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「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

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村上論考!第1章「見かけにだまされないように」(1Q84を見る!:日本人的美学からの論考)

2010年06月03日 | 先人の分析
おはようございます!

昨日もいい天気でしたね。

今日もいまのところは、いい感じなので、

このまま、いってくれると、うれしいわけですが、どうでしょうね!

まあ、気持ちのいい時間が、それだけ続くことを祈っているわけですけど、

まあ、どうなるかは、天候次第というところでしょうか!


さて、今日は新しいシリーズを開始してみましょう。

えー、僕は「村上朝日堂」あたりからの村上作品ファンなんですが、

実は1Q84が読めてません。というわけで、このブログのネタにすれば、

読むことになるだろう!ということで、まあ、1Q84をテキストにしながら、

村上春樹の世界というものは、どういうものなのか、という感じで、論考してみようかな!

ということです。まあ、村上春樹作品というのは、読み味を楽しむタイプの作品ですけど、

意味しているものも見てみようじゃないか!ということで、そんなあたりが論考できたら、

楽しいかもしれませんね。ま、やってみましょう!

つーか、一週間に一回でやっていったら、いつまでかかるんだろうねー。

ま、のんびりいきましょう(笑)。


ま、第一章をテキストにしていきましょう。「見かけにだまされないように」です。

さて、どんなことになるか、ゆるゆると初めていきましょう!


さて、まず、ここでは、我々読者にまず、印象づけをしようとして、

「ヤナーチェクのシンフォニエッタ」

という音楽について語られています。

この手法は村上氏の他の作品でも使われていて、確かノルウェイの森の冒頭部分でも同じような形で、

「ビートルズのノルウェイの森」

がかかっていましたね。

「ヤナーチェクのシンフォニエッタ」

というアイテムを使って、主人公の性格、ひととなりを説明しようとしているわけですが、

このアイテムはあまり誰も知らないもので、その知性というものを表現しているわけです。

主人公である青豆さんは、歴史がお好きだそうで、常にクラスで最高だったそうです。

まあ、だから

「ヤナーチェク」

すら知っているという印象を持たせているんですね。

つまり、青豆さんは、知性的だ、と言う事を強調している、ということなんですね。


さて、青豆さんの父親、母親は、実家と義絶しているということで、

基本マイナスな環境から入るのは、小田さんの「言葉にできない」を論考したときに出てきた通り、

いい方向へ行く物語のお約束なわけです。だから、物語が進むとその義絶状態から、

プラス方向へ進むということかもしれませんね。


彼女は名前に関して名乗るのがいつもおっくうだった、としています。

まあ、そりゃ、そうだろうというわけで、青豆さんの説得力をあげるために、そこに小さなストーリーを挟み込んでいるわけです。

「もし、自分が青豆なんて名前だったらどうなるかな?」

と考えて、ちょっとしたストーリー、名前を名乗ると、相手はいつも不思議そうになるとか、くすくす笑われるとか、

そういうストーリーを入れることで、青豆さんの説得力をあげている、というわけです。

というわけで、村上氏は、このとき、青豆さん、そのひとになって、いろいろな説得力のあるストーリーとつづっているわけですね。

そして、

「私がありふれた名前だったら、私はもう少しリラックスした人生を送り、もう少し寛容な目で世間を眺めていたかもしれない。あるいは」

という言葉につないでいます。ということは、これが言いたいから、青豆という変わった名前を主人公につけた、んですね。

つまり、寛容でない女性を主人公にするために、青豆という名前をつけた、ということになるわけです。


さて、ここで、青豆さんは、唐突にかかっている音楽に耳を傾けます。するとどうでしょう。実はめちゃくちゃいい音で、音響機器もすごいものだし、

さらに、車さえ、遮音に特化した車だったことに気づくわけです。これは、何を意味しているのでしょう。

つまりは、非日常性の展開ということなのでしょうね。

日常にある非日常性。日常にいたはずなのに、突然迷い込んでしまった非日常。そういう演出がなされています。

そして、そのあとに、こういう言葉が綴られます。

「運転手の話し方には何かしらひっかかるものがあった。常に大事なものごとをひとつ言い残したようなしゃべり方をする」

「たとえば(あくまでたとえばだが)トヨタの車は遮音に関しては文句のつけようがないが、ほかの何か関しては問題がある、というような」

このことが、青豆さんを落ち着かない気持ちにさせる、ということで、主人公を不安にさせることで、読者のこころを不安定にさせているわけです。

主人公を、非日常に迷い込ませ、さらに、歯にモノのひっかかったような言い方をすることで、読者の気持ちを不安定にさせているわけです。

なるほどね。そーゆーことだったのか。

そして、青豆さんは、運転手になぜ、こんな車と音響装備にしたのか、聞くわけです。

でも、運転手は、今度は、理由を語りながら、尻切れトンボになるわけです。

これも、読者の不安定感について拍車をかけている効果をあたえているわけですね。


次に青豆さんは、重大なことに気づくわけです。

「わたし、クラッシックのファンでもないのに、なぜ、ヤナーチェクを知っているのかしら」

まあ、セリフ調に書くとこんな感じなんでしょうけど、知りも知ないのに、その知識が音を聞いた途端に反射的に浮かんできた、という奇妙な

物語をつづっているわけです。そして、

「その音楽は青豆に、ねじれに似た奇妙な感覚をもたらした。痛みや不快さはそこにはない。ただ身体のすべての組織がじわじわと物理的に絞り上げ」

「られているような感じがあるだけだ」

という感覚の表現があり、この不思議物語の感覚というのを表現しているわけです。そして、この感覚は「シンフォニエッタ」にもたらされている、と

しているわけです。

おもしろいですね。主人公の説明づけとして、高い知性と不寛容さを設定する。

そして、その主人公が、非日常に迷いこみ、そのこころを不安定にさせ、さらに不安定感の拍車をかける。

そして、知りも知ない知識が音楽を聞いただけで湧き上がる、という現実的でない話を語り、さらに読者の不安定感を煽り、そのときの感覚を語ることで、

読者にそういう感覚を疑似経験させる。それらは、すべて「シンフォニエッタ」によるものだ、と語る。

なるほどー、小説の表現というものは、こういう構成をするものなのね。

だから、ある意味、読者のこころをうまく動かしているということなんですね。女性が村上作品を好む、という傾向にあるようですが、

抽象的なモノが好きという女性の好みにあっていますね。そして、こころを動かしてくれる。女性が好むわけだ。


さて、ここから今度は、青豆さんの冒険が始まるわけです。

渋滞というわけで、目的地へ時間までに着かないことが運転手から告げられるわけです。

そして、高速道路にとりつけられている非常階段を使えば目的地に時間通り行ける、と告げられた青豆さんは決断を迫られるわけです。

そして、決断する女性という、女性が好きな物語が語られるわけで、この文章が女性向けに書かれていることがだだわかりになるわけですね。

そして、そういう物語の中に、また、ひとつ、奇妙な物語を入れるわけです。

「ひとつ覚えておいて頂きたいのですが、ものごとは、見かけと違います」

と運転手に言わせているわけです。そして、

「非日常のことをやると、そのあとの日常の風景が違ってみえてくる、みかけに騙されないでください。現実は常にひとつです」

とさらに運転手に言わせているわけです。

これ、具体的に何を差して言っているのか、わかりません。だから、非常に読者は気になるわけですけど、これも読者の気持ちを

不安定にさせる機能を果たしているわけです。

そして、これは、この本を貫いていく、テーマのひとつになるような感じです。まあ、どうつながっていくのか、わかりませんが、

この言葉がキーアイテムとなって、次の言葉につながっていく。そんな感じがしますね。まあ、ゆっくり見ていけばいいわけですがね。


このあと、青豆さんが車を出て、非常階段を降りるまでを細かく描写しているわけですけど、その中で青豆さんの外見の特徴を表現しています。

そして、その特徴の中で、脂肪が一切なく、筋肉は鍛え上げられ、168センチの美人として語られます。

右の耳と左の耳の大きさが異なることと形がいびつなことが語られ、何らかのキーとして、情報を与えているようですが、

このひとの物語では女性の耳がキーになることが、多いですね。「ダンスダンスダンス」でも、耳に特徴のある女性が出ていましたね、確か。

そして、彼女のマイナス要因として、表情に乏しく、そして、顔をあまり覚えることができない、という情報を与えています。

まあ、マイナスから始めるのは物語のお約束ですからね。成長物語にしようとするとどうしてもそうしなければいけませんから、

ここらへんの変化というのも、見て行きたいですね。

そして、彼女は、その階段を降りる前に、その行動を象徴的なセリフで表現します。

「私が誰なのか、これからどこへ行って何をしようとしているのか、きっと想像もつかないでしょうね」

「あなたたちは、そこへ縛り付けられたっきり、どこへも行けない。ろくに前にも進めないし、かといってうしろにもさがれない」

「でもわたしはそうじゃない。わたしには済ませなくてはならない仕事がある。果たすべき使命がある。だから私は先に進ませてもらう」

つまり、「仕事を持つ、自由な女」ということなんですね。

女性が大好きなストーリーなわけですよ。


つまり、この文章は、女性の好きな女性像を書きながら、読者のこころをジェットコースター的に動かす文章だ、ということがだだわかりになりました。

そうか。だから、女性はジェットコースターを好むのか。

こころを揺さぶられることが、女性は大好きだから。だから、村上春樹も愛されるわけね。

なるほど、女性に愛されたかったら、こころを動かすことが必要なのか!

いやあ、なかなか、いい勉強になりますね。


まあ、どうだったでしょう。1Q84論考!

なかなか、新しい試みなので、書いている本人は、いい勉強になりながら、おもしろかったです。

なるほどねー。村上作品が何を表現しているのか、いろいろ見て行くのは、楽しそうですね。

しかし、女性に受けるのには、理由があったんですね。

うーん、おもしろい。

まあ、毎週一回、木曜日を1Q84論考の日としましょう。


今日もここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。

戦略と戦術の違い!(翔ぶが如くシリーズ:日本人的美学からの論考)

2010年06月01日 | 先人の分析
おはようございます!

昨日は、気持ちのいい一日でしたね。

今日も朝の感じは気分が良さそうな初夏の感じです。

気持ちのいい一日にしたいですね。

なんだか、今年のつゆは、雨の日が少ないとか。

ほんとかな?

まあ、それも楽しみながら、毎日を送りますかね!

とにかく、充実した日々を送りたいものですね!


さて、今日は火曜日!ということで、「西南戦争シリーズ」ということです。

まあ、司馬遼太郎を切り刻む!ということで、本来の僕に戻って、ずんどこ切り刻んでいきましょう!


さて、前回は、熊本共同隊は、だめ人間の集まりだったということを指摘しました。

崇高な目的を持っているのは、宮崎八郎くらいで、あとは見栄で集まった人間ばかり、

信用できない人間ばかりだったとしました。まあ、群集の多くは、馬鹿ばっかりだと、

かのビートたけし氏も指摘していました。僕もそう思いますね。


さて、この二月二十二日の戦いのあと、西郷の本営に諸将が集まり、軍議のようなものが行われるんですね。

んで、結局、熊本城攻城を、明日以降も続けるということが決まるんですが、

これを決定させるひとつの要因として、熊本共同隊が出した二名の西郷偵察人が、

「鎮台が用意している兵糧は、一日を支える程度です」

という誤った情報を、この諸将に与えたことがあった、と司馬氏は書いているんですね。

これ、理解に苦しむんですよね。

まず、情報として誤っているんですよね。

攻城戦で最も重要な情報とは、やはりこの兵糧情報なわけですよ。

何日攻めれば相手が降参するか、ということが問題になってくるわけですからね。

だから、その攻城をする中で、最も大切な情報に、誤った情報を与えるということは、

薩軍からの熊本共同隊への信頼を決定的にダメにする致命的な過ちになるわけです。

さらに、まあ、一日で糧食がなくなったとして、10日もすれば飢餓で兵達は動けなくなるわけですから、

10日後には、その情報が正しかったどうか、わかるわけなんですよ。

そうすりゃ、薩軍の幹部連中は、

「あの野郎、間違いを教えやがった」

という怒りに変わり、熊本共同隊を信用出来ない輩として、冷たくあしらうはずなんです。

しかし、そういう表現は、この本には、見られません。

たぶん、そういうことを深く考えずに書いているから、書き落としたんでしょうね。

どうも、このひとは、本当に浅い。

ストーリーの書き手として、失格レベルです。


まあ、いつものことなので、ほっておきましょう。

熊本共同隊は、どういうつもりで、こういう情報を与えたんでしょう?

例えば、以前、この熊本城では、平時として、一日程度の糧食だけ確保していた、ということがあったのでしょうか。

しかし、この本の別の項で、

「糧食は今月いっぱい程度しかなかった」

という表現があったので、平時でも、一ヶ月程度だったと思われます。

とすれば、

「糧食が一日程度」

という話は、どっからも事実としては語られないはずなんですよ。

ということであれば、

「誰かが、戦争を続ける自分を、勇気づけるために作ったほら話」

ということが、わかってくるんですね。

つまり、

「熊本城はすぐ落ちる」

と思い込みたい誰かが、

「どうせ、糧食は一日程度だ。すぐ落ちる」

という言い聞かせを自分にしていたんです。

それが、いつしか、情報に変わってしまった。

つまり、だめだめ人間の集まりだった熊本共同隊のだめだめな誰かが勝手に作り上げた嘘情報であって、

それを知った熊本共同隊の使者二人が、情報の信頼性を確かめもせずに、不用意に薩軍に伝えたという構図がだだわかりになるのです。

結局、熊本共同隊の人間のあまりのレベルの低さ、というのが、ここに露呈するわけです。

はっきり言って、馬鹿の集まりレベルでしょ、これは。


そして、それを信用する薩軍幹部も、アホすぎるでしょ。もし、本当だったら。


だいたい、薩軍が進出してくることを予定していた熊本城ですよ。

糧食が一日程度なんてこと、普通に考えりゃ、あり得ないことだってだだわかりじゃないですか。

それをいくら、他から情報として与えられたとしても、信用しないでしょ、普通。

だから、これは、司馬氏のストーリーテリングがおかしい、ということになるわけです。

つまり、実際は、薩軍幹部は、この情報を信用しなかったのではないか、ということです。

その情報に踊らされたのでは全く無く、攻城方針は、決まったんです。

司馬氏は、彼ら薩軍幹部を、旧日本陸軍の幹部になぞらえて書き、馬鹿にすることで、溜飲をさげるという糞ですから、

だから、こういう書き方をしたに過ぎないわけです。

ほんと、この馬鹿司馬って、うんこだな。


さて、そこへ、川尻から駆けつけた野村忍介が登場してくるわけです。

この野村が駆けつける前に、薩軍各隊には、

「今夜深更に、城の四方から攻撃し、石垣をよじ登って城内に乱入する」

という方針が達せられていた、ということです。

そして、熊本共同隊については、

「貴隊は、地理に明るい。ぜひ、城北から短兵急に突入してもらいたい」

という話が伝わっていたそうです。

さて、そんなところに、野村が登場してくるわけですけど、ここにおもしろい文章が載っているので、

そちらをまず、とりあげましょう。

桐野が以前、この戦乱の前に吐いた言葉というのが、載せられています。それを見てみましょう。

「戦いは、正義のためにおこなうべきである。義を天下に唱うるの軍は、よろしく正々堂々の陣を押し出すべきで、へんぺんたる奇計を用い」

「奇兵を弄するなどは、義のための戦いにふさわしからぬものである」

というこれは、正論です。司馬氏は、戦略家である野村を西郷が好まなかった理由として、この文章をあげているのです。

つまり、戦略というのは、この文章における奇計であり、奇兵を弄するものだ、としているのです。

このおっさん、戦略と奇計、奇兵の意味の違いすら、わからない、どうしようもない馬鹿なんですね。

まず、この文章でいうところの奇計や奇兵とは、正攻法で戦うべきだ、と言っている意味の言い換えで使っているに過ぎません。

それに、奇計や奇兵とは、戦術というものです。その現場で、どう戦うか、ということです。

攻城戦で言うなら、昼間堂々と戦うのが正々堂々の陣であり、夜、奇襲をかけるのが、奇兵であり、奇計ということになります。

だから、すでに、薩軍は奇兵も奇計もしかけようとしているのです。

そして、戦略というのは、そういう戦術を駆使しながら、どういう方向性を持ち、どう敵と対峙していくか、という大方針とも言ったものです。

だから、そもそも比較対象が間違っているし、野村はそういう戦略家なのだから、戦にはまず、第一に必要な人間ということになるはずです。

西郷が、野村を嫌う理由の説明としては、間違っているわけです。そもそも、司馬氏が戦略と戦術の違いすら、理解していない。

もう、馬鹿はほんとに、しようがないですね。


西郷が野村を嫌った理由は、彼が薩軍を勝たせてしまう可能性があったからですよ。

だから、彼をできるだけ、うまく動けないように、していたに過ぎません。

西郷は、気の回らない人間が嫌いだったと思います。

まあ、小利口なくせに気がまわらない馬鹿という奴でしょう。

西郷は、その性格を野村に見ていたんでしょうね。

まあ、とにかく、西郷が彼にとる態度は、あの大度量の人間西郷であるにもかかわらず、こと野村に対してだけ、おかしくなるわけですから、

非常にわかりやすいんですね。まあ、そこらへん、ゆっくり見ていきましょう。


しかし、司馬氏は、また、おかしな事を書いています。ちょっと抜き書きしてみましょう。

「二十二日の白昼における猛攻で、意外にも熊本鎮台は、さざえのからを閉じたようにして籠城方針をとり、桐野が計算していたようには出戦してこなかった」

「出戦してくれば、薩軍は猛然とこれを襲い、全滅させるのも容易であったが、鎮台がその手に乗らなかった以上、薩軍としては、はじめて、」

「「作戦」というものをたてざるをえない」

まず、桐野は、熊本鎮台が街を焼いた風景を見て、

「熊本鎮台は戦う気だ」

と思って衝撃を受けた様子が描かれていました。桐野は、鎮台側の出戦なんて計算してませんよ。さらに、薩軍の規模を考えれば、

誰だって熊本鎮台は籠城することを考えます。低脳うんこ馬鹿の司馬氏を除いてね。

だから、はじめから出戦なんて、ありえなかったんです。そして、

「西郷が嫌っているから作戦などといういやしいものは、薩軍はたてない」

というような変なこじつけをしていますが、実際、戦の状況に応じて戦い方を考えるのは普通の発想であり、

薩軍をバカにした書き方だから、こういう書き方になるのもだだわかりです。

司馬氏が低脳馬鹿すぎて、わけわからなくなっているのが、だだわかりです。


さて、野村忍介は、

「強襲だけでは、すべてを失うかもしれません」

と発言し、薩軍幹部もその話に乗るわけですから、薩軍幹部が、

「より勝ちを得るための作戦を考えよう」

と自由な発想をしていたことがだだわかりで、司馬が書くようなアホの集まりでないこともだだわかりです。

これについて、司馬は

「薩軍の当初の自信が綻びたことをあらわしている」

と書いていますが、これは、薩軍を必要以上に馬鹿にするための文章で、こじつけに近い見方である、ということがだだわかりになります。

ほんと、低脳くそは、お前だバカ芝。俺が地獄に行ったら、てめえなんざ、殴りに殴って、闇の世界に飛ばしてやる!


さて、このあと、野村の具体的な献策が顕になるのですが、それは、まあ、次の回に譲りましょう。


さて、今日も長く書いてしまいました。

まあ、僕の好きな野村忍介が出てきたので早く書きたい気持ちがあるのですが、

まあ、順番を追わないとね。

まあ、このシリーズは、週に一日になりそうな感じです。

毎日、違うメニューというのも、おもしろそうですからね。

というわけで、次はいつになるか・・・。

ま、少し待っていてくださいね!


今日も、ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


議論倒れに価値はなし!(西郷が謝った理由!:日本人的美学からの論考)

2010年05月27日 | 先人の分析
おはようございます!

というわけで、今日は天気が持ち直すようですね。

なんだか、少し寒いし、ほんとに天気が持ち直すのかなあ、と思いながら

熱い紅茶をぐびびと、飲んだりしています!


週間天気予報を見ても、週末、あまり天気が良さそうではないですね!

うーん、やっぱり、本格的なつゆの季節という奴でしょうか。

あまり、感心しませんねー。

ま、それでも、楽しくやっていきましょうか!

まあ、今日は木曜日!ということで、西南戦争シリーズです。

そのあたりを、ゆるゆると、論考していきましょうか!


さて、前回は、宮崎ら熊本共同隊が、協力を申し出たところ、篠原は、沈黙をもってこれに対したばかりでなく、

熊本城についても、作戦などいらず、軽くこれを抜く旨を申したため、共同隊側に協力についての異論が出た、ということまで、

書きました。まあ、信念のない人間や、対面ばかり重んじるアホな人間はどの時代にもいるわけです。

まあ、そういう人間は、信頼すべきではない、ということも言いました。

そして、熊本共同隊は、結局、篠原の言い分を認め、それについて行ったのだろう、ということを書きました。

さて、その結論の前に点景というのを紹介しなければいけませんね。


宮崎八郎が篠原からの返答を同士らに報告したあと、会議は薩軍に見切りを付ける意見まで出て混乱してしまったということを司馬氏は書いています。

「薩人は信頼できない」

「かれらは傲慢である。とてもこういう連中とともに戦う気になれない」

という議論が百出した、と書いているわけです。

家主の有馬源内というひとが、

「天賦の民権をとりもどすという大目的こそ大事で、そのために利用すべき薩人がどうであれ、構わぬではないか!」

と言い続けても誰も説得されなかったそうです。そして、

「薩人は、自藩こそ天下第一等の雄藩であるという自負を持ち続けている。今更それを嫌っても仕方あるまい」

と言っても、誰も聞かなかったそうです。

まあ、これは、正論という奴でしょうね。確かにその通りなわけです。宮崎八郎も同じ気持ちなわけです。

でも、一座の人間は、目的が違うわけです。

僕が彼らを信頼すべきではないと言ったわけが、ここで、解き明かされるわけです。


このとき、「翔ぶが如く」では、あるストーリーが用意されているので、それに乗ってみましょうか。

「このとき、誰かが要は死ぬと言うことだ。死ぬと言うことをここで、決めればいいだけのことで、議論は要るまい、と言うと、他の者が、」

「「死ぬ覚悟なら始めから決まっている。いまここでやかましく議論しているのは、ああいう粗笨な連中と一緒にやって犬死したくない、ということだけではないか」と言った」

と、まず、書いています。そして、結局、彼らが徳者として敬服している平川唯一というひとの言葉をもらうことにし、

「私は他のひとに強制はしないが、私自身の気持ちをまとめた。犬死することにきめた」

と言う言葉をもらったそうです。そして、それを受ける形で、野満富記というひとが、

「私はその犬死の先駆けをして死のう」

と言ったために議論が決したそうです。実際、このひとは、戦の初日に亡くなっているそうですから、言葉通り実行した、ということなんでしょう。


これ、議論倒れの肥後人を批判するストーリーなんですよね。

もう、熊本城攻撃が明日の朝だというのに、議論ばかりしていて、結局、行動につながらない。そして、この野満富記というひとが、

「肥後人の議論倒れに業を煮やすように」

あのセリフを言ったので、議論が決した、と書いているわけです。要は、宮崎八郎以外の肥後人を馬鹿にしているわけですね。

また、タニクサ行為ですよ。

まあ、司馬氏の臭みは、もういつものことなので、ほっておくとして、僕もこういう態度をとる肥後人を「信頼すべきでない」と斬って捨てていますから、

その説明をしなくては、いけませんね。


結局、議論倒れの人間というのは、「自分をよく見せたい」だけの、目的や信念がない人間なのです。

そうです。彼らの目的は、「自分をよく見せたい」なのです。

宮崎八郎のように「人民主権の獲得」という崇高な目的など、とは、比較にならないほど、だめな目的なんです。

肥後人達は、犬死はいやだ、という理論を展開していますが、要はカッコよく死にたい、というだけなんです。

要は、見栄をはっているだけの人間で、その意見をいれる必要などないし、信頼しちゃいけないわけです。

中身がない人間達ということで、議論倒れの人間達というのは、そういうひと達なわけです。

だから、行動を共にしちゃいけないし、そもそも人間として扱うべきでもありません。

だから、この熊本共同隊というのは、だめ人間の集まりだったと言えるわけですね。

まあ、いつの世にも、だめな人間というのは、いるものです。

宮崎八郎と、この野満富記というひとだけが、熊本共同隊としては、価値のある人間だったようですね。

目的と信念を持つ人間だけが、価値がある。

そう断ずると、価値のある人間なぞ、相当少なくなるような気がしますがね。


さて、二月二十二日、薩軍は、さらに攻撃をしかけるわけですが、それについて、司馬氏は、次のように書いています。

「本来、攻城の主役は砲兵であるはずだが、しかし薩軍はその認識に欠けていた。彼らが故郷から引きずってきた砲の多くは、この日なお運送の途上にあった」

「奇妙なことに、戊辰戦争における薩軍の特徴といえば、砲兵の運用の巧さということであったが、それより十年後の薩軍はまったく別の集団のように」

「これを軽視した」

これは、どういうことか、と考えてみれば、大山巌の存在が、政府軍側にあった、ということがまず言えるでしょう。大山は、大山砲と言われるものを

作ったくらい砲の運用に明るく、そのために欧州に留学したくらいですから、薩軍の砲兵のエキスパートとも言えたわけです。

その存在が薩軍から消え、政府軍側についたことで、薩軍での砲への意識が薄らいだということが、まず、挙げられると思います。

また、桐野ら指導者が、戊辰戦争当時、まだ、部隊の小隊長程度だったので、抜刀銃撃を繰り返してきた、ということがあると思います。

全軍を統率し、戦略を考える経験なぞないままに、それぞれ、指導者になってしまった人間達ですから、結局抜刀銃撃程度の戦い方にしか、

頭が回らなかったのでしょう。

そういう意味では、彼らは戦争のエキスパートでもなんでもなく、10年前に自分が経験したことをただ繰り返していたに過ぎない人間達なんです。

戊辰戦争で、華々しく勝ち抜いた経験からのみ、物事を考えているから、戦争の常道もとれず、戦のプロである鎮台をなめた、ということなのでしょう。

つまりは、戊辰戦争で勝ち抜いた経験が、彼らの頭を暗くし、「まあ、勝てるだろう」程度の頭で、物事にあたったのが、この西南戦争の

薩軍の指導者達だった、といえるのではないでしょうか。

極端な成功の経験というのは、人間を暗くし、物事をしっかりと見えなくさせる原因となるのです。

だから、

「勝って兜の緒をしめよ」

という言葉があるのです。

その失敗をしようとしているのが、この薩軍だったのです。

そして、砲兵の必要性を知っていながら、何も話さず、地獄への道を指し示しているのが、西郷なのです。


さらに司馬氏は、こう書いています。

「それにひきかえ、篭城軍のほうは、砲兵をよく運用した」

あのさ。戦のプロをなめるなよ。おいバカ芝!戦車兵程度の経験しかないくせに、プロをなめるとは、何事なんだよ!

仕事もまともにできないくせに、偉そうにするんじゃねー、このくそ馬鹿!

ちょっと考えるだけだって、砲のほうが威力があるんだから、積極的に使うのは、あたりまえだろうが、このボケ!

ったく、ほんとうにむかつく野郎だぜ、このバカ芝は!


さて、二月二十二日の薩軍の攻撃は苛烈で、鎮台側も負傷者や戦死者が続出したようです。

しかし、攻城兵器としての砲が未だに戦場に届いておらず決定的な被害を与えるに至らず、膠着状態に陥るわけです。

僕は普通におかしく感じますね。だって、鎮台側はさかんに砲を使い、薩軍側に被害を与えているわけですから、

「俺らも、あれを使おう」

ということに気づかないはずはないんですね。

まあ、二十二日は、砲の輸送途中ということだったので、砲が戦場につき次第、薩軍側も使うはずなのですけど、

それにしては、砲を最初から先頭に押し立てて輸送しておかなかったことこそ、薩軍がぬかってしまったことだと、僕は指摘しますね。

もちろん、バカ芝は、この指摘ができていません。


さて、この二月二十二日の午後、西郷は熊本城下に入ったそうです。この報は、各部隊長にも知らされ、士気の鼓舞に使われたようです。

そして、西郷の意識について、司馬氏は、次のように書いています。

「(あすまでかかるだろうか)と、城攻めの見通しについては、西郷はその程度の認識だったであろう」

西郷は、神風連の乱後に、熊本鎮台が強力な補強を受けて、対薩軍戦に戦い抜けるようになっていることを知っています。

だからこその大久保の挑発だったわけですからね。だから、西郷は、

「ここが、薩摩士族の死に場所か」

という意識だったと思います。バカ芝は、まったく見当はずれなことを書いているに過ぎません。


さて、このとき、例の熊本共同隊から、二人の使者が西郷の元にやってきます。

松崎、高島の二人で、この二人は

「西郷がどういう人間か見てきて欲しい」

という熊本共同隊の要請によって、西郷に会いにきたわけです。

西郷は二人に対面すると、西郷は両手を畳の上につけて、ながく頭を垂れてから、

「自分が西郷吉之助でございます。このたび、貴県を騒がせておわびする言葉もございません」

と言ったとしています。また、

「西郷大将、身体肥満、眼孔闊大、荘重ニシテ威風アリ。シカシテ面貌温和、語辞隠静、礼遇最モ至る」

という印象も記しています。これやっぱり目力が強かったんですね。まあ、多くの民衆の視線を浴びたおかげでしょう。

この時の西郷の意識からすれば、熊本鎮台を薩摩士族削除装置に勝手に選んだのが西郷ですから、

「貴県を騒がせておわびする言葉もありません」

というのは、もうそのまんまなんですよね。

司馬氏のストーリーを信じていた頃は、

「鎮台が勝手に、通り抜けようとする薩軍に挑みかかったのだから、なんで、西郷が謝る必要があるんだろ?」

と思っていたのですが、僕の論考通りに西郷の意識を考えると、するっと通じるわけです。

まあ、このことを考えても、司馬氏の見方が、全然間違っているということが言えるわけです。

彼は自分で書いていて、この西郷のセリフと整合性がとれないことすら、気がついていないわけですから、ほんまもんのバカですね。


さて、この二月二十二日の戦闘は、もちろん、夜になっても続くわけですが、薩軍は、夜の食事の用意もしていなかったそうです。

これを司馬氏は、

「薩軍が、一日で、熊本城を落とすつもりだった証拠」

としていますが、戦争が祭りと感じるほど好きな薩軍だったから、

「食事はそのときになって考えればよい」

と考えていたに過ぎないと思います。はっきり言って針小棒大なんだよね、この芝と言うバカは。

ちょっとしたことを「証拠だ」と言ったり、指摘すべきことができなかったり、見当違いのことばかりで、アホくさくなります。


さて、夜遅くなると、流石に薩軍も、眠らなければいけませんから、各所に堡塁をつくって警戒しながら、睡眠をとるわけです。

このとき、熊本に到着したのが、四番大隊の三番小隊長、野村忍介です。司馬氏は、こう書いています。

「彼らが川尻についたのは、二十二日の夕刻で、このとき、薩軍が全力をあげて熊本城を攻撃中であることを知った。野村忍介はおどろき」

「「熊本城に足をとられていてはすべてを失うことになる」と言い、(途中略)いそぎ西郷に面談することにした」

というわけで、薩軍きっての作戦能力をもつ野村忍介が登場してくるわけです。


このひとは、鹿児島県の警察署長ですから、まあ、大警視川路利良と似たところがあるわけです。

まあ、薩軍きっての作戦家というわけで、西郷にとって、この野村は、実はじゃまな存在なわけですよ。

野村は、薩軍を勝たせようといろいろ献策するわけですけど、西郷からしたら、そんなことされたら、困るわけです。

まあ、だから、いろいろ対応があれになってくるわけですけど、まあ、見ていきましょう。

というか、僕がそもそもこの司馬氏のストーリーがおかしいなあ、と思った契機になったのが、この野村忍介に対する西郷の対応がどんどんおかしくなっていったからです。

まあ、かなりあとにならないとその徴候が出てこないので、今はまあ、ゆっくりと眺めることにしましょう。


さて、日没後、諸将が西郷の本営に集まり、自然、軍議のような形になったとしています。

このとき、西郷は奥座敷にひっこんだままで、軍議には参加していないそうです。彼は作戦に口出しすることを極度に避けているようだ、としています。

これについて、司馬氏は、

「その理由はむろん執行面は桐野篠原以下にまかせきっているということであろうが、見様によれば、暴発以来、自分の運命を自分で開くというようなはからいを」

「断ち運命を天にゆだねきっているようにとれなくはない」

としています。しかし、このひとは、すぐ逃げをうちますね。断定をしない。間違いを指摘されたくない極度のこわがりです。

さらに、ものがまったく見えていないバカです。西郷をバカにすることで、自分をほこり、金を強奪する低脳うんこバカです。

西郷が作戦に口出しできないのは、桐野以下に薩摩士族削除を任せているために、申し訳ないと思っているからです。

それに、作戦に口出ししたら、薩摩士族削除の考えがわかってしまう恐れもある。だから、西郷は、何も口出ししないんです。

もう、すべてが論考できているから、運命が見えているから、何も言わないのです。


さて、このあと、野村が参加してきて、ちょっといろいろあるんですが、まあ、これは、次回ということにしましょう。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございます。

明日は、自由論考としたいと思います。

さて、何を論考しようかな!

今から楽しみですね!

その時に、また、お会いしましょう!

ではでは。


いざ、出陣!熊本共同隊!(宮崎八郎の先見さ!:日本人的美学からの論考)

2010年05月20日 | 先人の分析
おはようございます!

さて、今日は朝から雨みたいですね。

沖縄なんか、つゆ真っ只中らしいですね。

つゆは、僕が苦手な季節です。

まあ、ちょっとの雨なら風情もありますけど、長雨はね。

こういうときは、風情のある音楽でも聞きながら、

そうだな。David Benoitあたりの、ピアノでも聞きながら、

ブログを書いて過ごす、なんてのが、お似合いかもしれません。

まあ、あるいは、サイクルロードレース・シーンの映像を見ながら、

エアロバイクで、トレーニングというところ、ですかね。

いずれにしろ、雨はちょっと困りものです。


さて、今日は、西南戦争シリーズに戻ります。まあ、週二回くらいが、妥当かな?

こればかり、というのも、あれですが、やめるのも忍びないですからね。


さて、今日もVittelなぞ、ぐびびと飲んで、ゆるゆると論考を開始しましょう!


さて、前回は、熊本鎮台のやりようと、西郷、桐野の無口の意味について、

お話しました。まあ、このあたりから、西郷の胸中、厳しいものがあると思いますから、

ますます無口になっていくわけですけどね。


さて、3月22日、払暁、薩軍は、運命の城、熊本城に攻撃を仕掛けます。

鎮台側の記録では、

「二十二日、午前六時、賊兵、安己、長六の二橋より進む。下馬橋の台よりその先鋒を火撃し、飯田丸及び千葉城の砲兵、獄の丸の歩兵これに応ず」

となっています。まあ、この部隊は、池上四郎の五番大隊だそうですが、四番大隊の一部も現場に到着し、攻撃を始めます。

「須臾にして、賊兵、鉾を東南に変じ、千葉城に向かう。我が方、又撃て、これを卻く」

と、鎮台側は報告しています。そして、さらに、城の西を囲むのが、村田新八の二番大隊、篠原国幹の一番大隊、別府晋介の加治木郷士の大隊だそうです。

いやあ、なんだか、大変なことに、なってきましたね。

午前中の状況について、鎮台側の報告では、

「賊もまた火力を盛んにし、斬く進んで花畑の地物により、射撃最も激し」

だそうで、かなり激しく攻撃を受けたそうですね。

このときの籠城兵の回顧談に、

「午前十時まで、城は持ちこたえられまいと思った」

というのが、あるそうですから、相当苛烈な攻撃だったことは、確かでしょうね。

だが、落ちなかった。まあ、攻城の基本である、大砲による攻撃がなかったからだ、というのはだだわかりなんですけど、

小銃だけで、落とせそうだった、ということが、薩軍の能力の高さを表しているからもしれません。


さて、この薩軍の中に、協力者として、熊本県士族が加わっていたそうです。

まあ、司馬氏によれば、

「理屈っぽくて、実行力を伴わない」

だそうで、それでも、そういう人間達が、6百人程、この戦線に加わっていたそうです。まあ、この中に

「ルソー信者」

として、名高い宮崎八郎が加わっているわけですけど、彼は薩長政府の政治に矛盾を感じ、この「第二の維新」

に、こころを寄せるわけです。まあ、「人民主権」を謳うルソーに共鳴するわけですから、

薩長の掲げる天皇主権には、真っ向から反対なわけです。

なんとなく、このあたりを見ていると、よく映像で見る、遠い昔の学生運動を思わせるものがありますね。

人工的に作られ結局失敗だったマルクスレーニン主義にかぶれ、時の政府を断罪し、

反政府運動を繰り広げる頭の弱い学生達。まあ、その成れの果てが、今の与党の人間達なんですから、

低脳で、能力もなく、お馬鹿で、仕事のできないバカ政府ができあがるのは、あたりまえ、ということで、

ほんとに、低脳うんこバカは、早くこの世から消え去ってもらいたいものです。


まあ、司馬氏は、この宮崎八郎を一方の主人公として、とりあげているわけですけど、

1972年から1975年にこの作品が書き上げられれたことを考え合わせると、この宮崎八郎を

当時の学生運動に加わる学生になぞられえて書いていることがだだわかりです。

時の政府を悪者にして、ヒーロー的に立ち上がる学生的に書いている。

ま、政府を悪者にして、そういう政府を断罪している俺は偉いんだ!と自分を誇るためにストーリーを綴っているのが、

だだわかりで、ほんとに、こいつの「俺偉いもんね」病は、その低脳うんこバカぶりを思い切り露呈させています。

ほんと、俺が地獄へ行ったらこいつ蹴りまくって、異世界へ飛ばしてやろう!


まあ、宮崎八郎そのひとは、この時代に、「人民主権」に共鳴するくらいだから、物の見えるひとだったのでしょう。

確かに、現在は、そういう時代ですし、それが、民主主義の根幹を成す思想であることも確かですから、

宮崎八郎の考え方は、間違ってはいなかった、学生運動の学生達とは比すべきでないくらい、モノの見えるひとだったと思いますね。

まあ、それを学生運動になぞらえて書いちゃう司馬氏のモノの見えなさがだだわかりになって、

ほんと、こいつどうしようもねえな、って感じですね。


さて、この宮崎八郎、さきに熊本城の天守閣が炎上消失としたときに、あまりの喜びに、一首、歌を読んでいます。

「年を経し 思いの雲の晴れて今日 心尽くしの月をみるかな」

まあ、積年の想いが達成されていく、その兆しと見たのでしょうね。まあ、このひと、このとき26歳なんですが、

まあ、素直に将来に希望を持っていたのでしょうね。まあ、ここまでいろいろ苦労した人生だったみたいですから、

それが、素直に出ている句だと思います。


さて、この宮崎八郎ら熊本共同隊がその在所から発する時に、ある老人が

「諸君らが、われわれ百姓のために、こうも力をつくしてくれるのか」

ということを言ったそうです。つまり人民主権の世の中をつくるために、彼らは行動するわけですから、

自然、人民とは、百姓という意識になっていたんでしょうね。

まあ、政府から税金を搾取されている、という意識はどの時代の百姓にもありますから、

ここらへん、自然な反応と見るべきなんでしょう。

司馬氏は、このことについて、

「農民から見れば、にわかに東京にできた新政府などは、税金をとりたてる泥棒も同然といったような印象だったにちがいない」

と、断定しています。まあ、これ、自分を誇るための文章だということは、だだわかりですが、税金というものは、どの時代でも農民から搾取されるものです。

税金を納める相手が変わっただけ、というのが事実のはずなのに、こうやってミスリードしてまで、自分を誇るこのおっさん、ほんと許せませんね!


さて、その熊本共同隊の出陣は、音曲いりで、勇壮なものだったそうですが、

司馬氏は、それについて、

「本来、物笑いになってもよいような」

などと馬鹿にした書き方をしています。そして、

「そのことは、当時の気分を知ることなしに理解することは難しいだろう」

と、

「俺は理解しているもんね」

と、さも偉そうに書いているわけです。そして、その気分とは、

「官というのは、盗賊であるということが、この当時天下一般の士族や農民の心象に濃淡の差こそあれ、広がりつつあった印象であった」

このひと、こういう逃げの書き方ばかりする人間なんですよね。

「印象であった」

とすることによって、自分の責任逃れをしている。結局自信がないんですよ。弱い人間なんです。そのくせ、誇る。なのに、人間観察力ゼロの低脳うんこ馬鹿。

まあ、いいでしょう、話が切れますからね。


さて、司馬氏の説明によると、音曲入りで、出発した熊本共同隊が物笑いになってもよいような形だったのは、盗賊政府を倒すという大義が正しいものだったからだ、

ということになるわけですけど、明らかに間違ってますよね。

たしかに、政府が盗賊だという意識が農民たちや熊本共同隊の中にあったとしても、その服装だったり、音曲入りというのは、

「心意気があれば、服装なんてどうだっていいんだ」

という隊の人間の思いや、そういう隊に

「せめてがんばってもらおう」

という農民達の想いが音曲入りという形になったということでしょう。

そこに説明がいかないとおかしいのに、単に司馬氏は

「自分が当時の時世を理解しているんだ。俺は偉いんだ」

という意識が強いあまり、

「政府は盗賊だったと皆思っていた」

ということを主張してしまったんですね。つまり、主張のために出してきた材料を間違えているわけで、こういう誤りがほんとうに多いのも、このバカの特徴です。


さて、司馬氏は、そういう「政府は盗賊」という意識について、西郷の「南州遺訓」から、関連する言葉を抜き出しています。

「革命を幸いとして成り上がった下級士族が官にあって「家屋を飾り、衣服をかざり、美妾を抱へ、蓄財を謀」っているという現実に対して」

「「そのようでは維新の功業がとげられぬばかりか、戊辰の義戦も私利を営んだことになる」」

まあ、これは、僕が一貫して西郷の基本的性格だ、として、主張している部分です。しかし、司馬氏の付け加えている「下級士族」というところが、

引っかかります。西郷はそういう分け方はしないのではないでしょうか。明らかに臭みのある性格の司馬氏の主張に過ぎないように感じます。

政府にいる者すべてに対して、頭の悪い癖に、金に汚い人間を批判していると、僕は思います。

司馬氏の主張では、下級士族からの成り上がりについて、批判していて、力点が全然違います。要は司馬氏は、

「成り上がりの癖に、豪奢な生活はするな」

という一種の差別感情であって、またも、彼の性格のだめさが、指摘できてしまいます。まあ、西郷の言葉も、きちんと理解できていないことが、

ここでも、だだわかりです。



さて、今日は随分、司馬氏に対する指摘が多くなってしまいました。

ほんとうに何もわからないくせに、自分ばかり誇るうんこバカな野郎です。

夜郎自大も、甚だしいバカですね、こいつは!

まあ、今回は、これくらいにして、次回は来週ということにしますかね。

時代性があるとは、言え、ほんとうに臭みのある性格が垣間見られて、どうも、それに敏感に反応してしまうんですね。

まあ、基本、僕は偉そうにする人間が、大嫌いなのでね。

しかも、根拠のない、偉さですからね。カン違いも甚だしい。

まあ、西郷を守りたい、というのが、僕の基本的な考えですから、まあ、お付き合い願えるとありがたいです。


さて、今日も長々と書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


西郷は一流の詐欺師か!(谷将軍の豪胆ぶり:日本人的美学からの論考)

2010年05月14日 | 先人の分析
おはようございます!


さて、今日はちょっと変わった感じではじめますか。

えー、実は先日、新聞記者の方からメールを頂きまして。

えー、こんなブログを新聞記者様が読んでいるとはつゆ知らなかったわけで、

びっくらこいたわけですけれど、まあ、その内容は、

「司馬氏の記述に問題があることは、よくわかります。そして、その説明もおもしろく、

いつも楽しく読ませて頂いています。しかし、彼と同じ職業だったからと言って、

新聞記者そのものを十把一絡で批判するのも、どうか、と思います。

私は頭は良くないですが、他に多くの有能な人材がいることも確かです。

ですから、十把一絡に批判するのも、ゆるちょさんらしくないと思われます」

ということでした。まあ、十把一絡に批判と、言われると確かにそうですね。

そういう批判は確かに僕としても不本意と言わざるを得ません。

まずは、新聞記者の方、申し訳ありませんでした。ここにお詫び致します。

そして、今後は、十把一絡の批判にならないように気をつけます。


と、まあ、ちょっと珍しいでしょ(笑)。

しかし、いろいろなひとが読んでいるもんですね。

まあ、思ったことを素直に書いちゃうもんだから、ねー。

まあ、いろいろ気をつけなければ、いけませんね!


さて、気持ちも新しく、Vittelをぐびびと飲み干して、

いつものように、ゆるゆると論考に入っていきましょう!


さて、前回は、熊本鎮台の戦争前の準備等について書きました。また、谷干城の有能さについても

書きました。まあ、腹がすわっているというか、サムライですよね、このひとは。

さて、政府の征討令は二月十九日に出されるそうですが、熊本鎮台では、十五日から籠城のための工事を始めたそうです。

このとき、薩軍は、十四日に別府晋介の軍が、十五日に一番大隊と二番大隊が出発しているということから、

ある程度の情報を熊本鎮台が掴んでいたということでしょう。


そして、籠城となれば、大切なのは、まず、兵糧です。


二月の始めに谷が鎮台側に聞いたときは、十日分程度しか蓄えが無いということだったので、

この十五日を期して一斉に買い集めたのだそうです。このときは、旧正月で米が市中の米問屋に集まっていたそうで、

たちまちにして、五百余石、三千の兵を一ヶ月は養うに足る量が、集まったそうです。

ここで、司馬氏は、

「米が市中の米問屋にあふれかえっていたのは、谷にとって幸運だった」

と書いていますが、これは、幸運などではなく最初から谷が、

「旧正月だから、米が米問屋にあふれるだろう」

と見越して、その日に買い上げたのだ!と考えられます。

そんなこと、普通に考えられるだろう!ったく、すぐに偉そうにするんだからこのバカは!


さて、この時期ちょっとおもしろいことがあります。

例の川路利良大警視のありようです。

彼は、越権行為も甚だしいのですが、この熊本鎮台に電報を打っているのです。その文言は、次のようなものです。

「今日、賊状如何、台兵(熊本鎮台部隊のこと)未だ芦北(熊本県南部)に出ざるや」

まあ、

「薩軍は、どういう状態ですか?熊本鎮台部隊は、薩軍に対して、熊本県南部に出兵し、これを叩くべきでは?」

という意味ですね。いやはや、警察庁長官が、自衛隊の作戦に口を出すようなものですからね。

ただ、当時は、こういうこともある程度許されたのでしょう。まあ、それに、川路利良も薩人ですからね。

そういう関係者意識が強かったのでしょう。

この川路利良というひとは、薩摩の郷士以下の出自で、薩摩士族に非常に恨みがあったわけです。

まあ、だから、まあ、この薩摩士族削除作戦に非常に意識が高いわけです。ですから、こういう越権行為もしてしまう、

というわけで、川路の意識の高さが垣間見えますね(高すぎだっつーの(笑))。

ただ、やっぱり軍事のプロの目から見れば、この作戦はちょっと無謀ですし、谷は採用しなかったようです。


さて、二月十八日になると、薩軍進発の情報が次第にたくさん入るようになり、市中から避難するものもたくさん出始めます。

このときに至り、谷将軍は、市中に防衛措置をとり、鎮台付近の要所要所に地雷をうずめ、通行禁止区域としたそうです。

まあ、政府が公式に対薩軍戦争に入ることを認めた、という日になるんでしょうね、この日が。


さて、この翌日、例のあれが、熊本鎮台に届くんです。

西郷隆盛陸軍大将が、熊本鎮台司令長官宛に出した、

「我が軍が行ったら、兵を並ばせ、その指示を仰ぐように」

と命令する命令書です。


このとき、谷司令長官は、同じ薩人の樺山中佐に、その命令書を携えてきた薩人達の応接を任せるんですね。

同じ薩人同士会わせれば、意思の疎通も良いだろうし、長州人の自分よりいろいろなことが、わかるだろう、ということもありますし、

樺山の反応も見たかったんでしょうね。まあ、当然の措置だと思いますね。

そして、樺山もその気持ちを察しているわけです。まあ、普通の人間なら、当然そうなると思いますが、

彼は、密談を避け、本営前のテントで、応接するわけです。ま、あうんの呼吸というやつですか。


そこへ、薩人たちが連れてこられるわけですが、このときの樺山の言い分がおもしろいんですね。

「ところが、その専使は、案外にも、余の遠い親戚にあたる宇宿という、一向につまらぬものであったので、余はまず、何用か、と問うた」

どうです。西郷の徹底ぶり。つまり、使者さえ、つまらぬものをよこしたわけですよ。

そして、まず、樺山中佐の気分を害しているわけです。そして、そこで、例の文章を樺山が読むわけですから、もう、効果てきめんなわけです。

まあ、

「自分は東上する。ついては、貴下は兵隊を整列させて自分の指揮を受けよ」

という文章なわけです。

樺山は、

「これは、まさか西郷が書いたものではあるまい」

と怒声をあげるわけです。それに対して、使者達は

「本物ごわす」

と、やりあうわけですから、まあ、鎮台側はあきれるし、徹底抗戦の気持ちになるのは、だだわかりです。

いやあ、おもしろい。さすが、西郷!事実を引き寄せるには、これくらい徹底することが大切なんですねー!


西郷の使者に対する樺山中佐の応接態度は、ほとんど喧嘩腰だったそうです。そりゃそうですよ。こんなこと、されたんじゃね!

なにしろ、樺山中佐も薩摩隼人なわけですから、こんな文書読んだら、激昂するにきまっています。そんなこと、西郷にすれば、当然わかっているわけですから、

それを見きって西郷が書いているのが、だだわかりですよね。


樺山中佐は、

「先生は、非職の私人ではないか!」

と言ったそうです。まあ、事実そうですよね。そうすると、この使者達がむちゃくちゃなことを言うわけです。

「先生は、先に職を辞し東京から帰郷されたが、政府は追っかけて、近衛都督という職の辞職は認めるが、陸軍大将は従前どおり、という辞令をだした」

「そのことをあなたは、ご存じないのか!」

それに対し、樺山中佐は、

「それは身分というものだ」

と言うわけですが、これに対して、使者達はすごいことを言うわけです。

「陸軍大将は日本国の兵馬の権を持つものだ、と西郷先生もそう申されている」

という、すごい拡大解釈なわけです。樺山中佐は、

「昔の征夷大将軍みたいなものか」

と聞くと、

「そうだ」

と使者はうなづくわけで、まあ、笑ってしまいます。

樺山中佐はもちろん、薩軍の夜郎自大ぶりに呆然とするでしょうし、

「絶対味方になど、なるか!」

という意識になるわけですよ。そうなれば、熊本鎮台の薩人は、これに倣い、全員、政府軍として戦うという意識になるのは、当然ですから、

西郷の策は、非常に効果的に効いたということになるわけです。

考えてみれば、こんなめちゃくちゃな拡大解釈を吹き込まれておかしいと思わないような、

夜郎自大なアホな人間を最初から使者として選択していたんでしょうね、西郷は。

いや、もう、徹底ぶりがハンパないっすねー。

樺山中佐は、

「ともかくも一私人が大兵を率いて横行することは、国法にもとる。熊本鎮台としては、この鎮台下を通すわけには断じてまいらぬ。この旨帰って復命せよ」

と言ったそうです。

まあ、この態度を見た谷は安堵したでしょうが、これすべて西郷に望みの事実を引き寄せられているわけですから、すごいもんです。

西郷は一流の詐欺師でもあったんですね。


さて、二月十九日の昼近く、仰天の事件が起こります。

なんと熊本城の天守閣と書院が火に包まれたのです。

まあ、熊本城は、大天守閣と小天守閣の二つあるんですけれど、そのどっちもが燃えたということで、これは明らかに付け火と思われるのですが、

犯人はわからずじまいでした。それより、問題視されたのは、先に買い上げた兵糧米五百石が、天守閣に積み上げてあったもんだから、

皆燃えてしまったということです。つまり、敵の間諜が、兵糧米を狙って付け火をした!とも考えられるわけです。

おもしろいのは、谷司令長官が焼かせたのだ、という説があることです。天守閣を焼かせることで士卒に背水の陣の気持ちを持たせるということと、

あらかじめ天守閣を焼かせることで、戦争中に焼けた場合の混乱や士気の粗相を回避したのだ、という理由ですね。

まあ、もし、事実が谷説だったとしたら、谷司令長官は、よほど豪胆な人物と見るべきだ、ということになりますね。僕はそっちを取りたいですけどね(笑)。


この失火が、鎮台側に有利に働いたと司馬氏は、書いています。

天守閣を焼いた火は、やがて、鎮台の周りの街を焼き払ってしまうのです。

まあ、戦の場合、街の中の建物は寄せ手の拠点になるわけですから、鎮台としては、焼きたい気持ち満々だったでしょう。

まあ、戦国モノなどでは、城下を焼くのはほぼ慣習になっていましたから、それと同じことが、起こったわけですね。

鎮台兵が火をつけまわっている、などといううわさが街に飛んだことも考え合わせると、

実際そうだったかもしれません。とにかく、鎮台側に有利なことが、次々と起こったというわけです。


さて、燃えてしまった兵糧をどうするか!が、当面の策となります。

樺山中佐は、軍吏三人を補充方に任命し、補充に務めたわけですが、まあ、やり方はめちゃくちゃだったらしいです。

お金の交渉などあと!とばかりに、米問屋に行くと、すぐに倉の鍵をあけさせ、略奪に近いやり方で人夫に米を運ばせたそうです。

あとは、「あとで、お金を渡す」旨の紙を置いていくだけ。まあ、人間せっぱつまると、そんなもんでしょう。

それでも、このやりかたで、以前より多い六百余石という米が集まったそうです。

いやいや、このことまで、見越していたとしたら、谷さんは余程すごい人物ということになりますが、まあ、それがほんとかどうか、

これから、見ていくことにしましょうかね。


さて、少しずつ、西南戦争が始まろうとしていますが、この谷さんもなかなか興味深い人物ですね。

まあ、実際の谷さんの生の言葉がまだ出ていないので、人物的に論考できないのが残念ですが、

状況的に見ると、なかなか、すごそうな人物です。

そして、西郷の徹底さもすごかったですね。いやはや、そのすごさには、尊敬の念が絶えないですよ。

いやいや、驚きの連続という感じです。


というわけで、今日はあまり怒らずに済んだので、まあ、楽しいままで、終りましょうかね。

今日もここまで、読んで頂いてありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。

山県の作戦案は優れていたのか!(司馬スタイルの本質!:日本人的美学からの論考)

2010年04月29日 | 先人の分析
おはようございます!

今日から、ゴールデンウィーク突入ですね!

やっぱり、ゆっくりできるってのは、うれしいですね!

まあ、いろいろ楽しめる企画をリアルライフに作って楽しむ予定ですが、

その余波で、ブログのほうは、お休み状態になりそうです。

ま、今日、これだけは、あげて、おきますがね。

まあ、正式アナウンスは、別途しますんで、そちらの方も、

よろしくお願いします。


さて、今日辺りから天候が安定してくるとか、しないとか、

いろいろ言われているようですが、春って割と不安定なものです。

まあ、ぱーっと晴れて、気持ち良くなりたいなあ、というのは、当然あるんですけどね。

まあ、不安定だからこそ、晴れた時の気持ちよさが、余計気持ち良く感じられる、

なんて、こともありますから、悪いことばかりじゃないんですけどね。


僕は朝、この時間に、この文章を書いている時は、

まあ、ソフトに音楽を流しながら、気分をアゲアゲして、

書いているわけですけれど、最近は、アメリカの西海岸ロックがお気に入りで、

まあ、

「ウエストコーストロック・クラッシックス」

みたいな、コンピレーションアルバムを、いろいろ聞いています。

まあ、ここら辺のジャンルのCDって、一時期たくさん出ていたので、

まあ、

「湘南の海岸ドライブにはうってつけ!」

と買いあさったわけです。

ドゥービー・ブラザーズやクリストファー・クロス、J・D・サウザーやら、フリートウッド・マックなど、

まあ、いろいろなウエストコーストサウンドが、朝の僕を気持ち良くしてくれます。

初夏の季節を目の前にして、気分はウエストコーストなんでしょうね(笑)。


さて、今日もVittelをさわやかに飲み干して、水分調節もOK!

ゆるゆると、論考に入っていきましょう!


さて、昨日は山県が西郷の動向について正確に推測できた理由は、

彼が専門家として、冷静に事を判断したためであって、

司馬氏の説明する

「彼が西郷を好きだったから」

なんていう馬鹿げた理由からではない、

ということを話しました。

しかし、こうやって、改めて書いてみると、失笑ものだということが、だだわかりですね。

まあ、それは、もう、いいとしましょう。


さて、その山県は、この西南戦争に対して、専門家として、作戦の大要を書き上げます。

これは、次のようにしています。

「南隅(薩摩)破裂するにあたり、かれの策略、そのいずくの点に出るは量り知るべからずと言えども、これを要するに三策に過ぎず」

「一、汽船に乗じ、いきなり東京もしくは大阪を突く」

「二、長崎及び熊本鎮台を襲い、全九州を破り、以て中原に出ること」

「三、鹿児島に割拠し、以て全国の動揺を伺い、暗に国内の人身を測りつつ、時機に投じて中原を破ること」

「以上の三策しかない」

そして、

「他を顧間、鹿児島城を殲滅するに期して後に止む」

としています。

要は、薩軍が、いずれの手に出ようともおかまいなしに、まっしぐらに、鹿児島の本拠をつき、鹿児島城を破ることに

日本の全戦力を集中する、ということですね。

まあ、司馬氏は、この作戦案を

「すぐれている!」

と評価していますが、どれだけ、おこがましいんですかね、このひとは。

単に戦車兵程度の経験しかない人間が、幕末から多数の戦争指導経験を持った、当時の軍事のトップに向かって、

「すぐれている!」

などと、ほざくとは、どれだけ人間ができていないか、謙虚さが足りないか、傲慢に陥っているか!だだわかりで、まったく頭にきます。


さて、「選択と集中」というのは、どの仕事においても、専門職であれば、基本中の基本ですから、この作戦案は、特に優れている、ということではなく、

「基本的な作戦思想である」

と言える、と僕は見ています。

この司馬というひとは、「軍事」という専門職を馬鹿にしているがゆえに、そういうことも、理解できていないんです。

専門職、という意味では、新聞記者だって、専門職であるはずです。

その人間が、「選択と集中」が仕事において、いかに大切であるか、すら、知らないんです。

知らない癖に、さらに「すぐれている」と上から目線で、言ってしまう、この馬鹿さ加減。

いかに、「俺、偉いもんね」症候群にかかっているか、だだわかりです。


ま、こんな馬鹿は、おいておいて、次にいきましょう。

山県は、その意見書の中で、

「(薩軍は)この三策の外に出ず」

と断言しています。

まあ、軍事のプロが、見れば、そうなるはずなんです。

ここで、この三策をとる場合、どういう目的があるか、考えてみましょう。

まず、一の場合。大阪を突く場合は、大久保と川路が大阪に滞在している場合で、薩軍は、その大軍で以て二人を殺す、ということを目的としています。

そして、東京を突く場合は、大久保と川路が、東京に滞在している場合で、二人を殺し更に、継いでに東京政府も倒してしまう、というものです。

二の場合。これは、薩軍が、九州全土を手中にし、その軍事力、資金、食料等を巨大なものとしてから、日本軍を破る目的で、行動に出る、というものです。

三の場合。これは、薩軍が鹿児島で蜂起することで、全国の士族の蜂起を待ち、全国的に手がつけられなくなった状態を待ち、日本軍が手薄になった状態をつくり、

その日本軍を討つ、というものです。

現行の日本軍の弱点を自ら分析し、薩軍側に立って考えれば自ずと出てくる作戦です。

特に三をやられると、現行の陸軍は数的にも未だ脆弱であり、最も、やばい状況になるのは、だだわかりです。

であれば、

「時機を待たずに、薩軍の中央、鹿児島城に兵力を集中させ、取ってしまう」

という策しか、選択肢は、なくなるのです。


だから、山県の考えは、誰でも容易に考えられる、基本的な作戦思想だ、ということになるわけです。


司馬氏は、こういう風に、ひとつひとつ、段階的に、薩軍や山県の側に立って論考していないことが、だだわかりです。


選択肢は、それしかないのだから、すぐれているも、なにもないでしょう。


それをわざわざ、

「すぐれている」

としたり、

「兵力の分散を固くいましめている」

と書いて、山県の作戦案を評価しているんです。

これは、司馬氏が、ただ山県の作戦案を読み、

「ほー。山県は軍人のくせに、なかなかすぐれているな」

と、思って、文章をつづっているに過ぎないからなのです。


それが、だだわかりでしょう?


全くどうしようもない、馬鹿ですね。このひとは。


しかも、彼は創作者でありながら、山県の立場に立ってモノを考えていない、ということも

だだわかりです。


そして、それがわかった瞬間、この司馬という人間の創作のスタイルが、だだわかりになったのです。


すべての問題はそこにあったのです。


彼は、新聞記者のスタイルで、物語をつむいでいたに過ぎないんです。


見聞した資料などにより、なんとなく見えるだけのストーリーをただ、

「この資料から言えることって、こういうストーリーなんじゃない?」

という程度の浅い見方で、新聞記者が記事をあげる要領で書いていた、浅い新聞記事レベルのストーリーだったんです。

池波正太郎大先生のように、キャラクターを配して、そのキャラクターになりきって、人生を演じるという、

深い人間ドラマとは、全然違うものなのです。

そこには、

「ただ見えたものをストーリーとして、つなげてみる」

程度の、新聞記者脳程度の浅く、そして、「俺たち偉いんだもん」病にかかった、それでいて、実は役に立たない馬鹿

という、「司馬馬鹿タイプ」の全然ダメダメストーリーが、あるだけ、だったのです。


いかに、新聞記者脳の浅いことか。


いかに、司馬馬鹿タイプが、日本をサゲる、サゲ者か!

もう、ほんとに、あきれてしまいます。


だから、これ、全編だめだめなんだなあ。


ほんと、新聞記者脳って、低脳で、役に立たない傲慢馬鹿だよねえ。


まあ、いいです。とにかく、この山県案は、でるべくしてでた、作戦案でした。

そして、もちろん、薩軍は、この三策以外の方法に出るのです。

もちろん、薩軍の目的が、山県の考えた、それとは、全く異なるものだったからです。

そのあたりは、次回、また、お話したいと思います。


今日も長々と書いてしまいました。

しかし、ほんと、新聞記者脳って、だめだめだねえ。

もう、書いていて失笑の連続です。

新聞なんていかに信じられないか、だだわかりです。

まあ、事実だけ伝えてりゃいいんだよ、新聞なんて。

しかし、山県の作戦案も、実は、論考してみりゃ、そうならざるを得ない案だったことが、だだわかりでした。

まあ、事実って面白いですよね。

時代を越えて、いろいろ考えさせてくれますからね。

なーんだ、そうならざるを得なかったのか!とわかったときの楽しさ!

確かに、論考、楽しいです。

今日も、これまで、おつきあい、ありがとうございました!

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。



論考者、川路利良!(バカ芝の愚劣さ!:日本人的美学からの論考)

2010年04月23日 | 先人の分析
おはようございます!

さて、すっかり季節もよくなって、もうすぐ、ゴールデンウィークですねー!

サイクルロードレースシーンもベルギーから、アルデンヌ地方のクラシックに移って、

ワンデーレースも、佳境に入りつつあります。って、知っているひと、少ないよね(笑)。

ゴールデンウィークの後から、ジロ・デ・イタリアというイタリア一周の3週間のステージレースが

始まるので、そのレースに向けた、体調整え期間にも入ってきているんですよね。

だから、3週間のレースに耐えられるような体づくり、という期間に入っていて、

皆、そこそこきついレースに出ながら、筋肉や心肺機能を強化しているわけです。

まあ、僕も、春になってから、トレーニングの時間を少しずつ増やしています。

と、言ってもエアロバイクメインになってますがねー。

夜、帰って来てから暗い中を走るのは、やはり、危ないし、景色も楽しめるわけでは、ないですからね!

だから、自然、部屋の中で、エアロバイク!練習ということになるわけです。

まあ、サイクルロードレースの映像を眺めながら、走っている気分に浸りながら、ですから、

まあ、地味ですけどね(笑)。

それでも、毎日、1時間は時間を取るようにしているので、シビアに脚の筋肉は鍛えられるし、

なんと言っても、毎日、トレーニングできると、心肺機能が落ちないので、

週末の外でのトレーニングの時の感じが、全然、変わってきますからね。

まあ、ダイエットも同時に進行していますから、そちらにもいい影響がある!

ということで、これも良い循環システムになっています。

毎日、体重計に乗るのが楽しみ!という毎日になっていて、日々の進化を実感しますねーー!(笑)

まあ、フランス語もイタリア語も、英語も同時に鍛えていますから、ずんどこ、毎日、進化の日々ですねーー(笑)

いやあ、楽しい春の日々です!


さて、それじゃ、ブルーベリーティーをずびびと飲んで、今日もゆるゆる、論考に入っていきましょうかね!


さて、昨日は、「大山を西郷が嫌っていた!」というあたりを指摘して、西郷の考え方、人の好き嫌いの理由などを話しましたが、

それについて、司馬氏は、次のように書いています。

「その大山が、おそらく西郷に頼まれたわけではないはずであるのに、渋谷彦助を放って大久保から岩倉、ひいては木戸や伊藤という、いずれも容易にだましにくい連中を」

「十把一絡にだましてしまったのである。薩軍の初動段階では、この大山と渋谷の功が大きいのだが・・・」

これについて、僕は、大久保は、だまされたわけでなく、そう思い込みたかっただけに、過ぎない、という説をとっています。

ただ、その司馬氏の間違いは、前日までに指摘したので、ここでは、そこではなく、この

「大山と渋谷の功が大きい」

という考えの浅さについて、指摘させてもらいます。


初動段階で、明治政府に対して功があった、と言いますが、明治政府は、特に初動段階で大きな遅れは見せていません。

熊本城では、この薩軍の動きに対して、斥候を放ったりして、その動きを十分につかんでいるし、兵糧も、長期籠城に備えて用意していました。

それに日本陸軍、というより鎮台側は、本州の兵を、かなり早期に九州へ上陸させていますし、初動はみごとなほどだったと言えるわけです。

大久保は確かに、西郷が加わっていないという観測の情報を明治政府首脳陣に与えましたが、だからと言って、薩軍そのものについては、

「馬鹿め、罠にかかった!」

と、喜んでいるくらいなのですから、薩軍に対する、その初動に何の影響もあたえないわけです。


それに、ひとをだます、ということは、何を生むのか、ということについて、司馬氏は、何も考えていません。

騙す、と言う行為は、その場しのぎに過ぎないんです。

そして、騙された側は、すぐにその行為に気づき、その人間の信用を落とします。

結果的に、引寄せる事実は、必要以上にその人間を憎ませる結果を生むだけなのです。

それは、みなさん、おわかりですよね。

であれば、結果的に、大山に代表される薩摩県庁についても、憎しみだけが生まれ、徹底的に信用しない態度を引き寄せただけなんです。


この事実に対して、「功が大きい」と言えますか?


浅い。浅すぎる!

雰囲気でモノを言っているので、もう、浅すぎて、笑いがでちゃうんですよ。このバカ芝というひとは。


さて、当時の政府内部では、薩軍に西郷が参加していないと語られたようですが、大久保と同体と言ってもいい、大警視川路利良は、

鹿児島情勢に非常に鋭かったとしています。まあ、このひとは、今の公安のトップみたいなもので、情報収集能力に長けていましたから、

自然、そうなるのが、当たり前と言っていいでしょう。

彼は、「渋谷はくさい」と考え、逮捕まで考えたそうです。そして、大久保宛の手紙に、

「渋谷は、大山の放った工作者だ!」

と書いているそうです。

素晴らしいですね!

彼は大久保並の論考者ですから、やはり事態は見えていたんでしょうね。

「渋谷始め県官の、閣下に申し上げたる義、全く虚言と愚行仕り」

という文章だそうですが、やはり彼は論考していたんです。


そして、同じ手紙で、彼は、

「この手紙を書いている今時分、鹿児島ではすでに戦端が開かれているだろう」

としており、

非常に的確に情報を扱っているんですね。これについて、司馬氏は、

「川路の言葉には、政府の当事者の誰よりも先んじて白刃を抜き放っているような凄みがある。この有能すぎる政治警察の長官のこの語気から言えば」

「刺客問題うんぬんについても、むしろ川路が刺客を送らなかったほうが、不思議とさえ思えるほどだ」

としています。

これ、おかしいんです。彼が、この指摘が出来ているのなら、なぜ、そういう立場にたたないのか?

そういう立場に立ち、論考を進めれば、大久保が、西南戦争を望み、自ら、その事実を引き寄せたことは、簡単に論考できます。

そして、彼が、そのことが、唯一無二の理解者を死に追いやる結果になることもわかっていて、泣いたこともだだわかりになるはずなのです。


そこで、考えられるのは、この文章にある、

「有能すぎる政治警察の長官」

という表現です。

この司馬というひとは、

「政治警察を庶民の敵のような感覚で浅い捉え方をしていた」

ということなんです。

「有能すぎる」

という表現は、

「おまえ、やりすぎなんだよ!」

という考えから出てくる言葉です。

そして、

「政治警察」

と、わざわざ表現したということは、司馬という人間は、この機関を、

「不要あるいは、庶民の敵となる権力機関だ」

と、見ていた、と、とることができるのです。

この司馬というひとの特徴は、

「小学生的なモノの見方。浅い正義感」

ですから、彼は、

「庶民の味方のつもり」

という、小学生のような浅い正義感で、世界を見て、

「政治警察は、庶民の敵だ!」

という浅い思考で、

「俺が庶民の先頭にたって、弾劾するのだ!」

という、小学生の学級委員並の知能で考えていたことがだだわかりになるんです!


ほんと、アホだ、こいつ!


低脳のくせに、庶民の味方ずらして、浅い思考しか、できないんだから、


なーにが、庶民の味方だっつーの。

おまえなんか、庶民を愚弄して、味方面して、さらに、間違いを教えこんでいるだけだろ!


ほんとに、だめ存在だよなー、バカ芝タイプって!


川路のことなんて、お前レベルに、理解できるはずは、ないわ、ボケ!


公安がいなければ、テロにも対処できないし、オームの地下鉄事件は防げなかったにしても、その後のひろがりを押さえ込んだ

という点では、評価すべきだっつーのに、国家権力っつーだけで、突っかかる馬鹿だな、こいつは。


さて、川路は、このときの手紙で、勅使を鹿児島に下すことにも反対しているそうです。

「島津、西郷に勅使を立つるは、御無用なり」

として、旧主筋も西郷も呼び捨てにしているあたり、時代の変化というものをきちんと理解しているし、

日本国家の敵である、

という意識があるのだろうと、思います。そして、それは、歴史的に見ても正しい態度として、僕は評価しますね。

そして、川路は、その理由として、

「必ずや、議論にわたり、機会を失するのみならず、政府にとり、大いなる災いあらん」

としています。対薩軍の戦機を失するというわけです。

非常に優れたモノの見方ですね。さすが、論考者川路利良です!


だれかとは、大違いです。


そして、川路は、薩摩の東京支社みたいな存在になっていた、

「評論新聞社」

を警吏を使って襲わせ、社長の海老原穆を召捕ったそうです。

そして、

「海老原を召捕申候処、面白き書類あり」

と大久保に手紙で報告しています。

司馬氏は、

「面白き書類あり」

という文章に、川路の人間が出ている、とし、彼の印象操作を実施しています。


まあ、彼の人間性を悪!と決めつけているわけですね。


このひとは、非常に物事を一面的にしか、見れません。


いわゆる、政治警察の長官だから、ワルだ!と決めつけているわけです。


政治警察なんて、国家機関は、庶民の敵だ!


俺がその悪さ加減を、指摘してやる!


俺は庶民の味方、正義の味方なんだ!


そういう意識がだだわかりで、あまりに小学生的正義感の吐露過ぎて、失笑しか生まれません。


なんつーの?

川路や大久保、西郷なんて、扱えないよ、こんな意識じゃ!

ほんと、馬鹿司馬タイプは、ろくな人間じゃありませんね!



人間というのは、ちょっとした言葉を出すだけで、中身がだだわかりになります。

このひとは、そういうこともわからないみたいですね。

はっきり言って、ほとんど、使えない人間ですからね、このひと。

偉人の中身も理解は出来ていないし、間違った情報を発信して、自分は庶民の味方きどり、正義の味方きどり。

ろくな人間じゃ、ありません!

もし、僕が近くにいたら、ぼろかすにけなしますね。

まったく、どうしようもない、バカです。


うーん、しかし、さらに、動かなくなったなーーーー。

もう、ちょっとした表現や、ちょっとした言葉で、

バカ芝のアホな頭の中身が、だだわかりになっちゃうんでねーーーーー。

西郷や大久保を論考しているつもりが、とうとうバカ芝の頭の中まで、論考しだしちゃったからねーーーー。

しかし、まったく、どこまで、いくのやら。

ただ、川路は、おもしろいですね。

このひとも、論考者ですからね。

ま、とにかく、今日も長く書いてしまいました。

ここまで、おつきあい頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


西郷の目力!(失笑者の愚劣さ!:日本人的美学からの論考)

2010年04月16日 | 先人の分析
おはようございます!

なんだか、昨日はやけに寒かったですね。

もう、すっかり冬へ逆戻りみたいな感じで。

まあ、春先というのは、こういうのを繰り返して暖かくなるもんですが、

やはり、一度暖かい日々を体験してしまうと、ちょっと寒いだけで、ひどく寒く感じます。


先日、サイクルロードレースの映像を楽しんでいたのですが、それがちょうどフランスでの大会だったんです。

それで、いざ、表彰式というシーンになって、まあ、もちろん、フランス語でアナウンスがあるわけなんですが、

今までただの音の塊にしか聞こえていなかったフランス語が、意味はまだわからないにせよ、言語の連なりとして、理解できたんですね!

そうです。まだ、半月程しか勉強していませんが、フランス語を勉強してきたことで、その音に慣れたんですね、いつの間にか。

もう、うれしくなりましたねー。そういう自分の進化を自分で知るときのあの喜び!素直にしあわせを感じました。

いやあ、今年のツール・ド・フランスは、楽しくなるぞー!と今からわくわくしている、今日この頃です。

なんかね、いろいろ、しあわせになる仕掛けをしているんですよ。やっぱり、シビアにしあわせを引き寄せないとね!


さて、それじゃ、今日はオレンジティーで、ずびびっと。うん、これもうまい!ほのかな甘い香りというところが、いいですね。

そんな香りを楽しみつつ、今日もゆるゆると、論考に入っていきましょうか!


前回、

「大久保は、西郷の死を確実に予見したから、泣いたのだ」

と、しました。

世界で唯一の理解者を失うから泣いたのだ、と。

これ、確かにそうなんですよね。

論考者というのは、寂しいものです。

周りから理解されにくいですからね。

だから、孤立しやすいものなんです。

信長なんか、最初からそんなこと承知していて、周りを動かすだけ動かす方向にいきましたからね。

ただ、一度腹をくくってしまえば、これほど強力な存在もないんです。

自分の道がずんどこ見えていますから、そこをどこすか歩いていけばいいわけですからね。

ただ、大久保は、西郷がずっといてくれたんです。

理解者がいてくれる、ということは、論考者にとって、これほど、大きいことはないんです。

元々、孤立しがちだということを論考者は理解していますからね。

だから、理解者が消えるとわかったとき、大久保が泣いたのです。


大久保というひとは、峻厳!という言葉で形容されるほど、大きな岩のような存在だったと言われます。

これは、論考ができているからこそ、何事にも、惑わされず岩のような存在でいられたのだろうと論考できます。

そして、もうひとつ、西郷という理解者がいたからこそ、こころの平安が保てたということなんだろうと思います。


その大久保が泣くのですから、いかに大久保にとって西郷という理解者の存在は大きかったか、ということがわかると思います。

あのエピソードは、西郷と大久保の関係性や大久保の人間性について、ここまで、示唆してくれているんです。

それを理解できないばかりか、「そらぞらしく見える」としかとれないとは、もう、開いた口が塞がりませんね。


さて、話を続けていきましょう。

私学校の東上が決まると、その準備で大変な騒ぎになります。ただ、ここで、司馬氏が奇景として指摘するのは、


軍のことは、桐野ら私学校幹部が決め、西郷と言葉をかわすことがない、ということです。


まあ、僕は、これは、薩摩の風だし、上に立つものが責任だけをとり、下についたものに自由にやらせる、というやり方だととっているし、

さらに、西郷は、もう体を明け渡してしまったのだから、何も言う事はないはずだ、と思っています。


しかし、司馬氏は、ことさらに問題視し、まず、「西郷の話しにくさ」を挙げています。彼がその証左として、あげる材料、西郷の子、菊次郎氏の証言を抜粋します。

「父の両目は黒目がちで、鋭かった。父に接するものは皆両手を畳についたのみで、ほとんど仰ぎ見るものはなかった」

なんだそうです。これについて、司馬氏は、

「西郷には、ひとを圧倒するような、稀有としかいいようのない、威というものがあったのだろう」

「その威には、西郷の精神像という要素が大きかったに違いない。しかし、巨眼、巨体という肉体的要素も大きかったし、陸軍大将としての現世的威権という要素に加わっていた」

「西郷は狩猟して歩いていた頃、彼のことを知らない、一般のひとに会っても、その威を感じられなかったのだから」

「いずれにしろ、桐野らは、西郷に威がありすぎて、話しにくかったことは、確かであると行って良い」

と書いています。つまり、陸軍大将としての威権というものが、彼の威だったのだ、と言ってるわけです。

巨眼、巨体というものは、一般のひとに会っても感じられるものですからね。

だから、桐野らが、話しづらかったのだ。それは確かだ、と言っているわけです。


ほんと、このひと、人生経験も、浅いなあ・・・と、ほとんどあきれる想いです。

もってくる材料も、おかしい。


だいたい、菊次郎氏の話について言えば、当時の薩摩は超階級社会で、西郷程の偉いひとになっちゃうと、頭なんてあげられないのが、普通の風景だったと思います。


だから、彼の威を説明するには、材料として不適格なのです。


それに、彼を知らないひとが、彼に会っても、威を感じなかった、というのは、全然別の理由だと、僕は考えます。

それでは、僕なりに彼の威、と言われるもの、これも中途半端な造語で、変なのですけれど、一応それに乗って話しましょう。


西郷の巨眼という肉体的要素、と司馬氏はいいますが、これは単純に彼が獲得した、目力のことだと思います。


目力というのは、まあ、芸能人やら議員さんやら、多くの人間の視線にさらされる人間に生ずる、視線の力能力のことです。

人間というものは、いろいろな人間と視線を合わせ、そこで、視線のやりとりをすることで、目から出る力を鍛えることができます。

僕は、眼というのは情報やりとり機能がついている、と仮説を持っています。

これは経験的なものですが、他人のこころの奥底を覗いてしまったり、はたまた、恋愛の時も重要なデータ交換機能をもっていると推測できます。

まあ、子供の頃など、先生の目など、こわくて見られなかった経験とか、ありませんか?

目というのは力をもっていて、修行すると、相手の目を射ぬいてしまうことさえ、できます。目力の弱いひとは、射ぬかれて思わず、目をそむけたりすることになります。

これは、人間の本能に直結しているもので、恐怖という感情に直結しています。だから、怯えたりするわけですよ。

もちろん、これは、僕の経験から言っていることでもあります。自転車のトレーニングがかなりできていた頃、僕は多くのひとから注目を受けた結果、

目力もずんどこ発達し、目力の弱い人を射ぬいてしまうことを知ったのですから。

まあ、それに気づいた人間は、目力のセーブを考えるようになるわけです。


そして、西郷は、これを知っていたのだろうと思うわけです。


だから、本気でいくさをやっているときや、怒っているときなどは、目力をガンガンに解放して、相手を威嚇しただろうし、

それ以外は、セーブしていたのだろうと、推測できます。

だから、彼が狩猟の途中、田舎歩きをしている時に、いろいろなひとに会っても、だれも彼のすごさに威圧されないのです。

彼が、不要に目力を使わないようにしていた、からです。

だから、彼の周りにいる人間は、怒った時の西郷の目力を知っているし、そのすごさに本能的恐怖も抱いていたろうということは論考できます。

それが、西郷の巨眼という表現になっているだけで、別に彼が肉体的に大きい目をもっているから、びびったのではなく、そういう目力にびびった、という

ことだと思います。彼は巨大目(うどめ)さー、と呼ばれていますが、そういう目力のことを巨大目(うどめ)と表現しているのだ、と理解できます。


そして、周りにいる人間は、彼が怒ったときでないと、目力を使わないということは、よくわかっているはずなので、

別に話しにくいわけではないと考えます。上の者の手をわずらわせたくない・・・という普通の感情で、桐野達は働いていたと見るのが自然だと思います。


だって、司馬氏は、自分で書いているのに、わかってないんですよ。

「西郷の目の巨大さと黒ダイヤのような輝きについては、アーネスト・サトウも書いている」

「西郷さんのその目でギョロリと見据えられると、舌がのどにへばりついたようになって思うことがどうも満足に言えない」

これは、どう考えたって目力の話じゃないですか。


それを、威なんて・・・経験不足もいいところです。


だから、威なんてものは、ただ、司馬という失笑者が雰囲気で作った言葉であり、まったく意味をなさないのです。


彼はそういう経験すらなく、教科書的な知識の応用のみで、こういう人間ドラマを読もうとして、失敗ばかりしているのです。

彼が、「確かだ!」としているものは、ことごとく、このように、あきらかな「まちがい!」なのです。

全然確かではないし、経験も浅く、教科書的知識にしか頼れず、材料の挙げ方もへんてこで、なにより、ひとを見る目もなく、背後にあるストーリーなんて、

なにもわからず、お手上げ!

それが、このひとの正体です。


そして、このひとは、さらに愚劣思考の深みにハマっていくのです。

司馬氏は、こう書いています。

「西郷は暴発に賛成でなかった。それほどに賛成でなく、それほどに威があるとすれば、西郷は暴発はやめよと言えたはずだ」

「だが、本来の「人望好み」の性格と戊辰戦争をくぐらせたという借りの意識がやめよといいづらくさせたのかもしれない」

「しかし起つからには、戦いの方針その他を西郷自ら練り、自ら発言し進んで指導すべきだったが、そのことは一切しなかった」

「だけでなく、西南戦争全期間を通じて、陣頭に一切立たず、一度も作戦にくちを挟まなかったのである」

そして、維新前の西郷と維新後の西郷は、別人の感があるとし、

「明治二年、木の切り株に頭をぶつけて、それ以来、変わってしまった!」

という西郷アホ化説を提出しているのです。そして、桐野達は、西郷はアホ化しているから、その存在価値だけで担ぎ上げたのではないか、

という説を提出しています。


彼は西郷を馬鹿にして見ています。そして、「人望好み」というなんとも、わけわからん日本語を勝手につくり、わけわからん無様な解説をしています。

この「人望好み」という言葉は、要は西郷が周りに桐野達ぼっけもんを配したことを、

「自分が、ぼっけもん達から人望があることを確認することを、西郷は喜んでいた。だから、さらにぼっけもん達を集めることとなった」

ということを言っています。


あきれて、ものが言えません!

どんだけ西郷を馬鹿にしているのか!

どんだけ、司馬氏は、低脳思考馬鹿なのか!


西郷がぼっけもん達を愛した理由は、前回書いたとおりです。


まあ、司馬氏は、

「馬鹿がかわいいから、馬鹿をあつめる結果になった」

と低脳思考をし、さらに西郷を馬鹿にしているから、

そんな、「人望好み」などという西郷をさらに馬鹿にする言葉をつくっているわけです。


そんなレベルの低いことを西郷がしますか?


西郷はそんな人間では、ありませんし、論考者であるからこそ、

何も知らない、ぼっけもん達に、夢をもたせたり、教育したりしていたのですよ。


結局、司馬氏のような中途半端な失笑者にはじめから、扱える人間では、なかったのです。

低能な人間が、いくら頑張っても、論考者の行動は、理解できないのです。


桐野達の考えや頭の中については、改めて論考する必要がありますが、少なくとも西郷が、陣頭に立たないのも、作戦を立てないのも、

体をやってしまっただけなんだから、そうなるのが、当たり前なのです。すでに、士族の前途に待つ、削除の結果を論考し終わった彼は、

その時が来るのを静かに待つだけのつもりになっているのです。だから、なーんもせず、桐野達のやりたいようにやらせていただけなのです。

「思う存分、彼らにいくさという祭りをやらせてあげる」

これが、西郷の思っていた最後の考えなのです。


桐野達もそれを「良」としていたでしょう。

それが、元々の薩摩の伝統なのですから、それすらわからない、この司馬という失笑者は、どういう笑い者なんでしょうかね?


さて、今日も長く書いてきました。

読めば読むほど、怒りに満ちてくるのは、どういうことでしょう。

このひとは、西郷を一方で讃えながら、頭から馬鹿にしていたことは、文章や考え方から、だだわかりです。


新聞記者って、こういう、いわゆる「うんこ馬鹿低脳くそ人間」が多いですよね。

大学時代いい成績だったりいい大学だったからって、誇っちゃってだめになる人間の典型です。

経験も足りないし、知識も浅薄、それに左右されて、考える能力が劣悪化しているタイプ。


もう、人間としてだめです。周りに迷惑かけて、全然わからないタイプですよね、こういうお馬鹿は!

事実、彼は、間違った見方というものを日本人に押し付けてきた、うんこですからね。

なーにが、司馬史観だ!うんこめ!


とにかく、愚劣思考の塊の書だとは、今の今まで全然気がつきませんでしたね。


まあ、これを読んでいるひともびっくりしているとは、思いますが、

論考してはじめてわかっちゃうわけですから、まあ、楽しいっちゃ楽しいけれど、怒りも感じちゃうので、

まあ、おもしろい経験でも、ありますね。


だから、ついつい、筆が踊るわけです。

さあ、これくらいにしましょう。

今日も、長々とおつきあい頂きありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


西郷LOVESぼっけもんの理由!(大久保の涙の理由:日本人的美学からの論考)

2010年04月15日 | 先人の分析
おはようございます!

ぽかぽかな陽気が続いていてうれしいですね。

やっぱり、春はこうでなくっちゃ!

なんか、こういう陽気になると、

「早く自転車に乗りたーい。トレーニングして、さわやかさんになりたーい!」

と、体が勝手に要求してきます。まあ、だから週末になって、

自転車にのって、GOすると、ほんと、気分がいいんですよねー(笑)。

なんていうのかな、したいことを我慢して、ある時に一気に解放すると、普通の楽しさの倍とか、3倍とか、

そんなしあわせ感に浸りますね!

あれは、思い切りお腹を空かせてから、食べる朝食は、めちゃくちゃ幸福感を感じる!

ってのと、同じ構造なんでしょうね。

まあ、だから、毎週末、めちゃくちゃ、しあわせ感を感じられて、しあわせです僕!と、アホ化しているわけです(笑)。


まあ、ブログ書くのもしあわせだし、朝食食べるのもしあわせだし、自転車トレーニングもしあわせだし、

そういうしあわせ循環システムをたーーーくさん、持っているおかげでサゲ要素がみつかりません!(笑)


結局、自分の人生は自分でつくりあげるものだし、やったもん勝ちです。


何もやらない人間は、いつまで待っていてもだれもかまってくれません。


その代わり、何かをずんどこやる人間には、ずんどこいろんなひとが集まってくる!と考えているんですね。


そして、ずんどこ皆にしあわせを与えれば、ずんどこ皆が気持ちのやりあいをしてくれて、お互いがずんどこしあわせになり、アゲアゲの関係になり、

ずんどこ、上へ上へとあがっていく、

と考えているわけです。しあわせの循環システムです。僕の「リアル・ニュータイプ理論」です。


まあ、そんなわけで、僕は毎日、いろいろなひとから、しあわせをもらっていますね。

ありがたいことです。というわけで、ずんどこ、毎日、ブログを書いちゃうわけです。

いやあ、いい循環システムだ!


さて、そんなことを考えながら、今日はブルーベリーティーという飲んだことのないものを、

ずびびっと。うん、確かにブルーベリーの香りですね。なかなか、おいしい飲み物です。


そんなゆるゆるな感じで、ゆるゆる論考に入っていきましょう!


昨日は、

「西郷は、士族削除のために、周りをだますことになった。その心情は悲惨だったろう」

と書きました。まあ、今日も「翔ぶが如く」をテキストにしながら、いろいろ追うことにしましょう。


僕はこの論考シリーズで、

「人間とは、何か?」

ということを大きなテーマにおいています。

「人間とは、何なのか。どういう種類の人間がいるのか。どういう思考をしているのか」

というあたりを解き明かしたいので、そのモデルを歴史に求めた、という形です。

まあ、中国の古典にも、

「ひとを学ぶときには、史書に求めよ」

と書いている書は、たくさんありますし、まあ、そういう故事にもならうことが、

人間を、いや、日本人を理解する助けになるかなあ、と考えているわけです。


そして、前回、僕は、世界の本質とは、

「いかに自分のしあわせを確保するか、いかに家族のしあわせを確保するか、その「競争」でしょ!」

と書きました。


僕のこの論考シリーズは、歴史上の偉人を論考することで、

どうすれば、しあわせになるのか、しあわせになるための方法は、

そして、どうしたら、しあわせになり、どうしたら、ふしあわせを呼びこむのか、

を明らかにしようとしています。


つまり、世界の本質に合った、生き方の方法をいろいろ論考している、ということなんですね。


そういう意味では、西郷を馬鹿にしながら、ストーリーを書いた司馬氏は、不幸せを呼び込んだと、言えるわけです。

そのだめさ加減がだだわかりになりましたからね。

「物事に対して、謙虚であること」

は、ひとの道の、第一歩だと思います。

これを踏み外した人間のいかにおろかになっていくことか。

司馬氏は、すでに、僕の中では、かわいそうなひと認定ですし、その言葉は信用しないことになりました。

まあ、それは、もうどうでもいいことなのですが、僕は以前、明石散人氏の「二人の天魔王」について、

3月23日に、批判記事「「二人の天魔王「信長の真実」」を批判する!(「信長の真実」を巡る戦い!)」を挙げています。

まあ、信長について考える契機として、この本を選び批判したのですが、これ、シリーズとして続けるつもりだったのですが、

全編、記事の曲解と我田引水表現ばかりで、吐き気がして、やめてしまいました。

この明石散人というひとは、くそ最低うんこ虫野郎です。

このひとは、読者を騙して金をむしりとっているうんこ野郎だ!ということが、だだわかりです。

司馬氏はその点まだ、馬鹿だったから、仕方ありませんが、明石氏は、最低な人間です。

どうして、こう、歴史関係者には、こういうひとが多いのでしょうか。

いわゆる学者による研究書の類であったり、作家の信長本であったりを見ても、曲解や事実誤認の嵐。

なんなんでしょうね、このひと達は。

しあわせになりたくない!と言っているようなものじゃありませんか!

何のために生きているのか!

それを踏み外してただただ、人生を下らないものに費やして、ふしあわせになっていく人々。

まあ、何もせず、ただ、ボーッと何かを待っている人間よりは、ましですが、それでもアホなことに代わりはありません。

なんか、歴史関係者は、特にそういうひとが、多いような気がしますね。


僕は、そういうことにならないように、気合をいれて、謙虚に論考し、本質や事実をつかみとって行きたい、と思います。

そして、世界の本質である、しあわせ獲得競争に負けない方法をずんどこ調べていきたい!そう考えています。


しあわせは、獲得するものです。与えられるものではありません!からね。


うーむ、思い切り、話がそれましたが、話を西郷に戻しましょう。

司馬氏は、西郷のひとの好みについて、次のように書いています。

「西郷は人を可愛がることが並外れて好きで、可愛がる対象として熟慮型は年寄りくさくもあり、そういう対象にならなかった」

「可愛がる対象は、桐野、というより端的な対象としては若い辺見十郎太や別府晋介こそそうであっただろう」

「犬好きの西郷が、狩猟に強い猛犬を可愛がるような気持ちとやや似た気持ちで、というよりその気持ちが彼の偏奇の一要素になったのかもしれない」

「この偏奇が、西南戦争に身をゆだねてしまうはめになったとも言えるようである」

なんか巧妙に断定を避けているのが、いやらしいですけど、結局、馬鹿が好きだから馬鹿に身を滅ぼされた、と書いているわけです。


でも、普通に考えてみてください。馬鹿な子程かわいいって言葉もある通り、それは、誰にでもある普通の感情なんですよ。


普遍性のある考えを持ってきて、それを西郷にだけ押し付け、馬鹿に身を滅ぼされたなんて証明って、それ、おかしいでしょ!

手法としても、だめだ。ほんとに低レベルの思考しか、していません。

ただの馬鹿だな、こいつは!


まあ、西郷は、ぼっけもんを愛したらしいことは、よく言われていますし、それは、本当のことだった、と思っています。

ただ、それには、ちゃんとした、別の理由がある!と僕は考えているのです。


彼の性格を考えてみてください。

彼は、

「金に対して潔癖すぎる程、潔癖だった。そして、金に汚い奴を徹底的に嫌った」

という性格です。彼は太政官時代、現実調整者レベルの頭脳しかない人間が、こずるく金に汚かったのをその目で見ています。

論考者の彼から見れば、相手は馬鹿に見えたでしょうが、その馬鹿共が、

「自分は頭が良いから、金をゲットしていいのだ!」

と考えて金に汚くなっているのですから、そりゃ、めちゃくちゃ、むかつくに決まっています。

西郷から、すれば、

「低脳のくせに、なーに、偉そうにしてるんだ!このうんこ馬鹿ども!」

と、まあ、西郷は清潔で謙虚な人物ですから、僕みたいな汚い言葉は使わないでしょうけれど、気分的にはそういうもんだったと思います。

そして、彼は、その人間たちを思い切り嫌い抜き、自分は、平素かすり一枚という姿で過ごし、その住む家も小さいものを選んだのです。

長州その他の低脳な(自分たちは頭がいいと勘違いしている)貪官汚吏共に、強烈な反感をもっていたからこそ、そういう生活態度に出たのです。

そういう考えの西郷を考えれば、ちょっと頭がまわるくらいの失笑者が、大嫌いになるのは、容易に論考できます。

であれば、その正反対の、質実剛健の薩摩のぼっけもんを愛するのは当然じゃ、ありませんか。


司馬氏は、西郷は、馬鹿を愛したから、馬鹿に滅ぼされたという説明です。

僕の説明と、雲泥の差がありませんか?


結局、人間がわかっていないのです。論考もできないのです。事実が未抜けないのです。


ですから、司馬氏が、

「そういう偏奇が、単に西郷一個にとどまらず、歴史に重大なかかわりを持ってしまったと言えなくもない」

と言っても、何の説得力もない、失笑者のつぶやきに過ぎない、ということになるのです。


ここで、おもしろい文章があるので、紹介しましょう。

これは、大久保の次男、牧野伸顕の談話速記だそうですが、ちょっと抜粋します。

「西郷が、私学校暴発に加担していると知ったときは、父は座にいたたまれず、焦燥しながら座敷と廊下の間を鴨居に頭をぶつけながら、グルグル歩き回り、涙を浮かべていた」

というのですね。これを聞いた人々は、大久保は、西郷を信じていたのだ、という感想を持つようになるわけですが、

であるとしたら、大久保の、薩摩に対するこれまでの挑発行為は、なんだったのか?西郷の性格を知り抜いているのではなかったのか?

という疑問になりますよね。

当然、そう思うはずなんですけど、

それは、このストーリーの見方が、甘いからそうなるんです。


僕は、別の見方を持っています。

これは、大久保が、

「加担はするだろう」

と、考えていた証左になるんです。

論考者大久保は、いずれ西郷が暴発組に加担することは見えていた。

そして、いざ、それが現実になったとき、その最後まで簡単に見通せてしまった。

そして、それが現実になる!ということが、わかったからこそ、西郷の死を確実なものと感じ、焦燥し、泣いたのです。

「ほんとうに、現実になったか。それでは、俺の考えている最終結果も現実になるのか!そしたら、西郷のいない、その後の世界をどう俺は救えばいいのだ!」

という、論考の大きな命題が彼につきつけられたからこそ、焦燥し、西郷の死を確実に予見したからこそ、涙を流したのです。

西郷という巨大な論考者であり、世界で唯一わかりあえる人間を無くすことは、同時に彼は理解者を失い、たったひとりで、世界に対峙しなければならなくなった、

ということなんです。焦燥しないほうがおかしいですよね。

それに、現実には、まだ、西郷軍が勝つかもしれないんですよ。その可能性があるんですよ。

驚愕するだけなら、わかりますが、涙を流したのは、薩摩士族の壊滅と西郷の死を見通せなければできないはずなんです。

だから、驚愕だけなら、西郷が加わることを予見出来ていなかったということにもなりますが、涙を見せたということで、

「西郷の死を確実に論考していた」

証左の事実となるのです。

このストーリーの背後に隠されている事実は、こういう風に解き明かせるんですね。


それに対して、司馬氏は、

「西南戦争を大久保と川路の挑発による見方のみをとれば、大久保はいかにもそらぞらしく見えるであろう」

と、自分はもっと大きな目で見ているのだ、とまず自分アゲをし、とってつけたような大久保評をしています。

これ、要は彼には裏にあることが、全然見抜けなかったんですよ。彼には、どうにも、お手上げだったんです。

だから、第三者的な表現で、「そらぞらしく見えるだろう」と言うしかできなかったんです。

自分の感想が出せない、統一的な説明ができない、言葉がつむげないから、第三者的に書いたのが、だだわかりなんです。

「そらぞらしく見えるだろう」って、なんだい、そりゃ!大笑いです!

失笑者の、哀れな末路です。ほんと、残念なひと、かわいそうなひと、です。



うーん、全然、進まん!(笑)

だって、いろいろ見えてきちゃうんだもん。そして、論破できちゃうんだもん!

ま、しかし、ストーリーから、背後にある事実をつかむ、いい練習にはなるね。

僕の説明はずんどこつながって、司馬氏の文章をずんどこ論破だもんなー。

ま、こうなったら、とことん、練習相手になってもらいましょう!

先人を踏み越え、雄々しく生きるのが、サムライの真の姿だしね。

坂東武者出陣!というやつでしょうか(笑)。


さて、今日はどうだったでしょうか。

今回も長くなりました。今日もここまで読んで頂いてありがとうございました!

また、次回、楽しく論考したい!と思います。

それでは、次回、お会いしましょう!


ではでは。

冷徹に解答を取りに行った西郷!(思考停止者の末路:日本人的美学からの論考)

2010年04月14日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、昨日は暖かかったですね。もう、すっかり初夏の陽気で、なんだか、うれしくなっちゃいました(笑)。

僕は一年の中で、この春から夏!というシーンが大好きで、一番、気分のいい状態になりますね。

もちろん、幾多のスポーツシーンのシーズンインが行われますし、特にサイクルロードレースシーンでは、

多くのビックレースが行われるので、毎週末が、非常に楽しみ!ということになりますしね!

先々週と先週末に、ワンデーレースの中でも、最大級のレースが行われたのですが、

これが、超劇的なストーリーがつむがれて、もう、超感動!してしまいましたからね(笑)。

そして、その二つの勝者は、同一人物!ということで、もう、今年の主役が躍り出た感じです。

ま、そういうあたりは、また、別途記事をあげようと思いますが、もう、満足満足な日々なわけです。

トレニーングにもいい季節だし、とにかく、自然が一番美しく感じる季節です。

なんか、自然がウエルカムしている感じで、走っていて、気分がいいですね。


と、アプリコットティーをずびびと飲んで、ゆるゆると論考をはじめていきますかね。

え?毎日、いろんなティーを飲んでるな?って(笑)。

え、そりゃ、ここに書くために、いろいろ買って来たんですよ!当然でしょ!(笑)

まだ、他にも、いろいろ買って来たからね!(笑)

何を楽しく遊んでいるんですかね(笑)。いやいや、春は楽しい季節です!


さて、前回、西郷は、薩摩士族の運命がわかっていたから、

「自分はなにも言う事はない。一同がその気であれば、それでよいのである。自分はこの体をさしあげますから、あとはよいようにしてくだされ」

と、言ったのだ、と書きました。

考えることは考え尽くしたからこそ、もう、自分の体をさしあげる、と言ったのでしょうね。

これは、彼が考えた薩摩士族削除の解答でもあるわけです。

「自分の身を投げ出して、いくさに出たら、薩摩士族及び旧士族の削除ができる!」

という恐ろしい解答なんです。彼はこの場で、自ら、その解答を実施すべく、自らの身を投げ出したのです。

そう。このストーリーから見れば、

「大久保が士族削除を促した。西郷は、すべてを理解して、自ら、その解答を取りに行った」

ということがわかるのです。


そうです。士族は、大久保と西郷の二人によって、削除されたのです。

そして、それは、二人とも論考者だったから、可能なことだったのです。


西郷は、自ら士族救済問題の解決をしてしまったのです。


論考者の凄みと、言っていいでしょうね。


そして、彼は、それ以後、自分の考えがばれないように、口をつぐんだのです。


もちろん、他の私学校の人間たちは、そんな西郷の心情などわかりません。理解なぞ、それこそ、できないでしょう。

信長の真意を周りの人間が理解できなかったように、なにしろ、司馬氏だって、理解できないのですから。


そして、これ以後、西郷は、その士族削除の目的を果たすために、周囲をだましにかかるわけです。

このあたりの西郷の心情は、悲惨というしかないでしょう。

かつて、自分が夢をもち、作り上げてきた薩摩士族を、自らの手で、死地に赴かせるのですから。

しかも、その最後を理解しているのは、彼と、大久保だけなのです。


その西郷について、司馬氏は、こう書いています。ま、ちょっと抜粋しますが。

「戦略家としての西郷は巨大な極楽とんぼのようなものだった」

「県令の大山が「多数の兵隊をひきいてゆくのは、どうであろう。かえって東京まで無事に通行できないはめになるのではないか」と当然なことを聞いた」

「西郷は、「大将の任たるや、全国の兵を率ゆるも、天皇陛下の特許にして、則ち、大将の権内なり。時機次第、鎮台兵をも引率すべし」と意外なことを言った」

「つまり西郷は、陸軍大将の認識を、征夷大将軍として認識していたのだ!」

ということを書いています。


まあ、これをもって、司馬氏は、

「西郷は、アホ化した」

と、認識したのでしょう。


資料だけで、結果として現れる現象だけを追うから、こういう重大な認識違い、ストーリーの読み間違いをしてしまうのです。

人間の底意というものが、理解できていないから、そういう間違いを犯すのです。


西郷は、薩摩士族を、どうしても出兵させなければ、いけないのです。それも、大挙して。

だから、それを実行するために、詐略をもちいたのです。

「陸軍大将といえば、征夷大将軍と同じ。鎮台兵だって、俺の傘下だ。安心して、出兵せよ!」


さらに、この物言いを見れば、その目的は、だだわかりです。

このセリフを書き換えてみれば、

「敵はいない。安心して出兵せよ!」

でしょ!

これは、どう考えたって、

「自分は征夷大将軍だ!」

と誇るのが目的ではなく、

「安心して出兵せよ!」

に比重が大きくなっており、出兵の促しが目的だということが、だだわかりです。


この言葉を解析することからだって、西郷の意図が、だだわかりになるのに、司馬氏は、それすら、やっていないんですからね。

いかに、ストーリー解析能力が低いか、新聞記者時代に、いかに不勉強になっていたか、いかに「俺は偉い」病にかかっていたか、だだわかりです。


そして、西郷が、「安心して出兵せよ!」と言えば、薩軍は大挙して、出兵するに決まっています。

なにしろ、征夷大将軍である、西郷自身が言うのですから、皆、だまって従うに決まっています。

そして、こういう物言いをすることによって、大久保にメッセージを発したのです。

「お前の望みどおり、むちゃ言って、薩軍を出兵させるぞ。これが俺の士族救済の解答だ!」

そして、それは、大久保に確実に届けられ、二人の間でしか、わからないメッセージのやりとりとなるのです。


これについて、司馬氏は、こう書いています。

「現実にその職についていないのに幕府をひらくようなその広大な権限があると信じているのは、陸軍大将が職でなく身分であるという封建的法制論が西郷の頭にあったのだろう」

「そういう「権内」である以上、鎮台兵も、当方へ、ころころと、転がってくるのだというのが西郷の戦略のすべてであった、ということになる」

このひとは、「ん、西郷の言葉としては、おかしいな?」と思わなかったのでしょうか。

多分、おもわなかったのでしょう。

そうです。このひとは、

「西郷より俺、頭いいもんね」

と思って書いていることが、だだわかりです。

普通に、自分の存在が、西郷よりも、下だ、という意識があれば、

「西郷のことだから、余程の、考えがあったはずだ」

という意識になり、そこから、論考が始まるものです。

そうすれば、誰でも簡単に、僕が辿りついた結論に到達するはずです。

司馬氏は、明らかに

「自分は西郷より、上だ」

という意識を持って、西郷を見ているから、

「西郷は、アホ化している」

という愚劣な思考に陥るのです。

「俺偉いもんね」病の、思考停止者の哀れな末路です。

彼は西郷をくさして、悦に入っているのです。

史上最低の下種野郎認定となるわけです。


なんという愚劣な人間なのでしょうか。

結局、彼は、思い上がっていたんでしょうね。


この作品は、彼の代表作とも言える作品ですよ。

そこで、こんな馬脚を表すとは、どんだけ他の作品への信頼が損なわれるか。

まあ、ストーリーを紡ぐのはうまいけど、事実から本質をつかむ能力のないひとだったんでしょうね。

ま、かわいそうなひと、という奴でしょう。


ここまで、見てくれば、司馬史観なる言葉が、いかに笑いの対象か、わかるでしょう。


さて、結局、薩軍は、熊本城を押しつぶして東上しよう、ということになるわけです。

ここらへんは、桐野を始めとした、薩軍幹部が決めていて、西郷は、その場にいません。

もちろん、西郷は、一切言葉を出さないつもりですし、終りは見えていますからね。

何を言っても、運命はどうしようもない、と諦めているわけです。


そして、おもしろいことに、西郷は、先の質問をした、大山綱良に、

「この2月末か、来月初めに大坂表に着きもそ」

と言っているわけです。まあ、司馬氏は、これも西郷のアホ化、観測の甘さとして指摘していますが、

そんなもん、普通に考えれば、無理なことは、だだわかりです。

だとすれば、そこに、別の目的があることがわかります。

そうです。単に、

「西郷がそう考えているのだから、きっとそうなるだろう」

と兵たちを安心させるための言葉、ということになるわけです。


うーん、薩軍、東上までいきませんでしたねー(笑)。

しかし、こう書いてくると、いかに

「俺偉いもんね」病が、人間の思考を狭め、だめにするかが、だだわかりですね。

まあ、はっきり言って、「翔ぶが如く」の全編にわたって、司馬氏のだめだめ解説を指摘出来てしまうんですが、

まあ、キリがないし、下らないので、やらないんですね。

まあ、今回は、司馬氏を遡上にあげていますが、なぜ、氏を取り上げるか、と言えば、やはり国民作家とも言われる責任というものが、あるだろう!

と僕が考えているからで、その著作がこれほど、ひどいものとは、論考をはじめるまで気がつきませんでした。


やはり

「過った情報を配信するのは、いかがなものか!」

と素直に思うし、

「国民作家なんて称号をだれが与えたのだ!」

と憤慨することになります。


なぜ、そういうものに、誰も声をあげないのか、不思議でなりません。


まあ、司馬氏はファンを多く獲得した作家ですが、事実は事実です。

そのストーリー分析能力がこれほど、低いのでは、つむがれるストーリーに対する信頼もゼロになってしまいます。

まあ、とにかく、わかってしまったことは、しょうがないですね。


真実を知るということは、ある意味残酷です。

ですが、もう、そういう道を歩み始めてしまった以上、僕は止まることはできません。

ずんどこ、本質を貫きながら、ゆるやかに歩んでいくつもりです。

いやあ、しかし、司馬批判どころか否定だからな(笑)。

我乍ら、笑ってしまいます。

どこまで進んでいくのやら、自分でもわかりません!


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

明日からは、できるだけ、速く進んで行きたいと思います。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。