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「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

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西郷の言葉の秘密!(悟りを開け!:日本人的美学からの論考)

2010年04月13日 | 先人の分析
おはようございます!

と、今日は日曜日に手にいれてきたアップルティーをずびびと飲んで、

「朝のアップルティー、最高!」

と感じながら、つらつら書いているわけです。

アップルの香りが、やさしさを感じさせますね。

まあ、香り系は、僕も若い頃にいろいろ手をだして、お香をたいたり、

いろいろやりましたが、さすがに最近はね(笑)。

まあ、家人にいろいろ迷惑がられるのも、問題だしね(笑)。

火事とかの心配になったりするし(笑)。

まあ、アップルティーくらいの、こう、ふわっと立ち上るくらいの香りが好きですね。

確実にモチベーションがアップするし、気分もいいですしね。


そんなさわやかな気分で、今日もゆるゆると、論考に入っていきますかね。

ま、

「ひねもすのたりのたりかな」

の春ですしね。ま、日々リアルに忙しいけど、気持ちだけは、そんな感じで、行きたいものです。


さて、ここからは、司馬遼太郎氏の名著「翔ぶが如く」をテキストに、語っていこうか、と思います。

まあ、事実を端的に表現しているところと、司馬氏のストーリーテリングの部分に分かれていますから、

事実を追うのに便利だし、司馬氏の考えもわかりますからね。

まあ、西郷を追いながら、司馬氏も同時に追う形になりますかね。


さて、薩摩は若者達が暴発してしまい、

「あとは、いくさ、しかない」

という状況になりました。まあ、これについて、

「大久保による詰将棋だ。既に詰んでいる」

と僕は指摘しましたが、まあ、そのことについて、おもしろい話があります。


鹿児島県士族、野村綱の件です。


このひとは、

「大久保から直接、西郷暗殺、火薬庫爆破を頼まれた!」

と供述しているひと、なんですね。


まあ、このひと、大久保に頼まれたはいいが、薩摩についたら、ビビって薩摩側に自首しちゃった人間ですからね(笑)。


この時の供述で、野村によると、大久保は、

「鹿児島の気風は熱しやすく冷めやすい。私学校が暴発するのは、二月か三月頃だろう」

と観測し、

「すでに陸軍省では、鹿児島の火薬庫にある弾薬などを他に運ぶ手はずになっている」

としています。もちろん、この火薬運び出しが若者暴発の直接的な原因のひとつになっているわけですが、

これは、どう考えても、政府側の仕掛けた挑発ですよね。

そして、大久保は野村に、

「薩摩暴発時に、連絡をいれてほしい」

と頼んだ、というのです。つまり、大久保の中では、薩摩暴発は、この時点で予定事項になっている、という事実がわかるわけです。

そして、大久保は、

「暴発の節には、自ずから大小為すところあるべし」(原文まま)

と言ったそうです。この時、野村がその大小という表現について、考えついたのが、

「西郷を殺し、火薬庫爆破だ」

と言う事なんですね。

そして、大久保は、川路が鹿児島へ向けて発した諜者としての警部達の名前リストを野村に渡しているわけです。


これについて、司馬氏は、

「大久保が川路と一つ腹であることがわかるし、必要とあれば、西郷暗殺も任務に入っていたことがわかる」

としています。これによって、実際に暗殺目的だったのだ、と司馬氏は言っているのですが、

やはり、考え方が、めっちゃ浅いなあ!と言わざるをえません。


まず、大久保と川路が一つ腹だ、という指摘ではなく、ここは、どちらからどちらへ命令が行っているかを説明しないといけないでしょう。

どうも、司馬氏は、川路が率先して事を運び、大久保は追認していた、程度に表現していますが、

それは、川路を悪人とし、大久保を悲劇のひととして描きたい大衆作家としての司馬氏だから、そうなっているだけなのだ!と思います。

この「翔ぶが如く」の執筆動機は、「大久保の評価」というものが、大きいと考えますから、どうしてもそういう構造にならざるを得ないのです。

つまり、事実でなく、やはり、目的を持って綴られたストーリーの悪いところが出てしまうのです。


大久保の中で、薩摩暴発が予定事項になっているところから、どう考えたって、大久保が論考し、川路に命令をくだしている、と考えるのが、自然でしょう。

もちろん、川路も相当論考し、大久保と同じ程度の論考者になっていると思います。でなければ、自信を持って、諜者を放ったりはできません。

しかも、当人達を、やる気意識満々にさせているわけですからね。


そして、もうひとつ、西郷暗殺が任務に入っている、としていますが、大久保も川路も

「彼らには、それはできないだろう」

と見切っていただろう、ということが論考できます。

薩摩で暴発が起こったら、まず、西郷が頼りにされますから、彼の保護、というのは、迅速に行われるはずです。

薩軍としては、唯一無二の玉ですからね、西郷は。

そんな状態で、こんな薩摩にきただけで、ビビって自首してしまうような人間が、西郷を暗殺なんて、できるわけがないのです。

さらに大久保が、この野村のビビリ癖すら、計算に入れていた、と考えれば(入れていたでしょうね(笑))、

野村は、西郷以下、薩摩士族を激怒させるために大久保から直接送られた、精神的刺客だ、と言えるのです。

大久保が、どこまで、すごい論考者だったか、その凄みが、よくわかる話です。

そこまで、考えて、ストーリーを編まないと、僕みたいな、こんな一ブロガーから、

「人間がわかってない。考えが足りない」

と簡単に指摘されることになるのです。


西郷は、この野村綱の証言を伝えられた時、大山綱良の証言によれば、

「本来、火薬取寄せの事は、内務卿の職掌外のことである」

と、言い、

「それを大久保が指示しているとなると、今度の事件(刺客事件)は、川路だけでなく、大久保も委細承知していたことになる」

と言ったということになっています。

まあ、西郷は一大憤慨した、ということですが、まあ、当然でしょう。詰将棋を仕掛けられたのですからね。

彼は、薩摩士族を削除に来た、大久保を知り、その最後まで、わかっていたから、一大憤慨したのです。

大久保の思い通り、ということです。


さて、その後、私学校本局において、大評定が行われるわけです。

集まったのは、二百数十人だそうで、大幹部の他、区長、分校の校長、近衛の将校などだそうです。

そして、壇上に西郷を始めとした大幹部が並び座り、いろいろ協議したわけです。

このとき、主戦論、西郷単独上京論、その他が出たそうですが、結局、大挙東上論に決するわけです。

まあ、いろいろに表現される、この場面ですが、僕が、取り上げてみたいのは、西郷の態度とその言葉についてです。

西郷は、ほとんど言葉を発せず、ただ、議論のなりゆきに任せ、そして、主戦論に決すると、

「自分はなにも言う事はない。一同がその気であれば、それでよいのである。自分はこの体をさしあげますから、あとはよいようにしてくだされ」

と言ったそうです。

この西郷の態度について、司馬氏は永山弥一郎というキャラクターを借りて、その口から、

「あなたが一個の丈夫なら、ひとりで東京にいくべきであり、それが筋である」

と言わせています。これは、

「大久保のやり口がひどすぎる。今の政府はだめだ」

という意見表明をすればよい、ということを言っているわけですが、

それは、単に

「大久保と川路が、西郷を暗殺しようとした。西郷は、それに激怒している」

というストーリーで、西郷を見ているから出てくるセリフであって、いかにストーリー全体が見えていないか、だだわかりになっています。

このストーリーは、大久保が薩摩士族削除のために仕掛けた詰将棋であり、それを西郷が理解したからこそ激怒した、というストーリーなのです。

個人的に、殺されそうになったから怒っているなんて、そんなちんけなレベルの話では、まったくないのです。

ここにも、司馬氏のストーリーの理解できてないぶりが、現れていて、ちょっと困ってしまいます。


西郷は、

「薩摩士族の運命は決まった。あとは、彼らが満足するような戦さという祭りをさせてあげよう。もう、俺の人生には、考える事など、しゃべる事など、必要ない」

と見切ったからこそ、何もしゃべらず、ただ、黙っていたのです。薩摩士族のその最後がわかっていたから。

だから、

「自分は何も言うことはない」

と言うし、

「一同その気であれば、よいのである」

という言葉になるし、

「自分はこの体をさしあげますから、あとはよいようにしてくだされ」

という言葉に、つながってくるのです。


ほら、ぴたっと、つながったでしょ。


司馬氏は、このセリフがなぜ出てきたのか、理解できなかったらしいことがわかります。

これだけ、この西南戦争の開始を告げる大事な「西郷の言葉」なのに、何の解説もなく、

ただ、

「彼が言ったことは、・・・ということだけだった」

という表現でさらっと終わらせています。そうです。うまく説明できないから、解説から、逃げたのです。


僕は、このセリフこそ、西郷の悲劇性を表していると考えています。

彼はわかっていたのです。このあと、薩摩士族が削除されることを。しかし、それを言ったところで、運命は変えられないことは西郷が一番よく知っていた。

だからこそ、せめて、華やかな死を与えようと、何の言葉も発しなかったのです。

そして、

「一同その気であれば、よいのである」

と言ったのです。西郷の素直な感情の現れだと、見ることができるでしょう。


少なくとも司馬氏は、このセリフについて、逃げています。それに対して僕は、しっかりと説明できています。

どちらが、正しい理解をしているか、だだわかりだと、思いますね。


いやあ、論考楽しいですね。

もう、毎日のように、いろいろわかっちゃうし、もう、司馬氏なぞ、お釈迦様の手の上で弄ばれている感じですからね。

確か司馬氏の言葉だったと思うんですけど、

「釈迦は、不親切だ。しあわせになる方法をしっかり記していない。悟りを開けなんて、わからん」

とか、言ってるわけです。

何を言ってるんでしょうね。悟りを開くとは、物事の本質を見極めろ!ってことでしょ!

世界の本質を見極めろ!ということでしょ。

そして、世界の本質は、生物学的に言っても、経験的に言っても、「競争」ですよ!

いかに自分のしあわせを確保するか、いかに家族のしあわせを確保するか、その「競争」でしょ!

そんな簡単なことすら、考えられないから、結局、手のひらの上で弄ばれちゃうんですよ。

典型的な、

「俺偉い」病にかかった、

思考停止者の症状です。


ま、司馬氏のレベルも、ずんどこわかってしまったので、今後は、そういう目で見ることにします。

いやー、自分の目で、しっかりと見極めるって、大切だね!

なーんだ、こんな低レベルとは、考えもしなかった。素直に本質を見極める目って、大事だね!


と、今日もたくさん書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、薩軍、東上開始!の回で(そんな回か?(笑))、お会いしましょう!


ではでは。



大久保の頭の中は!(パスカルの系譜!:日本人的美学からの論考)

2010年04月12日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、桜の季節も終わりつつありますね。

昨日は、午後にほんの少しだけ時間が空いたので、

個人的な買い物がてら、桜並木の下を自転車で流してきました。

折しも一陣の風が吹いて、桜吹雪の下を、自転車で流して行く、このしあわせ。

あまりに気持ちよさそうにしていたのがバレたのか、傍らで座って桜を眺めていたおばあちゃんに、

「桜は楽しいか?」

と、うれしそうに言われてしまいました(笑)。

「ええ、楽しいですよ。最高です!」

と、言ったら、いい笑顔をもらいました。いやあ、そういう何気ない触れ合いが、日々のしあわせを生みますね。

桜とおばあちゃん。なんとなく、ほっこりした、いいシーンでしたねえ。


なんて、感じになりながら、ステレオの接続ケーブルを買いに、量販店に入って、

「最近、HDは、どれくらいするのかなあ?」

と、くまのプーさん状態で、ボケーっと、HD売り場を見ていたら、1TBで一万円ちょっと、ということがわかり、

ちょうどHDの買い替え時期だったこともあって、衝動買いしてしまいました。

なにしろ、それまでのHDが150GBタイプでしたからね。1TBとなると、ちょっと興奮気味になっちゃうわけです。

まさか、HDを衝動買いするとは、思ってなかったけど、いやいや、情報処理の世界は、ほんと、進化速度が速いね。

僕が卒論書いてたころは、PCは98だったし、記憶媒体は、ディスケットベースだったし、それも1MBだったからねー(笑)。

外付けHDなんて、30MBとか、そんなものでしたからねえ。それを持っている先輩を、うらやましそうに、眺めていたものです(笑)。

会社入って、1GBのサーバーを見て、

「おお。すげえ、1Gだって」

と、周りと話したのは、もう、遠い昔の話です(笑)。

ま、おかげで、1TBと聞いて、一万円ちょっと、と聞くと、HDを軽く衝動買いしちゃうわけですよ。

ま、HDは、シビアに乗り換えていかないと、痛い目に会うしね。


さて、今日は月曜日ということもありますし、ちょっと変わった感じで、論考というより、

この論考シリーズに対する、僕の基本的な考え方あたりを書いてみようかと思います。

まあ、それも論考しちまうかもしれませんがね(笑)。


まあ、今回、西郷をテーマに長々といろいろ論考していますが、

基本的な論考システムというのは、次のようなモノです。


まず、当事者の特徴的な行動や、そのひとの書いたものなどを読み、

当事者の性格を推し量ります。


まあ、西郷の場合、

「巨大なやさしさ」

「金銭に対する、金銭憎し!ともとれるくらいの憎悪と、自身の身綺麗さ」

(それでいて、その使い方は、「選択!と集中!」ができていて、うまかった)

そして、

「謙虚さ!」

があげられると思います。


この三つについてのエピソードは、数限りなくあります。


だから、この三つのポイントから、彼の性格、というものを考えながら、西郷像というものを

考えているわけです。

「彼の性格なら、どういうことを言うのだろう?」

とか、

「どういう考え方をするだろう?」

とかね。これは、もう、今の自分が、自分の周りにいる人間を見て、

「このひとなら、こういう考え方をして、こういうことを言うだろうな!」

と考えるのと、全く同じ態度です。


普通の人間として、西郷さんを、見ているわけです。

友人の目で、西郷さんを、見ているのです。


そして、自分なりの西郷像を作り上げてのち、歴史上、キーポイントとなるできごとについて、

「彼なら、どう考えて、この行動を起こしたのだろう?この事実に触れて、どう感じるだろう?」

と論考するわけです。そして、いくつもの歴史的事象から、

「西郷さんの本質は?頭の中は?何を目的として、生きて行こうとしていたのか?」

ということに、論考を加え、本質を抜き出しているのです。

そして、

「その本質と、他の幾多の行動と、比較して見て、乖離がないか」

を、確認していき、

「その本質が正しいことを証明する」

という流れで論考しているのです。


まあ、実際には、大部分を頭でやってしまってから、特徴的で、解説するに値する部分だけ、書きながら、論考している、ということになってるわけです。


もちろん、史料批判を基本にすえる、歴史学的アプローチとは、真逆の方式です。


歴史学者から言わせれば、意味のない文章だ!といことになるでしょう。


でも、僕は、

「下らない史料批判など、それこそ、意味がない!」

と思っているのです。



その考え方について、例をあげて、説明しましょう。

大久保が、西南戦争を仕掛けさせた!と僕は、前回の論考までで、解説しています。

ただ、こうなると、おかしな事実が、出てきてしまうんです。


大久保は、戦争勃発の当初、

「西郷は、暴発組に組みしていない、暴発した薩摩軍に、合流していないから、大丈夫だ」

という手紙を断定的に伊藤博文に出しています。

この手紙から、司馬氏は、

「大久保を初めとした政府関係者は、西郷が薩軍を率いるという恐ろしい状況を考えたくなかったのだ」

と、しています。


確かに、この大久保の手紙を読めば、誰でもそう思うでしょう。僕も以前は、その解釈で、納得していました。


しかし、ですね。

薩軍を立ち上がらせたキッカケは、大久保配下の川路による密偵の潜入、及び

「西郷を暗殺するためにきた」

という証言なんですよね。


もし、このことを大久保が、知らなかったとしたら、川路の独断専行となってしまいます。

彼の目的は、

「薩軍を蜂起させること!」

でしたから、それほどの事態を引き起こすからには、

大久保の裁可は、絶対必要だったはずです。

国の命運をかけてしまうわけですからね、普通に考えると。


だから、大久保は、このできごとを裁可していた、知っていた、と見るわけです。

ということになれば、大久保は、絶対に、西郷がこの軍に加わることは目に見えていたはずです。

彼のやさしさ、情義の篤さから考えれば、親友大久保なら、


「西郷が薩軍に加わること、形上の盟主になること」


は、だだわかりになっていたはずです。


と考えれば、大久保が、伊藤に出した手紙の意味が、わかってくるはずです。

この手紙は、

「伊藤を始めとした政府上層部の慰留」

を目的としている!ということが、わかってくるのです。

「戦争開戦時の動揺を抑え、薩摩士族削除という望みの未来を引き寄せるための大久保のひとつの施策だ!」

と見ることができるのです。


もちろん、大久保は、実際に、軍艦で現地に行ってきた、海軍の川村純義の話を元にした政府要人の統一見解

「西郷は、薩軍に参加していない」

も見聞しているし、大山綱良からの使者である渋谷彦助の言葉にて、

「若者達の蜂起は、西郷不在中のことで、これと関係ない。壮士達と西郷は無縁である」

という報告を受けているから、

「現時点で、西郷は、薩軍とは無関係である」

という観測になるのは、わかります。

そのために、そういう手紙を出している、と見ることは自然だと感じます。


ただ、底意というものは、どうか?

という問題になるのですね。


「確かに現時点では、薩軍に西郷は参加していない。しかし、彼の性格を考えれば・・・」


と大久保は考えるはずです。親友であり、西郷の論考者ぶりを知っている大久保なら、西郷の性格を考えたとき、


「彼はそのやさしさから、壮士達を見捨てられるはずがない。自分かわいさの余りに、軍に参加しないなど、考えられない。必ず薩軍に協力し、かつぎあげられるだろう」


くらいのことは、論考できていたはずです。

であれば、


「西郷が薩軍に合流するのは、時間の問題だ!」


ということは、わかっていたはずです。

ただ、

「そういう事実につながらなければ、それはそれで御の字だ!」

と大久保は、考えていたのだろう!

という論考になりますね。


そして、


「その気分が、あの手紙に出ているのだ!」


と、論考することが、できるわけです。


そう。あくまで気分なんですよ。あの手紙は。

底意は、全然、違うものなんです。


そして、大久保は、

「西郷はこの戦争の行先を理解しているはずだ。彼は士族削除という目的のために、自分を投げ出し、滅んで行くしかないストーリーに入ったのだ」

ということも、わかっていると思います。

だから、彼は言葉少なに、なるのです。

そうです。


先が見えている人間は、言葉を出す必要がなくなるのです。

事態の推移を静かに見守るしかないのです。

そして、事態が推移するのを待つだけになるのです。

全てが論考済みで、わかっているからです。


これは、日本海海戦の立役者、秋山真之が、ロシアのバルチック艦隊の発見の報に接した時に、大喜びした事実と符合します。

秋山は、全てが論考済みで、わかっていたから、そのストーリーの先が見えていたから、大喜びしたのです。

そして、大久保も西郷も、ストーリーの先が見えていたのです。

だから、大久保は、事態の推移を見守るだけになったのです。


そして、最初に戻りますが、そこまで、このストーリーの顛末がわかっていたから、

大久保は、川路にGO!サインを出したのです。

ここまで、わかっていなければ、GOサイン!など、出せないのです。


ほら、すべてのことが、つながったでしょう?


僕の論考システムでは、ここまで、論考ができるのです。


そして、歴史学的アプローチをとっている方々に、僕は


「あの手紙だけで、ここまで、彼の考えを論考できますか?」


と、言いたくなるわけです。


あの手紙だけでは、

「大久保ら政府上層部は、西郷が、薩軍に参加していない、事実を知った。だから、彼らは、その情報に振り回されたのだ」

というストーリーしか、生まれてきません。


事実、政府要人の多くは、その情報に振り回された状況だったようですが、論考者大久保がそんなことで振り回されるとは、思えないのです。


つまり、歴史学のアプローチでは、僕が大久保に対して持った考え方を生むことは、できず、その前段階の、

「大久保は、情報に振り回された」

という証明くらいしか、できないのです。


そんなの、ただ、結果から見える類推に過ぎないことが、だだわかりではないですか。

そのレベルで描かれているのが、「翔ぶが如く」だということもだだわかりです。


大久保は決して振り回されていない!と考えている僕から言わせれば、それは、

「誤った見方だ!」

と結論できます。

つまり、

「歴史学アプローチは、本質を永久に捉えることができない、だめなやり方だ!」

ということになるわけです。


だから、

「歴史学のアプローチは、浅い事実しか証明できないし、それも誤った見方でしか、見れないだろう!」

と言ってるわけです。

「事実と異なるばかりか、深い考証もできない!」

と、言っているわけです。



僕がやっているやり方は、すべて、こういう考えの元に行われており、より、深い歴史上の人物の考察を目指しているのです。

だから、

「歴史学のアプローチだけでは、事実はつかめない!むしろ、間違った内容を指摘するに留まるだろう!」

と決めつけているのです。


「人間は、考えるあし、である」

というパスカルの有名な言葉がありますが、

「なぜ、この言葉がこれほど、もてはやされているか。残っているのか!」

と言えば、それは、

「本質を貫いているから」

です。


本質を貫いた言葉こそ、いつの時代になっても、色あせず残るのです。


である、とすれば、歴史上の偉人の行動と共に、その頭の中で、何を考えていたのかを論考するのは、本筋だと言えます。


その頭の中に、何があったのか?

それが、どういう行動に結びついていったのか?


人間の本質が、考えること、であれば、歴史上の偉人の頭の中を考察して、その行動を説明することは、パスカルの系譜にある、優れたやり方では、ありませんか?

いや、それこそ、人々が求めるモノなのでは、ありませんか?

人間は、ストーリーを楽しんで生きる生物です。

そして、そのストーリーの意味するところを知りたい!そういう好奇心が特に旺盛です。

ですから、頭の中にこういう考え方があったから、こういうストーリーを生んだのだ!

と説明することは、人間が、最も、欲しがるモノなのでは、ありませんか?


僕はそういう思いで、この論考シリーズを、書いています。



「本質とは何なのか?」


そこに言及した言葉は、パスカルの言葉と同じように、いつまでも、色褪せない言葉となるでしょう。


僕は、その思いで、この論考シリーズを続けているのです。



なんだか、すごい結論になっちゃいましたが、まあ、僕の想いは、そんなところですね。

パスカルの言葉と、日本の歴史学会のあり方を比べれば、パスカルの言葉に軍配があがるのは、だだわかりですからね。

まあ、楽しけばいいんですよ。おもしろければ、いいんです。


本質!の追求!


こそが、楽しいんです。

だって、本質がわかったとき、いろいろな事実とつながる!じゃないですか!

そのことは、今回の論考でも、体験できたでしょう?

あの、つながる瞬間に、しあわせを感じているのです。

そうです。僕の「リアル・ニュータイプ理論」にも、つながってくるのです。

つながること!は、しあわせ!を生むのです。

僕は、しあわせのために、この論考シリーズをやっているのです!


さて、今日は、相当、長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、西南戦争のお話で、お会いしましょう!

ではでは。


大久保と川路は陰惨か!(司馬遼を切り刻む!:日本人的美学からの論考)

2010年04月09日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、まあ、今週はなんだか、いろいろなことがあった週でしたね。

僕も泣いたり、考え込んだり、思考停止したり、いろいろです(笑)。

毎日、いろいろなことが、あって、なんだか、リアル・ドラゴンクエストな日々ですね(笑)。


まあ、春とは、言いながら、この頃は、温度的には、寒かったりもするんですね。

それでも、少しずつ初夏に向かっていることを考えると、ちょっとうれしい季節です。

さて、今日もずびび!と玄米茶を飲みながら、ゆるゆると、論考しますかね。

もう、ずっぽり、西郷さんです(笑)。


前回、西南戦争は、大久保が西郷に対して仕掛けた詰将棋だ!と書きました。

そして、その詰将棋は、既に詰んでいる、と。

僕はこのあたりを見ていて、論考者大久保の、現実を引き寄せようとする凄み!というのを感じています。


例えば、大久保と川路が送り出した、密偵に中原尚雄、というひとがいるんですが、

このひとは、薩摩国伊集院の郷士の出なんですね。薩摩における上士と郷士(下士)の差別の激しさは、

どの藩にも例を見ないほど、ひどいんだそうです(って、司馬さんが書いてます)。

まあ、同じ郷士出身の桐野なんか、毎日のように、川へ投げ落とされたりしたって、有名な逸話がありますよね。

まあ、勇!を競う国柄だから、当然と言えば当然なんだろうけど、土佐とは一種違う形の差別表現なんでしょう。


そうか。伊集院!って、なんか高貴なお坊ちゃんのイメージがあったけど、薩長土肥政権になって、伊集院姓が偉い人に

なったからなのか!

と、まあ、あんまり関係ないことですが、小さい頃、「はいからさんが通る!」が好きでしたからね(笑)。

伊集院少尉というひとが、お坊ちゃん少尉として、出ていたのでね。まあ、余談です。


というわけで、鹿児島県に入るためには、鹿児島県士族であらねばならず、しかも鹿児島県士族のうちでも、上士を憎んでいる人間を

密偵に選んだという事実なわけです。


これについて、司馬氏は、その著書「翔ぶが如く」の中で、

「色彩として陰惨であるという印象をまぬがれない」

と書いています。


僕はこの記述から、ちょっと考えることがあるんです。


僕は、社会性生物である日本人は、その行動、つまり仕事をどうこなしたか?によって評価されると考えています。

仕事大好きな社会性生物であれば、当然、そうなると考えているわけです。

であれば、この大久保あるいは、川路利良の人選というものは、目的に特化し、最大の効果をあげるもの、と見ることができます。

しっかりと仕事の目的の達成のために考えられた、素晴らしい人選だと、僕は評価するのです。

社会性生物である日本人であれば、仕事を的確に実施できる人選として、普通に評価すると考えられるのです。


それに対して、司馬氏は、印象操作を実施しています。


そのストーリーの構図が、「陰惨に感じる!」という表現をしながら、

結局、司馬氏のこの記述の目的は、

「大久保も川路も、陰惨な人間である」

と言いたい!ということですから。


そして、さらにその「陰惨である」という表現について論考すると、

この文章は、いわゆる、「他人をくさして、悦に入る」

という文章なんですよ。僕が日頃、史上最低の下種!のやること!として、そういう行為は、回りまわって自分に不幸を呼びこむよ!

と言って毛嫌いしているタニクサ行為です。


それを、歴史上の偉人に対して、行っちゃうんですよ!


まあ、この一事から、ゆるちょ的世界では、

「司馬遼太郎は、史上最低の下種野郎!」

と認定されちゃうわけですけどね。それも大久保や川路を相手にですよ!

まあ、ちょっと笑ってしまいます。


さらに、このひとの文章は、まず、史実としての、そのひとのストーリーを見て、そのひとの印象を持ち、それをベースにストーリーをつむぐ癖があるようです。

だから、本質が見えていないし、間違った理解をしている部分が非常に多いです。

結局、ストーリーからの類推で終わっているので、現実調整者以下の類推レベルでストーリーを紡いでしまうように見えます。


それに、このひと、記者をやっていたからかもしれませんが、

「俺は偉い病」

にかかっている節があります。つまり、思考停止者に近い部分があるんですよね。

だって、自分の感情を、過去の偉人に対して、記述してしまうというのは、どうか?

と思います。それは、

「自分が彼ら偉人以上の存在になったかのような、錯覚を起こしている」

のではないか?

と思ってしまうのです。


記者という職業は、確かにストーリーを感じて、その背後にあるものを見極め、解説する職業です。

であるとすれば、なぜ、そういう能力を鍛える経験を持ちながら、論考ができていないのか?

逆にうまく鍛えられなかったからこそ、現実調整者レベルの思考しか、できていないし、

「過去の偉人より、俺は偉い!」

なんていう、臭みのある思考をしているのでは、ないか?

と感じてしまいます。


それに自分の感情を書くなんて、意味がありません。筆者がどう思おうと、関係ないのです。

文章というものは、読者がストーリーを読んで、そこに感情をつくる目的のモノなのです。

そこに筆者の感情をいれるなんて、意味がないんです。あるいは、印象操作をしている、ということなのです。

印象操作が表現の世界で、いかに、愚かなことか。

表現というのは、真実なり、ストーリーで、読者の感情を動かすのが基本です。


もちろん、創作ですから、印象操作が必要なこともあります。


ゼロからの完全な創作であれば、そのキャラがどのような要素を示すのか、説明する必要がありますからね。

「彼は、どうも、陰惨な性格をもっているようだ」

というセリフをいれることで、そのキャラを説明しても、完全創作のキャラなら、全く問題はない!と思います。


しかし、史実を元にしたストーリーは、個人の印象操作を行うには、不似合いなストーリーだと考えているんですね。


故人を貶める行為ですからね。史実によって、飯を食っている人間が、史実の担い手である故人を貶める行為は、厳に戒めなければいけないのでは、ないでしょうか。


だから、史実を元にした創作については、印象操作というのは、

「最低レベルの手法だ、使うべきではない!」

と言いたくなるのです。


そういうことをへーきで、司馬氏は、行っているんですね。いろいろなところで。

どうも、その臭みは、今の僕には、いやなもの、として見えてしまうんですよ。


「俺は故人や歴史上の偉人より偉いのだ。だから、書く、資格があるのだ!」

という、思い上がりの精神が、垣間見えてしまうのです。

それは、自分の仕事に協力してもらっている、故人や偉人に、つばを吐く行為です。

だから、臭みを感じてしまうんです。


というより、人間理解のレベルがあまりに低すぎます。


僕はこの中原少警部の気持ちがわかります。


彼は、川路の手によって警察庁へ復職させられているし、

彼の手記には、

「明治の世になっても、未だに上士が上士という資格を持って、私学校を使って郷士を蔑視しながら支配している現実」

に憤慨している記述が、あります。

その記述からは、

「我々が成し遂げた明治維新により、封建制は、終わった。それが薩摩だけ、未だに続いているのは、おかしいだろ!」

という彼の気持ちが、ストレートに伝わってきます。


彼にしてみれば、やはり仇を討つ気持ちが高かったと思います。中原少警部からすれば、川路は、そういう場を与えたくれた恩人であり、

その恩人のために、仕事を精一杯するということは、社会性民族である日本人としては、

「日本人として、立派なことをやるのだ!すべて、日本のためなのだ!」

という考えが、彼の気持ちの中にあったことだろう!と考えます。

「恩人のために、日本のために、与えられた仕事を精一杯実行する」

このことに、疑問を差し挟む日本人がいるでしょうか?


それが日本人なのです。そこまで、考えなければ、彼や彼を選んだ川路という人間の行いというものを評価できないでしょう。


司馬氏はそれもせずに、

「大久保も川路も、陰惨な人間である」

と、勝手にきめつけているのです。

そして、中原少警部は、その手先、くらいの扱いなんです。


いかに、モノの見方が、浅いか、だだわかりです。

人間というものを理解していないことが、だだわかりになっています。


そう見てくると、結局、司馬遼太郎というヒトは、

「印象レベルで、深くモノも考えもせず、人間もわからないのに、モノを書いていたひとに過ぎなかったんだ!」

という判断になってしまうんです。

だから、

「西郷のことも理解できずに、アホ化なんて、安易な発想に逃げた」

ということもだだわかりになってしまうんです。

「外に見えていることから、なんらかの印象をもって、現実調整者レベルで、それを再構成し、ストーリーにまとめているに過ぎない」

というのが、

「司馬遼太郎の本質!」

だと、思えてしまうんです。

そういうことが、すべて、だだわかりに、なってしまうんです。


気がついたら、司馬遼太郎批判になっていましたが、みなさんは、どうお考えでしょうか。


まあ、僕は司馬さんの著作のファンですので、こういうきつい言い方になるのかもしれませんが、

誰の文章であろうと、もう、僕にとっては、単なるテキスト情報にしか、過ぎません。

素直にテキスト情報を読み、そこに表現されている内容に、素直に思ったことをぶつけているに過ぎないのです。

それが、誰の文章であろうと。


と、まあ、脱線したので、元に戻しましょう!

僕はこの西南戦争勃発のくだりを見ていて、大久保そして、その手足となった川路利良の事実を引寄せるための論考者の凄みを感じているのです。

執念という言葉を使い、非難する人間もいるようですが、そういうモノではないと僕は思います。

現実を引き寄せるために、冷酷に、手を打っているに過ぎないと僕は思っているんです。

信長や家康がしたように、手を打ち、現実が変化していくのを眺め、目的とする現実を引寄せる。

それが、論考者なのです。そこに、凄みを感じさせる要素があるのでしょう。


この川路利良の生まれは、郷士でもなく、さらに下の、足軽のちょっと上の位なのだ、そうです(と、司馬氏が書いています)。

つまりは、薩摩では、蔑視された階層ということになります。

薩摩士族は、上士と郷士(下士)に分かれますが、

近衛部隊には、上士が、

警視庁には、郷士が入ったそうです。

まあ、お互いめちゃくちゃ仲が悪いし、上士は郷士を蔑視していたからですね。

そして、警視庁のトップが、この川路利良なわけです。

そして、薩摩士族は、上士によってコントロールされた軍隊なのです。

そして、そこには、西郷帰郷と共に、近衛部隊を辞めて薩摩に帰った上士軍団もいるわけです。

というより、私学校軍団の幹部の多くは、近衛をやめた上士なのです。まあ、桐野は郷士出身ですけれど。

そして、そういう上士に蔑視されながら、郷士が支配されているのが、薩摩士族なのです。


川路を始めとした警視庁の薩摩郷士軍団が、彼らを敵として見るのはあたりまえじゃないですか。

しかも、川路らには、

「日本のため!」

という錦の御旗的な想いがある。


そういう意味では、西南戦争は、薩摩士族の上士VS郷士という面が大きい、と言わざるを得ないでしょう。

だから、西南戦争中に、警視庁が、軍隊として、投入されるという事実が引き寄せられて行くのです。

「一旦、憎悪の構造を持つと、結果的に戦うことになる」

というストーリーのお約束がここに見られるのです。

だから、人間は、自分の周りに決して憎悪の構造を置かないようにしないと、いけないのです。


とか、言いながら、僕は、ずんどこ、いろいろな批判を繰り広げているわけですけどね(笑)。

さて、今日は、ちょっと入り方に間違って、司馬さん批判を繰り広げちゃいましたが、

なんつーか、融通無碍なんで、仕方ないですね。


まあ、とにかく、腹くくって、西南戦争周りを、ゆらゆら論考しよう!ということにしたので、

こんな感じになりましたが、どうだったでしょうか。

まあ、金曜日!ということもあるんでね。

自由にやらせて頂きました。

ま、一方的に

「司馬さん、おかしいよ!」

と、言っていたのでは、理解してもらえないので、

「例をあげて、批判してみた!」

というところです。

僕の言いたいこと、分かって頂けたと思います(笑)。


今日も、長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

まだまだ、西南戦争まわり、いろいろ話すことになりそうですが、まあ、よろしくお願いします!

それでは、次回、週を跨いで、お会いしましょう!


ではでは。


巨大な敵、論考者大久保!(詰将棋を仕掛けられた西郷:日本人的美学からの論考)

2010年04月08日 | 先人の分析
おはようございます!

入学や入社の季節なんですけど、なんとか、まだ、桜が花開いていますね。

まあ、なんとか、この週末くらいまでは、もってほしいなあ、というところですが、

どうなんでしょうね。一部ではもう、散ってるしね。

しかし、あの散っていく桜の美しさというのは、ほんとに息をのみますね。

僕は、あの桜の散っていくシーンが、大好きで、まあ、僕は正当な日本人なんだなあ、と我乍ら思います(笑)。


さて、西郷について話し始めてからけっこうになりますけど、まだまだ、先が見えませんね。

あとからあとから、いろいろなことを思いついてしまって、

「ああ、これも言っておかなければ、あれも言っておかなければ」

状態です。僕は、この西郷さんの論考をしながら、思っているのは、

「司馬遼太郎さんは、人間関係で、あまり苦労しなかったのでは、ないだろうか?」

ということです。どうも、人間を現象面だけで見すぎるし、思い込みで話をしているのが、だだわかりに

なっています。彼の他の作品でもある、「坂の上の雲」についても、乃木希典について、

必要以上のアホ化表現が指摘されています。まあ、西郷さんも明治後アホ化した、という思い込みで

書かれています。どうも、このひとは、現実調整者レベルでストーリーを見て、

当事者の頭の中を論考せず、適当に頭に思いついた思い込みで、ストーリーを奏でているように見えます。


それが、どれだけ、怖いことなのか。


彼はやはり新聞記者あがりということで、

「俺は偉い」

病にかかっていたのでしょうね。

「俺にしか、この偉人のストーリーは、編むことはできない!」

という類の思い込み。


まあ、彼は大衆作家ですから、

「楽しくておもしろいストーリーを編めば良いんだ!」

という評価もあるでしょうが、彼は国民的作家とも呼ばれる人間なんですよ。


だったら、責任というものがあるじゃないですか。


司馬史観なんて、笑っちゃう表現すら、あるんですよ。


たかが、作家が書いた、しかも大衆作家なら、なおのこと、ストーリーを楽しく面白くする方向へ持っていくのは当たり前じゃないですか。

それが、歴史観になるわけがない。それは、歴史上のお話を元にした、フィクションに過ぎないんですから。

あくまで、彼の思い込みによって作られたフィクションとして、見るべきだと思います。


確かにストーリーは面白いからいいんでしょうけど、そのストーリーの理解がちょっと浅いというか、人間というものを

知らなすぎの感があります。まあ、そこらへんは実際に例をあげて、解説する必要があるでしょうね。


なぜ、こういうことを言うか、と言えば、やはり司馬作品のファンだからです。司馬作品の多くを楽しんできた身としては、

やはり、そういうことも言いたくなります。ま、愛するがゆえの小言ということになりますかね。

ええ、嫌いなら、記憶に残りませんから。だから、司馬作品LOVEだからこそ、言いたくなるんですよ。

でも、まあ、これからも、司馬作品は楽しんでいきますけどね。まだ、「坂の上の雲」の放映も残っていることだし(笑)。


さて、前回の論考では、

「西郷は、私学校の蜂起で、すべてが終わったことを確信した」

ということを指摘しました。


彼は論考者として、そのストーリーが始まれば、その終わりがどういうことになるか、わかっていた、と思います。


多分、そのことについては、必要以上に考えていた、と思います。

なぜなら、一番、避けなければいけない事態でしたから。

だからこそ、その情報に接したとき、感情が昂ぶり、

「しもた!」

となったのでしょうね。


そして、その瞬間に全てを悟ったのだ!と思います。


司馬氏の言うように、このときの西郷がアホだとしたら、

このように、事態の行く末を一瞬で理解し、こんな昂りを見せるでしょうか?

それこそ、

「そうか・・・」

くらいの反応になるのでは、ないでしょうか。

この一事でも、司馬さんの理解が、おかしいことを指摘できてしまいます。


さて、この事件は、大久保によって起こされたと見るべきでしょう。

警視庁から選りすぐりの薩摩人を帰国させ密偵として、使ったことが、西南戦争勃発の直接の引鉄になったのですから。

まあ、これを直接指揮したのは、薩摩人川路利良ですけどね。


つまり、薩摩人VS薩摩人なんですね。


彼らはお互いがお互いを知り抜いている。

だからこそ、将棋の名人戦のように、かゆいところに手がとどくような妙手がくりだされてくるのです。

このとき、大久保と川路のコンビは、確実に薩摩士族討滅の狙いをもっていた、と僕は思います。


薩摩士族の若者を激昂させ、挙兵したところを、討つ。


あるいは、そこまで考えていなかったにしろ、大きなベクトルはそちらに向かっていたでしょう。

それは、最前線の熊本城の人事が、対薩摩戦を意識したモノの変更されたところから、

はじまったかに、思います。熊本城の司令官に土佐人谷干城が配されたのです。


熊本城には、多くの薩摩人がいるんですよね。それを統御できる人間として、土佐人!というところが、

薩長土肥政権の本質を見せていますね。

まあ、熊本城の籠城戦というのは、最前線であるがゆえに、相当厳しいものだったようですからね。

「彼のおかげで、戦い抜けたのだ!」

とする将兵の証言がたくさんあるようです。


このとき、薩摩人を密偵として、薩摩に送り込んだわけですが、全て露見し薩摩側につかまります。


このとき、密偵達は、

「西郷を暗殺するために来た」

というようなことを、証言させられているんですよね。


まあ、このことが、結局、若者たちの暴発を呼ぶわけですが、このことについて考えてみたいんですね。


果たして、本当に、西郷暗殺が、目的だったのか?


僕は、それは違うのではないか?

と考えています。


実際に西郷を暗殺したら、どうなるか!


を考えてみることにしましょう。

それがどのようなストーリーを呼ぶのか。


西郷を暗殺したら、政府は、それこそ、もたない、と思います。


サムライ達の怒りのエネルギーが発火し、凄まじいエネルギーとなって、荒れ狂うでしょう。

太政官政府は、確実に、民衆の敵と、意識されてしまうでしょう。

今までは、士族の敵!というだけでした、それが、日本国民全体の敵!と認識されてしまうでしょう。

その想いが、日本全国を覆い、多くの人間が蜂起するでしょう。

それこそ、各地の反乱は、全国規模となり、収拾がつかなくなるでしょう。


薩摩軍は、それこそ、光秀を倒した秀吉のように、桐野あたりを盟主と立てて、仇討ちを名目に一気に力をつけていくでしょう。

正義の御旗をかざして各地の反乱勢力を糾合し、政府軍を各地で打ち破るような事態を引き起こす可能性があります。

そんなもの、大久保も川路も、引き寄せたくない現実です。


であるのなら、彼らは最初から西郷暗殺は、実施する気はなかった、ということになります。

「西郷を暗殺するために、来た」

と、密偵達に言わせることで、欲しい現実を引き寄せただけなのでは、ないでしょうか。

「薩摩の若者達の蜂起」

「それに引きづられての薩摩軍の蜂起」

というストーリーです。


そうです。論考者大久保により、またも、現実を引き寄せられてしまったのです。


「時期を見る。時期が来たら起つ!」

と考えていた、桐野始め私学校幹部達は、ほぞを噛んだ事でしょう。

最悪の時期に起つことになったのですから。

各地の反乱勢力との糾合もままならず、薩摩一国で起たねばならないし、戦略的にも不利です。

軍備的に不利であることも、あとで露見しますが、全てが薩摩にとって非であるこの時期です。


だからこそ、大久保は狙いをつけたのでしょう。


故郷の地であり、自分を育んでくれた幾多の知人友人がいるであろう薩摩を

討滅目的で、論考し、現実を引寄せる。

論考者の怖さが、だだわかりになります。

大久保や川路の論考者としての凄みが、ここにだだわかりになるのです。

冷静に結果を求める、事実を引寄せることに、邁進する論考者の怖さが、だだわかりなのです。

そう。彼らは、信長や家康と同じ種類の人間達なのです。


西郷は、この密偵達の「西郷暗殺」の証言に対して、

「一(一蔵、大久保のこと)はなんていうことをするのか!」

ということを何度も言ったそうです。


そりゃそうです。一番自分が求めていない現実が引き寄せられたのですから。


そして、彼は、落ち着いて事態を冷静に見たとき、

理解したはずです。


論考者大久保が、薩摩士族削除の方針で、詰将棋を仕掛けてきていることを。

そして、最早、その詰将棋は、詰んでいる、ということも。


そうです。西南戦争は、西郷相手に仕掛けられた大久保の詰将棋であり、既に詰んでいたのです。


大久保は、日本のために、西南戦争勃発を仕掛け、日本のために、現実を引き寄せたのです。

西郷は、論考レベルが、薩摩に限定されてしまった。あるいは、旧士族に限定されてしまった。

そのため、大久保に敗れたのです。


論考の対象レベルは、出来うる限り大きくなくてはいけない。


そして、論考者同士の戦いとなった場合、対象レベルが大きいほうが、必ず勝つ。

これは、歴史を見てきて、確実に言える、論考者の真理です。

そして、それが、西郷VS大久保の戦いにも現れたのです。



うーん、全然終わらねー(笑)。

言うべきことが、ありすぎる!

楽しいんだけどさ!おもしろいんだけどさ!

いやいや、西郷と大久保は、論考者同士の戦いですから、ほんと、示唆されることがたくさんあるんですよ!

いやあ、しかし、論考者なんて概念、僕独特ですからねえ。

だから、おもしろいんですけどね。


というわけで、おわかりのように、今日も終わりませんでした。

今日もここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、楽しく論考していきましょう(もう、開き直った!)。


ではでは。


西郷の悲劇!(起つ!は方便?:日本人的美学からの論考)

2010年04月07日 | 先人の分析
おはようございます!

まあ、いろいろなことが、あって、楽しい春ですねえ。

まあ、現実もしっかり論考できたし、

論考さまさま!みたいなところもあります。

まあ、昨日の「週末ストーリー解説!」の記事で、論考者の定理も証明できたし、

そういう意味では、論考シリーズを楽しく書き進めるいいモチベーションになった記事でしたね。

と、書いた本人が、自画自賛しているんだから、世話ないですけどね(笑)。


僕のやり方というのは、その人間の行動から、その人間の考えていることを類推し、

それを本質として抜き出し、他の行動をいろいろ見ながら、本質と乖離していないかを確認していくことで、

その人間が考えていることを確定していく方法です。

まあ、そういうやり方は、ほとんど見たことないし、歴史学的には、なんの意味もない証明と切り捨てられるでしょう。


しかし、僕は、普段、友人だったり、上司やその他、いろいろな人間を見ている中で、

普通に、

「このひとは、何を考えているんだろう?」

と考える癖ができていたので、

現実のひとに対して、考えていたやり方を、歴史上の人物に当てはめているだけなんです。


だって、親しい友人の頭の中くらい、わかるでしょう?

何を考えているかくらい、予測がつくでしょう?

それを過去の偉人達に対して、行っているだけなんです。


もちろん、普段どういう人間だったか、なんて詳しく残っていないから、そのひとの特徴が現れているような事象をもってきて、

その頭の中を類推しているのです。

まあ、これまで、いろいろな発見がありましたが、今回は、問題の西郷どんです。

いよいよ、驚愕の事実がでてきそうですよぉー(笑)。


さて、いつもと同じように、ゆるゆると、論考を初めていきましょうかね(笑)。


前回の論考では、西郷は、

「旧士族の活用法の解決」

という仕事に魅入られてしまった、というところまで書きました。

そして、その仕事は自分にしかできない!という強烈な自負があったことも指摘しました。


そして、彼は長い論考に入ったのです。


論考する場合、やはり周りにひとがいることを嫌います。

それを考えれば、彼が野山を狩猟して歩き、決して街に近づかなかったこともうなずける事実です。

彼は、その間、旧士族の活用法について、考えに考え抜いたことでしょう。

しかし、

「如何とも、し難い!」

という結論はわかっていたはずです。

「そこをなんとかできないか?」

彼の論考はそこに入っていたと思われます。


そして、その論考の過程で、彼はひとつの解決法に気づいたはずです。

「この身を、決起に逸る連中に投げ出せば、彼らは滅亡するだろう」

という恐ろしい問題解決方法に、です。

「自分の価値は、彼らが考えている程高くないし、政府軍の武器類の水準は、高い。薩摩が決起しても、九州に割拠できるくらいで、決して本州には渡れないだろう」

それくらいの論考は西郷なら、たやすいはずです。そして、

「九州の海岸線全てを防衛することはできない。これは、斉彬様の防衛論で明らかだ。であれば、海軍が将兵を満載して、どこかの浜に上陸するに違いない!」

ということも、斉彬の弟子である西郷には、考えられたはずです。

「そこから、防衛戦を崩されれば万事休す。そういう流れになるだろうな」

これくらいのことは、西郷の頭にあったでしょう。


そして、彼の論考通り、事実はそのように、推移したのです。


彼は、

「旧士族の活用法への論考」

を止めたら、そして、

「自分の身を投げ出したら」

いくさになる!と考えていたのでしょう。

そして、

「結果的に、旧士族の削除が、完了する!」

と見ていたと思います。

そういう、

「最悪の旧士族処理法」

は、思いついていた。だから、彼は、あくまで論考生活をやめずに、狩猟生活の日々にいたのだ、と思います。


西郷は、薩摩士族の若者の統御は、桐野に任せていたそうです。

このひとは、無学でも独特の勘があって、物事の真理をつかんでいるようなひとだったそうですから、

そういう若者をうまくまとめられたんでしょうね。


そして、ここで考えてみたいのは、

「いつか、起つ!その時期が大切だ!」

という言葉が、

「若者を抑えるのに使われたらしい」

ということなんですね。


例えば、元司法卿江藤新平が、佐賀の乱で破れ、西郷の元に現れた時も、

同じような言葉が使われたような表現が見られます。


しかし、

「起って、どういうことをするのか?」

という起つ目的を考えた時、ちょっとよくわからなくなるんですよね。


西郷は大久保の政治力を信頼して、任せているわけです。


これは有名な話なんですが、あるひとが、征韓論後下野した西郷に

「これからの日本がどうなるか」

を聞いたとき、

「それは、大久保に聞けばよい!」

と、にこにこして言ったらしいんです。


これも、西郷が大久保を信頼しているという事実を示すエピソードです。


だとすれば、起つ!時なんか、永久に来ないのでは、ありませんか?


例えば政府の軍備の面から言っても、そう思えます。


薩摩の軍備は、旧式ですし、政府は常に最新鋭の武器を揃えています。


西郷が、いくら軍事に疎いとはいえ、それくらいのことは類推できるはずです。

であるとすると、

「一日決起が遅れれば、それだけ、勝ちからは遠のく道理」

なんです。


この状況では、

「起つ!時は永久に来ない」

という結論になってしまいます。


である、とすると、

「いつか起つ!」

という言葉は、若者達の激昂を抑えるための、単なる方便だったのでは?

という考えに至るわけです。


少なくとも、西郷の頭の中では。


これまでの論考の結果から、僕は、西郷は

「全然、起つ気は、なかった」

と思います。

ただ、火薬庫のような、

「薩摩士族を抑えられるのは、自分しかいない!」

という、これまた、

「俺にしか、この仕事は、できない」

病に、

「西郷はかかっていた!」

ということだと思います。

だからこそ、「薩摩の希望!」役として、薩摩に帰国しながら、

彼らを抑える役目を、やっていた、と見ます。

打開策を論考しながら。


そして、彼らを抑える方便が、

「いつか起つ!」

セリフだったのです。


だから、彼の仕事は、

「旧士族の活用法探し」

と、

「薩摩士族の抑え」

という二つだった、と考えられます。


そして、この困難な二つの仕事が

「西郷」

という人間を欲してしまったんだ!

と思います。


だから、私学校の生徒が蜂起したときに、

「しもたー」

と感情を昂らせて西郷が叫んだ!という状況につながってくるのでは、ないでしょうか。


彼は、自らの仕事に失敗したことを、その時、感じたのでは?

だから、感情が昂ったのでは?

と考えることが、できるからです。


そう考えると素直に説明できてしまうのです。


そして、私学校の生徒の蜂起を知った瞬間、西郷の頭に浮かんだのは、

「事は終わった。もう、あのプログラムで、旧士族の削除を実行する他はない」

ということでしょう。


論考者の彼には、その最後の瞬間まで、手にとるようにわかったでしょう。


そのとき、彼が悟ったのは、

「薩摩武士にとって、戦は祭りじゃ。祭りは精一杯、せめて、華やかにやらせてやろうじゃないか」

ということでしょう。そして、彼は、

「何も言うまい。せめて、若者達に、精一杯、踊らせてやろう」

ということだけだったと、思います。


彼の論考者としての執念は、問題の解決へ、一目散に突っ走っていくのです。


と、今日の最後は、ちょっと小説風になってしまいましたが、あの

「しもたー」

の意味を僕はそうとります。


司馬さんの「翔ぶが如く」では、彼は、アホだと言いながら、ある時点では、頭がよくなっていたり、また、アホ化していたり、と

どうも、統一感というものがありません。一種の愚物扱いなんですよね。


でも、僕にはそうは見えません。西郷の考えについて、ここまで、論考を加えてきて、なんの問題もないし、統一感をもって

説明できるということが、だだわかりになっています。


やはり、これは、司馬さんは一級のストーリーを創造するために、西郷のことをわからないふりをしていた、というより、

やっぱり論考できていなかった、と見ますね。だって、統一感をもって、西郷を描いた方がわかりやすいし、

悲劇性もさらに増すからです。彼は、消えていく薩摩士族の行く末を知りながら、これ以後、事の本質について

言葉を発するのをやめています。そこに西郷の悲劇性があると思います。


まあ、もう一回だけ、西郷をやろうと思います(ほんとかな?(笑))。

西郷の悲劇性を、しっかりと解説したいですからね。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、今度こそ、西郷の最後にしたいですね。

そこで、お会いしましょう。


ではでは。


西郷の真実!(「翔ぶが如く」を否定する!:日本人的美学からの論考)

2010年04月05日 | 先人の分析
おはようございます!

すっかり春ですねえ。と、いいながら、この週末は、あまり快晴とはいかず、せっかくの桜満開も、

いまいち感がありました。やっぱり、快晴の中、綺麗に桜満開!を感じたいものですよね。

やっぱり、桜といいますと、もう、5年も前の楽曲になりますけど、ケツメイシの「さくら」がいいですよねえ。

なんか、あのPV、ベタですけど、好きなんですよね。週末に桜モノのPV特集なんてやってましたが、

やはり、ケツメイシのさくらが、トップバッターでしたし(笑)。


さて、週マタギで続いてきた西郷さんへの論考も、今日が最後になりそうです。

いやいや、さすがに、西郷どんです。長くなりましたね。


さて、今日は月曜日!特にはりきって、ゆるゆると論考に入っていきましょうかね(笑)。


西郷は、征韓論が敗れた後、官を辞し、鹿児島に帰ります。


ただ、太政官側は、世間への影響(特に士族)を恐れて、陸軍大将と位階の返上は、承認しないんですね。

とにかく、当時の太政官は、日本改造の大本営ですから、既得権益をはがして、士族階級の抹殺まで、指向していくわけですから、

士族は怒り心頭なわけです。特に、戊辰戦争時に新政府側についたのに、その果実の実も食べることができず、逆に、

士族解体の憂き目に会うわけですから、誇りをその血肉として生きていた士族としては、耐えられるものではない逆境ですよね。

各地がそういう状況であるのに、そこに西郷が新政府に怒って、鹿児島に帰ったという報が飛べば、

「すわ、第二維新だ!」

と各地の士族は燃え上がり、さらに西郷に心服している薩摩士族出身の政府側の人間の大量帰郷という事実を引き寄せてしまいます。


この事態を、西郷は、予測していたのか!それとも、予測できなかったと見るか?


この結論によって、西郷の見方は、180度変わってしまいます。


予測していた、と見れば、いや、そういう事態を自ら引寄せることを知っていて、積極的にそれへ動いた、と見れば、

彼は、旧士族と共に、何がしか、別のことをやろうとしていたのだ、という結論となります。


司馬遼太郎氏の著作、「翔ぶが如く」を読むと、西郷の人望好きが、彼の側近に桐野利秋らの大言壮語だけの戦略性無視の

人間を集め、結果、破滅を迎えた、という結論の元、西郷の最後を描いていることがだだわかりです。

さらに、司馬氏は、

「西郷は明治に入ってから、滑って転んで頭を打ち、天気の悪い日は非常に機嫌が悪く、幕末の頃とは、違う人物のようだった」

というあるひとの感想エピソードを載せ、自分の説を補強しています。

まあ、これは、予測できなかった論、の方の意見、ということになりますね。


まあ、本当のところが、どうだったか、わかりませんけど、ちょっと安易な気がするんですね。


西郷も論考者ですよ。確かに、政治的な目的は、持たずに、責任をとることに終始してしまいましたが、

彼が留守政府に残った事実を、その論考する能力に自信があったこと、情報収拾能力にも、自信があったことの証左として、

見る場合、彼は世界が見えていたからこそ、実際に見に行く必要性を感じず、大久保らを行かせたとも考えることができるわけです。

ですから、彼は、当時、日本としては用が無くなってしまった

「旧士族の新しい仕事の場を考えよう!」

という目的のために、

「鹿児島士族と共に、新しい方向性を探る戦いに出たのではないか!」

と論考するわけです。


なぜ、征韓論を実施しようとしたか、前回の記事で論考しましたが、

あれも、旧士族の働き口を世話しようとして、起こしたことですよね。

とすれば、ここにつながるのは、自明のこと、と言えるのでは、ないでしょうか。


西郷の頭の中には、

「旧士族の働き口を考えてあげる!」

という命題が常にあり、そのために、征韓論を出し、破れたら、旧士族を自らが全て引き受け、

とりあえず、鹿児島士族と一体になって、その方策を考える行動に出た、と見れば、素直に説明できてしまうんです。


司馬氏のストーリーは、頭から、桐野利秋らが、西郷を誤らせたと見るから出てくる推論であり、西郷の頭の中をきれいに説明できていません。


つまり、そういう考え方をするから、

「頭をうったことがある。雨の日は機嫌が悪くなる」

等といった、むりくりな傍証で、印象操作をしなくては、ならなくなるのです。


どうも、司馬氏は、他の作品でもそうですが、論考が足りないですね。

一般的な見方を、より具体的に描くことで、人気を博した作家だったように思えます。


だって、西郷どんの頭の中が、分断されているでは、ありませんか!


いきなり頭をうって、おかしくなったなんて、作家の提示するストーリーとは、思えません。

そんなの、おかしいですよね。


ですから、僕は、司馬氏の作品を否定し、西郷は、旧士族に対する責任をとろうとしていた、という説を提示します。


でも、おかしいですね。あまりに論考が足りなさすぎる!

司馬氏くらいの人間なら、これくらいの事実をわかっていたはずです。

ということは、小説のために、あえて、事実は問題にしなかった、ということか?

司馬氏は、事実を知っていながら、それじゃあ、日本人にウケないから、

破滅や死の美学を備えた一級のストーリーに書き換えたのじゃないだろうか。

「旧士族に対する方策を考えるために鹿児島に戻ったけれど、現実に破れ、破滅する!」

というストーリーより、現今の「翔ぶが如く」ストーリーの方が、日本人は喜びますからね。


だからか・・・。


そうなんですよね。司馬氏のエッセイを読んでも、彼は西郷のことがわからない、ということを不思議なほど、連発しているんですよ。

他の作品の主人公については、そういうことを言わないのに、なんか、明らかに隠された意図でもあるように。


そうか。そういうことだったのか。


そう考えると、腑に落ちることがたくさんある。

彼は西郷については、演技をしていた、ということになりますね。

ま、考えてみれば、ただの小説だしね。

いやいや、司馬氏と西郷については、別途、考えてみることにして、ここは、これくらいにしておきましょう。



さて、であるとすれば・・・。

って、

「であるか」

を連発した信長か!

うん?そうか。信長は論考者だったから、頭の中でいろいろ考えて、結論がずんどこ出ていたんでしょう。

だから、僕と同じように、

「である」

という言葉が口に出てきていた、と考えられますね。うん。これも、信長が論考者だった、傍証になるなあ。


脱線終わり。西郷に戻りましよう。


であるとすれば、西郷は、士族のこれから、というものに思いを馳せ、鹿児島に帰ってきたことになります。

そして、新帰朝派の村田新八も、西郷と行動を共にするわけです。

なぜ、彼までが、西郷と共にしたのか。やっぱり人望好みだけじゃないと考えられるわけです。

新八は、西郷のやろうとしていることを知っており、その参謀として必要とされたのでは、と思うんですね。

つまり、

「西郷さんと一緒に破滅しよう!」

じゃなくて、

「新帰朝の自分の知識が、旧士族の方策づくりの力になれる!」

という積極的な感情があったから、村田新八は、西郷の元についたのでは、と論考します。

となれば、私学校の設立も、とりあえず、旧士族をコントロールするため、という旧来の考えではなく、

積極的に士族というものの活用を考えるための施設、ということになります。


ここまで、考えると、幕末、同じような状況に陥って、同じような方策に奔走したある人間を思い出すわけです。

幕末、幕府に攻撃する人間を排出したとして、幕府から金の出ている神戸海軍塾が解散になります。

そのとき、塾生をどうにか、できないか、と北海道の屯田兵の仕事を考えたのが、坂本龍馬です。

もちろん、坂本龍馬と西郷隆盛は、知遇の仲ですから、その会話の中に、このときの話が出たことは容易に想像ができます。

この論考シリーズの中で、何回も指摘しましたが、指導的立場の人間は、過去の歴史の中の同じ状況を探り当て、同じような対応に出ることがしばしば見られます。

この西郷の征韓論も、秀吉の唐入りの発想を利用した!と論考していますからね。

同じように、西郷が、坂本龍馬の案を思い出して実行に移そうと考えていた、と考えるのは、自然なことだと思います。


そして、「翔ぶが如く」という西郷アホ化理論の書にも、

「西郷は、ロシアの南下に対する日本側の防衛軍として、旧士族を使おうとしていた」

という内容の論証を、載せています。この論証は、はっきりと、西郷が旧士族利用の方策を検討していた事実を補強しているではありませんか!


だと、すれば、西郷の頭の中にあるのは、

「旧士族を、正規軍とは、別の、奇兵として、考えることは、できないか。屯田兵としても使えることはできないか」

ということであり、この時期、西郷は、いろいろな方策を検討しまくって、なんとか、事実を引き寄せようとしていた、と論考することができます。


西郷は、帰郷すると、自分の家に留まらず、猟に出まくり、身を隠していたと言われます。

これは、他の旧士族からの決起の連絡を受けないようにしていた、と考えられます。

なにしろ、西郷は、決起なんてこれっぽっちも考えていないわけですから。

なんとか、どうにか、旧士族の活用方法を論考することこそ、彼の仕事だったわけですからね。

だから、猟に出て、獲物を追いながら、いろいろ考えていたのでしょう。

外からみれば、遊んでいるように見えますからね。そうやって、廻りを韜晦していたんでしょう。


ちょっと時間的には、前後するのですが、西郷のエピソードで、ちょっと彼らしくないエピソードが、太政官を辞す時にあるんですね。

一緒に官を辞した板垣退助が、西郷に向かって、

「起つ!ときは、連絡をください。微力ながら、一緒に起ちます、我々も」

というようなことを言ったところ、西郷は、傲岸な風を見せ、

「私達はもう他人です。薩摩はやるときは、一藩でやります」

というようなことを言い、いつもの西郷とは違った、というエピソードなんですね。

司馬氏は、これも、西郷が、明治後、アホ化した説明として、提出しているんですけど、

僕は、あのやさしさと謙虚さの塊みたいな、西郷だからこそのメッセージだったと感じているんです。

これは、どう考えても、

「おいどんは起つ気はないもはん。そんな薩摩を頼りにしてはいけません」

と言っているように見えます。そう思えませんか?

だって、おかしいじゃないですか。

あの西郷が、傲岸になるなんて、そんな必要はないのですから。

普通に考えればやさしさからでたメッセージと簡単に説明できてしまいます。


うーん、新しい見方で、見始めたら、どんどん、証左が出てくる。

だめだ、今回でも、終わらない!

もっともっと、見直す必要がある!


いやいや、また、いつもくらいの量に達してしまいました。

というわけで、今日はこの辺にしておきましょう。

しかし、新しいことが、どこすか、わかっていくね。

いやいや、おもしろい、おもしろい!


今日、ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、まだまだ続く西郷編、よろしくです!


ではでは。


西郷の頭にあったこと!(3)(倒幕の責任:日本人的美学からの論考)

2010年04月02日 | 先人の分析
おはようございます!

さて、暖かいレモンティーなどをずびびと飲んで、

なんとなく朝のはじまりです。

今日はやたら、暖かいね!

昨日あたりから、桜は満開でらしいですしね。

温度の低い日もけっこうあったので、7分咲きあたりから足踏みしていたようですからね。

地球温暖化のおかげで、どんどん咲く時期が早まっているようですが、

地球温暖化の予測を初めて知ったのは、僕が小学3,4年生の頃だったと思います。

「科学と学習!(笑)」のどちらか、に、ある学者が、世界は毎年少しずつ平均気温を上昇させ、2000年には、

今から、平均気温にして、2,3度あがる、みたいなことがかかれていました。

まあ、とても小さなコラム記事でしたけどね。

そして、世界的に影響が大きいだろう、みたいなその科学者の言葉も載っていたのです。

だから、こうなることは、わかっていたんですよね、結構前に。

なのに、何の手も打たなかった。

やっぱりケツに火がつかないと、人間動かないもんなんですね。

それに多分、科学者の言葉というのは、あまり信用されていないんだ、

ということなんですよね(笑)。

まあ、そこらへんは、僕も経験的にそう思っていますけどね。

だいたいはずれることが多い。ま、専門馬鹿という奴ですかね。

どちらか、というと、よくもまあ、予言が当たったな、と思っていますね。


さて、そんな話をしながら、ゆるゆると論考に入っていきましょう。

さて、昨日は、西郷が斉彬の遺訓を心に置きながら明治維新を現実として引き寄せた、ということを論考しました。

今日は、明治維新以降の西郷について、論考してみましょう。

このころについての西郷については、いろいろ言われています。まあ、明治3年まで、薩摩におり、いろいろな対応しているわけですが、

彼は新政府は、大久保に任せていれば大丈夫という意識だったと思われます。

西郷自身、新政府はこうしよう!という案があったとは、思えないからです。餅は餅屋じゃないですが、その論考が進んでいた大久保を

知っていて、

「政治は、大久保に任せておけば、いいだろう。おいどんは、薩摩でいろいろな処理を担当しよう」

というところだったと思います。


それが、太政官前での薩摩藩士横山安武の自刃の報を聞き、維新政府の悪評が広まっていることに衝撃を受けたんだと思いますね。

それで、太政官側の説得もあって、結局、太政官に出仕することになるわけです。

いろいろな彼の書いたものを読んでみると、どうも彼は、正義派ともいうべきひとで、貪官汚吏を非常に憎み、

太政官が、その巣窟となっている、ことが、悪評の原因と考えていたようです。

長州の人間は、元々長州藩で甘やかされて育ってきていますから、公金と私金の区別がつかない人間が多かったようですから、

本人に自覚がなくとも、西郷から見れば、貪官汚吏の元凶と見えたようです。まあ、高杉の言う

「艱難は共にできるが、富貴は共にできない」

状態になっていたのでしょう。富貴に奢る人間達の集まりこそ、太政官!と民衆から見られていたのでしょう。


そのことが、西郷の非常な後悔を呼ぶわけです。

「こんな政府をつくるために、多くの人間を殺したわけじゃない!」

この想いが、その後の西郷のあり方にかかわってくるわけなんですね。


彼はその後、御親兵を設置し、その武力の元、廃藩置県を断行するわけですが、

各藩からは、兵力を差し出せているわけですから、騙し討ちに近い形だったとされています。

やはり、そこまでしないと既得権益の譲渡というのは、できないものなのですねえ。

最も、薩摩だけは、頑として昔のままだったりするわけですけれども(笑)。


さて、この頃の西郷を論考するに、この時期、このひとは、いろいろなひとを推薦して、

仕事につかせたり、太政官内の仕事を任せたりと、自分が大きな政治目標を持ち、そのために積極的に動くというより、

政治に向いている人間を応援するような行動を見せています。


そして、その大きなモノは、やはり、大久保に任せる、ということにつきると思います。

西郷は、大久保のその政治的才能を見抜き、彼に仕事をさせることで、日本をつくりあげていこうという意識なんですよね。

維新当初、薩摩で活動していたところを見ても、日本は大久保に任せる、自分は現場でサポートに回る的な思考をしていたように思えます。

そして、この後、征韓論に進んでしまう彼を見ていると、どうも武士階層に対する責任を負う、という意識が彼を支配していることもありありとわかってきます。

この、

「政治は大久保。おいは、責任をとる」

という姿勢が、結局、大久保との決別になっていくのですが、まずは、事実を追いましょう。


廃藩置県という大きな仕事が終わると、大久保達は、西郷らに日本を任せ、西欧アメリカに政治研修旅行に出てしまいます。

これも、西郷の、

「何事も大久保に。自分は責任を」

という姿勢から出ていると思います。実際、大久保は、西郷が残ってくれるだろうということもわかっていて、議事を提案したと見ますが、

この二人はあうんの呼吸でこの時点までは、仕事をしているんです。それがこれまでは、非常にいい結果を生んでいたのです。

しかし、結果としてこの旅行が、二人の運命を分けてしまうのです。

この旅行で、大久保は更なる政治的展望を持つに至ります。

しかし、西郷は、現実の困難さ、武士階層への責任など、さらに多くの責任を感じる方向へ踏み出してしまうのです。


そして、大久保が帰国してみると、征韓論問題が持ち上がっている。


内容的には、

「西郷がひとりで全権大使として韓国に渡る」

というもので、

「それこそ死ににいくようなもの」

として、多くの参議が反対するわけです。


この時の西郷の考えはどうだったのでしょう?


彼はもちろん、死を決していたでしょう。


であれば、彼が殺された場合に何が起こるか考えてみれば、彼の頭の中に何があったか、わかるはずですね。

まず、彼が死んだ場合、何が起こるか。もちろん、韓国相手の戦争が勃発します。

日本には、それまで全国で戦い抜いて勝ちを治めてきた優秀な兵がいます。

そして、それを使うことができる。西郷は、留守政府時代、戊辰戦争で活躍した元兵士が、各藩で処理できず、反乱寸前だったりする実態を知っていました。

彼が死ぬことで、その元兵士達の活躍の場を与え、再就職の道すら、開けるのではと考える・・・ということが論考できます。


彼が韓国で死ぬ意味は、それくらいしかないのです。


この構図、どこかで、似たものを見たことがありませんか?


かつて、僕が論考したテーマの中に、朝鮮半島に、日本で戦争を勝ち抜いた、優秀な兵士を送った話が、ありましたね。

そうです。秀吉の「唐入り」と非常にそっくりなのです。

日本を占領し、仕事のなくなった兵士達に、新たな活躍の場を与える。

西郷の頭の中には、秀吉と同じ構想が浮かんでいたのです。

同じような状況になると、同じ思考をするいい例ですね。そうです。歴史はくりかえすのです。

彼はそのような状況を現出させるためには、自分が韓国で死ぬことが最も手っ取り早いと考えたのですね。


西郷の頭の中には、責任というキーワードがあったから、こういう態度に出たのですね。


それに対して、大久保は、徹底的に反対の立場をとります。

彼の頭の中には、西欧で見てきた、列強の巨大さがあります。

韓国で戦争を引き起こしてしまえば、列強はそれを口実に戦争に参加し、今度こそ、漁夫の利を掠め取ろうとしてくるでしょう。

その口実は与えない。そのために、あの熾烈な戊申戦争を勝ち抜いたのでは、なかったか?

大久保は、そういう目で西郷を見たはずです。しかし、西郷の考えは別の方向へ進んでしまっていたんです。

このあたり、やはり巨大な責任感という感情が、西郷の頭脳を押し流してしまった感があります。


そういう意味では、大久保はぶれずに目標に向かっていますが、西郷は、責任をとる!という新しい考えに至ってしまっています。


そうです。あの旅行で、二人の立場は決定的に変化してしまったのです。

結局、西郷は政治的に敗北し、東京を去りますが、このとき、大久保は

「また、いつものとおり、すべてがいやになって、ほっぽり出すのか!」

というようなことをごく短く、西郷に言ったような表現をよく見ます。


僕はただ、これは、そういう児戯に等しいことでは、ないように思います。


西郷は、事が一旦敗れた以上は、以前の自分の考えに戻り、

「政治は大久保に、責任は自分に」

という立場をとることにしたのでは、ないでしょうか。

そして、自分が大久保のそばにいることが、政治的に大久保のじゃまになることを理解しぬいていたからこそ、

身を引いたのではないか、と考えるのです。


これまで、西郷は、大久保に対抗したことは、なかった。


それが、彼なりの責任のとり方だったとは、いえ、あれほど自分がとってきた

「政治は大久保、責任は自分に」

という形を破壊し、自分の道だけを追ったことを恥じていたのでは、ないかと思えるのです。

西郷という人間を考えると、投げ出したなんて児戯に等しいことをやるはずがない。

それよりもいろいろと考えた上で、最良の道をとったと思えるのです。

ただ、西郷の論考が鈍っていたことを示す証拠がこのあと、現出してしまうのです。


さて、今日はここまでにしましょうか。

うーん、まだまだ、かかりそうですね。

ここからが、彼ら二人のクライマックスですからね。

それには、もう一回くらい、かかりそうです。

いやあ、普段の論考より、疲れますね。論考というより、推考ですからね。

サクサクはいきませんね。

まあ、それでもある程度わかりやすくは見られたかと、思います。

いやいや、今日はほんとに、ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

次回、週末またぎますが、最後の西郷編で、お会いしましょう!


ではでは。


西郷の頭にあったこと!(2)(勝との運命的出会い:日本人的美学からの論考)

2010年04月01日 | 先人の分析
おはようございます!

だんだん日の出も早くなり、春のいい季節になってきました。

今日はミルクティーで、ずびびとおいしく頂いております。

昨日は、フランス話などしましたが、僕は基本的にアメリカより

ヨーロッパ特にフランスにシンパシーを感じているんですね。

まあ、毎年、ツールドフランスを楽しんでいるから、というのもあるんでしょうけど、

アメリカ映画よりフランス映画の方がおもしろく感じるし、

食文化もアメリカよりフランスの方に軍配があがると見ています。

まあ、「由美ちゃん物語」の由美ちゃんが、フランスに留学経験があったので、個人的に知り合いもいる、

ということも関係しているのかもしれないですけど、あの雄大で肥沃な国土を毎年鑑賞していると、

なんとなく畏敬の念を感じて、好きになっているのかもしれません。

それと前大統領のシラク氏のエピソードにやられているのかもしれませんね。

シラク氏と橋本首相が日本文化展的な催しを鑑賞した際、橋本首相の説明に対して、確か土器と土偶の違いを指摘し、

逆に橋本首相に説明した、というすんごい日本通の一面を見せた、というエピソードだったと思います。

まあ、とにかく細かいところに気づいて、橋本首相に逆襲した点がおもしろくて、

その後、長くシラク氏の動向を気にしていたものです。

どうもフランスというところは、割と日本と合う要素があるような気がしているんですよね。

そこらへんを今度、論考してみたいですけど、西郷さんもナポレオンを尊敬していたんですよね。

大奈候とか、言っていたようですね。いや、なんかおもしろい。

ま、そんなオチのない話ですが、そんなところから、ゆるゆると論考に入っていきましょうかね。


前回、西郷さんの心の中心には、斉彬の心の中心を占めていた、

「列強に負けない国づくり、列強に占領されない国づくり」

があった、ということを論考しました。

実際、それで西郷さんの行った施策が説明できるのか、見てみましょう。

ひとつでも説明できないものがあれば、その指摘は間違い!ということになりますからね。

ま、早速、始めてみましょうか。


彼は斉彬の生前は、斉彬の政策だった、

「徳川家を強化し、賢公達がそれを補佐することで、国難を乗り切る」

という目的を果たすために活動していました。

徳川家定と篤姫を結婚させ、

「14代将軍に、徳川慶喜を!」

という運動を補佐しています。


これも全て、強力な政権をつくることで、列強の日本進出を抑える目的でした。


この後、徳川慶喜擁立は失敗に終わりますが、その揺り返しとでも言うべき、

井伊直弼による安政の大獄が、始まります。

まあ、斉彬は、その前に亡くなってしまうのですが、

その時、西郷はあまりのことに殉死しようとするわけです。そりゃそうですよね。

自分の師であり、日本を任せられると思っていたボスが突如亡くなったわけですから、その絶望感のひどさは

想像を超えるものがあります。そうです。巨大な感情が西郷を襲った、それこそ最初だったかもしれません。

この時、斉彬の意志を継ぐことこそ、西郷の道だ!と説いたのが、僧月照だったんですね。

そして、この僧月照に危険が迫ったので、彼を伴って薩摩に戻ると、藩政は一新されており、

月照を斬れとのお達しを受けちゃうわけです。もう、自分の恩人は斬れませんわな。

そいで、一緒に海に飛び込み自殺するわけですが、西郷だけ助かるんですね。

いやあ、ちょっと見てみただけでも、相当なつらい状況ですね。これは、感情量が増えるのも、よくわかる話です。

大久保と西郷の違いを考えた時に、確かに大久保には、これに類する話はあまり聞きません。

それに比べ、西郷には、この手の話が山のようにある。

このあと、彼は島流しに二度合うわけです。現地に妻も子供もできるわけですが、これとも結局別れることになる。

彼は別れが多いんです。これが、彼の自身さえ流してしまう巨大な感情量の理由では、ないでしょうか。


さて、まあ、なんだかんだ言って、彼は復帰してくるわけです。

そして、その時、実質的な藩主は、三郎島津久光なわけです。そして、京都へ出張るから、その手伝いをせよ!というお達しなわけです。

そりゃ、怒りますわな。西郷程の人間です。ひとを見る目は確かでしょう。

「田舎者が、わが偉大なる師の猿真似をしようとしている!この身の程、知らずが!」

という感情が西郷の中に渦巻くのは当然ですよね。

ある意味、斉彬の顔に泥を塗る行為ですから。だから、西郷は怒り、久光を田舎者!と言い切ったわけですね。うん、わかりやすい。

実際、久光は、ただの田舎者だし、他藩の大名との行き来もあるわけでなく、無官だし、ただ、藩主の父であるだけなのに、

自分が何者か素晴らしい人間になったような勘違いから、このような行動に出ているのが、だだわかりですからね。

そりゃ、西郷なら怒りますわ。まあ、このあと、程なく、自分を無視したみたいな難癖をつけて、久光は、西郷をさらに遠島処分にしてしまうわけですけど、

この久光さん、相当お馬鹿ですよね。

まあ、この記事は、久光さんを論考する目的ではないので、触れませんが、その後の事績を見てもだだわかりですが、このひとは、ただのアホだった、

ということだけ、指摘しておきましょう。


さて、西郷は、禁門の変の年、復帰させられるわけですけど、彼は軍司令官として復帰するわけです。

そして、その年の7月の禁門の変で長州軍を撃退するわけで、これが直接的な原因となり、

「薩賊会奸」

と言われるわけです。

まあ、直接、長州を叩いたわけですから、長州人から呪われることおびただしい、と。

んで、この頃、西郷くんは、何を考えていたか、ということになるわけですよ。

師の教えは守りながら、どのようにして日本をまとめあげるのか。

斉彬の時代の幕府中心主義は、もう時代遅れになっていたし、そもそも、この後の幕長戦争を進めるにあたって、

その担当者として、西郷は、幕府の能力が劣っていることをその目で確認してしまうわけですよ。

そして、幕府側の役人である、勝と長州の処理について、話し合いをもったことは、

西郷に

「幕府に人材なし」

ということを確信させてしまうわけです。もちろん、勝は素晴らしい人材です。

その勝が、

「もう、幕府はだめだあ。ひと、いねえもん」

ぐらいのことを言ったみたいですからね。

その確信が、

「列強の侮りを受けてはならない。列強に侵略されぬようにするには、もう、幕府は見捨てるしかない。俺たちでやるんだ!」

という思いに変わったと見るのが自然だと思います。


このあたりからはっきりと西郷の態度が変わってくるんですよね。長州への態度もはっきりと変わって、

以前は、藩ごと移封して東北あたりの小さい藩にしてしまおうという案だったのですが、

それをとりやめ、軽いお咎めに切り替えています。

これは、幕権回復を阻止し、「薩摩主導で、他日長州勢力を率いて、倒幕」というストーリーが既にその頭の内にあった、と見るべきではないでしょうか。

こういう考えが、この時期、彼の頭の中に既にあった、と仮定して、このあとの西郷を見ると、いろいろなことが、簡単に説明できて、しまうわけです。


その後の第二次幕長戦争に、薩摩ははっきり拒否して、出撃していませんし、朝廷に対しても、

幕府に協力しないように工作しています。さらに裏では薩長同盟の下地つくりを命令しています。


そうです。こうやって見てみると、勝との出会いが、新しい西郷の意識を作り上げ、倒幕に赴かせたことがだだわかりになりますよね。


ただ、それもこれも、対列強を意識してのことですから、どういう国をつくるか、という論考から、倒幕が生まれたわけじゃないんですね。

西郷の意識は、斉彬の論考の目的から踏み出すことができなかった、とも言えるわけです。


列強に侮りを受けてはならない。列強に侵略を許してはならない。


これだけが、彼の論考の目的になってしまったから、彼は、倒幕については、論考しまくったが、新しい国の形をどうするか、

ということまでは、考えがいかなかったのでは?

そう、論考してしまうわけです。


さて、第二次幕長戦争は、幕府側の敗北に終わり、幕権はいよいよ衰えてきます。

徳川慶喜は、現実調整者に過ぎませんし、薩摩側には、西郷、大久保という少なくとも二人の論考者がいました。

薩長同盟もなっており、時代はいよいよ幕府に非でした。そして、その情勢を読みきった薩摩側は、倒幕の密勅を用意し、

「いざ倒幕!」

と意気込みますが、それにぶつけるように、慶喜が

「大政奉還」

を仕掛けてきたのです。

ですが、もう、時代の流れは止めることができません。結局、鳥羽伏見の戦いが起こり、錦旗が上がり、戊辰戦争へなだれこんでいくのです。

そして、西郷は、事実を手繰り寄せ、現実化するわけです。

権力を徳川家から奪い取り、旧勢力を粉砕し、薩長土肥を中心とした維新政府を創り上げるのです。

いやあ、すごいですね。

やはり偉人です。

維新の元勲ですよ。


こうやって見てくると、彼の中心にあった、斉彬の教えが、最終的に倒幕を現実化させたことが、だだわかりになっています。


ただ、倒幕を成し遂げた、西郷の前にあるのは、

「じゃあ、どういう政府をつくるの?」

という考えもしなかった未知の命題だったんです。

それが、彼のこの後の苦悩を呼ぶことになるわけです。


いやあ、あっさり説明できてしまいましたね。

西郷どんの頭の中心にあったもの、そして、いつそれが変化したのか、誰によって変化させられたのか、

そこらへんをわかりやすく論考したつもりですが、いかがだったでしょう。

いやあ、しかし、このひとは、複雑なんで、いろいろ長くなります。

いつものように、特徴的なできごとを二つ三つ並べて、ポン!

というわけには、いきませんでした。でも、割とわかりやすく、説明できた気がしますね。

そういう意味では、勝と西郷というのは、運命的な二人、と言えるでしょうね。

まあ、江戸城明け渡しも、この二人ですからね。

まあ、いろいろなエピソードが指摘されていますが、

西郷からすれば、

「幕府側で、最も信頼できるのが、勝だ!」

という思いはあったでしょうからね。

だから、ああすんなり、いったのでしょうね。

非常にわかりやすく、説明できてしまいますね。


はあ。しかし、今回も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。

もちろん、西郷編は、明日に続きます!


ではでは。