おはようございます!
とうとう、八月も、その最後の日を迎えてしまいましたね!
いやあ、今年の夏は、いろいろあったなあ・・・。
とか、思いながら、でも、暑い日が、まだまだ、続く!という、
もう、地球温暖化も、どうにかしてほしいですね。
明らかに夏が、熱帯化しているよねー!
もしかして、夏休み、もう少し必要なんじゃないの?
と、素直に思う、今日この頃でした!
さて、火曜日の「翔ぶが如く」シリーズですが、
前回、
「彼らは報酬のために、勝つために戦っていたのではない。戦うこと、そのものに意義を感じていたんだ」
「それは、武士道における代償を求めない戦い、だ!」
ということを論考しました。
司馬氏は、「勝つという報酬」を考えない戦いは、馬鹿だ、とする立場で、
その立場が、武士道さえ、理解していない、いかに浅い考え方か、ということが、だだわかりになりました。
日本人というものが、全くわかっていない。
これが、国民的作家ですか?
これが、この人間の正体なんですよ。
さて、いきなり厳しい指摘から、入ってしまいましたが、まあ、ゆるりと論考していきましょうかね!
今日は、麦茶をぐびびと飲んで、この季節も、もう終わりそうですね。
さて、前回、熊本共同隊とは、違う、学校党と呼ばれる熊本隊の紹介をしたところで、終りましたが、
この池辺吉十郎に率いられる熊本隊の一番小隊長、佐々友房が、池辺を尋ねるところから、話が、はじまります。
このとき、佐々は、池辺に、次のように言うわけです。
「自分は三個小隊を率いて高瀬に進みたい。薩軍の新方針は、兵力を損ずることを恐れて城を長期に攻囲するそうである。そのように虚しく日を過ごせば」
「戦わずして兵気のほうがくじけることを自分は憂える。それに加え、政府軍の後発の新手がようやく至ろうとしている」
「実に危険な状況と言うべきである」
これは、薩軍のやり方を否定しているわけです。戦で、大切なのは、兵の士気であり、兵気がくじけることは、最もやってはいけないことだ、
と、この佐々は、主張しているわけです。まあ、これ、西郷の手ですから、当たり前に、薩軍がぼろぼろになっていくわけですけど、
まあ、この佐々あたりでも、当然、こういう主張ができるわけですよ。
このあたり、薩軍の中でも、自分なりの目があり、西郷びいきでもない、野村忍介あたりは、どう考えていたのかなあ、と至極興味深いですね。
で、熊本隊とすれば、「すわ!第二の維新!」と勢いこんでいるわけですから、
自分なりに最上の手を打とうというわけですね。
池辺は佐々を許し、兵300をつけて、高瀬からは、菊池川の対岸となる伊倉村というところに、進出するわけです。
これが、二十四日の朝です。一応、薩摩の連携部隊も、このあたりにあり、政府軍攻撃の準備は、少しずつ出来ていくわけです。
そして、熊本隊は、二十四日、昼すぎに、探索のため、高瀬に入ります。
そこで見たのは、遺棄された大量の銃器、弾薬、酒の類でした。まあ、乃木軍が、それらをおいて、逃げちゃったわけですからね。
装備が貧弱だった熊本隊は、これを喜び、分捕ったわけです。そして、酒まで飲んじゃった。
これについて、司馬氏は、
「こういうあたりは、正規軍の雰囲気ではなく、壮士のあつまりといってよい」
としています。まあ、日本の正規軍は、このときの政府軍くらいですから、熊本隊は、壮士のあつまり、そのものなんですよ。
それに、戦争に酒というものは、つきものですからね。まあ、恐怖感を紛らわすにも、酒は有効ですから、
当然、飲んじゃう選択になるわけです。
彼らは、高瀬に残ったわけでなく、分捕り品を持って、伊倉村に戻り、そこに本営を置いたんですね。
だから、酒も飲めた、ということで、まあ、当たり前っちゃー、当たり前なわけです。
しかし、彼らが伊倉村で、酔っ払っている、まさに、その時、高瀬に、政府軍が入ってくるんですねー。
もちろん、この高瀬を放棄して、逃げた乃木軍が、汚名挽回のために、その一部を前衛部隊として、
この高瀬に向かわせたわけです。
もちろん、乃木軍側も、高瀬には、敵がいる、と思って覚悟して入ってきたわけです。しかし、敵はいない。
どうも、索敵してみると、敵は、対岸の伊倉村に、いることが、わかる。
そこで、乃木軍は、敵の渡河に備えて、陣地をつくって、対抗したわけです。
当然、その報は、伊倉村の熊本隊にも、伝わるわけです。
このとき、佐々は、
「いっそ、こちらから、押しかけてやれ」
とし、衆議一決したそうです。
索敵もせずに、やっちゃえやっちゃえ、ですからね。
このあたりが、壮士っぽい!と言えるでしょうね。
ま、酒も入っているわけだしね(笑)。
熊本隊からは、近くにいる薩軍の連携部隊へも連絡がいき、ここに、高瀬の戦いがはじまるわけです。
これね、西南の役の、関ヶ原の戦いなんだってーーーー。
まあ、この熊本隊、学校党と呼ばれているって、言いましたが、このひと達は、藩のお偉いさん達の子弟ですから、
藩校「時習館」の出なので、学校党と呼ばれるわけです。だから、思想は、一緒、武家社会こそ、秩序であり、価値なんですね。
それを破壊し、文明開化を牽引する、当時の日本政府を蛇蝎のごとく嫌っているわけです。
まあ、僕が、今の日本政府を、蛇蝎のごとく嫌っているのと、雰囲気は同じわけですよ。
今の政府与党のおっさん達が若い頃、学生運動をやって、日本政府を嫌い抜いたように、ね。
まあ、時代は、繰り返すということでしょうか。
そういう意味では、この学校党の人々も、遠い時代の人間というより、僕らと同じ日本人なんですよ。
だから、彼らは、自分たちの意見を主張するために、立ち上がり、戦っているんですね。
「今の時代は、間違っている。我々の主張こそ、正しいのだ!」
彼らは、そう主張して、戦っているわけです。
ここに、池辺が書いた決起に際しての檄文が、あります。ちょっと書いてみましょうか。
「文明開化に仮り、以て廉恥を破り、磊落不羈を取って以て礼儀を破り、慧智円通に託して以て義烈を損なう」
まあ、これ、司馬氏が、解説していますが、要は、
「文明開化だと言って、武士道における恥という倫理を、破り、いかにも豪傑ぶって枝葉にこだわらぬ態度で、日本国の秩序を支えていた礼儀を壊し」
「諸事、旧弊にこだわらずに、融通のきく聡明さをもたねばならぬところにかこつけて、義烈という日本固有の精神をくらましてしまった」
ということだ、そうです。まあ、日本政府が、文明開化という言葉を魔法の言葉にして、いろいろ、やっちゃっている、ということでしょうか。
そりゃ、そういう秩序の好きなひとだったら、怒りますよね。
自分の人生をかけて、討ち果たそう!とするよね。
もし、勝てる可能性が、少なくても、このまま、つらい世の中を感じながら、何もせず、朽ち果てるより、立ち上がる方を選ぶよね。
それが、武士でしょう!
やはり、この背後にあったのは、武士道なんですよ。
武士道的な人生の選択、という奴なんですよね。
なんで、こんなことが、わからないんだ、司馬氏は?
そっちのほうが、疑問です。
司馬氏は、この学校党について、次のように書いています。
「要するに、熊本隊は、もとの士農工商の世に戻せ、という主張者の群れだった」
これ、どう読んでも、尊敬とか、そういうものは、全くないですよね。時代遅れの人物の集まり、という外から見た、浅いレッテルなんですよね。
確かに、彼らは、そういう主張だったかもしれないけれど、その精神は、違うわけですよ。
「今の時代でも、必要なものはあるだろう」
という立場に立っている。
「確かに、文明開化は、必要だ。しかし、だからといって、すべてを破壊する必要があるだろうか」
「武家社会の世の中に、あって、今でも、変わらない、優れた価値のものがあるでは、ないか」
僕は、こういう主張だと、思います。あの檄文を読めば、それくらい簡単にわかるじゃないですか。
だから、司馬氏のような、
「元の士農工商の世に戻せ、という主張者の群れ」
という説明は、浅すぎるし、何も見えていない。ただの馬鹿の見方ですよ、これは。
げろ脳だなあ、こんなことを言う奴は。
ほんと、浅い人物だ。脳はゲロだし。
熊本隊の若い幹部、高橋長秋という人間がいるのですが、彼が自宅に書き送った手紙があるんですね。それを書いてみましょう。
「この度のことは、人をもともとのように引き返し、申すべく御座候。一身を捨てて働き申すべき存念に御座候」
この人物、まだ、十九歳なんですね。ちょっと、物事を簡単にとらえすぎています。
ただ、この文章を読むと、司馬氏が、この文章を読んで、
「元の士農工商の世に戻せ、という主張者の群れ」
と、断定したことが、だだわかりになります。
あのさ、あの檄文と、この文章の差を考えれば、そこに、隊の代表になった、池辺と、この年若い幹部の間に、年齢という大きな差があることに勘付くでしょう、ふつう?
いくら、若くても幹部だったから、と言って、この考え方が、すべての熊本隊の人間の考えていることを代表できるわけないだろうに。
普通だったら、熊本隊の人間が、代表として、推した人間である、池辺の檄文の方から、熊本隊の思想を推し量るのが筋だろうに。
それを、こんなガキの手紙を知ったからって、あっさり飛びつくなぞ、まともな大人がやることじゃないね。
ほんとに、ゲロ脳だなあ。この馬鹿。
さて、戦闘の方は、と、言うと、
熊本隊のいる伊倉村から、約6キロ南の小天というところに、岩切喜次郎率いる三個小隊六百人が連携部隊として、あった。
熊本隊から、連携して、高瀬を叩こうと連絡を受けると、岩切は、二つ返事で、了解し、程なく、高瀬に向かった。
「戦闘は、午後四時から」
と示し合わせ、まず、前哨戦程度で、戦おうというわけです。
ま、すぐ暗くなっちゃうから、あまり戦闘する時間もないわけですからね。
高瀬にある政府軍は、千二百、というわけで、熊本隊三百、薩軍六百なら、
薩軍の強さを考慮すると、ほぼ互角か、薩軍側が有利と言えるでしょう。
なにしろ、政府軍には、各所で、敗退した部隊も加わっているし、
前回、薩軍対政府軍で、薩軍の死者3人に対して、政府軍は、41名の死者を出したわけですから、
薩軍は、政府軍のほぼ、10倍の力を持っているとも、いえますからね。
それを考えたら、政府軍、全然やばいじゃん、ってことになりますがねー。
さて、政府軍は、高瀬大橋という橋のたもとを中心に塁を築いて、スナイドル銃という新式の銃を、その銃口から、のぞかせているわけです。
そして、この大橋を渡ってくる敵を追い落とそう、ということですが、
なんと、その大橋を、岩切隊は、渡ってきたんです。
もちろん、政府軍は、一斉に射撃するわけです。
しかし、薩兵達は、銃を背負い、白刃をかざしながら、口々に叫びながら、橋を渡ってくる。
そりゃ、こわいっしょ!
熊本隊も、川下を渡し船で、渡河し、殺到してくるわけです。
そりゃ、誰だって、ビビリますよね。
政府軍は、せっかく作った射撃陣地も放棄し、まーた、逃げちゃうんですねー。
いやー、なんつーか、これまで、見てくると、逃げてばかりの政府軍って、感じですね。
まあ、薩兵にとって、戦こそが、祭りであり、自分を働かせる場ですから、自然、気分も高揚するし、やる気十分なわけですよ。
対する政府軍は、やらされている感もあるだろうし、なにより、農家の次男、三男なんてのが、多いわけですから、
自然、サムライに対する、意識の差があるわけです。
そりゃ、勝てませんよ。そんな簡単には。
つまり、これ、サムライ対農家の次男、三男の戦いなんですよ。
今まで、俺達の方にこそ、価値がある!と思っていた、サムライと、
農家の次男坊、三男坊が、戦って、勝っちゃった戦に、なるんですよ。
ここで、大きな価値転換が、起こるんですね。
必ずしもサムライだけに、価値があるわけでない。
これは、もう、10年前に、高杉晋作が、奇兵隊で、証明している事実なんですよ。
それが、今、薩摩隼人を相手に、日本一の強兵、と言われたサムライが、地方の農家の息子達に敗亡していくストーリーとして、綴られるわけですからね。
日本の歴史にとっても、大きな価値転換のできごとなんですね。この西南の役とは。
いやー、少しずつ盛り上がってきましたね。
まあ、今日は、その辺りで、終りにしておきましょうかね。
しかし、ここで、大きな価値転換があったんだねー、日本の歴史としては。
ま、読んでいく価値がありますね。よかった、よかった。
今日も長くなりました。
ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次回、お会いしましょう!
ではでは。
とうとう、八月も、その最後の日を迎えてしまいましたね!
いやあ、今年の夏は、いろいろあったなあ・・・。
とか、思いながら、でも、暑い日が、まだまだ、続く!という、
もう、地球温暖化も、どうにかしてほしいですね。
明らかに夏が、熱帯化しているよねー!
もしかして、夏休み、もう少し必要なんじゃないの?
と、素直に思う、今日この頃でした!
さて、火曜日の「翔ぶが如く」シリーズですが、
前回、
「彼らは報酬のために、勝つために戦っていたのではない。戦うこと、そのものに意義を感じていたんだ」
「それは、武士道における代償を求めない戦い、だ!」
ということを論考しました。
司馬氏は、「勝つという報酬」を考えない戦いは、馬鹿だ、とする立場で、
その立場が、武士道さえ、理解していない、いかに浅い考え方か、ということが、だだわかりになりました。
日本人というものが、全くわかっていない。
これが、国民的作家ですか?
これが、この人間の正体なんですよ。
さて、いきなり厳しい指摘から、入ってしまいましたが、まあ、ゆるりと論考していきましょうかね!
今日は、麦茶をぐびびと飲んで、この季節も、もう終わりそうですね。
さて、前回、熊本共同隊とは、違う、学校党と呼ばれる熊本隊の紹介をしたところで、終りましたが、
この池辺吉十郎に率いられる熊本隊の一番小隊長、佐々友房が、池辺を尋ねるところから、話が、はじまります。
このとき、佐々は、池辺に、次のように言うわけです。
「自分は三個小隊を率いて高瀬に進みたい。薩軍の新方針は、兵力を損ずることを恐れて城を長期に攻囲するそうである。そのように虚しく日を過ごせば」
「戦わずして兵気のほうがくじけることを自分は憂える。それに加え、政府軍の後発の新手がようやく至ろうとしている」
「実に危険な状況と言うべきである」
これは、薩軍のやり方を否定しているわけです。戦で、大切なのは、兵の士気であり、兵気がくじけることは、最もやってはいけないことだ、
と、この佐々は、主張しているわけです。まあ、これ、西郷の手ですから、当たり前に、薩軍がぼろぼろになっていくわけですけど、
まあ、この佐々あたりでも、当然、こういう主張ができるわけですよ。
このあたり、薩軍の中でも、自分なりの目があり、西郷びいきでもない、野村忍介あたりは、どう考えていたのかなあ、と至極興味深いですね。
で、熊本隊とすれば、「すわ!第二の維新!」と勢いこんでいるわけですから、
自分なりに最上の手を打とうというわけですね。
池辺は佐々を許し、兵300をつけて、高瀬からは、菊池川の対岸となる伊倉村というところに、進出するわけです。
これが、二十四日の朝です。一応、薩摩の連携部隊も、このあたりにあり、政府軍攻撃の準備は、少しずつ出来ていくわけです。
そして、熊本隊は、二十四日、昼すぎに、探索のため、高瀬に入ります。
そこで見たのは、遺棄された大量の銃器、弾薬、酒の類でした。まあ、乃木軍が、それらをおいて、逃げちゃったわけですからね。
装備が貧弱だった熊本隊は、これを喜び、分捕ったわけです。そして、酒まで飲んじゃった。
これについて、司馬氏は、
「こういうあたりは、正規軍の雰囲気ではなく、壮士のあつまりといってよい」
としています。まあ、日本の正規軍は、このときの政府軍くらいですから、熊本隊は、壮士のあつまり、そのものなんですよ。
それに、戦争に酒というものは、つきものですからね。まあ、恐怖感を紛らわすにも、酒は有効ですから、
当然、飲んじゃう選択になるわけです。
彼らは、高瀬に残ったわけでなく、分捕り品を持って、伊倉村に戻り、そこに本営を置いたんですね。
だから、酒も飲めた、ということで、まあ、当たり前っちゃー、当たり前なわけです。
しかし、彼らが伊倉村で、酔っ払っている、まさに、その時、高瀬に、政府軍が入ってくるんですねー。
もちろん、この高瀬を放棄して、逃げた乃木軍が、汚名挽回のために、その一部を前衛部隊として、
この高瀬に向かわせたわけです。
もちろん、乃木軍側も、高瀬には、敵がいる、と思って覚悟して入ってきたわけです。しかし、敵はいない。
どうも、索敵してみると、敵は、対岸の伊倉村に、いることが、わかる。
そこで、乃木軍は、敵の渡河に備えて、陣地をつくって、対抗したわけです。
当然、その報は、伊倉村の熊本隊にも、伝わるわけです。
このとき、佐々は、
「いっそ、こちらから、押しかけてやれ」
とし、衆議一決したそうです。
索敵もせずに、やっちゃえやっちゃえ、ですからね。
このあたりが、壮士っぽい!と言えるでしょうね。
ま、酒も入っているわけだしね(笑)。
熊本隊からは、近くにいる薩軍の連携部隊へも連絡がいき、ここに、高瀬の戦いがはじまるわけです。
これね、西南の役の、関ヶ原の戦いなんだってーーーー。
まあ、この熊本隊、学校党と呼ばれているって、言いましたが、このひと達は、藩のお偉いさん達の子弟ですから、
藩校「時習館」の出なので、学校党と呼ばれるわけです。だから、思想は、一緒、武家社会こそ、秩序であり、価値なんですね。
それを破壊し、文明開化を牽引する、当時の日本政府を蛇蝎のごとく嫌っているわけです。
まあ、僕が、今の日本政府を、蛇蝎のごとく嫌っているのと、雰囲気は同じわけですよ。
今の政府与党のおっさん達が若い頃、学生運動をやって、日本政府を嫌い抜いたように、ね。
まあ、時代は、繰り返すということでしょうか。
そういう意味では、この学校党の人々も、遠い時代の人間というより、僕らと同じ日本人なんですよ。
だから、彼らは、自分たちの意見を主張するために、立ち上がり、戦っているんですね。
「今の時代は、間違っている。我々の主張こそ、正しいのだ!」
彼らは、そう主張して、戦っているわけです。
ここに、池辺が書いた決起に際しての檄文が、あります。ちょっと書いてみましょうか。
「文明開化に仮り、以て廉恥を破り、磊落不羈を取って以て礼儀を破り、慧智円通に託して以て義烈を損なう」
まあ、これ、司馬氏が、解説していますが、要は、
「文明開化だと言って、武士道における恥という倫理を、破り、いかにも豪傑ぶって枝葉にこだわらぬ態度で、日本国の秩序を支えていた礼儀を壊し」
「諸事、旧弊にこだわらずに、融通のきく聡明さをもたねばならぬところにかこつけて、義烈という日本固有の精神をくらましてしまった」
ということだ、そうです。まあ、日本政府が、文明開化という言葉を魔法の言葉にして、いろいろ、やっちゃっている、ということでしょうか。
そりゃ、そういう秩序の好きなひとだったら、怒りますよね。
自分の人生をかけて、討ち果たそう!とするよね。
もし、勝てる可能性が、少なくても、このまま、つらい世の中を感じながら、何もせず、朽ち果てるより、立ち上がる方を選ぶよね。
それが、武士でしょう!
やはり、この背後にあったのは、武士道なんですよ。
武士道的な人生の選択、という奴なんですよね。
なんで、こんなことが、わからないんだ、司馬氏は?
そっちのほうが、疑問です。
司馬氏は、この学校党について、次のように書いています。
「要するに、熊本隊は、もとの士農工商の世に戻せ、という主張者の群れだった」
これ、どう読んでも、尊敬とか、そういうものは、全くないですよね。時代遅れの人物の集まり、という外から見た、浅いレッテルなんですよね。
確かに、彼らは、そういう主張だったかもしれないけれど、その精神は、違うわけですよ。
「今の時代でも、必要なものはあるだろう」
という立場に立っている。
「確かに、文明開化は、必要だ。しかし、だからといって、すべてを破壊する必要があるだろうか」
「武家社会の世の中に、あって、今でも、変わらない、優れた価値のものがあるでは、ないか」
僕は、こういう主張だと、思います。あの檄文を読めば、それくらい簡単にわかるじゃないですか。
だから、司馬氏のような、
「元の士農工商の世に戻せ、という主張者の群れ」
という説明は、浅すぎるし、何も見えていない。ただの馬鹿の見方ですよ、これは。
げろ脳だなあ、こんなことを言う奴は。
ほんと、浅い人物だ。脳はゲロだし。
熊本隊の若い幹部、高橋長秋という人間がいるのですが、彼が自宅に書き送った手紙があるんですね。それを書いてみましょう。
「この度のことは、人をもともとのように引き返し、申すべく御座候。一身を捨てて働き申すべき存念に御座候」
この人物、まだ、十九歳なんですね。ちょっと、物事を簡単にとらえすぎています。
ただ、この文章を読むと、司馬氏が、この文章を読んで、
「元の士農工商の世に戻せ、という主張者の群れ」
と、断定したことが、だだわかりになります。
あのさ、あの檄文と、この文章の差を考えれば、そこに、隊の代表になった、池辺と、この年若い幹部の間に、年齢という大きな差があることに勘付くでしょう、ふつう?
いくら、若くても幹部だったから、と言って、この考え方が、すべての熊本隊の人間の考えていることを代表できるわけないだろうに。
普通だったら、熊本隊の人間が、代表として、推した人間である、池辺の檄文の方から、熊本隊の思想を推し量るのが筋だろうに。
それを、こんなガキの手紙を知ったからって、あっさり飛びつくなぞ、まともな大人がやることじゃないね。
ほんとに、ゲロ脳だなあ。この馬鹿。
さて、戦闘の方は、と、言うと、
熊本隊のいる伊倉村から、約6キロ南の小天というところに、岩切喜次郎率いる三個小隊六百人が連携部隊として、あった。
熊本隊から、連携して、高瀬を叩こうと連絡を受けると、岩切は、二つ返事で、了解し、程なく、高瀬に向かった。
「戦闘は、午後四時から」
と示し合わせ、まず、前哨戦程度で、戦おうというわけです。
ま、すぐ暗くなっちゃうから、あまり戦闘する時間もないわけですからね。
高瀬にある政府軍は、千二百、というわけで、熊本隊三百、薩軍六百なら、
薩軍の強さを考慮すると、ほぼ互角か、薩軍側が有利と言えるでしょう。
なにしろ、政府軍には、各所で、敗退した部隊も加わっているし、
前回、薩軍対政府軍で、薩軍の死者3人に対して、政府軍は、41名の死者を出したわけですから、
薩軍は、政府軍のほぼ、10倍の力を持っているとも、いえますからね。
それを考えたら、政府軍、全然やばいじゃん、ってことになりますがねー。
さて、政府軍は、高瀬大橋という橋のたもとを中心に塁を築いて、スナイドル銃という新式の銃を、その銃口から、のぞかせているわけです。
そして、この大橋を渡ってくる敵を追い落とそう、ということですが、
なんと、その大橋を、岩切隊は、渡ってきたんです。
もちろん、政府軍は、一斉に射撃するわけです。
しかし、薩兵達は、銃を背負い、白刃をかざしながら、口々に叫びながら、橋を渡ってくる。
そりゃ、こわいっしょ!
熊本隊も、川下を渡し船で、渡河し、殺到してくるわけです。
そりゃ、誰だって、ビビリますよね。
政府軍は、せっかく作った射撃陣地も放棄し、まーた、逃げちゃうんですねー。
いやー、なんつーか、これまで、見てくると、逃げてばかりの政府軍って、感じですね。
まあ、薩兵にとって、戦こそが、祭りであり、自分を働かせる場ですから、自然、気分も高揚するし、やる気十分なわけですよ。
対する政府軍は、やらされている感もあるだろうし、なにより、農家の次男、三男なんてのが、多いわけですから、
自然、サムライに対する、意識の差があるわけです。
そりゃ、勝てませんよ。そんな簡単には。
つまり、これ、サムライ対農家の次男、三男の戦いなんですよ。
今まで、俺達の方にこそ、価値がある!と思っていた、サムライと、
農家の次男坊、三男坊が、戦って、勝っちゃった戦に、なるんですよ。
ここで、大きな価値転換が、起こるんですね。
必ずしもサムライだけに、価値があるわけでない。
これは、もう、10年前に、高杉晋作が、奇兵隊で、証明している事実なんですよ。
それが、今、薩摩隼人を相手に、日本一の強兵、と言われたサムライが、地方の農家の息子達に敗亡していくストーリーとして、綴られるわけですからね。
日本の歴史にとっても、大きな価値転換のできごとなんですね。この西南の役とは。
いやー、少しずつ盛り上がってきましたね。
まあ、今日は、その辺りで、終りにしておきましょうかね。
しかし、ここで、大きな価値転換があったんだねー、日本の歴史としては。
ま、読んでいく価値がありますね。よかった、よかった。
今日も長くなりました。
ここまで読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。
また、次回、お会いしましょう!
ではでは。