になってる事実を、僕は知っている。


まあ、僕は怖い男でもあるでしょうね。だからこそ、辛辣な人間達に愛される・・・そういう結果にもなっているんですね。


ま、僕から逃げ出した、「逃げ込み者」・・・彼らは未来永劫、しあわせになる事は一切ありません。それを僕は見切っている。辛辣に。


だから、関係性を切って、逃げていく人達など、なんとも思っていません。


そんな経験、本当にあまたの数、経験してきましたから。


ただ、僕は自分の思いに素直に辛辣に生きるだけ。


その僕を評価してくれる、男性及び女性と一緒に生きていくだけ。楽しい言葉を交わしながら。


僕はそうやって、本当の「しあわせコミュニティ」を創り、さらに、自分の人生を盛り上げていくだけなんです。


それこそが、絶対的に、しあわせになる生き方です。


しかし、出会いがあれば、別れもある・・・それを今の「八重の桜」が教えているのだと思います。


人生は、死があるからこそ、日々充実した仕事が出来るのだ・・・と、僕は思っています。


とにかく、毎秒、充実した仕事をすること・・・これのみが、僕にしあわせをもたらす・・・僕はそれを強く思いながら、毎秒生きていきます。


そんなことを「八重の桜」は今回、教えてくれましたね。


死ぬときに、「俺やったじゃん。結構いい人生歩んでこれたんじゃね?」


と思いながら、死ぬために、日々をさらに充実させていきましょう。死の時まで、毎秒、精進あるのみです。


今週のあれ、どうなん?
徳富蘇峰さん・・・なんか、頼りがいが出てきて・・・かっちょいーと思っちゃいました。今回。人間、ああならねば、ね。