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「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

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「第六章 我々はかなり遠くまで行くのだろうか」!(1Q84論考!:日本人的美学からの論考)

2010年07月08日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、スペイン、ドイツに勝ちましたね!

普通に考えたら、ドイツが勝ちそうでしたが、ミューラーが出れなかったのが、痛手でしたね!

これで、スペインVSオランダの決勝になりました!

いやあ、予想通りで、これで、オランダが勝ってくれると、うれしいんですけどね。

かつての、宗主国VS独立国の因縁の戦いですから、

僕は、素直に、オランダを応援します!

いやあ、気持ちが、盛り上がりますね!


さて、今日は木曜日!ということで、1Q84論考の日、ということで、

村上春樹さんの世界を構成しているものは、何なのか、そこらへん読みといてみよう!

ということで、これが、まるっとできあがると、村上春樹の世界が、だだわかりになる、ということで、

まあ、そこらへんを目的にして、論考をかけているわけですね。

まあ、青豆さんの世界は、完全に、女性のこころを、動かしまくって、気持よくさせる

ジェットコースター的小説なんですけど、この天悟くんの世界は、男性向けなんですよね。

まあ、この世に向かって、大きなことを仕掛けてやろうという要素と、なんとなく謎のある

美少女との物語、というわけなんですけど、どうも、対象とする男性のタイプが、

明らかに僕とは異なりますね。なんとなく、女性を扱うのがへた、というか、奥手なタイプであって、

いじめられたくないから、あまり目立たないようにしているタイプですね。

だから、なんというか、青豆さんの世界は、完全に楽しめるんですけど、

どうも、この天悟くんの世界は、いまいち、あまりおもしろくない・・・感じがします。

というより、ここで、語られる物語にあまり魅力を感じていないのかもしれません。


つまり、この小説を読んでいることで、完全に僕向けでないタイプの人間に向かって

村上さんが、ストーリーを綴っているということが、だだわかりだからなんですね。


まあ、今回のストーリーを読んで、それに気づいてしまったのですが、

まあ、自分がどういうタイプかも、わかってしまう、この小説は、かなり自分にとって、

意味があるとは、思いますね。


まあ、そんなことも、考えながら、ぐびびと、冷たいVittelを飲み干しながら、

ゆるゆると論考をはじめていきましょう!


さて、例によって、編集者小松から、深夜というより、早朝5時に電話がかかり、

天悟くんは、おこされ、ワードプロセッサーを買うことを勧められます。

そして、「空気さなぎ」の書き直し作業に入ることも勧められるわけです。

結局すべて、小松の手によって、進められる話なんですよね。

僕は、どちらかというと、今は、この小松という人物に近いですね。

明らか天悟くんタイプではない。というか、村上さんのエッセイを読んでもった印象として、

この天悟くんは、若い頃の、「村上朝日堂」あたりを書いていた村上さんにそっくりです。

まあ、その当時の村上さんが、10歳年上の人妻と関係していたか、どうかは、わかりませんが、

彼の作品の多くに、年上の人妻と関係する主人公が登場しますが、それは、作品上の演出ととらえましょう。

この作品での、天悟くんのエッチの相手が、年上の人妻であるようにね。

そして、その人妻から、朝、天悟くんの元に電話が、かかってきて、

「体の具合が、おもわしくない」

から、今日のエッチは、とりやめだ、ということになるわけです。まあ、この

「体の具合が、おもわしくない」

という表現を、村上さんは、

「上品で、婉曲な表現だ」

としていますが、でも、普通の女性って、

生理になったら、これくらい言う、というより、直接的表現っていうのは、普通恥ずかしがってしないでしょう。

これを上品というのは、スープをスプーンで飲むことが、上品です、と言っているようなもので、

誰も、スープを皿から直接飲まないでしょう?と疑問を呈されるのと同じ。

つまり、ほんとうの上品というものを知らないから、こういう風に書いちゃうわけなんですよね。

例えば、この場合、本当の上品な女性であれば、生理であるということさえ、匂わせないように、

「子供の授業参観がある」

とか、

「先生の家庭訪問がある」

とか、なんとでも、言えるはずなんですよね。そっちのほうが、匂いを匂わせない分、上品だと思いますけどね。


さて、天悟くんは、クレジットカードで、富士通のワードプロセッサーを買ったそうですが、

1984年当時のワープロって、けっこうデカくて、ひとりで持ち歩けたかなあ。まあ、村上さんに言わせれば、

村上世界の1984年の富士通のワープロは、持ち歩けるくらい小型なの!ということなのでしょうから、

まあ、特にケチはつけません。


それで、天悟くんは、ふかえりの「空気さなぎ」を書き直していくわけです。

まあ、このあたりは、読み味を楽しめばいいだけですから、具体的にいろいろ書いてありますけど、

要は悪いところを削り、いいところを残し、いい表現は残し、わるい表現は、直すということなんですね。


この作業ね。僕、毎日やっていたことが、あるんですよ。経験済み、というか。

もう、4、5年前ですけど、僕は、ごく私的なメーリングリストに、小説を、連載していたことがあるんですね。

まあ、恋愛小説でしたけど、夜、会社から帰ってきて、晩酌すると、その勢いで、小説を書くわけです。

そして、次の日、酔っ払って書いためろめろの、でも、力のある文章を、この天悟くんと同じ様に、いい部分は残して、悪い表現を直し・・・という風に

やっていたんですね。つまり酔いの力と、朝の冷静な頭とをつかって、一本の小説にすると、なかなか、

力のある文章になったりしていたんですね。だから、経験済みの行為なんで、天悟くんの作業に対して、あまり、新鮮味を感じられなかったわけです。


さて、天悟くんは、「空気さなぎ」を直しながら、ある思いにとりつかれます。それは、この文章は、ふかえりの個人的記憶を記録するための文章である、

ということなんですね。つまり、「空気さなぎ」は、ふかえりの経験からできた、ある意味のドキュメントである、ということを村上さんは

いいたいわけです。そうやって、男性読者に、ふかえりに興味を持たせようとしているわけです。

さらに、ふかえりが、誰に向かってこのストーリーを綴ったか、ということに言及し、それは、

「近代文学が原則として、念頭においている「不特定多数の読者」とは、異なったものであるらしい」

として、

「これを読み解ける人間は、特別なんだ」

と、強調しています。そうして、男性読者に、この「空気さなぎ」を読むことに、興味を抱かせているわけです。

いやあ、男性読者向けの施策が、ずんどこ、出てきましたね。まあ、村上さんは、別の項で、「空気さなぎ」を、ユニークなフィクションとしていますが、

それは、わざと逆な表現を用いて、ドキュメントであることを強調している、ということですね。


まあ、そして、いろいろなことが、あって、天悟くんは、その作業を終わらせるわけです。「空気さなぎ」の冒頭部分を直してみた、というわけですね。

すると、もう二時近くで、お昼をとっていないことに天悟くんは、気づくわけです。そして、おなじみのお昼の描写。

天悟くんは、コーヒーと、チーズをのせたビスケット、りんごといったメニューです。このあたり、「村上朝日堂」の頃の村上春樹イメージというわけで、

でも、調べてみると、なんと!「村上朝日堂」の出たのが、1984年の7月なんで、こう、ピッタリくるわけですね。

つまり、村上ファンとしては、あの頃の村上春樹を、天悟くんの物語として、読むことができるわけです。

いやいや、なるほど、そういうわけだったのね。どうりで、「村上朝日堂」的村上氏イメージが感じられたわけだ。


そして、気分転換のために、天悟くんは、年上のガールフレンドとのセックスのことをひとしきり考えちゃうわけです。

もちろん、村上作品、お約束のエロ的表現です。それも、奥手男性読者向けの、年上人妻のエロ要素ですからね。


そして、昼飯が終わると、さらに、チェックのために、書き直した「空気さなぎ」をプリントアウトして、読んでチェックする、というわけです。

このあたり、まあ、確かに、紙に出して、読んでチェックするのが、昔は、当然でしたが、僕は、今は、もうそういうことをやらなくても、

へーきになってしまいました。というより、慣れです。こんなものは。まあ、天悟くんは、プリントアウトしたものは、微妙に印象が違うとか、

言葉の感触が変化するとか、それっぽいことを言っていますが、そんなことは、ありません。単に、紙で出さないと、村上さんが、不安なだけです。

でも、慣れればそんなことは、必要がなくなるんです。もう、思い切り、村上春樹すら、批判ですから、どうなっているんだろうね(笑)。


そして、その作業を終えると、ひとしきり、ふかえりと「空気さなぎ」について、考えてみる天悟くんなのです。

そして、「空気さなぎ」の具体的内容が、語られるわけです。リトルピープルと、盲目のやぎの関係性やら、主人公の十歳の少女が、

どうやら、ふかえり自身の過去であること。盲目のやぎを飼うことが、ふかえりの役目だったのに、殺してしまったことなど、

なんとなく、幻想的で、奥手男性がよろこびそうな話です。奥手男性というのは、少女の失敗話や秘密が好きでしょうからね。

これもまた、奥手男性向けの施策ということになりますね。


そんなことをしていると、例の年上のガールフレンドから、電話が、かかってきます。

そして、子供が、いじめにあっているらしい、ということが、語られます。それについて、天悟くんは体が大きい方だったから、いじめられた経験がないと

感じていること。そして、ガールフレンドは、いじめる側にまわったことがある、ということが、語られます。

つまり、いじめられた経験がないんですよね。そして、そのガールフレンドにこういうセリフを言わせるんです。

「結局のところ、自分が排斥されている少数の側じゃなくて、排斥している多数の側に属していることで、みんな安心できるわけ」

「ああ、あっちにいるのが、自分じゃなくて、よかったって。どんな時代でも、どんな社会でも、基本的に同じことだけど、」

「たくさんの人の側についていると、面倒なこともあまり考えずにすむ」

と、言わせ、天悟くんに、

「少数の側に入ってしまうと、面倒なことばかり考えなくちゃならなくなる」

と言わせ、さらにガールフレンドに、

「でも、そういう環境にいれば、少なくとも自分の頭がつかえるように、なるかもしれない」

と、言わせ、さらに、天悟くんに、

「自分の頭を使って、面倒なことばかり、考えるようになるかもしれない」

と、言わせ、最後に、ガールフレンドに、

「それは、ひとつの問題よね」

としています。まあ、この問題の最後に天悟くんは、

「最終的には、それほどひどいことになることはないよ。クラスにもきっと数人は、自分の頭がまっとうにつかえる子供がいるはずだから」

と言わせています。

つまり、一連の流れを見てみると、これ、日本人の欠点と僕がしている「いじめ」の問題について、村上春樹的見解を述べているわけです。

つまり、

「自分の頭の使える子が少ないから、排斥する多数の側にまわりたがる。それは、アホな行為だ」

「少数の側に入らなければ頭を使う機会は、やってこないし、永遠にアホなままになる」

ということを伝えるための一連の言葉のやりとり、なんですね。

日本人の多くが共感する言葉

「どんな社会でも、どんな時代でも、排斥している多数の側にいたい」

を吐きながら、実は、

「そういう多数の側にいたのでは、馬鹿になる」

と言っているんです。


これは、僕は、思い切り、同感ですね。僕は日本人の欠点は、嫉妬といじめだと思っています。

嫉妬は、社会的役割を果たしたい日本人が、その役割を自分より果たしている人間に対してついついもってしまう、精神の荒廃ですから、

そんなことやっている暇があったら、自分を磨け!と僕は言っています。さらに、いじめなんぞ、やっている人間なぞ、死んだほうがましですからね。

まあ、僕は、子供の頃、ずんどこいじめられましたよ。

もう、他人と一緒なんて大嫌いな人間でしたからね。なぜ、他の人間と同じことをやらなきゃいけないのか、全然わかりませんでしたから。

思ったことは、口にしてしまうし、もちろん、相手への配慮はしますよ。でも、言ったほうが、いいと判断したことは、言ってきました。

それで、何人も友達をなくしましたし、まあ、リアルライフではよくある話です。でも、わかってくれる人間は、しっかり理解してくれる。

僕は、なあなあ、というのが、大っきらいですからね。結局、自分を信じながら、ずんどこ毎日自分磨きをして、価値を高めているわけです。

そうやっていかないと、自分を高められませんからね。おっと、随分脱線しました。元に戻りましょう。


さて、その後、今度は、ふかえりから、電話がかかってくるわけです。

まあ、ふかえりは、20年前くらいの人工知能みたいな、感情を一切排したしゃべり方なんですけど、

これの意味って、考えてみると、感情表現する女性との話しあいが、苦手なひと向けだから、っていうことになるわけです。

つまり、普通の女性とまともに、話せない奥手の男性向けだから、ふかえりは、こういう話し方になるわけです。

そして、美少女なわけです。いやあ、奥手の男性向けの施策が、たくさん、ありましたねえ。


だから、あんまり、おもしろく感じ無いわけねー。まあ、多数側にいたのでは、ただの馬鹿になる、という村上さんの主張には、同感ですけどね。


まあ、そういう意味では、奥手の男性向け施策をいろいろ見ながら、村上さんの主張というのを楽しむのが、この天悟くんストーリー

というところでしょうかね。今日は、そういう結論になりました!


さて、今日も長く書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

次回、金曜日の自由論考で、お会いしましょう!


ではでは。


サムライ!吉松少佐の真実!(火曜日の「翔ぶが如く」シリーズ:日本人的美学からの論考)

2010年07月06日 | 先人の分析
おはようございます!

さて、なんだか、今日も不安定な天気みたいですね!

晴れたり、曇ったり、突然の雨だったり!

なんだか、夕立の季節ですね。

まあ、雷もセットになっていて、それはそれで、

風情ですけど、7月が来た!って感じですね!


さて、火曜日は、「翔ぶが如く」をテキストにしながら、

西南戦争の人間像を見ていくという趣旨のコーナーです。

しかし、これ書きながら、読み進めているわけですが、

なんか、毎回結局、怒って終りっていう感じなるんですよね。

案外、知られていると思うんですけど、怒りって、ものすごいエネルギーになるんですよね。

僕も、自転車のトレーニング途中に、ものすごく怒るシーンがあって、

そこからは、もう、あっちゅー間にトレーニングが終わる感じですよね。

もう、怒っているから、気持ち的エネルギーも出ちゃうし、体も調子よく動くし、

まあ、そういう意味じゃ、自転車トレーニングの前に、「翔ぶが如く」を読むといいのかもしれません(笑)。


ま、とは、言いながら、いろいろな事実がでてくるので、歴史としては、楽しみながら、

ゆるゆると論考していきましょう!

さて、今日も冷たい麦茶をぐびびと飲んで論考を開始です!


えー、前回、河原林少尉が、なぜ、兵をつけられて、威力偵察をしていたのか、その謎を解明しました。

そして、乃木軍団が、木葉に、なぜ留まったのか、それは、河原林少尉の帰りを待つためだった、

と論考しました。決して名誉回復を図るためでなく外的要因として、河原林少尉を確保しなければ、

連帯旗の損失という重大な過失を犯してしまうからです。


つまりこの時点で、乃木の頭には連帯旗を損失してしまうかもしれない、という焦りにも似た気持ちと、

自分たちの隊を追いやった(実際は、双方撤退)薩軍が、自分達を追ってこないか、という懸念があったと思われます。

まあ、普通、それを考えますよね。ただ、プラスの要因として、二個旅団程度の味方が、この方面に到着するはず、

というのがあります。旅団とは、1500名から6000名という人数だそうで、3000名から12000名という

味方が到着するはず、という大きなプラス要因があったわけです。

まず、乃木は、三木という軍曹を午前二時頃、斥候として、出しています。午前四時に仮眠から起きた乃木は、吉松少佐と相談し、

津森中尉、渡辺中尉、中村少尉と、兵卒二十余名をつけた、将校斥候を出したのです。

この編成を見ると、河原林少尉と、兵卒十数名という形と酷似していることがわかります。

ということは、乃木は、河原林少尉を出したとき、連隊旗確保だけでなく、斥候任務も負わせていた可能性が高い、ということがわかります。

つまり、河原林少尉は、失点をカバーするための無茶な行動をとったのではなく、始めから威力偵察も任務に入っていた、それを実行したのに、

過ぎない、かもしれません。だとすれば、連隊旗確保を最優先させるべきだった、二つの事を同時に任務にした、乃木の手抜かりともいえるでしょうね。


さて、あとは、この木葉に防御陣地をつくるだけです。この指揮は、吉松少佐が、とることにしました。乃木はあるいは、休息を必要としたのかもしれません。

河原林少尉が、いつになっても戻らないことから、どうやら、連隊旗が、戻らないことになりそうだし、そうなれば、責任問題になることは、

誰の目にも明らかですから、一旦、今後のことについて、考える時間を必要としたのかもしれませんね。

さて、吉松少佐は、多くの射撃兵を埋伏させる形をとったそうです。本道上に一個中隊(兵200名程度)を置き、戦力はこれだけ、という形に見せたそうです。

そして、木葉山の真下の村落の中に、一個中隊を伏せさせ、陣地の右翼に、一個分隊(兵100名程度)を伏せさせ、本道上の中隊を助ける方法をとらせたそうです。

つまり、まあ、これまでの指揮に問題があったのは、河原林少尉に二種類の任務を負わせたことだけであり、それ以外は、ごく真っ当な指揮を乃木はしている、

ということなんですね。

さて、これに対して、薩軍側ですが、千二百名(六個小隊)の別働隊を編成し、いそぎ出発させたそうです。この軍は途中、村田三介達の隊とも合流し、

千六百の部隊になったそうです。これに対して乃木軍団も後方から来た軍団が加わり、双方互角の人数になったそうです。


さて、乃木の放った将校斥候は、午前五時に、木葉を出発して、東に向かいました。夜があけた頃、彼らは七本という場所に至ります。

そこで、ある部隊が、行軍してくるところを発見します。無論、薩軍なわけで、三百名程度。というわけで、将校斥候は、敵を発見し、

いち早く回れ右して木葉に駆け戻ります。そして、敵接近の報を乃木達にもたらしたわけです。その報告は、木葉本道上の吉松少佐にももたらされます。

時間は、午前八時三十分。

兵たちには、

「できるだけ、引きつけて撃て」

と命令が出ています。薩軍に勝るのは火力。薩軍の銃は、10年前の戊辰戦争から、進んでいない、というわけわからない状況です。

だから、引きつけて撃てば、照準能力の上がった政府軍の方が圧倒的に有利だと言えます。

ただ、やはり薩軍の兵のひょうかんさを見知った乃木軍団の兵の意識は、どうだったか。

それが、鍵を握るのです。


そして、吉松少佐は、馬上のひととなります。

戦闘の状況を俯瞰できる、ということもありますが、弱い鎮台兵の意識を少しでも鼓舞するために、馬上のひとになったようです。

彼はすでに、福岡を出る時に、

「自分が死んだら、軍服の正装で、葬ってほしい」

と部下にいっていたらしいですから、自分の運命というものに、気がついていた、ということでしょう。

サムライですねー。

サムライ精神、そのものですよ。


この吉松少佐、鳥羽伏見の戦いのとき、伏見に集合していた土佐軍団四個小隊(八百名)の四人の小隊長のひとりだったんですね。

この四人は、乾退助と話しあっており、藩の方針にかかわらず、薩長側につくと約束していたおかげで、薩長土肥になれた、という

そういう過去をもっていたわけです。あの鳥羽伏見の戦いを経験し、戊辰戦争を生き抜いた、本物のサムライ、本物の軍人だったんですね。

そういう人間であれば、この吉松少佐の思いは、政府を守るの一点につきたでしょう。

薩軍は、一種の裏切り者ですからね。一緒に政府をつくりあげたはずが、自分たちの思いのままに、ならないから、と大挙東京を抜け出し、

自国にこもって、今度は政府を覆滅しようと、大軍団を行軍させてきたのですから、自分が盾になり、この裏切り者供を壊滅してくれるわ、

くらいの気概があったのではないでしょうか。


司馬氏は、吉松少佐は、植木での壊乱敗走を恥じていたとしていますが、そんな資料があったのでしょうか?吉松少佐は自分を語らぬ男だから

同郷人にとっても無名に近い存在だった、と司馬氏は、別の項で書いているので、そんな恥だけを書き残すようなことは、していないはずです。

つまり、この「恥じていた」とするのは、司馬氏の独断なんですよ。それも、乃木を悪者にするための。

つまり、吉松少佐は、恥じていた。だが、乃木は、観念論者だから、恥じていないとして、観念論者自体も馬鹿にしているわけです。

ここで、司馬氏の意図しているのは、乃木を馬鹿にする比較相手としての、吉松であり、

現実を見えている吉松と、現実を直接見ることができない観念にとらわれている乃木という比較をしているわけですけど、

要は、乃木を馬鹿にするために、吉松をアゲているに過ぎないんですね。

結局、自分の目的のために、それこそ、観念論者になっているのは、司馬氏そのひとだ、と言えることが、できるわけです。


吉松少佐は、シビアにこれまで、生き残ってきた軍人です。どちらかと言えば、政府を守るために、薩軍と雄々しく戦った、ということだと思います。

自軍を叱咤するために、最もよい方法を使っただけだと、思います。

そして、彼は勝ちを得ようとした、それに過ぎません。

それが、まったくわからないんですから、司馬というこのひとは、本当にどうしようもない人間ですね。


さて、薩軍は、吉松少佐の指揮する軍団の前に行軍してきます。吉松少佐は、これに対して、距離三百で、兵に射撃を命じます。

射撃戦になり、一旦、薩軍は、形勢不利と見て、一キロ後方に下がります。このあたり、変に応じる薩軍の手際のよさが見て取れます。

薩軍は、敵の状況などから、三方から、木葉を攻めるべく、行軍し、再度の射撃戦になります。薩軍側は、得意の切り込みをかけたかったそうですが、

応射が激しく、それもできなかったようです。それだけ、乃木軍団が、切り込みを恐れたということもあるんでしょうね。


このとき、戦闘の状況を変えたのは、薩軍の遊軍、だったそうで、

「とりあえず、北に行き、敵を補足し、これを敗れ」

と言われてきた、という軍団です。これらの軍団が、大きくうかいし、山の上に登り、そこから、眼下に展開する乃木軍団の諸隊に射撃をはじめたのです。

まあ、眼下の敵を撃つのは、圧倒的に有利ですから、薩兵の戦上手ぶりが、わかります。

これについて、兵の狼狽ぶりが、激しく、それが、戦意を激しく乃木軍団から、奪ったようです。


吉松少佐は、最も苛烈な圧迫を受ける本道上で、指揮をしていたようです。既に馬からは降り、徒歩で叱咤していたようですが、

薩軍の圧迫ぶりに、後方の乃木の元に何度も兵の増援を伝令したそうです。そしたら、なんと、乃木自身が後方の本営から走り出て、

吉松少佐のところまで、来ると、

「援兵の余裕などない。たとえあったとしても君に分かつべき兵はない。右翼も左翼も大変なのだ」

と言ったそうです。そして、

「君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか」

と言ったそうです。それに対して、吉松は、笑顔で、

「私はただ君のほうに余力があるなら増援してもらいたいと思っただけだ。ここは、私が守る。しかし、言っておくが・・・」

と、このあたり、「西南記伝」という本にあるようです。この言葉のあと、吉松少佐は、

「足下は其職、連隊長に居る。宜しく大局を督すべし。久しくここに留まるべからず」

と言ったそうです。まあ、司馬氏は、皮肉だ、と言っていますが、吉松少佐は、若い乃木をさとすように、言ったのではないでしょうか。

薩長に属していたがために、若くして出世してしまった乃木に対して、吉松少佐は、

「かわいそうに」

という感情でみたいたのではないでしょうか。司馬氏は、この乃木をして、嫉妬の目で見ています。

薩長の派閥があったから、乃木は能力もないのに、出世できた!として、その出生を妬んでいるのがバレバレです。

そういう目でひとを見ていたら、何も見えてきません。僕がこれまで、書いてきて感じるのは、このひとは、何も見えていない、ということです。

その理由のひとつに、このひとは、嫉妬の目で、この乃木をみている、ということがあげられます。

出世こそ人間の目的だ、と浅く考えている馬鹿によくでる症状です。そんな目でひとを見ていたら何も見えるはずが、ありません。

しあわせ獲得こそ、人間の目的なんです。出世はそのいくつもあるしあわせ実現手段のひとつにしか、過ぎません。

出世しても、人生そのものが、不幸であれば、なんの意味もありません。仕事のし過ぎで家庭崩壊なんて、アホのやることなんです。


この吉松の言葉は、力のある人間が、まだ、経験も少なく、技量も足らないこの乃木を最後の瞬間まで、教育しようという吉松の温かい感情と見ることもできるでは、

ありませんか?乃木を信じていたからこそ増援を、という伝令も出し続けたんでしょう。それに対して、癇癪を起こした乃木は、

経験も少ないうちに、出世させられた悲劇のひとです。でも、だからといって、圧倒的に技量が足らないわけでなく、

戦場での経験がない人間が陥る新兵病にも似た、症状を見せたに過ぎないのではないか、僕はそう思いますね。


乃木は、ほどなく、本営に戻ります。そして、吉松はそれを見届けると、決死隊二十余名を引き連れ、薩軍に対して、

銃剣突撃を敢行し、重症を負い、死にました。

「もはや、これまでか」

そう、吉松少佐は、判断した、ということでしょう。

増援もはや、なく、正面の敵が、いよいよ、増えているとすれば、ここで、自分が犠牲になれば、少なくとも乃木を殺さずに済む、

という想いがあったのかもしれません。乃木と吉松との間にそういう厚い関係性が、あったのでは、ないでしょうか。

だからこそ、彼は死を選んだ。乃木が癇癪を起こしたのも、吉松に対する甘えがあったとみるべきでしょう。

嫌いな人間なら、無視すれば、いいだけの話ですからね。

普段はわかってくれるのに、なぜ、わかってくれないんだ・・・これが、かんしゃくの基本的思考ですからね。

そういうことからも、吉松と乃木の温かい関係性が、指摘できると思いますが、みなさん、どう思いますか?

司馬氏は、そういうあたり、まったく考慮にいれていません。

というより、発想ができないんですよ。つまりものがみえていないんです。浅い脳なんですよね。

まあ、こんな奴、ほっぽって、おきますかね。


さて、吉松と乃木の、温かい交流を指摘できました。

そこに、吉松の死の意味があった、と思います。単純に負けたくないから、自分のために、死んだとは、考えられませんからね。

人間とは、そんな単純ではないし、感情というものが、常にひとを支配するし、その人間性というものにも目を向けるひつようがあります。

自分を決して誇ることのなかった、この吉松少佐というサムライは、きっと、他人にはやさしく、そして、現実を冷静に見ることができた、ひとだと思います。

だから、やさしく温かく乃木を支えてきたのではないでしょうか。そして、死をもって、乃木軍団を壊滅から救った。

僕はこのストーリーをそう見るべきだと思いましたね。


さて、今日も長く書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、水曜日の世界論考で、お会いしましょう!


ではでは。

「第五章 専門的な技能と訓練が必要とされる職業」!(1Q84論考!:日本人的美学からの論考)

2010年07月01日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、天気もよろしくありませんね。

もうすっかり、つゆ真っ只中!というわけで、

7月中旬まで、この感じですかねー。

ま、ちょっとだけ、我慢!という感じですかねー。


さて、今日は木曜日の村上春樹論考!というわけですが、

今日から7月!ということで、ワールドカップの日本は一昨日で、終わりましたが、

「ツール・ド・フランス」のチーム・プレゼンテーションが、今日の深夜にありますから、

もう、うれしくって、仕方がありません。

今年も、新城幸也選手が、登場ですからねー。

もう、日本人が出ているツールを昨年楽しんでしまったものですから、

もう、人間、一度うれしい刺激を与えられると、次は、さらに上の刺激を求めるものですからね。

まあ、新城幸也選手の活躍を期待しています!


さて、しかし、村上作品は、やっぱり読んでいておもしろいですね。

火曜日の司馬作品の読み込みでは、だいたい怒り狂ってますが、木曜日のこの村上作品の読み込みは、

ついつい楽しく読んじゃうし、いろいろからくりがわかって、勉強にもなりますしね。


さて、今日もVittelをぐびびと飲んで、ゆるゆると論考をはじめていきましょう!


で、この章は、女性向け担当、青豆さんのお話です。これ、女性が、

「こんな風に生きてみたいな」

という潜在的な欲望をすべてこの青豆さんで、表現してあげることで、

女性が、わくわくどきどきしながら、読む、という事実を引っ張っているんですね。


まあ、青豆さんは、弱い女性の敵であり、女性の嫌いなタイプの男性を、

殺す、クールでワイルドな女性の殺し屋ですし、そして、その青豆さんの生きる世界は、

日常の非日常性が、強調された世界であり、少しだけ現実とずれた世界なんですね。

まあ、そういうあたりで、女性のこころを、ころころ転がすジェットコースター小説である、

というのが、今まで見てきた1Q84というわけで、さて、この章も、そのスタイルなんですかね。


さて、クールでワイルドな殺し屋・青豆さんは、ひと仕事終えると、赤坂の高層ビルのホテルに行き、

最上階のバーで、ジャズの生演奏を聞きながら、ジントニックを飲み、神経をいやしています。

こういうシチュエーションって、村上作品では、よく出てくるシチュエーションで、

村上さんが、こういう感じで、お酒を飲むのを好んでいることがわかります。

まあ、僕も好きですがね。高級ホテルのバーで、生演奏聞きながら、ゆっくりと時間を過ごす。

まあ、大人の男なら、好きなシチュエーションです。そこに青豆さんは、いるわけです。

そして、彼女は、満州鉄道について書かれたハードカバーを読んでいるというわけで、

それは、高級娼婦に見られたくないわけで・・・でも、高級娼婦が、高級娼婦に見られないようにするなら、

青豆さんと同じような、服装と雰囲気になる・・・という言わば、言葉とシチュエーションの遊びを村上さんは、

行っているわけです。まあ、青豆さんを苦笑させながら、女性読者を苦笑させているわけですね。

でも、ちょこっと、自分が高級娼婦になったような気分になる、という風に女性読者に思わせているわけです。

なぜなら、女性視聴者は、高級娼婦に興味があるからです。まあ、ちょっとそういうエロ要素をちらりと

スパイスとして、効かせているわけです。まあ、女性もそういうことには、ものすごく興味がある、ということを

村上さんは、知っている、というわけなんですね。


そうして、青豆さんが飲んでいると、もちろん、ちょうどいい相手が、二つ向こうの席にやってくるわけです。

50歳前後の、地方から東京に出張にやってくる管理職、適度に日に焼け、一流企業の人間。

しかし、そういう人間が、赤坂の高級ホテルになんか、泊まるかな?と僕はこの章を読んでいて思いましたがね。

ま、村上世界の一流企業の人間は、そうだ、ということで、先に進みましょう。


青豆さんは、セックスを希求しているわけです。でも、この男性と、うまく、ベッドの上にソフトランディングさせるためには、

いくつかの手続きが必要・・・というわけで、その手続が女性リードの元、ろくでなしの男性をうまくてなづける

手続きが、描かれるわけです。男性は、いつでもろくでなしで、度胸がなくて、センスのない会話しかできない。

当たり前です。女性を喜ばせるために、この世界では、男性は、そうでなくては、いけないわけです。

50前後の管理職の男性が、ここまで、ろくでなしとは、普通思えませんが、まあ、村上世界でのできごとですから、まあ、それでいいわけですね。


青豆さんは、度胸もあるし、

「あなたのおちんちんは、大きい方?」

なんて、全女性の興味の問題も、ちゃんと口に出して直接質問してくれるわけです。そりゃ、女性読者は、青豆さんが、

好きになってしまうわけですねー。まあ、このあたりの手続きは、女性は、楽しく読めると思いますね。

青豆さんの男前ぶりと、男性のろくでなしぶりが、これでもか、と比較されて描かれてますからね。女性は読んでいて楽しいはずです。

そして、うまく、たらしこんで、このショーン・コネリーには、程遠いながら、なかなかの頭の形をもつ、50前後の男を

彼の部屋で、うまく、くわえこむわけです。そして、もちろん、彼女は、コンドームすら、用意している。完璧です。


クールでワイルドな殺し屋、青豆さんは、こうでなくてはなりません。そして、多くの女性読者は、この章を読んで、

まるで、自分が、クールでワイルドなパーフェクトキラーになったつもりで、お菓子をぽりぽり食べながら、

あるいは、ハーブティーを飲みながら、そして、少し興奮しながら、この章を読んでいる。

「村上春樹を読めるひとは、理解できる人は、頭のいいひとなの」

などと、自分に言い聞かせながら。

そして、50前後の男と、エッチを決めて、その後のだるい感覚まで、感情に乗せている。

このあたり、なんとなく、ハーレクインシリーズを楽しむ女性心理と同じで、村上春樹を読めるひとが、特に頭がいい、とは思えません。

どちらか、と言うと下半身モノを楽しんでいる、欲望に素直な女性という感じに思えます。このあたりはね。

つまり、村上作品というのは、「頭がいいひとが、読む読み物」という皮をかぶっているから、

堂々と、エロ要素を楽しめる、女性には、とてもありがたい本、だということが、このことから、だだわかりになるわけなんですね。


さて、この青豆さんの性欲処理システムのお話の中で、唯一別の要素を持って出てきたのが、例のベレッタや警察の新しい制服

という奴で、バーのバーテンやら、男やらの話では、2年前から、そういう装備に変更されていると言います。

そして、リボルバーは、全部破棄され、その映像も流れた、という青豆さんの知らない情報が、語られるわけです。

青豆さんの意識では、リボルバーを、今朝みかけた・・・ということなんですから、完全なる世界の変更なわけですよね。

つまり、どうやら、青豆さんは、どこかで、あの高速の階段かな?1984の世界から、村上春樹的ワンダーランドたる1Q84の

世界に紛れ込んでしまったようなんですね。そして、前々章で、村上さんが、

「僕の小説世界では、1984年には警察の装備が変わったことにしちゃお」

ということで、「変更されたいくつかの事実」という章で、指摘しておいた内容が、ここにつながってきているんですね。

まあ、もちろん、これも、日常の非日常性という女性喜ばせアイテムのひとつで、まあ、この世界が、1984の世界でなく、

1Q84の世界である、証左が、これからも、ずんどこ出てくるということを示していますね。

そして、1Q84のQが、謎の提示の意味であることが、ここに表現されたわけですね。


いやあ、しかし、この1Q84は、なかなか、おもしろいですね。

もう、すっかり、「羊をめぐる冒険」や「ダンスダンスダンス」の頃の冒険要素が復活している。

謎解き要素とでも、言ったらいいんですかね。その中に、「ノルウェーの森」や「国境の南、太陽の西」

にあるような、女性向けのエロ要素、というモノもちゃんと提出されている。

しかし、今回出てきた、ろくでなしで、ちんちんだけ、うまいようにでかい男のセンスのなさは、ちょっとなかったですね。

というか、青豆さんだったら、もっと、センスのいい男とのセックスを望むだろうな、というイメージを持ちました。

センスのない、ろくでなしでも、頭のかっこがよければ、いいの?ちんちんが、いい感じで、大きければいいの?

という素直な疑問。ま、ということは、要は、固けりゃいい!って、話なんですね!(笑)

まあ、これは、女性を喜ばすための、性欲処理装置でもあるわけですから、まあ、そうなるのが当然なわけなんですけどね。


ここで、ひとつ気になったのは、

「バーで、必要以上に酒の種類にこだわる人間は、だいたいにおいて、性的に淡白」

と、青豆さんに言わせているところで、これ、どうみたって、村上さんが、そういう種類の人間を嫌っている、というのが、

だだわかりです。というか、僕は逆の意見、

「酒の種類にも詳しくなるほど、自分の欲望に素直で行動的な人間が、性的に淡白で、あるはずないだろう」

という思いが、まずあって、

「いや、これは、村上さんの意見の問題ではなく、そうやって、くさしたいんだな」

と、わかっちゃったからなんですね。

まあ、村上氏は、天悟くんの物語では、文壇やら、文学界をくさしていますからね。


文壇や文学界で、いろいろこわいことがあって、いやな思いをしたんでしょう。


まあ、「こわがり」なんですね。もう、その年で「こわがり」もないだろうと思いますが、どうも、弱い気持ちを

お持ちのようですね。ま、他人をくさすと、こんなことも、わかられちゃうんですよ。


まあ、村上氏は、バー経営の経験もあるし、そんなときに、そんな感慨をもったのかもしれませんね。

でも、今、それをくさすとはね。思い切り、いやな客だったんでしょう。そういう客がいた、ということでしょうね。


それから、村上さんは、サラリーマンの生活をした経験がなくて、サラリーマンのことをあまりよくわかっていませんね。

例えば、ビジネスホテルは、村上さんが、書いたような劣悪なモノは、日本では少ないし(というか、1Q84の世界だから、大きなお世話ですが)、

例え一流企業の管理職と言えど、赤坂プリンスに部屋をとっている人間も聞いたことがないし・・・、

まあ、そこらへん、村上春樹的世界として、受け取っておきましょう。


しかし、この青豆さん、非常に村上作品的ですね。なかなか、好ましい。

まあ、「羊」や「ダンス・・・」では、僕といういわゆる男性が主人公で、女性は、受け側、謎の提出側だったんですが、

女性が、主人公での、謎モノ、クールで、ワイルドな感じというのは、長く村上作品に親しんできた身としては、

非常に楽しく感じますね。そこらあたりも、この作品が、驚異的売上を残したことにつながっているんじゃないでしょうかね。

まあ、この青豆さんの冒険、今後も楽しんでいきましょうかね。


さて、今日も長く書いてしまいました。

ここまで、読んでいただいたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、自由論考の金曜日で、お会いしましょう!


ではでは。

河原林少尉の真実!(「翔ぶが如く」シリーズ:日本人的美学からの論考)

2010年06月29日 | 先人の分析
おはようございます!

また、今日から、天気が悪い!ということで、

いやあ、まあ、つゆ!本格化!ということでしょうか。

まあ、仕方ないすね!

そういえば、昨日の「ドラゴン通信」は、けっこう手厳しく書いたのですが、

そしたら、ずんどこ、見てくれたお客様が、増えたみたいで(笑)。

手厳しいの望まれてるのかな、俺?(笑)

ということで、見てくれたみなさん、ありがとうございました。

そういうの、期待されてるの?(笑)

ま、ここも、厳しくいきますけどね(笑)。


さて、今日は、火曜日ということで、「翔ぶが如く」をテキストにしながら、

西南戦争の人間模様を見ていこう!ということです。

まあ、歴史論考をしていたら、いつの間にか、こういう形になった、ということで、

まあ、このブログでは、「ドラゴン通信」の次に古いシリーズなわけですけどね。


さて、今日も冷たいアップルティーをぐびびと飲み干しながら、ゆるゆると論考を始めていきましょう!


さて、前回では、乃木軍と薩軍は、ほぼ同時に撤退するというおもしろいことが、起こったこと、

そして、戦闘は、そのときの兵たちの心理状態に大きく左右されるものなのだ、ということを書きました。


さて、乃木の連隊旗、についてですが、薩軍側、乃木側の言い分が、違いすぎて、最後には、ほとんど

どっちもどっちな感じになるので、そのことについては、特にこれ以上突っ込みませんが、

いずれにしろ、乃木が、何らかの命令を授け、別行動をさせた、連隊旗手である河原林少尉だけを死なせて

しまったことは、確かです。さらに乃木の証言を本物とするならば、河原林少尉は、兵10名程度と共に、

乃木本隊の撤退を援護するために、薩軍に突撃させたことになるわけです。


どう考えても、連隊旗手にそんな危険なことをさせる、というのは、腑に落ちません。


やはり、なんらかの混乱が、あり、乃木達は、撤退したが、途中、連隊旗を持ってくるのを忘れたことに気づいた

連隊旗手が、自分の責任を感じ、乃木に、取って返すことを申し出、承諾され、兵をつけられて、戦場付近に戻ったところを

殺された、と見るのが、自然なところです。

そのとき河原林少尉が、連隊旗を手に持っていたか、いなかったか、いずれにしろ連隊旗は、薩軍の手に渡った、

そんな風にみるのが、もっとも、腑に落ちるストーリーでしょう。

そう見れば、なぜ、連隊旗手が、兵をつけられて、自分だけ別行動をとったか、簡単に説明できますからね。


薩軍側の証言者は、この河原林少尉を討ち取った岩切という兵士です。この兵士は、植木より南に一キロほど行った場所で、

乃木軍の兵十人程度がいた、ということで、岩切という兵士は、低地の藪の中にいる兵士を太刀で一刀の元に倒した、ということです。

これで、倒れた兵士が、河原林少尉だった、ということで、この兵の背嚢を調べると旗が現れた、ということで、

これが、後方に送られ、村田三介のもとへ、さらに、彼の実家の家宝になった、ということなんですね。

この話で、少し気にかかるのは、河原林少尉が、なぜ、植木より南に一キロも、進んでいたか、というところなんですね。

これは、植木に取って返した河原林少尉は、戦場から、兵が忽然と消えていることに、気づき、まず、連隊旗を確保すると、

兵を従えていることをいいことに、威力偵察を行っていたのではないか、と考えられるわけです。

河原林少尉は、連隊旗をただ持って帰るより、連隊旗を忘れたという失点をまず、ぬぐいたい気持ちになるでしょうから、

威力偵察をし、敵の状況を報告できれば、失点も少しは、軽くなると考えたのでは、ないでしょうか。


そう考えると、非常に自然に説明できてしまうんですね。


そして、そこを襲われた。結局、連隊旗を奪われるという現実になってしまうのですから、河原林少尉が、まず、連隊旗の確保だけに

留まっておれば、連隊の恥もかくことはなく、少尉自身の命も確保できたのだから、戦争中の無理というのは、

結局、まずい事実を、引き寄せる、ということなのだ、ということを教えてくれますね。


おもしろいのは、前回指摘した、

「朝、戦場に突入すると、本営とされたいた建物のある部屋に、連隊旗が忘れ去られていた」

とした、高田露についての話です。この連隊旗を確保したとされる岩切、という兵士と仲の良かった加治木という兵士の話で、

彼は、衆議院議員となった高田露を自宅に訪ねて、

「君の記憶違いなるにあらずや?」

と聞いたそうです。すると、露は、

「此事、僕が名誉となる事にあらず。君の知る通り、僕は嘘をつかぬ奴ではないか」

と言ったそうです。ま、なんとなく、

「連隊旗を確保した、という事実をさらに誇大に吹聴することで、薩軍を盛り上げた」

というあたりなんじゃないでしょうか。

「嘘じゃなくて、演出さ」

くらいに露は、考えていたようにも、思えますね。


ま、司馬氏は、これについて、わからない、とするだけで、資料を提出するだけに留めています。

これくらい、わからないとは、ほんとに、どうかしていますね。このひとは。

乃木の行動に対しては、

「乃木は、まだ、若くて兵事に暗かったのだろう」

としているだけです。事実の分析も浅いもので、薩軍側、乃木側の資料が正反対だ、ということを指摘し、

今更事実はわからない、と白旗をあげていますが、何を考えているんだろうと思いますね。

事実はひとつなんだから、可能性のあるストーリーを、いくつもあてはめて考えていけば、

最も自然に感じられるストーリーに必ずぶち当たることになるわけです。

そういう当然の理さえ、考えずに、白旗をあげるなんて、なんて、自分の仕事にふまじめな

人間なのだろうか、と素直に思いますね。


さて、この連隊旗を奪われた事件について、当時の政府は、

「明治政府が、それを政権そのものの恥辱とした」

と、司馬氏が、書いています。なるほど、だから、乃木は、いろいろ、自分を守るはめになったわけですね。

多分、実際には、乃木が一度連隊旗の存在を忘れ、いや、連隊旗手が、連隊旗の存在を忘れて、戦場を離脱し、

仕方なく、兵をつけて、戦場に戻した事実は、乃木の上司に報告されていたでしょう。

だが、その事実そのものが、恥辱になってしまう。だから、報告書その他が改ざんされた、と見るのが、自然でしょう。

だから、報告書その他を資料として、読み込んでも混乱するばかりだし、結局、司馬氏のような浅い見当、浅い結論に

ならざるを得ないわけです。だから、資料だけに頼って、事実を見ようとするのは、誤った態度なのだ、ということがわかるのです。

日本の歴史学会が、やっていることは、それ、そのものずばりなんですよ。だから、事実が全然わからない、という結果を生んでいるです。


これについて、司馬氏は、次のように書いています。

「明治政府はそれほどの情熱を、この事件の究明と公表にも割くべきであったが、しかしこの政権は、文明開化の原動力として誕生した政権でありながら」

「禁忌が多く、かつ禁忌を政治的宗教であるかのように、尊重するところが、病理的性格としてこの政権にあり、」

「連隊旗問題もついにあきらかにされずじまいだった」

なんか、難しく書いているけど、全然見当違いです。ひとつも、あっている部分がない。

政権そのものの恥辱とするほどの、恥辱ですよ。くさいものには、ふたが、当然の処置ですよ。

当たり前じゃないですか。原因は、連隊旗手が、連隊旗の存在を忘れたのです。それで、兵をつけて戻らせたら、逆に討ち取られてしまい、

旗さえ、とられました・・・。なんて、言えますか?

恥の上塗りじゃないですか。だから、公表もできないんです。究明は、されていたんでしょう。だからこそ、公表できない。

こんな簡単な理もわからないで、よく、大人でいられたな。それとも、これが、書かれた時代は、そんなへっぽこな脳でも、生きていけたわけ?

ほんとに、低能うんこ馬鹿なゲロですね。


さて、この植木での薩軍VS乃木軍団の結果は、双方撤退、戦死者は、河原林少尉と他数名というところでした。

つまり、まあ、それほど、大きな戦闘でも、なかった、というわけです。

乃木軍団の撤退時刻は、21:30とも、45分とも言われています。乃木は、植木の西の木葉という場所に補給所を

置いており、そこに結局、逃げ込んだそうです。二月二十二日夜十一時ごろ、乃木軍団は、負け戦同様のぼろぼろな感じで、

植木にたどりついたそうです。そして、仮眠した。まあ、負け戦というのは、モチベーションが一気に落ちるでしょうから、

その立て直しが急務です。寝ることは、体力回復に直接つながりますし、それは、モチベーションアップにつながります。

だから、心理状態が、直接関わる戦闘には、寝ることが最も大切なこと、とも言えるわけですね。


さて、ここで、司馬氏は、乃木軍団の心理状態について、結果として先鋒になってしまったこと、そして、日本が伝統的な初戦主義であることを

指摘し、その初戦に負けてしまったことを説明しています。これについては、異議は、ありません。その通り、だと思います。


ここで、ちょっとおもしろい文章があります。僕がこの文章の前半で、指摘したこととほぼ同じ内容のことを言っている人の文章です。

それが、熊本鎮台の与倉中佐の言葉!なわけで、それをまず、見てみましょう。

「戦い全体においても、緒戦が大事である。小さな隊ごとにあっても同じことだ。最初に敵と出遭ったとき、どんな無理をしても勝たねばならぬ」

「最初の戦闘で負けると、敵の士気をあげてしまうだけでなく、味方の士気が低下し、敵を怖れるようになる。そのひらきは、埋めがたいほど大きい」

「また、最初の戦闘に負けた指揮官は、次の戦闘で名誉を回復しようとし、ついに無用の無理をし、また、負けたりする。いかにつぎの戦闘で、苦闘し」

「その次の機会に苦闘をしても、ひとは、あれは名誉回復のためにあせっているのだ、としか見ず、正当な評価はしてくれない」

「だから、戦闘は最初において、勝たねばならない」

この文章を提示していながら、河原林少尉が、やったことが、ずばり、名誉を回復しようとした末、無用の無理をし、負けたものだ、と

気がつかないというのは、どういうことなのですかね。そのもの、ずばりの行動じゃないですか。理解に苦しみます。


さて、乃木軍団が、距離としては、中途半端なこの木葉という場所に留まったのは、名誉回復のあせりだ、ということを司馬氏が、書いています。

僕は、

「それは、違う!その考え方は、安易すぎる!」

という意見です。というのも、乃木は、河原林少尉の死を、この時点で、知らなかったはずです。

河原林少尉は、絶対に、確保しなければならない。その河原林少尉が、戻らない。

だから、遠くにもいけず、準戦闘状態で、この木葉という場所にいたと考えます。

それに、モチベーションが落ちた兵というのは、襲われれば、簡単に、やられてしまいます。

だから、まず、モチベーションの復活のため、五里霧中の中での行軍という無理を回避したのだと、考えます。

まあ、指揮官なら、特に普通にやることです。だいたい、外的要因として、河原林少尉の確保は絶対条件ですからね。

自然にそうなることなんです。それを名誉回復のあせりとするのは、単に自分の意見をおしつけているに過ぎません。

ほんとに、自分の都合のいいように書くひとですね。だから、自身の頭の悪さが露呈する。

ほんと、だめ人間は、しゃべるな!って感じです。


さて、このあとも、ストーリーは、続くのですが、今回は、これくらいにしておきましょうか。

なんというか、司馬というひと、安易ですね。それに、モノも見えていない。

どうして、こんなに安易なのか、全然わかりません。


モノを考えるということを、知らないのではないでしょうか。

ひとを安易にだませると、考えていたのでは、ないでしょうか。

だとすれば、その責任は、とらされてしかるべきでしょう。

今後、氏の別作品も批判させてもらいます。

ま、そこに進むまでは、まだまだ、長い歳月を必要としますがね。


さて、今日も長々と書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、世界論考で、お会いしましょう!


ではでは。

「第四章 あなたがそれを望むのであれば」!(1Q84論考!:日本人的美学からの論考)

2010年06月24日 | 先人の分析
おはようございます!


なんだか、もやもやした日々が続いていますね。

まあ、つゆだから、仕方ないですけど、7月中旬まで、これですかね(笑)。

まあ、平日は我慢しますが、週末はできれば、からっといきたい、そんな感じです。

天気って、国民性にも、かかわってくると、言うし、

まあ、気分に出るんでしょうね。

ま、つゆは、つゆ、として、ガマンしますかね!


さて、木曜日は、村上春樹論考!ということで、今回も「1Q84」をテキストに、

その世界を読みといていきましょう!

いやあ、しかし、この青豆さんと天吾くんのストーリーと言うのは、どうやら、

青豆さんで、女性向けのストーリー、天吾くんで、男性向けのストーリーをつむいでいるようですね。

前回、青豆さんのストーリーは、女性向け施策全開でしたが、今回読む、天吾くんストーリーは、

男性が好きになるような要素が散りばめられています。

まあ、天吾くんストーリーの前回では、「ふかえり」という高校生の少女の書いた「空気さなぎ」という文章を、

天吾くんが、書き直して、芥川賞をとろう!と、小松が提案しました。

これ、前回は「具体的なストーリーで女性向け施策が、みあたらない」としましたが、当たり前でした。

これ、男性向けストーリーなんです。だから、より具体的で、ちょっと世間をだましてやろうという、

男性が好きそうなストーリーなんです。そして、もちろん、男性向けアイテムとして、美少女が登場している。

そういうことだったんです。つまり、村上春樹氏は、男性にも、女性にも、売れる作品として、

この「1Q84」を書いたわけなんですね。


さて、それでは、玄米茶をぐびびと飲んで、実際の論考に入っていきましょうか!

まず、小松が、天吾くんに深夜に電話をするところから、始まります。小松のちょっと横暴なところを描いているわけですね。

そして、その内容は、

「ふかえりと、話してみたら、ふかえりは、天吾くんに会いたがっている。だから、この計画のことを実際に、彼女に、会って、話してみてくれ」

ということなわけです。天吾は、最初はいやがりますが、結局、新宿で会うことになる。

まあ、ここらへん、導入部なわけで、まあ、小松と少女の話している風景なんぞ、誰も見たがりませんからね。

まあ、電話一本でそれは、済ませ、メインは天吾と、ふかえりという謎の少女、ということに興味をひかせるわけです。


そして、天吾は、新宿の中村屋に出向くわけです。何を頼んでも小松の会社のつけがきく、ということなんですね。

それで、天吾は、紀伊國屋書店で、本を買い、それを読みながら、ふかえりを待つ、というわけで、

その本は、呪術関係ということで、ちょっと読者に、不穏な印象をまず、与えるわけです。

そして、ふかえりは、20分遅れてくる、ということで、ちょっとした不安をここで、演出しているわけです。

さらに、それについて、謝りもしない、ということで、このふかえりの、ちょっと変わった系の女の子要素を付加しているわけなんです。

ここでは、男性向けの施策がずんどこされています。まるで、20年前の人工知能のような、変わった話し方をするふかえり。

外見は美しく、18歳だというのに、ワインを頼むし、それをとがめようとしたウエイターをじっとみつめるだけで、

顔を赤らめさせるだけの容姿をもっている。そして、胸が大きく、形が良い。

もう、男性ころがしアイテムだらけじゃないですか!


10代の女の子が、そういう演出を度々することにも、言及し、このふかえりは、そういう演出でなく、本物だ、ということも強調しています。

まあ、天吾くんとの一連のやりとりは、ふかえりの特異性を際立たせて、男性のハートを打ち抜こうという意図ですから、

不思議少女、ふかえりちゃん、登場と言ったあたりになるでしょうか。

そして、「空気さなぎ」という作品は、このふかえりの意図で、賞に投稿されたものでない、という事実もふかえりの口から、語られ、

いくつかの、謎の提示が行われます。このあたり、男性読者の興味を引かせるための施策と考えていいでしょう。


そういう中、天吾くんの女性関係についても、語られます。天吾くんは、なぜか、女性にモテる。予備校の数学講師として、働くうち、

その予備校生が、大学に入学してから、デートに誘われる。しかし、数学を語る講師としての天吾に興味があっただけで、実際の人格に触れると、

皆、興味をなくしていく、という典型的な失敗ストーリー。そして、それは、天吾くんに、10歳年上の人妻と関係をもつような人生を与えることに

なる、というこれも、男性として眺めれば、なかなか、興味を持たせる内容なんですね。

10歳年上の女性ではなく、人妻としているところに、男性の興味を引かせているわけですよ。


昔、こういう話を聞いたことがあります。女性を誘うのがうまい人間が、ストーリーを書くと、いかに女性をうまく口説くかをポイントに

ストーリーをつむぐ。しかし、逆にそういうのが、へたな人間が、ストーリーを書くと、なぜか、女性にモテる男性というキャラをつくる、

という話です。ま、この場合、村上さんが、そういう人間というより、まあ、一般の男性の多くは、女性を口説くのがあまり得意ではないだろう、

ということで、共感を得るために、そういうキャラ設定になっているんだ、と思いますね。

ま、僕は基本的に、おしゃべりで、気安い人間ですからね。ま、女性を口説くのは特に問題なし、という感じですかね(笑)。


さて、そういう天吾くんですが、彼は数学に世界を感じている人間として、語られます。数学の美しさ、世界観、それらを通して、

天吾くんの性格付けをしているわけです。まあ、これは、数学を愛している人間って、頭がよさそうに見えますからね。

だから、まあ、そういう性格付けをしているわけで、数学の美しさについては、至る所で話されていますから、

うまく、それを利用して、天吾くんの性格づけに利用しているということなんでしょう。


そして、結局、美少女ふかえりは、天吾の話を受け入れます。別の誰かと、天吾くんが会うという条件で。

もちろん、そうやって、話をすすませるためなんですけどね。

まあ、とにかく、天吾を理解する美少女ふかえり、という構図で、これは、男性読者に、美少女に理解された錯覚を与えることで、

気持ちよくさせているわけです。男性読者は、ふかえりを好きになるし、さらに、先を読みたくなる、という男性向け施策なわけですねー。

そして、「空気さなぎ」を書き直す提案をふかえりが、受け入れたという話は、電話で、簡単に小松に報告され、

そして、いつのまにか、天吾も、この書き直しに、熱意がある、ということで、ここで、熱意を見せるために、最初、熱意がないように、

書いていた、ということが、だだわかりになります。まあ、成長物語的な要素をここにいれて、読者を、気持ちよくさせ、さらに天吾くんを

読者に、好ましい人物に見えるように、しているわけです。


そして、最後、小松がフレーズをいい終わらないうちに、電話を切れさせることで、さらに次への期待を持たせるという施策をしているわけですね。


いやあ、男性への施策満載の本章でしたねー。いやいや。まあ、だいたい出てくる女性って、美少女に設定されるよね。

まあ、美少女に設定しないと、読んでいても楽しくないし、書いている側としても、楽しくないしね。

ここらへんは、僕も美少女の物語を書いていますから、よくわかります。こういうあたり、同じ書き手の経験をしておいて、

よかったなあ、と思いますね。素直に、書き手の意識というのが、だだわかりです。


しかし、この本を読み解いていると、男性側への施策、女性側への施策が、ずんどこ理解できて、ホント、役に立ちます。

売れるものってこういう風に書いてあるのね、というのが、だだわかりですもんねー。


まあ、ということは、天吾くんストーリーにも村上春樹作品お約束のエロ要素が、入り込んでくるんですかね?

それが、このふかえりで、表現されるのか、それとも、別のだれかなのか、いやいや、そのあたりも、興味深いですね。

まあ、エロ要素と言えば、村上作品に出てくる、そぼくな男性って、だいたい、年上の女性だったり、人妻と関係するんですよね。

これ、弱い男性向け、というか、まだ、10代だったり、20代前半向けの施策であることが、だだわかりですね。

まあ、年齢を重ねた男性というのは、女性を口説く経験も能力もシビアにアップしているでしょうからね。

そうなると、年上というより年下が、ターゲットになるでしょうからね。

結局、弱い男性が、何でも知っていて経験のある女性に、委ねられるという感情を、刺激しているのが、年上の女性、人妻というキーワードでしょうね。

まあ、そういうところで、村上さんが、狙っている層というのも、だだわかりで、10代、20代、あるいは、女性が苦手な奥手の男性、というあたりですかね。

出てくる女性は、美少女の不思議ちゃん。そして、胸が大きい。男性は、なぜか、モテる。そして、年上の人妻好き。

まあ、アイテムの意味とは、そうやって解くべきものなんでしょうね。


いやあ、今回もいろいろ、おもしろく読めました。

まあ、ストーリーの必然アイテムの意味というのが、いろいろおもしろかったですね。

ま、ワンダーランドな感じの村上作品ですねー。


さて、今日もここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、金曜日の自由論考で、お会いしましょう!


ではでは。




戦闘!と心理状態の関係性!(「翔ぶが如く」シリーズ:日本人的美学からの論考)

2010年06月22日 | 先人の分析
おはようございます!


なんだか、不安定な天気の日が続きますね。

まあ、つゆ特有の天気で、なんだか、もやもやしちまいますが、

ま、そこらへんは、適当に考えて、

さらっと受け流しながら、日々の楽しみを追求しますかね!

って感じで、いきたいものです!


さて、火曜日は、「翔ぶが如く」シリーズということで、

司馬遼太郎を切り刻むという、まあ、いつものごとくですが、

最も得意とするあたりをやっていきますか!

さて、今日は、冷たいアップルティーでもぐびびと飲みながら、

ゆるゆると論考に入っていきましょう!



さて、前回は、植木方面に進出しようとした乃木軍団と、敵の進出を認め、死兵と化した薩摩三介軍団

という構図ができつつあることを指摘しました。そして、乃木は斥候を出すなど、やることは、

やっていた。ただ、その斥候が帰らなかったために、判断が甘いものになっていた、といことに言及しました。

さらに、乃木軍団は、急造した百姓兵であり、さらに彼らはかなり疲労しているということで、

死兵の薩摩三介軍団に当たれば、一気に崩壊することは、目に見えている、ということを話しました。


さて、乃木軍団が、植木に入ったのは、二月二十二日の午後六時、夕日がすでに没する頃だったそうです。

第三大隊長吉松少佐は、植木という宿場の西南の地に兵を配置したそうです。人数は六十人。

しかも、疲労し、さらに空腹だったそうです。なんつーか、最悪の状況だったんですね。

このとき、握り飯を大量につんだ荷車の農民を、兵が見つけたそうです。

そして、調べてみると、薩軍に心を寄せる農民が、握り飯を届けるところだったわけです。

で、あれば、この時点で、乃木軍団は、近くに薩軍が出没していることを、この時点で、知ったことになります。

それについて、司馬氏は、一切、言及していません。


乃木軍団は、その握り飯を食べ、食欲を満たしたそうです。もっとも、後方から追いついてきた兵が徐々に増え、

結局、二、三百人の兵力になったといいますから、数だけなら、薩摩三介軍団に対抗できるようになったわけです。

ただ、相手は死兵ですから、まだまだ、やられる可能性は、高いんですが。


乃木と吉松少佐は、植木の宿場を守備する態勢をとります。兵たちに地形を利用させて、薩軍に備えたわけです。

これは、ごくまっとうな初歩的な考え方だと言えます。彼らは薩軍の強さを考え、熊本鎮台と同じように、

守備に入ったのです。まず、植木と言う地は、十四連隊の、集合場所であるから、時間が経てば、自軍の十四連隊が集まってくるし、自然兵力が増えるわけです。

もし、ここで、薩軍を恐れて、北に逃げれば、十四連隊の他の隊が、薩軍に各個撃破されてしまう危険性があるわけです。

だから、乃木のとれるオプションとしては、植木を守備するという攻撃方法は、最も正攻法な戦い方なわけです。

ただ、この植木という場所は、地形的に凹凸が少なく、守りにくい場所であったという欠点は、ありました。


夜になり、この日は、月夜だったそうです。まるで、白日のような光だった、と乃木が、言っているそうです。

乃木は、夜になり、さらに警戒したでしょう。

握り飯を運んでいる農夫を見つけたのだから、そりゃ、近くに薩軍がいることくらいわかっていたでしょうし、

正攻法を好む薩軍とて、夜襲がないわけではない、ということは、戦争のプロとして考えていたでしょうからね。

そのとき、自軍の南方の方角で、銃声が一発聞こえたそうです。

薩軍の存在に気づいた乃木は、敵が近接してから、撃てと注意し、さらに着剣させたそうです。

まあ、敵の存在を確認し、兵達に、その覚悟をさせた、というわけです。

ごく、まっとうな司令官のあり方ですね。


さて、薩軍の方はどうか。

彼らは午後七時前後に、乃木軍に接近し、その時に銃声を聞いたようです。

まあ、どちらが撃った銃声だか、わからなかったわけですけど、彼らは乃木軍の存在を知り、散開し、大いに撃ち始めました。

もちろん、乃木軍団も応射します。

ここに、薩軍三介軍団VS乃木軍団の戦いが始まったのです。

夜の射撃戦というのは、相手の火線を目掛けて、撃つものです。

ただ、三介軍団の方は、持参していた弾薬が少なかったのかすぐに尽きてしまい、退却することに決めています。

道路の両側に抜刀兵を置きつつ、乃木軍団の追跡に手当をし、さて、退却!というところに、友軍である伊藤直二の小隊がやってきたのです。

兵の数が、二倍になった、ということで、三介は、力を得て、白兵突撃をすることに決めてしまったわけです。


さて、このとき、三介軍団は、四百人程だったとされています。

その三介軍団が、植木の宿場を左右から包囲したとしています。

乃木軍団は、警戒兵を周りに置いていなかったのか、このあたり、謎です。

とにかく、包囲した三介軍団は、弾薬があるものは、射撃し、弾薬がなくなったものは、白兵突撃に入ったのです。

乃木軍団の兵力は、二、三百人、しかも、疲れている百姓兵です。さらに薩軍を恐れている百姓兵なわけですから、

気組みからして、違うわけです。

兵の数からして薩軍が優れているわけですから、こんなもの、最初から圧倒的に負けることは、目に見えています。

これは、どんな司令官が指揮しても、ぼろ負けになります。


乃木は、状況を理解し、退却を決意します。

これも的確だと言えます。

ひとまず、後方の千本桜まで、退いて防御線をつくることを決意し、吉松少佐、渡辺中尉に、乃木自身が走りまわって連絡したようです。

合図は、乃木が火を焚いたら、一気に退却という方法らしく、ちょっとそこだけ、やばそうな感じですね。

三介軍団が見せたように、薩軍の追跡に対する手当がされていません。

それに、一気に退却なんて、一度逃走に入ると兵というのは、恐怖心理だけが支配してしまいますから、一気に討ち取られるパターンですからね。

おもしろいのは、乃木と常に共にいた、河原林連隊旗手が、連隊旗を薩軍にとられてしまうという失態を犯してしまうんですね。


このことについて、乃木は、

「軍旗を黒羅紗の袋に包み、これを河原林に、背負わせた」

という発言をしているんですね。これに対して、薩軍側は、

「軍旗は、官軍の本営らしい家の床の間に立てかけてあった」

という証言もあるので、ちょっとおもしろいわけです。


この証言をしたのは、熊本民権党幹部の高田露で、このひとは、この戦争を生き延び、自由民権運動を続けたひとなんですが、

そのひとが、戦闘の翌日の朝、官軍の本営らしき場所に飛び込むと、

「床の間に彩色燦爛として紫のふさの新しい一旒の立派な旗がたてかけてあった」

というわけで、この文章が書かれた当時、この高田氏は、衆議院議員であり、軽妄なことを言わない人物だったようですから、

こちらのほうが信じられる気がします。

つまり、そのときの乃木は、軍旗のことなど、忘れてしまうくらい状況がせっぱつまっていた、と考えるのが自然です。

司馬氏は、このときの状況を再現しようとやっきになっているようですが、そんなの何の意味もありません。

実際に軍旗が、薩軍の手に渡り、その目撃情報すらあるんですから、乃木の立場上、自分や死んだ河原林少尉を守るのは、明白です。

それに、乃木は、その自身の命令により、河原林少尉を死なせてしまっているわけですから、

余計彼を守りたい、という気があるはずですからね。

でも、そこまで、考えるとおかしいことに気づくわけです。

このときの戦闘で、死んだのは、この河原林少尉と、あと一名だけなんですね。

そして、乃木の主張しているのは、

「河原林少尉が、敵に撃たれて死んだから、軍旗は、敵の手に渡ったのだ」

ということなんですね。

つまり、乃木は自分の名誉を守りながら、ある意味、死者となった河原林少尉を貶めているんですね。

河原林少尉を殺した上に、さらに貶めている。

なかなか、よろしくありませんね。

もっとも、そうせざるをえないほど、状況的に、逼迫したのかもしれません。

なにしろ、日本軍は、「初戦主義」ですから、

熊本鎮台以外の部隊で、はじめて薩軍と戦闘した部隊ですから、負けたことに対する責任、軍旗を奪われた責任というもの大きかったでしょう。


さて、乃木はおもしろいことを言っています。

このあと、まず、退却の前に、河原林少尉に軍旗をもたせ、さらに兵を十余名つけて、送り出していると主張しているのです。

そして、その後、戦闘を直接指揮する吉松少佐の居場所まで、駆けて、退却を命令し、退却の合図まで、打ち合わせた、としています。

まあ、それだけ、軍旗というものに、価値があった、ということを言いたいことが、わかります。

だから、逆に、それを奪われたということは、かなりの責任になるわけです。

そして、おもしろいのは、この時点で、兵たちは、ひとりも死んではいないわけです。


司馬氏は、

「逃げる必要があったのか」

ということを書いていますが、その状況は現場にいた人間だけが、わかることだと思います。

兵たちの心理状況を推し量り、乃木は、

「これ以上、戦闘は無理だ」

と、感じたからこそ、そして、軍旗さえ忘れるほどの過酷な心理状況がそこに生まれた、ということを、軍旗の喪失という事実が

物語っています。

司馬氏は、なにやら、まわりくどく、くどくど、この辺りの状況を解説していますが、こんなの、軍旗の喪失という事実ひとつで、

簡単に説明できることなのです。

事実とは、そう読み解くものであり、司馬氏の解説は、まわりくどいし、憶測でモノを言っているに過ぎません。

どうも、事実を解説する、センスに欠けていますね。


さて、乃木軍団は、この場所から、退却しましたが、実はその時間より、少し早く、薩軍三介軍団のほうも、退却したようです。

まず、弾薬が早くから欠乏していたし、乃木軍団の正確な数もわからず、さらに夜襲の成果があまりあがらないために、

「いったん後方に退き、休養し、翌朝を待とう」

という判断だったそうです。薩軍の兵も、行軍と戦闘の連続で、疲れていたようです。

つまり、薩摩側も、それだけ過酷な状況が作り出されていた、ということなんですね。これは。

この事実を見たとき、戦闘というのは、心理状況というのが、大きく左右するのだ、ということが、だだわかりになります。

それまで、勇敢に戦闘してきた兵が、一旦、逃走にうつると、同じ兵かと思うほど弱くなる、というのは、こういう心理状況的に

恐怖心に支配されるから、ということも、だだわかりになります。

それだけ、戦闘と心理状態というのは、密接な関係にあるんですね。


さて、今日はそのあたり、結論にしましょうかね。

今日も長々と書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、世界論考で、お会いしましょう!


ではでは。


第三章 「変更されたいくつかの事実」!(1Q84論考!:日本人的美学からの論考)

2010年06月17日 | 先人の分析
おはようございます!

なんだか、つゆ、というわけで、

毎日、変な天気ですね!

昨日は、天気雨とか、ちょっとおもしろかったです!

太陽がさんさんと光りながら、どしゃぶりだったり、

そういうのも、ちょっと楽しんだり(笑)。

ま、気持ち良く日々が過ごせれば、それで、いいですけどね!


さて、今日は、村上論考の日!ということで、「1Q84」をテキストに、

村上春樹の世界を読み解いていきましょう!

さて、この章は、青豆さんの世界です。村上作品の特徴は、女性のこころをいろいろに動かせることによって、

女性に快感を与える文章ということですから、この章でも、どのような形で、女性のこころを動かすのか!

というあたりを中心に読みといていくことにしましょう。


冒頭、高速道路の非常階段をまだ、降りている青豆さんです。

とにかく、何かビジネスシーンのアポイントメントがあるらしくて、急ぐ青豆さんですが、

要は冒険が、待っているわけです。読んでいる女性読者は、まず、その日常にある非日常性というものに、

わくわくするという経験に喜ぶわけです。

靴を脱いで、ストッキングだけで、階段を歩いておりて行くわけですが、なんで、そんなことするんだろう、

と思いましたが、要は女性の共感を得たいわけです。ストッキングが破れて、それを脱ぎ捨て、ドラッグストアで新しいのを買い、

奥で履かせてもらう、という女性が経験する行為を主人公にさせることで、

「そうよね。ストッキングって、でんせんするのよね」

という共感を生んでいるわけです。

まあ、この青豆さんは、長い非常階段を降りながら、ある思い出を思い出しちゃうわけですけど、これが、十七歳のときの、

大塚環さんとのレズビアンごっこの思い出ということで、まあ、村上作品、お約束のエロ要素提出です。

これは、もう、女性読者をちょっとだけ興奮させるためのもので、さらりと、クリトリスとか、陰毛とか、書いちゃうわけですよ。

オナニーの経験は、たくさんある!とか書いちゃうわけですよ。でも、そうかな?経験的には、むしろ知らないひとが多いような気がするけど?

そんなこと考えなくていいか(笑)。

まあ、女性にすれば、レズビアンごっこというのは、一生に一回くらい、興味をもちそうな内容ですからね。

そういうことを、ずばっと書いて、女性のこころをまた、転がすというわけなんですね。

まあ、そんなこと言っても、女性のからだ、というのは、女性は見慣れているものですから、

僕ら男性より、抵抗なく、受け入れるということなんでしょう。

だいたい、非常階段を降りながら、遠い昔のレズビアンごっこの思い出を思い出して、さらに興奮しちゃうって、

この青豆さんって、また、それ、したいんじゃないの、的に思えますけどね。

ごく、ふつーに(笑)。まあ、そういうエロ要素は、村上作品につきものですから、ああ、また出たと言う感じで、

普通にいなしていく感じですけどね。

そういうわけで、エロ要素な具体的な描写が長く具体的に続くわけですよ。

まあ、ひとりで読んでいる女性は、これもまた、日常の非日常を感じて、軽く興奮したりするわけです。

まあ、ある意味、エロ小説みたいな表現ですから、より具体的に書いてあるというわけで、

さらに興奮する女性読者という構図なんですね。

そして、読者を軽く興奮させたところで、非常階段を降り終わります。

すると、今度は、出口が施錠されている、ということで、不安要素を出すわけです。女性読者は、

「どうするのだろう?」

と興味を持ちますから、青豆さんは、そのあたりをいろいろ探すうちに浮浪者の寝床らしきものを確認し、浮浪者が出入できる入り口があるはずだ、

という軽い推論をして、その入口をみつけるわけです。女性というのは、女性が困っているシーンに出会うと、親身になって、心配するという特性が

ありますから、その特性をうまく利用しているわけです。そして、入り口をうまく見つけた青豆さんに対して、

「よかったわね」

という感情を女性読者に持たせているわけです。

そして、ドラッグストアで、ストッキングを買う、となるわけです。

そこで、一息ついた、青豆さんは、あるシティホテルに行くわけです。どうも、そこが仕事の場のようですが、何をするのだろうと、読者の興味を

ひかせるわけです。まず、青豆さんは、トイレに行き、放尿するというわけで、ここらあたりも、下半身関係をずばっと書くことで、

また、さらに女性読者の興奮をあおるわけです。服装の点検をし、お化粧を直し、ブラウスのボタンをひとつあける。

このブラウスのボタンをひとつあけて、胸の谷間のラインを見せると言う女性ならではの、相手の興味をひくテクニックを披露するわけですが、

まあ、これも女性の共感を得ようとする一種のテクニックなわけです。この青豆さんは、あまり胸が大きくない、ということを強調していますから、

まあ、胸が大きい女性というのは、少数派でしょうから、これも、胸の大きくない女性の共感を得ようというわけなんですね。


この青豆さん、ある男性の部屋に、ホテルのスタッフと称して入っていくわけです。漏電の危険がとか、いいながら、クローゼット内のパネルを調べるふりを

する。そして、その男性の首筋に塗料がついている、とかなんとか、言って、その首筋にさわる機会をえるわけです。まあ、このあたりで、予想はつくわけですけど、

青豆さんは、自作の器具で、この男性の首筋のある一点を突いて、自然死にみせかけて、殺してしまうわけです。

その奥さんが、ゴルフのアイアンで、肋を折られたという話が書いてあるところをみると、奥さんからの依頼なのかな、というところですが、

とにかく、青豆さんは、クールで、ワイルドな殺し屋さんだったわけです。

まあ、女性というのは、旦那さんに、いろいろな思いを持っていると思いますから、結局、そういう奥さんの願望を叶えるという形をとりながら、

ここでも、女性の願望を叶えているわけですよ。もう、どこまで、女性に媚びているんだ、と思うくらい女性向けの施策がわんさか、ありますねー。

まあ、ストーリー的には、こんな感じなんですけど、いちいちの表現が、細かいですね。放尿しているときには、放尿の音を楽しむとか(笑)。

まあ、女性からすれば、放尿なんて、毎日のことですから、案外そういう経験もしているのかもしれません。

もっとも放尿というのは、安心感を呼びますから、そういう安心感を女性に感じさせているのかもしれませんね。


とにかく、女性が喜ぶことを全力で、表現している、というのが、この章ですね。そういえば、青豆さんが街であった警官の装備が変わっていたという

表現がありましたが、これは、異なる時代との接続を意味しているのでしょうか。

6連発のリボルバーがお決まりの時代だった1984年の警官の装備ですが、なぜか、今的な、オートマチックのベレッタやグロッグなどを装備している警官が

歩いている。それに、ペットボトルって、1984年にあったっけ?

そんな感じで、ここも、日常の非日常表現です。

こういうことをいろいろやって、女性のこころをころころ転がしているわけですね。

題名となっている「変更されたいくつかの事実」という言葉ですが、これは、このベレッタやグロッグのことを指しているということなんでしょう。

つまり、未来から過去を眺めて、

「警官の装備は、リボルバーでなくて、ベレッタにしちゃおう」

と、村上さんが、変更している、ということになるわけですね。変更という言葉が、関わるのは、この章では、それくらいですからね。

あるいは、この殺されたおっさんについて、生から死への変更ということにも、かけているかもしれません。

いずれにしろ、女性向けにすべてが創作されている物語、というのは、確実で、まあ、女性向けの施策がひとつひとつ勉強になります。


しかし、こう書いてくると、村上春樹という作家が女性の嗜好を思い切り理解している、ということがだだわかりになりますね。

レズビアンごっこというのは、女性なら、一生に一度は、経験しているというし、それに深い興味を持っていたり、そういう具体的な話に

興奮を覚えるということを理解している。

まあ、この章では、全編、これでもか、という程に女性向け施策で、あふれていますから、ちょっと笑ってしまいますね。

いやあ、本を売るというのは、女性向けに描くことがまず、基本なんですね。

いやいや、勉強になりました。


しかし、この村上論考は、文章量がどうしても、少なめになりますね。

まあ、だいたいわかっちゃったっていうか、村上さんの秘密は、単に女性向け施策てんこもり、というのが、わかってしまったんで、

そうそう指摘することが、ないんですね。読み味を楽しむ本ですから、細かい表現が続くし、でも、ストーリーとしては、

それほど、進むわけではないので、指摘内容が、限られちゃうというわけで、文章量も少なくなるんですね。


いずれにしても、この本を分解していけば、女性の嗜好というのが、だだわかりになる、ということです。

そのための本ですからね。まあ、勉強がてら、眺めていくことにしましょうかね。


さて、今日もここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、自由論考で、お会いしましょう!


ではでは。

乃木は、別に悪くない!(「翔ぶが如く」シリーズ:日本人的美学からの論考)

2010年06月15日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、昨日は、本田選手がやってくれましたね!

松井から本田!ということで、海外組の自信を持ったプレーということで、

安心して、見れましたね!

まあ、後半、相当やられましたけど、

川島もよく守りました。

いやあ、よかった、よかった。

ほんとうに、よかったですね。

ただ、あとの2試合ですね。

強豪ですよ。でも、なんとか、がんばって、もらいたいですね!


さて、火曜日は、「翔ぶが如く」を読む、ということで、

司馬遼太郎批判というまあ、なんでこんなことになってんだか、よくわかりませんけど、

まあ、西南戦争あたりの人物達を追う、ということで、楽しんでいきましょう。

まあ、いつもどおり、Vittelをぐびびと飲み干して、ゆるゆると論考していきましょう!


さて、前回、熊本共同隊の薩軍への信頼を損なうということまで、西郷がしかけていた、

ということを論考しました。すべては論考者西郷にコントロールされて、死地に向かう薩軍ということなわけですが、

その恐ろしさは、ちょっと群を抜くものがあります。


さて、そんな中、熊本民権党というまあ、ルソーを信望している部隊もいるわけですが、

この部隊は、なかなか、印象的な戦いをしたそうです。

二月二十二日の戦闘では、さきに、

「犬死にの先駆けは俺がやる」

と表明した野満安親が、真っ先に突進して死んだそうです。

有言実行ということですね。

やはり信念を持った人間というのは、価値があります。


さて、熊本鎮台の中で、小倉にある第十四連隊だけが野に出ていることになるわけです。

まあ、なんか、これが悪いことのように、司馬氏は書いていますが、

僕はそう思いません。というより、戦闘のオプションがそれだけ、増えるということなんですね。

司馬氏は、熊本城への籠城策が一番みたいなことを書いていますが、ちょっと前までは、

野外で戦うオプションもあるみたいなことを言ってたんですよ。

まあ、それは、いいとして、今度は籠城策が一番なのだから、野外に出ている十四連隊

が危ないみたいなことを書いているわけです。

「ただ、この場合、処置が難しいのは、遠く離れて小倉にいる第十四連隊のことだった。かれらを城へ収容すべきか、それとも野外に放っておいて」

「遊軍として、使用すべきか。最終的には、・・・強行軍して城へ入るべし、という命令が下るのだが、それまでのあいだ、鎮台司令部の方針は、」

「転々とした。いわば雨ざらしになっている乃木希典とその連隊の不運は、司令部の方針の不安定にあっただろう」

雨ざらしというけど、別に外にいるわけでもないし、ちゃんと小倉の営所にいるわけだから、どうということもないわけです。

結局、このあと、この十四連隊は、城へ強行軍する途中に薩軍と遭遇し、壊滅に近い打撃を受け、さらに連隊旗を奪われるという失態を犯すのですが、

その結果を頭においているから、そういう印象を持って、普通の事実を変な見方で、書いてしまうのです。

このあたり、司馬氏の頭の悪さが、思い切り、露呈しています。


さて、この十四連隊の一部、三百人が、二月十九日、熊本鎮台に入城しています。

少しでも籠城側の人数を増やしておこうとする谷干城司令官の意識がだだわかりです。

そして、当初、薩軍は長崎を襲い、政府の艦船を奪取するだろうと、予想されたので、この十四連隊の一部が長崎警戒にあたっています。

つまり、この十四連隊というのは、いろいろなオプションに使えたということなんですね。

だから、逆に、小倉に十四連隊があったからこそ、いろいろな対応ができた、と書くのが、自然なんですね。

そして、二月二十一日、残っている十四連隊を率いて強行入城すべし、という命令が、乃木希典に届くわけです。


乃木は、いろいろな処置をし、二十一日の午後四時頃、人力車をやとい、自分に直接ついている連隊旗手の河原林少尉と久留米を出たそうです。

この人力車というのが、なんとなく時代を現していてちょっと楽しい感じもありますが、乃木本人にすれば、地獄への道のりということになるわけです。

十四連隊自体は、いろいろな場所に散っていたので、それら分隊(大隊)の長が、実際に率いて行動しているそうです。

だから、彼らは、その大隊のどれかに合流する必要があった、ということです。司馬氏の書くところによれば、夜には、南関という場所で、

吉松少佐率いる第三大隊に追いつくはずだった、そうです。

事実、二十一日夜、第三大隊に追いついたそうですが、どこまで、薩軍情報を獲得できていたか。

彼らは、翌二十二日に、薩軍との戦闘に遭遇することになるわけです。


さて、乃木というひとは、司馬氏の他著「坂の上の雲」で、これも第二次世界大戦時の日本陸軍上層部をくさす目的で、この乃木というひとを

だめ軍人の典型として、悪者として描かれています。命令を受けたら、馬鹿のひとつ覚えのように、それに固執する人間として。

まあ、この「翔ぶが如く」でも、同じように、命令に固執する人間として、描いていますが、実際どうだったのか、

そこらへんも、見て行こうと思います。


さて、乃木は、二十二日、吉松少佐の第三大隊と共に行動したそうです。この日、雨も雪も降ったわけではないのに道がぬかるみ、

二個中隊が午前十一時に、高瀬という地区についたときには、兵は疲労しきっていた、ということです。

まあ、にわかに信じられませんが、乃木は、それでも行軍できそうな人間60余名を選び、昼食後すぐ出発したそうです。

どうも、この行動、ちょっと信じられません。

というのも、どう考えても、これは、薩軍の進出を想定せず、もちろん、戦闘が起こるなんて、考えていない行動です。

「とにかく、急いで鎮台に入城しなければ」

という命令から来る脅迫観念に踊らされている人間のやることです。さらに、薩軍と戦闘状態にあることを知らない

とも言えるのではないでしょうか。少なくともそんな損耗した過少な兵力で、行軍することは、乃木の頭に、戦闘の二文字が、存在しなかったことが、確実でしょう。

これについて、司馬氏は、変なことを書いています。乃木が二十一日、第三大隊に追いついた時の文章です。

「この二十一日の夜は、南関で泊まった。南関では、第三大隊の主力が宿営していた。「薩軍は川尻まできている」ということを、この夜、知ったに違いない」

「もし、今夜にでも薩軍が北上を開始するとすれば、当然、乃木連隊の各南下路のどこかで、衝突することは、必至であり、」

「乃木はこの夜、南関で戦いが近づいていることを覚悟したかと思える」

これ、もし、そうだったら、乃木は、損耗した60余名の兵力しかもたず、南下なんかしませんよ。

いくら、命令に忠実でも、兵力を無くしてしまっては、本末転倒ですからね。

だから、乃木は薩軍の情報を持っていなかった、だから、損耗した60余名の兵力で、鎮台に入城すべく行動した、と見るのが普通でしょう。

はっきり言って、ほんとに、司馬という人間は、物事がまったくわかっていませんね。


さて、相手の、薩軍のほうも2個小隊だ、と書かれていますが、はっきり言って、小隊とは、どれくらいの人数なのか、

大隊とか、そういう軍隊言葉については、司馬氏は解説をしません。

つまり、戦争体験者に向かって書いている、ということが、そういうところからも、だだわかりになりんですね。

第二次世界大戦経験者に向かって日本陸軍の上の人間をくさすることで、富を得ていたことがだだわかりです。

まったく、ひとをくさして、悦にいるなんて、自分に不幸を呼び込む態度なんですから、まあ、司馬氏は、僕に、ほとんどすべてに渡って、

思い切りこきおろされるという不幸を呼び込んでいると見ていいわけです。


さて、調べてみると、小隊とは、30人から50人程度の兵だ、とされているようなので、60人から100人程度の兵が、薩軍の陣容だった、というわけです。

乃木の連隊が、60余名、薩軍が、60人から100名ですから、まあ、ぱっと見、戦えない相手ではないわけです。

確かに損耗している60余名というところが、圧倒的に乃木に不利だし、なにより、薩軍は、当時、兵としての精神の強さは、世界最強と

言ってもいいですから、百姓兵で、しかも損耗した60余名と、薩軍の100名じゃあ、話しにならない、という事実を生むわけです。


さて、この薩軍を率いていたひとりに、村田三介という元陸軍少佐が、います。このひと、雷発にあたっての今後の方針を決める例の大会議のとき、

「西郷の決起のときでなく、自分が政府を尋問しにいく。それでも政府が受け入れなければ、はじめて、問罪の使を発すべき」

と発言したそうです。まあ、極めて慎重だし、極めて妥当な意見ですが、薩摩にあっては、これじゃあいけないわけです。篠原国幹に、

「死をおそれて、そのようなことを言うのか?」

と言われて、口をつぐむ結果になったそうです。そして、この言葉は、薩摩にあっては、最大の侮辱言葉になるわけで、

万座の中で、こういう言葉を吐かれた人間は、もう、やることは、ひとつしかないわけです。

三介は、

「政府軍が出没しているから、山鹿方面へ行け!」

という命令を受けた時、即座に

「死んでやる」

と決めてしまったのです。

つまり、この薩軍は、死兵という、最も強い兵隊だったのです。

そりゃね、勝てませんよ。いくら乃木が素晴らしい司令官だったとしても、これだけ事実を積み上げてくると、

政府軍が、勝てる要素がひとつもない。こう書いてきただけで、政府軍が圧倒されるのは、目に見えている。

つまり、司令官が、誰であったとしても、政府軍は勝てなかったわけです。


さて、おもしろいのは、政府軍というか、乃木の十四連隊は、乃木率いる60余名だけではなく、別の大隊も別の経路で、

熊本鎮台に向かっていた、という事実なんです。三介は、道々斥候を出していますから、この事実をつかみ、

自分側が兵力として、非力であることを鑑み、場所を移し、囮を前に置き、待ち伏せし、南下してくる鎮台部隊を、

狙撃することにした、そうです。


司馬氏も指摘していますが、この「囮を置いて、埋伏」というのは、薩摩の戦国時代のお家芸とも言える方法で、

それを自然にやる薩摩兵というのも、伝統が生きているのか、と苦笑してしまいます。


さて、乃木側は、というと、近くの植木という場所を戦略的に、敵より早く占領してしまおう、という思いだったようです。

この植木という場所は各経路の十字路にあたり、十四連隊を集めるにはちょうどよく、さらに戦略的な足場を固める意識だったと思います。

乃木は、二十二日の夜明け前に松田という、よく気のつく軍曹に4名をつけて、植木方面に、斥候に出しているということが、語られています。

つまり、乃木はやることは、やっているんですよ。

ただ、この松田軍曹が、それ以後、どうゆうことになったかは、わからない、ということで、この斥候部隊が全滅したか、

報告ができなかったことが、乃木部隊の判断を甘いものにした、というところでしょう。


戦争というものは、そういう行き違いや、誤り、など、そういうものが頻出する場所です。

だから、結果が悪かったからと言って、即座に、その司令官が悪かったとは、言えないものなのです。

例えば、ナポレオンのワーテルローの戦いも、そういうミスが重なったために、勝てるいくさをみすみす負けに導いてしまったと言えます。

それに、今まで見てきた通り、乃木側に勝てる要素が薄いし、植木という戦略地を占領しておけば、兵力の補充ができるわけですから、

特におかしな考え方では、ないんです。松田軍曹が帰らないという状況から、その60余名で、威力偵察し、できれば占領、という

ごくまっとうな手続きだったと、思います。


それに対して、司馬氏は、次のような文章を書いています。

「しかし、結局は、乃木は、村田三介のわずか一個小隊の薩兵の白刃突撃のために連隊旗をとられ、植木から退却せざるを得なくなるのである。」

「かえりみると、もし、彼が手練なら、連隊長みずから軽兵を率いて最前線を構成しようとはせずに、他の方法を用いたかもしれなかった。」

「乃木は軍事教育らしいものをほとんど受けることなく、戊辰戦争の従軍歴もなく、いきなり陸軍少佐になった。長州閥のおかげではあったが、」

「ともかくも彼にすれば、この日が初陣だったのである。自然やり方は、素人くさかった。しかしやった行動というのは、放胆というべきであった」

つまり、乃木を馬鹿にしているわけですよ。事実をよく見るのではなく、最初から、

「乃木は、長州閥のおかげで、軍人になったから、素人だから、植木の戦いにぼろ負けしたのだ」

と、決めつけているわけです。

なんて、浅はかな馬鹿なんでしょう。

事実の分析もやらず、ただ印象だけで、話をする馬鹿。

ほんとうに、こいつは、地獄へ行ったら、殴りつけまくってやりますよ。僕は。

乃木をテーマにいくつもの小説を書き、それで、おまんま食わせてもらっている人間が、乃木を馬鹿にするなんて、

ひととして、最低だ。ま、こいつは、最低な人間ですけどね。

低脳うんこ馬鹿は、消え失せろ!


まあ、もう消えてますけどね。


というわけで、戦いの火蓋は、今にも、切られそうなわけですが、そのあたりは、次回に、とっておきましょう。


今日も長く書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、世界論考で、お会いしましょう!


ではでは。

第二章「ちょっとした別のアイディア」!(木曜日の1Q84論考!:日本人的美学からの論考)

2010年06月10日 | 先人の分析
おはようございます!

今日は気持ちのいい朝ですね。

朝陽が、めちゃくちゃ、気持ちいいです。

こういう日は、なんか、やる気が思い切りでますね。

ま、もうすぐ梅雨ということもあるんで、こういう日は、大事になりますね!


さて、木曜日は、村上春樹論考!の日、ということで、前回から、始めたこの論考ですが、

僕自身は、非常におもしろく感じていますね。これ。

というのも、僕自身趣味ですが、小説を書いている身なので、

いろいろと勉強になるし、小説を書いているからこそ、わかる村上さんのストーリーテリング、

というあたりもあって、ちょっとおもしろい経験だなあ、と思っているわけですね。

僕自身、若い頃に村上氏の作品に出会って、そのおもしろさを存分に楽しんできた身ですから、

そのおもしろさの正体が何だったのか、解明していくことに非常に興味があるし、

今の自分でなければ、わからなかったことが、たくさん出てくるので、非常におもしろいわけです。


まあ、最近は、毎日違うテーマで論考しているし、小説もいろいろ書いている、ということで、

ずんどこ、毎日、経験値が上がっている、毎日進化している、ということで、

そういう経験がまた、こういう論考にいい影響をあたえるというわけで、

なんだか、人生的にも相当プラスになっているように、感じますね。


と、わくわくな感じで、Vittelをぐびりと飲み、ゆるゆると論考に入っていきましょうか。

村上ワールドの成り立ちを見つめていきましょう。


1、村上ワールドへの招待

さて、ここでは、天吾という名前の主人公が、現れています。前回は、青豆という女性が主人公でしたから、

二人の物語、ということなんでしょうか。ここらへんが、いろいろと絡み合う、ということなんでしょうか。

さて、まず、唐突にこの天吾くんの最初の記憶というものが語られます。これは、彼のひとつのひずみ、みたいなもので、

青豆さんも耳の形がいびつ、と同じで、いわゆる村上手法のひとつで、ひずみ、ゆがみをつくることで、

その主人公にサゲ部分をつくり、読者がその主人公を受け入れやすくするという効果を上げているですね。

他人の不幸話って、けっこうみんな聞きたがるものなんですよね。

それをうまく利用して、主人公に不幸な部分をつくっている。そういう高等なテクニックなんです。


この天吾くんの記憶というのも、まあ、いわゆる不幸話です。そして、エロチックな要素も含めています。

これ、やはり、男性も女性も興味をそそられるんです。同人漫画のほとんどがエロ要素で、売っているのは、

そのほうが、売れるからで、やはり、エロチック、ということは、他人の興味を引くわけです。

「自分の母親の乳首を、父親でない男性が吸っている」

状況など、不幸なお話以外何モノでもありませんからね。つまり、読者の興味を惹きつける上で、

まず冒頭に印象的な不幸なエロ要素話を置いたということなんです。

まあ、つかみは、OK!というところでしょうか。


それに、この記憶が一歳半と設定することにより、その主人公が特別ななにか、を持っている表現をしているわけです。

まあ、この本によると、普通は三歳くらいからの記憶しかないものだ、としているわけで、

この主人公には、何か特殊な能力があるのではないか、と読者に思わせるということなんですね。

そして、その記憶が、作り上げられたモノでもなく、いつのまにか、捏造されたものでもないことを説明しながら、

その主人公の特殊性を強調しているわけです。


この天吾という主人公は、その記憶がよみがえると、立ちくらみのような症状に陥るそうです。つまり、この記憶は具体的な

障害を主人公に与えているわけです。これは、さらにこの主人公の不幸を具体化したもので、さらに、

読者に

「かわいそうに」

という感情を与えるもので、さらに読者の興味を惹いているということなんですね。

そして、そういう状況(まあ、発作ですか)に陥った主人公の状況を克明に描くことで、主人公の不幸な心情やらを

強調して、読者に提示しています。まあ、さらに

「かわいそうに」

と思わせ、読者を村上ワールド内に引っ張り込んでいるというわけなんですね。

そうやって、村上ワールドに読者を完全に引っ張り込んでから、この章の本論とも言うべきストーリーがおもむろにはじまるわけです。

いやあ、よくできているなあ、このストーリーは。


2、「ふかえり」と「空気さなぎ」

突然、「ふかえり」と「空気さなぎ」というキーワードが語られ、それについて天吾の意見やら、編集者小松の意見が語られます。

まず、このとき、読者は軽い混乱に襲われます。

「「ふかえり」って何だ?「空気さなぎ」って?」

まあ、ここらあたり、村上ワールドでは、よく使われる手法なんですけど、耳障りのいい、村上ワールドぢっくな言葉が唐突に出てきて、

それについて、語られ、読者は、わからないから、わかりたくて、思わずストーリーに引き込まれる、という効果をあげる手法なんですね。

「空気さなぎ」って、いかにも村上ワールドな言葉で、まあ、造語なんですけど、その中身を知りたくなるように、言葉がつくられているわけです。

そして、これも、読者をより村上ワールドへ引き込むという仕事をしているわけで、読者の気持ちをころころと、うまく動かしている村上氏ということが、

だだわかりになり、さらに、気持ちをころころ動かされることが、女性にとっては、気持ちがいい、ということも、だだわかりなんですね。


さて、話としては、「ふかえり」なる17歳の高校生が、ある文学作品を書いた。それを、原稿の下読みという仕事を与えられている自身も小説書きの天吾が、

「この作品には、他の作品にない、なにか、がある」

と編集者小松に主張している、というストーリーです。

このあたり、村上氏が、よく知っている文学界の事情というあたりなんでしょうけど、彼はそれについて、何かをいいたくて、このあたりを舞台にしている、ということが

だだわかりになっています。まあ、ストーリーを追っていけば、それも、だだわかりになるでしょう。


3、芥川賞の意味

そして、小松は、その天吾の主張を却下し、もっと別の方法で、ということで、「ふかえり」の作品を天吾によって書き換え、換骨奪胎し、新しい作品をつくり、

それで、「芥川賞」を狙おうという提案をします。もちろん、それについて、天吾は、

「一種の詐欺だ」

と批判しますが、小松は、独特の勘的な意見を吐き、結局天吾も同意してしまうわけです。

まあ、「芥川賞」とぶちあげるあたりは、大きな目標を掲げることで、読者によりわかりやすくする目的と、

ちょっとした賞にさえありつけない作品を、日本文学界でも最高の賞をとらせるというギャップ感を読者に感じさせるという効果を狙っているのがだだわかりです。



4、小松がなぜ、文壇を笑いたいのか

さらに、ここで、小松を食えない人物として設定し、日本の文壇を笑ってやるとさせているのは、村上氏の中に文壇への怒りや不快感があるからであり、

そういう思いを、この小松に仮託して、遊んでいるということもだだわかりです。

僕もよく、

「ああ、こういう風にしたら、おもしろいな」

と思って小説内の人間達を動かしているし、自分のやりたいことや、いいたいことを、小説内の人間たちに言わせているので、

そういう村上氏の意識がだだわかりになっています。


5、散見された、村上作品の特徴

このひとの作品で、目につくのは、確固たる理由を書かないという点です。

「なぜ、そうなるのか、わからないけど、いつもそれは、正しい」

みたいな表現ですね。そして、ここでも、小松のやることは、いつも正しい、となっています。

小松からすれば、そんなリスキーなこと、編集者としての職を失いかねない行為をなぜやるか、と言えば、

「俺の本能は「前に進め」と言っている」

という非常に、確固たる理由がない、この村上ワールドのお約束とも言える理由なんですね。

こういう表現、なぜかわからないけど、そうなる、という表現が、非常に多いのも村上作品の特徴なんですね。

これ、そういうところをぼかすことで、逆に、そういう世界が、村上ワールドなのだ、と強調しているということなんでしょう。

「なぜかわからないけど、正しい」

「理由はないけど、リスキーな橋を渡る」

このあたりは、具体的というより、抽象的な世界を好む、女性向けの施策ということが、だだわかりになります。


6、結論

まあ、この章は、天吾という主人公の説明と、小松との芥川賞獲得大作戦の謀り事みたいな章なので、前章程に、女性の気持ちコロコロの手法は

出てきませんでしたが、別の形で、村上ワールドへの招待手法がとられていました。

それに、村上作品の特徴もいろいろ見られましたね。

まあ、村上氏が、相当文壇というものに、いろいろいいたいうっぷんがあるということもだだわかりになりました。

まあ、以前、若い頃の村上氏のエッセイにも、そのあたり、愚痴愚痴と書いてあったことがありました。

まあ、はっきり言って嫌いということなんでしょうね。

まあ、人間批判されるのは、いやでしょうから、自然、悪口を言われれば、いやになるのも、当然でしょうからね。

まあ、僕なんかは、「ドラゴン通信」の初期、毎日のように、女性に怒られていましたから、もう、批判されるの、ぜーんぜんへーきになっちゃいましたけどね。

一度、そういう状態を経験すると、的を得た批判以外は、気にしなくなります。

司馬遼太郎を批判していて、ある新聞記者の方から、

「いくら司馬遼太郎と同じ職業だったからって、新聞記者すべてを十把一絡に批判するのは、あなたらしくない」

とやんわり言われて、

「ああ、確かにそうです。ごめんなさい」

と言ったことくらいかな。的を得た批判というのを受けたのは。

だから、まあ、僕はノーストレスで、このブログをやっていますけど、

村上春樹氏は、そこらへんの怨念が文壇にまだ、あるということなんでしょうね。

というわけで、今回は、村上春樹氏の気持ち、というあたり、論考できましたね。

なんつーか、この章は、全体に自己紹介的な文章になっているので、それほど、目立つ村上手法が使われていなかったようで、

ストーリーを語ることに重点がおかれていたようです。前章は、存分に村上手法がとられていたのと、非常に対照的です。

これは、ある意味、ストーリーを具体的にすると、村上手法による喜びは低下するということで、抽象的な小さなストーリーを村上手法で飾った

前章とは、対照的になったんですね。

なるほどねえ。


まあ、なんだかんだ、いろいろ出てきておもしろくなってきましたね。

非常に勉強になりますね。ストーリーを作る人間としては。

具体性と抽象性というのも、この村上作品を読み込む上で重要な概念ということになるでしょうね。


さて、今日も長く書いてきました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。明日は自由論考の予定です。


ではでは。


論考者西郷の恐ろしさ!(野村が戦略家?:日本人的美学からの論考)

2010年06月08日 | 先人の分析
おはようございます!


なんだか、天気のいい日が続いていますね。

そういえば、今年は空梅雨の可能性があるとか、ほんとにそうなんですかね!

まあ、でも、やっぱり長雨より、気持ちのいい天気のほうが、全然いいですからね。

と、今日はバヤリースマンゴーを、ぐびび!と飲んで、

論考のほうに、入っていきましょうかね!


さて、今日は「翔ぶが如くシリーズ」ということで、司馬作品を徹底的に切り刻んでいきましょう。

なんつーか、ここらへん、僕の最も得意とするあたりなんで、書いていて自然笑みがこぼれてしまいますね。

さて、前回は、薩軍は、アホではなく、勝つために普通に戦略家である野村忍介の言葉を聞こうとしていた、

ということを論考しました。まあ、今日はその野村の具体的な献策内容あたりから、論考を

ゆるゆると開始していきましょう!


さて、野村の献策内容について、司馬氏は、次のように書いています。

「野村忍介が献策した作戦とは、要するに、兵力の一部をもって長囲するという策である。」

「「薩軍のすべてをあげて、この熊本の孤城一つを攻め上げるなどは、せっかくの精鋭を、この無駄な城攻めで死なしめるばかりで」

「決してよろしくない」「もしも、政府の援軍が九州に上陸し、熊本城を囲んでいる薩軍を四囲からとりかこめばどうなるか。」

「となれば、勢い、如何ともしがたい」みな、道理であると思った」

まずは、こういう内容なんですね。


要はこの期に及んでも、薩軍の戦略目標というものが、決まっていなかったらしい、ということがだだわかりになるわけです。

本来、戦争を開始するに辺り、戦略目標、というものは、決めておくのが基本だろうと思います。

例えば、本土へ渡ることを戦略的目標とするなら、熊本城は一部の兵で、囲み、干上がらせるという策が上策でしょう。

本隊は、堂々と船などを調達しながら、本土へ渡ればいい。しかし、本土には、広島に鎮台がありますから、

これへの手当は、どうするか・・・、と考えて行く必要があるわけです。

でも、どうも、そこまで、考えていた、とはどうも思いにくいんですよねー。


さて、西郷の目標は、薩摩士族削除ですから、あえて、何も言いません。というより、もう薩摩士族削除装置に

薩軍を放り込んでしまい、当初の目的を達成しているのが西郷なんですよ。


こうなると、薩軍幹部に戦略目標を立てていなかった責任がある、ということになりますね。

やっぱり、西郷に騙されちゃったんですかねー。ここらへん、まだまだ、グレーですね。


ここで、もし、桐野あたりは、西郷の意中をわかってしまい、それの実行を黙々とやっていた、と仮説をおいてみましょうか。

彼は、知識より鋭い勘で生きてきたようなところがありますからね。

そうなると、西郷の意中は、

「若者ばらに、戦という最高の祭りを経験させ、薩摩士族削除を完成する」

ですからね。あえて、戦略目標なぞ、考えない方が、戦に没頭できるわけですよ。

そういう理由を構えて、あえて西郷に協力していた、とすると、

なぜ、この期に及んで戦略目標が、なかったか、という答えにもなりそうなんですよね。

もちろん、もうひとつの答えは、桐野らが、熊本城なんて、軽ーく、抜いちゃうもんね、と考えていたという仮説なんですが、

桐野が以前、この鎮台の司令長官だった、というのが、キーになりますね。その頃は、熊本鎮台が最弱の頃ですからね。

つまり、あとのことは、まあ、あとで考えることにして、まず、熊本鎮台を血祭りにあげて、兵の気力をさらに強くしよう、と考えていた、

と論考できるわけです。どうも、こっちのほうが、実情にあっているような、気がしますね。


しかし、事実は西郷の論考通り、対薩軍戦に耐え得るように補強された対薩軍削除装置に変わっていた熊本鎮台ですからね。

西郷に事実を引き寄せられているわけですよ。


さて、野村忍介は、さらに献策しています。これも見てみましょう。

「熊本城に対しては先発の大隊をして長囲せしめ、他はあげて北進し、小倉付近をおさえ、政府軍が海峡を越えて九州に上陸してくることを大いに阻めば」

「後方の熊本城などは自然に衰え、城中飢餓に耐えかねて熟柿の気から落ちるように自らおちてしまうだろう」

だそうです。これについて、司馬氏は、

「野村の説くところは、いわば戦術の常道で、妙案というに近い」

と書いていますが、果たしてそうでしょうか。

ここで、重要なのは、薩軍にとって、最もやばいことは、何なのかということが、野村によって指摘されていることなんです。

つまり、政府軍が海峡を越えて九州に上陸することが、最もやばい、ということを野村が言っているということなんです。

その程度で、やばい、ということを野村が指摘している、ということが、最も重要なんです。

そして、敵の上陸を阻むということが、この日本でいかに困難か、僕が3月31日にあげた記事「西郷の頭にあったこと!(薩摩軍は元々:日本人的美学からの論考)」

の中で、西郷の師である島津斉彬が国家防衛論として、その海岸線の長さが日本防衛の弱点になるとして、対岸となる国すべてを占領してしまって、

初めて日本防衛ができる、と語った内容を挙げています。

つまり、島津斉彬の遺訓を知っていれば、それが無理だということがわかるはずなんです。もちろん、西郷はわかっていたでしょう。

であれば、この野村の

「上陸を大いに阻む」

というのは、不可能な所業だ、ということがだだわかりになるわけです。

だから、戦術の常道でもなければ、妙案でもなんでもないんですよ。

できないことを前提としているわけですからね。

事実、すでにこの時期(二月二十二日)、政府軍の有力な一部が、博多に上陸しつつあった、と司馬氏は記しています。

まあ、熊本城を攻囲していれば、自然と落ちるなどと言っていますが、これすら怪しい。つまり、常道として指しているのは、攻囲ということだけで、

どちらも実現しないことなんだから、はっきり言って意味のない献策だった、と評価すべきなのです。

さらに司馬氏は、当時の日本陸軍の動員のスピードを薩軍が甘く見ていたことを指摘し、山県の能力について評価しています。

そして、

「その要素さえなければ、この野村の献策は良策だった」

としているのですが、もし、博多上陸が遅れていたとしても、

海岸線のどこからでも、上陸できるわけですから、まったく良策じゃないんです。

これくらい島津斉彬の存在を知っていれば軽くわかるはずなのに、それすら覚えていない。

この司馬という人物のあまりのレベルの低さがだだわかりです。


そして、野村忍介も、全然戦略家レベルに達していない。


今まで思っていたことと全然違うということに気づき、アホ臭くなりました。

なんつーか、レベル低いよね?この程度で、戦略家なんて、言えないでしょう?


さて、この献策に対して、結局、薩軍幹部は二つに割れたそうです。

そうなれば、ここで、御大に裁断をあおぐしかない、ということで、西郷登場なわけです。

そして、どうしたらいいか、聞くと、次のような裁断をしたそうです。

「野村案の一部をとって、今日の強襲はいったん中止する。かと言って小倉に急ぎ進出せねばならないこともあるまい」

「そこで、一部をもって熊本城を囲み、一部をもって植木方面に進出し政府軍が南下するのを待つ、他はしばし休息をとって英気を養ってはどうか」

「政府軍がやってきたら、きたで、そのとき、いちいちつぶしていけばよい。じきに、城もおちる」

「そこで、軍容をたてなおして所期の如く中央に出て行く、という風にしたら、どうか」

これ、みなさん、どう見ます?

どう考えたって、薩軍を敗北させようという意志がみなぎっているじゃありませんか!

これ、要は、政府軍を簡単に植木あたりまで、進出させようということなんです。何の苦もなく、安全に植木あたりまで、進出させちゃう意図でしょう?

さらに一部で政府軍にぶちあてようというのだから、政府軍に各個撃破できるようにしている、ということにもなりますよね。

そんなの、どう見たって、薩軍の負けを導いているのは、だだわかりじゃないですか!

さらに、英気を養う組をつくるというのだから、自然、政府軍にあたる軍は小さくなる。

思い切り、薩軍の敗戦を指導しているんですよ。

そして、最後の二行で、薩軍幹部たちにこの作戦内容を信用させ、薩軍敗戦という事実を引き寄せようとしているんです。


恐ろしい。この西郷というひとは、どこまで、事実を引き寄せまくるんでしょうね。


第一、野村が、政府軍が上陸したら、やばい、と言っているのに、

「いやあ、そんなの大丈夫さ」

と、否定しているわけでしょう。野村の案にのるな、野村の考えに乗るなと言っているわけでしょう。

そして、しれっと政府軍を安全に上陸させてしまう意図がだだわかりじゃないですか。

うわー、こわいですねー。

徹底していますよ、この西郷というひとは。

さて、この西郷案について、司馬氏は、

「これによって、戦機をことごとく逸することになるが、しかし西郷は自分の挙兵による対世間的影響のほうを大きく計算し、楽観していたのだろう」

と、ムチャクチャ見当違いなことを書いています。ことごとく戦機を逸するなぞ、なぜ、おかしいと気づかないのかまったく理解に苦しむ馬鹿です。


さて、この夜、熊本共同隊は、夜襲を頼まれていたわけで、その士気は多いにあがっていたそうです。

熊本士族は、薩摩士族に対する拮抗心が強く、薩人が十の勇をふるえば、肥後人は十五の勇をふるうべしと考えていたそうです。

なかなか、すごいですねえ。

そこへ、薩軍本営から、使者が来て、攻撃中止を伝えるわけですから、

「なんだ、そりゃ」

ということになるわけです。

「薩人は、いつもこうだ」

などと、嘆くものがいたそうです。

つまり、西郷の策は、熊本共同隊の士気さえ衰えさせ、さらに薩軍への信頼も損なわせるという意味もあったわけで、そのものすごさが、わかりますね。

いやあ、こうひとは、敵にまわしちゃあ、いけません。もっともこの場合、日本政府は敵にまわしたから、よかったわけですけどね。


さて、今日はそんなところにしておきましょうかね。

いやあ、西郷って、ほんと、徹底していたんですね。

こんな素材を、こういう風にしか、見れないなんて、ほんと、どうかしていますよ。

今日は、西郷のすごさを実感しましたね。

そして、西郷が、さいなまれていたことも、理解しました。

それでも、事実を引き寄せる、論考者のものすごさ。

人間は、悪魔になれる、という証左なんでしょうか。

こういう状況には、陥りたくないものですね。


さて、今日も長くなりました。

ここまで、読んでくれたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。