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「ゆるちょ・インサウスティ!」の「海の上の入道雲」

楽しいおしゃべりと、真実の追求をテーマに、楽しく歩いていきます。

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第15章 気球に碇をつけるみたいにしっかりと

2010年10月07日 | 先人の分析
おはようございます!

いやー、今日はすっかりお寝坊さんで、起きたら明るかったです(笑)。

まあ、まだ、5時半過ぎですが、超朝進行の僕にしては、ゆっくりさんですねー。

というわけで、論考シリーズも、ゆっくりさんになりそうです。

危うし、お昼間カフェ!(笑)。


さて、木曜日の村上論考ですが、司馬さんの論考とは、また、全然違いますからね。

こう、読み味を楽しむ作品をこうやって、分解、整理するというのは、なんか、こう、

まるで、夏休みの終りに急いで読書感想文をまとめているような感じになります。

僕は本を読むのが好きですが、なんだろう、読んだら読みっぱなしのところがあって、

読み味ばかりを楽しんでいたような気がします。

だから、こういう感情で楽しむ本を論考しても、もちろん、その楽しさというのは、

伝わるものじゃないですよね。それは、やっぱり、読んでみないと味わえないもので、

それは、よーくわかっているつもりですが、でも、やっぱり、そのからくりは、知りたいわけです(笑)。


そのからくりを知るために、論考しているわけです。はい。


さて、青豆さんのストーリーというわけで、ここは、肉食女性向けのお話なわけですけれど、

まず、彼女の食生活が語られます。野菜料理が中心で、魚介類、白身の魚、ちょっと鶏肉を食べるあたり

なんですね。まあ、カロリーの計算なぞ、忘れて、正しいもの(正しいもの!)を選んで適量を食べるという感覚さえつかめれば

数字なんて気にしないでいいんだって。

このあたりは、村上さんの食生活が反映されているんでしょうね。村上さんのエッセイで何度も語られた野菜中心、魚ちょっと、鶏肉たまに。

やはり、太る生活はいろいろな問題を生みますからね。などと言いながら、ステーキが食べたくなったら、食べちゃえ!ということで、

「身体がなんらかの理由でそのような食品を求め、信号を送っているのだ」

という経験からの知識を披露しているわけです。

そして、お酒は過度の飲酒を控えることで、週に三日は、アルコールを飲まない日をつくっているそうで、うーん、これは、耳が痛いですねー。

そして、なにより、青豆さんの身体には贅肉がないそうで、それでも、問題点はある・・・というまあ、多くの女性の悩みと同じものを持っているの、

ということで、女性の共感を得ようとしているんですね。

「乳房は大きさが足りないし、おまけに左右非対称だ。陰毛は行進する歩兵部隊に踏みつけられた草むらみたいな生え方をしている」

「彼女は自分の体を見るたびに顔をしかめないわけにはいかなかった」

まあ、この表現、誰でも、ありますよね。自分のカラダを見て喜んでいるのは一部の成功したボディビルダーとナルシストぐらいじゃないでしょうかねー。


青豆さんは、つつましい生活を送っているんですね。それは、子供の頃にまず、禁欲と節制が頭の中に叩き込まれたからだそうで、そうあの

天吾くんの見た「証人会」の少女が、青豆さんですから、「証人会」的生活を少女の頃からしていたわけです。着たい服もきれず、

友達もおらず、ただただ、「証人会」的生活があるだけの少女の生活。それは、

「彼女は両親を憎み、両親が属している世界とその思想を深く憎んだ。彼女が求めているのは、ほかのみんなと同じ普通の生活だった」

という感情を彼女に引っ張ったわけですね。

しかし、大人になった青豆さんは、自分が最も落ち着けるのは禁欲的な節制した生活を送っている時だと、わかっちゃうわけです。

誰でも、慣れ親しんだ世界が、いいんですね。その世界で、落ち着く習慣がついてしまったということです。

「人が自由になるというのは、いったいどういうことなのだろう、彼女はよく自問した。たとえひとつの檻からうまく抜け出すことが出来たとしても」

「そこもまた別のもっと大きな檻の中でしかないということなのだろうか」

と、青豆さんが自問するそうですが、これ、根源的な問いですよね。こういう根源的な問いを提出することによって、

実は、

「自由と思っているものは、実は、単なる大きな檻の中にいることなのです」

と主張しているということなんですね。でもさー、地球規模の檻だったら、檻として、まあまあじゃない?(笑)。


青豆さんが、指定された男を別の世界へ移動させると、麻布の老婦人から、報酬が届けられるそうです。これ、ちょっと梅安さんみたいなんだよね。

そして、現金は、銀行の貸し金庫に放りこんでおけば、いろいろな心配がないことも教えてくれるわけです。ま、そんな大金もらう宛ないけどね(笑)。

そして、それについて、青豆さんは、お金のやりとりはしたくないと老婦人に主張するわけです。それについて、老婦人は、こんこんと説くわけです。

「あなたは間違いなく正しいことをしました。しかしそれは無償の行為であってはなりません。何故か、わかりますか?」

「何故ならあなたは天使でもなく、神様でもないからです。あなたの行動が純粋な気持ちから出たことはよくわかっています。だからお金なんて」

「もらいたくないという心情も理解できます。しかし、混じりけのない純粋な気持ちというのは、それはそれで危険なものです。生身の人間がそんなもの」

「抱えて生きていくのは、並大抵のことではありません。ですからあなたはその気持ちを気球に碇をつけるみたいにしっかりと地面につなぎとめておく必要があります」

と老婦人はいい、最後に、

「その気持ちが純粋であれば何をしてもいいということにはなりません。わかりますか」

と、言うわけです。

この章の題名が、

「気球に碇をつけるみたいにしっかりと」

であることを考えれば、この物言いに、本章のテーマ的なものが主張されていると見てもいいのではないでしょうか。

そこで、気がつくのが、この老婦人の最後のセリフ、

「気持ちが純粋であれば、何をしてもいいということにはなりません」

これ、誰に対して言っていると思います?

これ、どう考えたって、オーム信者でしょう。

あのオームの事件の後は、雨後のタケノコのように、幾多のオーム研究関連の書物が出ましたが、その中に、村上氏の本もありました。多くのオーム信者、そして、

被害者側へのインタビューがその本の中に、びっしりと入っていた。そのとき、村上氏は、

「これは自分がやらなければ」

という思いで、あの本を書いたのだと思います。それを突き動かした思いは何か。何が彼の感情を動かし行動に出させたのか。

それは、前章の天吾くんを思い出せばわかるはずです。天吾くんは、村上氏の若い頃の姿そのものだ。

だから、天吾くんが、物語の世界に可能性を見つけ、その世界に希望を見つけたから、こそ、小説家になったことが表されている。その天吾くん=村上氏が、

なぜ、オーム信者や被害者のインタビューに望んだか、考え合わせれば、それは、「物語の崩壊」をそこに見たからですよ。

可能性を信じていた物語世界の、崩壊が、そこにあった。オーム教の暴発と崩壊が、そこにはあった。それは、人々に幸福をと思い、小説を書いていた

天吾くん=村上氏のこころを撃った。だから、彼は動き、その世界を見つめ、そこにどのような物語があったのかを、全力で採取し、言葉にしたんです。

そして、そこで、村上氏の中にできあがった物語が、こうやって、1Q84の世界に現れてきているのです。

そして、彼は、改めて、あの時の、オーム信者に言うんです。

「気持ちが純粋であれば、何をしてもいいということにはなりません」

と。そして、

「気球に碇をつけるみたいにしっかりと、地について歩け」

と言っているんです。当時のオーム信者の多くの言動が、どこか夢物語の中を歩いているかのように感じていたのは僕だけじゃないでしょう。そしてそれを村上氏も

感じていた。だから、こういうシンボリックな言葉を題名にした章をつくり、そこで、自分なりの言葉を吐いているんです。


ここが、この章のメインといったら、あとは、デザートということになります。あゆみから電話がかかってきて、青山にある、おしゃれなフランス料理店への

デートへ行く約束がなされます。そして、都会的で洗練された空間での、思い切りおしゃれした、あゆみと青豆のデート風景が思い切り語られます。

女性はこういうシーンにあこがれるんじゃありませんか。シェフとは顔なじみで青豆さんと仕事でつながっていて、安く高いものを求めることができる。

お酒も、内容的にはいいものを、安い値段で回してもらえる。いいものを安く。これは、女性の大好きなことですから、そこらへんしっかりマーケティング

してあるわけです。そして、あゆみが言うわけです。

「いつも注文したあとで、「ああ、ハンバーグじゃなくて、えびコロッケにしておけばよかった」とか、後悔するの」

これ、誰にでもありますよね。そうです、そうやって、共感を得ているんですねー。

そして、いつしか、青豆さんは、このあゆみさんに気を許していくんですね。言えるだけの自分のことを、あゆみに話していくわけです。

そして、いつしか、青豆さんは、自分の大事な秘密をばらしてしまうわけです。恋人をつくったこともないことや、26歳まで処女だったことも。

そして、大切な告白が。

「好きになったひとは、一人だけいる。十歳のときにその人が好きになって、手を握った」

ここね。あきらかにしゃべり方が違うんですよ、いつもとは。そう、これは、十歳のときのあの少女のしゃべり、なんです。

青豆さんは、天吾くんの手を握った、あの瞬間に戻って、しゃべったんですね。この時だけ。

そして、これが、愛の告白なんですよ。やはり、あの天吾くんの手を握ったのは、愛の告白だったんです。


つながったんですね。


そして、青豆さんは、自分からは、天吾くんを探すことはないと決めています。運命の邂逅を待っていると。

そして、他の男達とセックスするのは、ただ、通りすぎていくだけのものだから、あとには、何も残らない、としているんですね。

これは、どういうタイプの恋愛なんでしょう。純愛というものでも、ないような気がします。

先程、純粋ならなにやってもいいってことじゃない、と老婦人に言われていた青豆さんですが、このひとには、純粋要素が多量に見つかるわけですよ。

というより、元「証人会」信者の家族で、そういう信者的生活に慣れ親しんでいるばかりか、その宗教の要素が、青豆さんのこころに入り込んでいる。

つまり、青豆さんは、宗教の信者的要素の提出係、ということも、ここに来て言えるわけです。

つまり、この1Q84とは、若き村上春樹である天吾くんと、宗教信者要素提出係である青豆さんの遠大なるラブストーリーとも言えるわけです。


うーん、なんだか、すごいことになってきましたねー。

そして、天吾くんを好きな青豆さんにあゆみさんがいろいろ聞くわけですが、青豆さんは最後にこう言うわけです。

「一人でもいいから、心から誰かを愛することが出来れば、人生には救いがある。たとえそのひとと一緒になることができなくても」

非常に純粋です。というより、危ない感じもしますね。純粋ゆえの強さと同時にある危うさ。

純粋であるということは、大きなエネルギーを持っている気がします。この純粋さが、何かの拍子に壊れたら・・・そのエネルギーは、どこにいくのだろうと、

思うわけです。まあ、これから、青豆さんが、どうなっていくのか、見ていくということで、これも、読者に先を読ませる施策なんですね。


これに対して、あゆみさんは、よくある男話・・・好きになった男は、二股かけるような最低の男だけど、いっしょにいる時に大事にしてくれるから、

よかったのよ・・・的な話を青豆にして、読者の共感を得ているわけです。まあ、あゆみさんは、読者の代表なわけですね。ここでは。


そして、最初に出てきた檻の話に、似た話が、また、提示されます。

「メニューにせよ、男にせよ、他の何にせよ、私たちは自分で選んでいるような気になっているけど、実は何も選んでいないのかもしれない。それは最初から」

「あらかじめ決まっていることで、ただ選んでいるふりをしているだけかもしれない。自由意志なんてただの思いこみかもしれない」

まあ、これもよく言われることですけど、運命的選択論というやつです。このあたりは、よく映画のテーマになったりしますが、

結局、自分のやっていることなんて・・・と言わせて、ちょっと自虐がはいっていますね。

これは、誰かに、そんなことないよって、言わせたいわけですからね。

まあ、そんなこと、こうやって、わざわざ悲観論的に規定する必要はありませんからね。

「あら、そうかもしれないわ。今度、隣の奥さんに言ってみようかしら。頭がよく思われるかも」

なんて、女性に思わせるための施策でも、あったりするわけですけどね(笑)。


そして、バーに移動して、ひとしきり、女性のエロ話があって、いつものように、女性向けエロ要素提出です。

まあ、女性も男性も、エロ要素が、好きですからね。それは、ここで、終わらず、あゆみさんが、青豆さんの家に泊まる・・・そして同じベッドに寝るあたりまで、

続いて、あゆみさんが寝入って終了です。まあ、エロ要素を説明しても仕方ありませんからね。


そして、久しぶりの1Q84要素提出が訪れます。青豆さんが、ベランダに出て、空を見上げると、月が二つになっている・・・きっと天吾くんが

細かく書き直したんでしょう・・・ということで、現実と空気さなぎの世界がつながったところで、本章はおしまいです。


この章ではっきりしたのは、青豆さんは、宗教信者的純粋性というのを提出する要素だったということですね。

クールでワイルドな殺し屋であるのも、純粋さによる、欺瞞的正義行動なんですよね。

純粋性と欺瞞との間・・・これが、青豆さんストーリーで語られる青豆的行為の帰結なんでしょうか。

少なくとも、宗教的純粋性の危険さを存分に語ろうとしているように見えます。それが、村上さんが一連の仕事の結果、自分の中で、達した結論であるとすれば、

本書を読み進めば、それが提示されるということになります。

オーム信者によって、我々が感じた宗教的欺瞞性・・・それが、この本の裏のテーマになっているんですね。

つまり、オーム信者が犯した殺人と、青豆さんの犯している殺人は、同種のものである可能性が非常に高いんです。

理由付けさえしてしまえば、他人を説得できる自分なりの正義・・・それは宗教的信者も同じ・・・があれば人を殺しても正当化されるという考え。

その欺瞞性を、村上氏は、本書で、提示しようとしている、そんな感じを受けましたね。


なにか、一気に、霧が、晴れてきたような気がします。

まあ、エロ要素提出は、いつもと同じですが、本質のところ、純粋さと欺瞞の問題が、メインターゲットのように見えてきて、非常におもしろかった

本章になりました。それが、今回の結論かな。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。






巌のように動かない西郷の決意!

2010年10月05日 | 先人の分析
おはようございます!

すっかり秋ということで、なんとなく雨がちな天気ですね。

まあ、雨だと、しんみりとして心が休まるなんてひともいましたね。

まあ、そういう感じで前向きにとらえるのも、なかなかよさげですが、

秋はしっとり、というのが、いいんですかねー。快晴好きな、僕には、よくわかりません(笑)。


さて、こうやって、ひとつの本をじっくりと論考していくと

いろいろなことが、見えてきて、おもしろいですね。

まあ、いつも司馬さんに怒り狂ってますが、でも、やっぱり、あまたの本を見てくると、

中身がちゃあんとある本と、中身すっかすかの本との差が、よーくわかります。

やっぱり、さすがに「翔ぶが如く」は、資料をあたって書いているだけに、

濃密な内容を持っていますね。ま、だからこそ、こうやって、長く読み込めるわけですけどね。

だからこそ、僕も、安心して、俎上にあげられるわけで、そこらへんは、素晴らしいなあ、と素直に思いますね


さて、前回、村田新八は、薩軍の将来を見切っていたけど、篠原国幹は見えなかったから、熊本城を抜く提案ができた、

そして、東京人は、文明者と、野蛮者の戦いの結末を予想していたのでは、ということを書きました。

そういう意味では、幕末、薩軍が強かったのは最新の銃を装備し、砲をうまく運用した、というところにあったわけですから、

文明というものに敏感だった島津斉彬の影響が西郷を通して、薩軍にいい影響をもたらしていたと、思うんですよね。

そして、彼らは勝ちに勝ったという体験をしてしまった。


しかし、今回は、その体験が、彼らを勘違いさせてしまった。

彼らが幕末、勝ち抜けた要素のひとつとして、最新装備があったにも、かかわらず、その強さは、兵の剽悍さにある、と勘違いしてしまったわけですね。

それに対して、当初負け続けた政府軍側は、負けたことで、なぜ負けたかを分析することができ、勝ちに特化した戦い方を覚えた。

つまり、これは、成功体験だけ経験する危うさと、負けることの重要性というのが、わかるストーリーなわけですよ。

こういうものを、理解することが、僕らの人生の理にも、なっていくわけですから、他人のふりみて、我がふり直せ、というのは、まさに至言ですね。


さて、桐野は、高瀬で敗北し、山鹿にいましたが、熊本の本営での作戦会議に出るために、熊本に向かいました。

そして、本営につくと、まず、西郷に向かって小兵衛の死についておくやみを言ったそうです。

これについて、西郷は、無言だったと司馬氏は、していますが、こういう個人的なことに、皆の時間を使わせることを極端に嫌った西郷なれば、

無言だったのだろうと思います。

そして、桐野は、高瀬の主力会戦について報告したとして、司馬氏は、次のように書いています。

「薩兵は勇敢でその働きに少しの遺憾もなかった。しかし政府軍の長蛇の息をとめることができなかったのは、兵力と弾薬の不足による、と言った」

この報告についての、西郷の記述があるので、それも書いてみましょう。

「西郷はのちに桐野と口をきかなくなり、桐野のほうでも、西郷を避けるような気配を示すようになったと言われているが西郷の側で言えば」

「その感情はあるいは、このときから出発したのかもしれない。むろん、西郷の性格として桐野を責めたりなじったりすることはなかった」

「この男に乗せられてしまった自分に対する嫌悪が西郷の桐野に対する感情を重くしたのではないかと思える」

僕は全然そう思わないんですね。

西郷は、全てのことを見切って、自分の身体を投げ出し、あとは、薩摩士族削除を目的としてすべての施策を打ってきた。

薩軍を熊本城にはりつけ、少数の部隊を、順次政府軍に投入させ、各個撃破させもした。

この状況は、ほぼ、西郷の望みどおりであり、ここで、桐野が報告した内容は、西郷の想定通りだったと言えると思うんですね。


だから、感情を害する理由がないんです。


司馬氏の立場は、西郷は馬鹿で、なんにもわからない愚人になっていた、とする立場ですから、西郷は感情的になっていくのだ、

ということを主張しますが、人間、感情的になればなるほど、正常な判断ができなくなることは、普通に生きている人間だったら、

気づいているはずです。幕末、あれだけのエネルギーで、薩軍を率いた西郷は、その肝っ玉は太く成長していたと思います。

だから、ちょっとしたことで、感情を害するような肝っ玉の小さい状態ではないんですよ。さらに、感情的になることのおろかしさくらい、

西郷のレベルになれば、普通にわかっているでしょうからね。

そんな西郷が、自ら起こした戦争で、感情的に振舞うと思いますか?

まず、その点を指摘します。


そして、西郷は、全てを見切って、薩軍削除を志向しているという自分の立場に立てば、西郷がどういう胸中に至っていたかを、考えれば、

「桐野、すまん。大変なことをやらせてしまって。申し訳ない。だが、わかってくれ、これは、俺がやらなければ、いけないことなんだ」

これですよ。こういう考えを胸中に持てば、そりゃ、桐野に申し訳なくて、会わないようになりますよ。

そして、桐野も、その様子を経験的に感じ取り、西郷に会わないように、気をつかったんですよ。


感情的に害するなんて、そんなレベルの低い馬鹿じゃありませんよ。西郷は。

もし、感情的に害したとしても、そんなことを、人に気にかけさせるような行動をとる西郷ではありません。

個人的なことで、他人を煩わせることを、特に嫌った西郷ですよ。桐野にそんな気を使わせるわけないじゃありませんか。


つまり、ここで、桐野に気を使わせた、ということは、

「それは、公に必要なことだからだ」

と西郷が考えていた、ということがだだわかりになるわけです。


桐野の行動が、西郷の胸中の種類を、ここで、証明しちゃうんですよ。


じゃあ、公に必要なことって、何?日本人にとって、今、必要なことは、何?

となって、

「それは、士族階級の削除。特に薩摩士族の削除だ」

と、言えるわけですよ。どう考えたって、同じ結論になるわけです。このあたり。

今まで、この論考で見てきて、いろいろなシチュエーションがありました。

それについて、全てについて、

「西郷は、今の時代に不必要になった、薩摩士族削除を志向している」

として、説明できるんですよね。統一的に。

それに対して、司馬氏の主張は、全て、適当なこじつけレベルだし、全て簡単に否定できるわけです。それは、おかしい、と。

これが、どういうことを、表しているか、司馬氏には、よく考えてもらいたいものです。


さて、桐野は、この戦略会議の場で、篠原の出した案を中心に議したとしています。

「熊本城を全力で攻めるか、熊本城を捨てて、全力で北上するか」

だそうです。どっちか、ということですか。

しかし、政府軍が高瀬にまで、来ているわけですから、上の話は、理想論に近いわけですよ。

というか、建前を考えているってこと?というか、要はこれ、西郷の言葉が欲しかったんじゃない?

ここまで、まず、戦ってきたけど、じゃあ、何のために、戦うのか。

確かに、戦えれば、それでいいのが、士卒達だけど、やはり、将領達にすれば、目標が、欲しい。

負けたからこそ、今、本来の目的を欲したわけでしょうね。

席上では、熊本城を攻城している担当者、池上四郎が

「ここまで攻めていてこれを捨てるのは惜しい。もう少しで落ちるかもしれないのを捨てるのは愚かである」

と、言ったそうです。そりゃ、そう言いたくなりますよね。薩摩隼人とすれば、戦う相手を任されたんだから、

そりゃ、落としたいし、そう主張するのは、当たり前ですよね。

じゃあ、この考えを変えさせるには、何が必要か、と言えば、皆が納得する、敵を見つけることと、

その攻撃方法を示すことだよね。


でも、そんなもの、政府軍を撃退する以外にないわけです。


実際、こういう状況では、政府軍は、薩軍の前線近くまで、来ているのだから、その弱点をつくのが、王道だったりするわけでしょ。

まあ、補給路を叩き、前線の軍を、孤立化させ、夜襲やら、強襲を縦横無尽に仕掛けることが、ごく普通だし、

古来、こういう戦い方に長じていたのが、薩摩だったりするわけでしょ?


でも、まず、そういう発想がでない。


なぜなら、戦いの目的が、この場で、明確にされなかったから、なのではないでしょうか。

多分、将領達は、西郷に期待したんですよ。ここで。この場で、西郷の発言を待ったと思うんです。

でも、西郷は、

「熊本城を攻め、残りの将兵で、政府軍を各個に防ぐ」

を既に言っている。しかし、これでは、いけない、ということを、将領たちはわかりはじめている。

しかし、西郷を否定することは、彼らにはできない。だから、議論が煮詰まってしまっている状況なんです。


結局、この会議は、

「攻城守野」という二段構えの方針に決まって・・・って、これ、西郷の方針を堅守したってことじゃない。

ということは、西郷が、大目的を決めてしまったら、誰にも、それは、破れないってことが、だだわかりになって、

もう、西郷の目的通りになるしかないって、この状況で、わかってしまったってことじゃない。


もう、この時点で、薩摩士族は、削除されるしか、ないわけですよ。


さて、この時決めた「攻城守野」の範囲は、当初の計画より狭まり、要は守りに入った、ということなんですよね。

これが、現実案なわけで、この案と、最初に出た、「全軍北上か、全軍攻城」という案を比較すれば、最初の案が、いかに、現実的でないか、わかります。

つまり、篠原の提案は、単なる薩摩士族の好みであって、薩摩士族に戦う目標を持たせるには、機能するが、しかし、現実的ではない、と言えるわけです。

そして、前回出た、村田新八の

「ことがこうなった以上できるだけ着実にやることだ。占領地を踏み固め、戦いには補給を堅固にし、決して軽挙妄動をしてはならない、ということだ」

案が、現実案だということが、わかるわけです。

村田は現実が見えていて、篠原は、将兵達の好みの戦い方しか、見えていなかった。そう言えるわけです。


となれば、この時点で、現実が見えていたのは、村田と西郷。桐野はどうだったか・・・篠原は、見えていなかった、そして、篠原さえそうなのだから、

多くの将兵達も見えていなかっただろうということです。ただ、この時点でひとつ言えることは、

薩軍は、守りに入ったということです。自軍を熊本城に吸い付け、それを落とすためだけに、政府軍と戦っているようなもんです。

本来、中央に出るための武器を調達するために、攻撃していた熊本城ですが、こうなると、ただ、薩軍の武器弾薬を使わせるために戦っているようなものです。

そうです。西郷が指揮し、武器弾薬を消耗させるために、薩摩士族削除を、やっているんじゃないですか!

西郷が、あの大西郷が、仕掛けた壮大な罠ですよ、これは。


あまりに的確すぎますよ、これは。

薩軍というものが、自分の設定する目的以外に動けないことを見切った西郷は、見事に、目標に邁進しているんですよ。

だから、桐野に会いたがらないんですよ、西郷は。


いやー、すごいですね。西郷という人間は。

いずれにしろ、この時点から、守りの薩軍、攻めの政府軍に、状況が変化するのです。


さて、この時期、この当たり一円に一揆が頻発します。


つまり、新たに起こった太政官政府のやり方が気に入らない連中が、薩軍と動きを合わせ自分らの言い分を通そうとしたわけです。


太政官政府は、盗人政権だ、という農民の言い分を、以前取り上げましたが、要は、太政官政府は、新たな文明世界をつくるべく、

鉄道や電信や、教育の普及、その他もろもろの欧州国家風の国への発展を希求したおかげで、その出費を、

農民たちからのお金で、賄おうとしたわけです。

それまで、各地の庄屋が、農民達を見ていた。そこには、江戸時代的倫理感があり、庄屋も農民を、農民も庄屋を信頼していた、そういうコミュニテイが

できあがっていたわけです。だからこそ、税金の確保もできたわけです。そういうコミュニティがあった。

しかし、明治政府はそれを破壊した。戸長といういわゆる税金及び寄付金取り立て者を新たに任命し地方地方に送りつけてきたのです。

どこの馬の骨ともわからない人間が、偉そうに農民達に、現金の供出を命じた。これまでの江戸的相互信頼性もない関係性から、半強制的に金を出させたわけですから、

コミュニテイは、破壊されるわ、金のうらみはあるわで、地方における太政官政府の印象は、明らかに、盗人政権に見えるわけです。


だから、農民達は、皆、西郷軍には、理解を示したのです。


「あの盗人政権を倒してくれるなら、何でもやらせてもらう」

そういう意見を言うものがあとを絶たなかったようです。薩軍と行動を共にする熊本共同隊、熊本隊、に対する態度も同じで、

彼らの滞在する村落では、珍味佳肴を供された、そうです。


つまり、この地方における人々の意識においては、西郷軍は、盗人政府から、農民達を救い出す救世軍だったのです。


それを、西郷そのひとは、どう見たか。

彼は誰よりも大久保利通という男を知っており、その理想も現実も知り抜いている。

彼は、日本がやがて、強国にならなくてはならないし、それは、ロシアの南下を防ぐためであることも、わかっている。

そのためには、強大な軍隊が必要だ、ということも理解していたでしょう。

であれば、盗人政権の行き方は、これは、仕方ないと考えていたはずです。


「農民達は、薩軍がいるから、希望を持つのだ。これを、破壊しなければ、日本の強国化は、到底なりえない」


彼は、それすら、感じていたでしょう。

だから、粛々と薩軍削除を、実施していった。

彼は、薩軍の存在が、あらゆる意味で、今の日本の将来に禍根を残すと考えていたのです。

だから、強い気持ちで、誰にも、何も言わず、行動していたんです。


将来を見据えていたからこそ、行動したんですよ。西郷は。


このあたり、時代の転機というのは、いろいろな状況を現出させます。


例えば、福地桜痴のように、東京のジャーナリストなら、汽車の出現をその目にするし、電信の発達を、それを利用することで、体感することができる。

でも、熊本の農民に、その太政官政府の成果とも言うべき、文明の発達というものを、理解せよ、と言っても所詮無理な話です。

だから、太政官政府は、盗人政府になるのです。


西郷は、太政官政府の大久保を信頼していたからこそ、安易に農民の味方などにならず、薩軍を削除したんです。

なんとなく、西郷というと、農民にやさしく・・・なんて逸話をたくさん残しているし、そういう性格の人間だったようです。

でも、真のところに、厳しさをもっていた。それが、西郷なんですね。



今日は、薩軍の状況変化と、農民の一揆が教えるもの、そして、それに対し巌のように動かない西郷の決意というものを見てきました。

なかなか、つらいですね。こういうのを、見ていくのは。西郷の悲壮さが、どんどんわかってきて、胸が痛いです。

それにしても、すごい男ですよ。西郷は。ほんと、胸のうちは、どれほど、悲愴だったか・・・。そして、孤独だったか・・・。


それを感じながら、今日は筆をおきましょう。


なかなか、悲愴な感じになってきましたが、こうやって、読み込むからこそ、西郷の気持ちに近づけるんですね。

だって、司馬氏の書いたのを、信用していたら、本当の西郷には、まったく近づけないでしょ?


ま、そのあたりも、これを、書いている目標ですからね。

素直に、感じていこうと思います。



今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。




第14章 「ほとんどの読者がこれまで目にしたことがないもの」

2010年09月30日 | 先人の分析
おはようございます!

えー、というわけで、木曜日の村上論考ですが、

第14章まで、きました。まあ、この天吾くんと、青豆さんのストーリーですが、

彼らは、小学生の頃、同級生だったんですね。そして、青豆さんは、天吾くんを、

好きなんだそうです。クールでワイルドな殺し屋に愛されるのもまた、クールでワイルドな感じですが、

彼らがどういう変遷を辿って出会うことになるのか、あるいは、それぞれの家族との関係性が、

どうなっていくのか、そこらへんに、興味がありますね。

この天吾くんも、青豆さんも、家族との関係性が、希薄なんですね。天吾くんは、母親はいないみたいだし、

父親とは、絶交状態のよう。青豆さんも、家族の気配すら、ない。

でも、こういう一種の成長ストーリーっていうのは、最初に、希薄にしてある、ということは、

関係性の成長のための準備とみることもできるんですね。これから、関係性を成長させたいから、希薄にさせておく、

ということです。まあ、そのあたり、どうなるのか、わかりませんが、少なくともこの天吾くんと、NHKの集金人の父親との

関係性については、何らかの設定の意図があるでしょうから、なにか、成長のようなものが、あるかもしれませんね。


さて、この章は、天吾くんのストーリーということで、奥手男性向けストーリーとして見ていきましょう。


どうやら、天吾くんは、ふかえりの「空気さなぎ」のリライトを完成させたようです。編集者小松と、新宿の喫茶店で待ち合わせをした

天吾くんは、ふかえりの複雑な状況から、

「計画の中止」

を口にします。しかし、もちろん、小松は、そんなことを、許しません。

「しかたない。時間を後戻しすることはできない」

と言って、こうなることは、彼の中では、予定していたことなのでしょう。

そして、ふかえりを人前に出たがらない謎の少女作家にする、ということを言うわけです。まあ、作家のひとって、大なり小なりそうところがありますよね。

まあ、大体、村上さんだって、ほとんど露出しないですからね。イスラエルで演説するところを見たのが久しぶりっちゃひさしぶりでしたしね。

まあ、そういうわけで、ふかえり計画は、進んでいくわけです。

ここで、小松がおもしろいことを言っています。抜き書きしてみましょう。

「あらゆる芸術、あらゆる希求、そしてまたあらゆる行動と探索は、何らかの善を目指していると考えられる。それ故に、ものごとが目指しているものから」

「善なるものを正しく規定することができる」

ま、アリストテレスの「ニーコマコス倫理学」だそうですが、ま、要は、芸術も希求も、行動も、探索も、善を目指しているのだ、ということですね。

それについて、小松は、

「ものごとの帰結は、即ち善だ。善は即ちあらゆる帰結だ。疑うのは、明日にしよう」

と言って、天吾くんを煙に巻くわけです。この言葉を使う限り、疑うことは永久にできませんね(笑)。

そして、これに対して天吾くんは、

「アリストテレスは、ホロコーストについて、どう言っているんですか」

と、こちらも考えうる限り最大の悪=ホロコーストという村上さんの意見的なセリフがあるわけです。もちろん、小松は、

「アリストテレスは、ここでは、主に芸術や学問や工芸について語っているんだ」

と、肯定も否定もせず、煙に巻く、ということをやるんですね。

なかなか、おもしろいですね。


小松という人物は、新聞紙上に文芸に対するコラムを書いているんだそうです。そこで、批判ができる。これを最大の武器にしているんだそうです。

「新聞に悪口を書かれることを好む人間など、まず、いない」

というわけで、文芸に関わる人間達は、小松を敵にまわさないようにしている、というわけです。まあ、僕はひとに批判されようが(悪口と批判は違うんだけどね)

なんとも思いませんけどね。一度徹底的に批判されると、それに慣れちゃいますし、まとはずれな悪口など、言っている方がおかしいとされますからね。

このあたり、村上さんの弱いところのような気がします。まあ、もっとも、イスラエルで、イスラエルの悪口言っちゃうんだから、あのひとも相当すごいけどね。

まあ、そういう小松さんの保険システムを、天吾くんは、あまり好きじゃない、ということが、主張されています。

そして、小松が、ひとつだけ頼みごとをするんですね。

「リトルピープルが空気さなぎを作り上げた時、月は二つになる。その二つの月についての言及が十分でない」

というわけです。そして、この章の題名になっているセリフが出てくるわけです。

「読者は、月がひとつだけ浮かんでいる空なら、これまで何度も見ている。そうだよな?しかし、空には月が二つ並んで浮かんでいるところを目にしたことはないはずだ」

「ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないものごとを、小説の中に持ち込むときには、なるだけ細かい的確な描写が必要になる。省いて構わないものは」

「あるいは、省かなくてはならないものは、ほとんどの読者が既に目にしたことのあるものごとについての描写だ」

というわけです。まあ、小松の編集者たる知識なんでしょうけど、要は村上さんの小説を書く上で、気をつけていることなんでしょうね。

これ、要は、

「うそをつくときは、なるだけ、詳細なうそをつけ」

ということなんですね。

そう言い換えると、この章の題名である「ほとんどの読者がこれまで目にしたことのないもの」とは、嘘ということになってしまうんですけどね。


さて、とにかく、天吾くんは、この小松からの依頼に答えることを約束し、最後に、小松に、

「人間の霊魂は理性と意志と情欲によって成立している、と言ったのはアリストテレスでしたっけ?」

と聞くわけです。すると小松は、

「それは、プラトンだ。アリストテレスとプラトンは、たとえて言うならメル・トーメとビング・クロスビーくらい違う。いずれにしろ、昔は物事がシンプルに」

「できていたんだな。理性と意志と情欲が会議を開き、テーブルを囲んで熱心に討論しているところを想像すると楽しくないか」

と、返すわけです。これには、天吾くんも、

「誰が勝てそうにないか、だいたい予測はつきますけどね」

と、返すわけです。これには、小松も、「君はユーモアがうまい」的にいうわけですけど、天吾くんは、「これはユーモアではない」と主張するんです。


この一連の流れは、何を意味しているんでしょう。


これ、結局は、「人間は、情欲に勝てない」って、言ってるわけでしょう?

そして、天吾くんは、

「理性は、きっと、勝てない」

と、考えているのが、だだわかりです。そりゃ、情欲と理性の戦いだったら、誰でも知っているように、得てして、情欲が、勝つことが多いですからね。

つまり、弱い人間への共感なんですね、これ。

そして、読者は、弱い人間だ、と規定して、それへの共感を生んでいる、ということなんです。ほう、すごいもんだ。


天吾くんは、本屋で、新刊書を書い、近くのバーで、ビールを飲みながら、読書を楽しもうとしました。でも、楽しめない。いつもの、

「母が父でない別の男に、乳首を吸わせている」

という幻影が、彼を邪魔するのです。そして、その母親の忘我の表情が、年上のガールフレンドが、オーガズムを迎える時の表情に似ているとして、

まあ、奥手男性向けエロ要素提出なわけです。

村上さんの確か「午後の最後の芝生」にも、同じような年上の、あれは人妻だったかな。その女性と、エッチする行為が描写されていましたが、

その時の雰囲気に似ていますね。まあ、描かれている年代、1980年代前半は、あの作品とも、ほぼ同じ時期ですし、奥手男性向きのストーリーであることは、

共通ですからね。

そして、天吾くんは、その年上のガールフレンドに、

「スリップを着てきてくれ」

と、頼んじゃうんですね。そして、幻影にあるのと、同じ状況・・・スリップの肩ひもをずらして、乳首を露出させ、その乳首を吸う行為を自分でしてみるわけです。

そしたら、射精しちゃった・・・というわけで、まあ、ある意味、激しく興奮してしまったということですね、これは。

このとき、女性は、

「何かそういう妄想みたいなものがあるのなら、なんでもお姉さんに打ち明けてね。しっかり協力してあげるから。私も妄想って大好き。多かれ少なかれ」

「妄想がなくっちゃひとは生きていけないのよ。そう思わない」

と、言うわけです。まあ、村上さん的、見解というやつでしょうか。

まあ、なんというか、お姉さんにってところが、ちょっとひっかりましたけど、なんとなく、二人の関係性は、そんな感じなんでしょうか。

確か、この人は人妻のはずなんですけど・・・と、考えたら、そうか、これは、奥手男性向きだから、お姉さん的に呼ばれたい、奥手男性の気持ちを考えて、

こういう、ちょっとリアルに欠ける書き方になっているんですね。


エッチに前向きで、ノリノリで、コスプレだろうが、なんだろうが、協力してくれる、お姉さん。


これ、奥手男性にとって、夢のような話でしょうからね。なるほど、そういうことか。

ま、妄想力なんて、言葉も、あるくらいですからね。妄想って、大事だと、僕も思います。

まあ、物語をつむいでいる立場からすれば、毎日、妄想しているわけですからね(笑)。ま、妄想は、大事です。はい。


天吾くんは、ひとつの答えを出しているようなんですね。その幻影の男が、自分のほんとうの父親なのではないか、という。

彼が、NHKの集金人の父親といかに違うかが、ここに語られるわけです。父親は、知的好奇心を持ち合わせず、普遍的なレベルで知識を得たいという願望がない・・・

それに対して、天吾くんは、まったく逆だったりするわけです。そして、数学の神童のようにも、周りから思われていた。

そんな天吾くんを、父親は、鼻高々にしていたりするわけですが、どうも、父親には、天吾くんに嫉妬心、あるいは、天吾くんの中のなにかについて、

憎んでいる、とまで、考えているんですね。その父親の行為や、自分との差異を考え合わせた天吾くんは、

「このひとは、本当の父親でない。誰か別の男が父親なんだ。僕はここに居るべきではない。どこか別の場所へ旅立たなければいけないんだ」

というディッケンズ的ストーリーに、あこがれを持っちゃうわけです。


天吾くんは、日々の憂さを、数学の世界に逃げこむことで、はらしていました。そこには、自由があり、合法的なそして、どこまでも安全な隠れ家だったんです。

それに対して、ディッケンズに代表される物語の世界は、深い魔法の森なんだそうです。数学が、天上に伸びていくのとは、対照的に、物語世界は、地中深く張り巡らされた

頑丈な根だ、と言うんですね。

数学の世界は、魅力的だったけど、その世界から、戻ってくると、あるのは、惨めな檻の中という現状。その事実に気がついた天吾くんは、

「それは、一時的な逃避先に過ぎない」

と、見切り、数学の世界から、距離を置くようになったのです。それに対して物語の世界は・・・と物語の世界について語られるわけですが、次に書いてみましょう。

「物語の世界では、どれだけものごとの関連性が明らかになったところで、明快な解答が与えられることはまずない。そこが数学との違いだ」

「物語の役目は、おおまかな言い方をすれば、ひとつの問題を別のかたちに置き換えることである。そして、その移動の質や方向性によって解答のあり方が物語的に示唆」

「される。天吾は、その示唆を手に現実に戻ってくる。それは、理解できない呪文が書かれた紙片のようなものだ。時として整合性を欠いており、すぐに実際的な役に」

「立たない。しかし、それは、可能性を含んでいる」

「いつか自分はその呪文を解くことができるかもしれない。そんな可能性が彼のこころを、奥の方からじんわりと暖めてくれる」


つまり、数学では、ある解答が与えられているが、それは、その数式に対する答えでしかない。

物語には、現実世界の自分を、直接、暖めてくれる可能性がある。

そう、村上さんは、言いたいわけです。かなり、回りくどい表現では、あるけれど。

ま、数学を愛していた天吾くんに、リアルを持たせると、こういう考え方になる、ということでしょう。


ここは、とっても大切なところだと、思います。数学の美しさと限界、物語の可能性に言及しているわけですからね。

そして、数学の神童だった天吾くんが、なぜ、小説家を目指しているかの答えなんですね、これ。

そして、若い頃の村上さんが、ここに表現されているのかもしれません。物語の可能性を知ったがゆえに、小説家になってしまった、村上さんの昔が、ここに描かれている

のかも、しれないですね。


さて、日曜日の地獄を味わい続けた天吾くんは、小学五年生のとき、

「もう、NHKの集金につきあいません」

宣言をするわけです。もちろん、父親は、大激怒。家を出て行け宣言をされ、小学校の担任教師に理由を話し一泊させてもらって、次の日、その教師が、父親と話し合い、

結局、天吾くんは、その地獄から、開放されるわけです。まさに、ディッケンズ的開放です。

その教師は女性なわけですけど、天吾くんは、高校二年生の時に、ブラスバンドのティンパニー奏者として、あるコンクールに出た際に、その女教師と再会するわけです。

「私の姪が別の高校のブラスバンド部でクラリネットを吹いていて、ソロをとるから聴きにきてくれっていわれたの」

ということで、その女教師は、

「まるで若い娘のように、もじもじしている」

わけです。つまり、天吾くんは、その時点で、年上女性を魅了する魅力を備えるようになっており、

「そして彼は年上の女性と一緒にいると、不思議に落ち着くことができた」

という、彼の能力の一旦が、語られるわけです。


まあ、ここで、大切なのは、ディッケンズ的開放が、天吾くんに訪れ、そして、年上女性に愛される天吾ということでしょう。

ディッケンズ的開放は、ストーリー的に大切ですが、年上女性に愛される表現は、これは、もう、奥手男性向けの施策であることが、だだわかりで、

奥手男性にとって、年上の女性って、自分をリードしてくれる女性として、めちゃくちゃ魅力的に見えるということなんでしょうね。


さて、この章は、これで、終わるわけですが、ここで、一番大切なのは、やはり、物語の可能性に目覚めた天吾くんと、ディッケンズ的開放の訪れという奴でしょうね。


地獄からの開放は、天吾くんに、新しいステージへの移動を予感させますし、それが、ディッケンズ的であることに、さらに意味があるわけです。


「僕はこの父親の子供ではない。誰か別のひとの子供だ。僕は旅に出なければ」


というストーリーは、「スターウォーズ」のルークの話にも、採用されているように、普遍的な父親息子ストーリーです。


つまり、多くのひとが、最も共感するストーリーなんですね。なぜ、スターウォーズがあれだけ愛されるか、その理由のひとつに、この普遍的父息子ストーリーを

採用したことが、挙げられるわけです。僕は、この村上さんの小説を、マーケティング完璧小説と、言ったことがありますが、

やはり、ここで、その要素が出ましたね。


では、女性の普遍的ストーリーは?と言ったらこれはもう、シンデレラでしょう。


「私は姉達や継母に虐げられている。王子様、わたしを見つけて、わたしを救いだして」


これです。でも、これ、よーく考えると、対に、なっているんですよ。この男性と女性の普遍的ストーリーは。


そして、現実逃避ストーリーでもあるんですね。多分、多くの男性や女性が、現実逃避のために、妄想したストーリーがこれなんでしょうね。


ということは、天吾くんは、青豆ストーリーで、シンデレラの王子様役をやるのだろうか?


そんなところに、発想がいきますね。


いずれにしろ、天吾ストーリーは王道な、父息子ストーリーを歩み始めた、それが、わかったのが、この14章だと、言えますね。


それが、結論かな(笑)。


いやあ、いろいろなことが、わかって、おもしろいですね。


この論考は、一週間の中で、一番疲れます。時間もかかります。

でも、それだけ、いろいろなことを、教えてくれる、論考になっていると、思いますね。

まあ、とにかく、長くなりましたが、結論が出ましたので、この辺にしたいと思います。


ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。



村田に見えて、篠原に見えなかったモノ(東京人は、知っていた!)

2010年09月28日 | 先人の分析
おはようございます!

またも、雨ですねー。

いやあ、秋の長雨になっちゃうんですかね。

まあ、今年の夏はほんとに、雨知らずだったから、

農作物的にも、いいのかもしれないけれど・・・。

ま、あんまり、雨はね・・・。


いやあ、しかし、司馬さんの「翔ぶが如く」を遡上にあげて、何ヶ月経つのだろう?

もう、こればっかりになってしまいましたが、まあ、少しずつ、いろいろなことが、

動き出してきて、おもしろくなってきましたね。

まあ、僕は「龍馬伝」批判もやっているわけですが、こっちの西郷もひどい描かれようというわけで、

まあ、なんだか、いろいろ、連想が湧いておもしろいですよ。

いずれにしろ、偉人から、いろいろ学べるのが、おもしろい。いろいろな結論が僕の中にできあがって

いきますが、とにかく、歴史の敗者であろうと、勝者であろうと、自分の正義に素直に生きていることが、

よくわかります。


僕は、歴史の勝者であることだけに、価値があるとは、思えない。

西郷達がたどった道にも、また、価値がある、僕は、そう見ていますね。

勝者にばかり、価値をおき、そればかり見ていたから、司馬氏は、浅いことしか、考えられなかった。

結局、それは、敗者であることと、同じなのではないでしょうか?

僕は、今、そう思っていますね。


さて、前回、薩摩は、二月二十七日の高瀬の第三戦に敗れた話をしました。

それでも、彼らの中では、

「薩摩は、強く、政府軍は、弱い」

という意識があり、満足感もあるくらいなんですね。

そして、

「負けた」

という意識は、あまりなかったんだと、思うんですね。

逆に、

「相手は弱い。これなら、勝てる」

という意識が、強かった。もちろん、自分たちが弱いなんて、口が裂けても言わない連中だったとは、思いますが、

「まだまだ、緒戦」

という意識が強かったのだと、思います。そういうあたりの感情が、薩摩を支配していたとみるべきでしょうね。

大切なのは、現実ではなく、この場合、彼らの感情だと、僕は思います。



さて、薩軍の将領達は、菊池川の東岸、伊倉村に集結しています。

そして、彼らは軍議をしたらしいのですが、これについて、司馬氏が、次のように書いています。

「西郷ひとりの声望に無限に近い価値をおき、それのみそ政・戦略の代用としてきた(決起前の桐野の言葉にある「天の利、地の利によって起つことがあるが、」

「この度は、人(西郷)によって起つ)薩軍の欠陥は、このときもまた、露呈した。<中略>最初に大本を樹てておかなかったため、この敗戦の火事場騒ぎの中で」

「さしあたっての実務を論ずるよりも、大方針について論ぜざるを得なくなったのである」

まあ、このひとの文章を読んでいると、小学生の学級委員が、勉強のできない友人のやり方・・・例えば宿題をいつもやらない、などの・・・それを

「宿題をやらないから、頭がよくならないんだ」

と、主張するような、誰にでもわかるような浅い議論を主張しているように見えます。

つまり、自分は正しいやり方を知っているから、間違いを指摘しているんだ、という軽い侮辱感が、感じられるんですよね。

しかし、人生とはそういう簡単なものではない。例えば、宿題をずーーっとやらずに、先生から怒られることで、精神力を鍛えることになり、

結果、その学級委員が、たどる人生より、もっと、高度な社会的価値を果たせる仕事についたりするのも、また、人生だったりするわけです。

この司馬というひとの致命的な欠陥は、自分がそれほど、大した経験もしていないのに、

「俺は頭がいい」

と、勘違いしていることです。あまりにも、経験が浅く、物事が理解できていない。ほんとうに、致命的欠陥をその脳みそにもつ、失笑者ですねー。


本来、薩摩というところは、お先師にすべてをまかせる団体だ、と説明してきたのは、司馬氏ではなかったのですか?

この団体の先師役は、西郷が務めているわけです。だから、皆、その指令を実行するだけなんですよね。

だから、大本など、決める必要はない。要は、薩軍ひとりひとりも、自分の身体を投げ出しているんですよ。西郷に。


しかし、薩軍の戦国時代的、戦の遂行方法で言えば、その場その場で、融通無碍に、絵を描いていくことを、最上としているのでは、ありませんか?


お先師である、西郷が、大本を握り、それ以下の将領たちは、現状を見据え、その場その場で、絵を描く。

だから、今、それをやろうとしているんですよ。

何も問題は、ないじゃないですか。単に司馬さん、あんたが、間違いだ、としているだけで、じゃあ、大本をこの将領達が、最初から、打ち立てていたら、

勝てるんですか?東京まで、行けるんですか?違うでしょう。だったら、そんなの指摘する意味は、ないじゃないですか。

というより、彼らは何を考え、こういう行動をしているのかを、しっかりと読み解き、その説明をするのが、筋ではありませんか?

意味のあることなんじゃないんですか?要は、あなたは、ただ単に彼らをくさす目的のために、この文章を書いているに過ぎないんですよ。

否定のためだけに、文章を書いている。だから、あなたは、不幸なんです。


彼らは、前にも指摘しましたが、政府軍に対して戦うことに喜びを感じている。それでいいんです。

思い切り戦うことを目的としている。自分らの正義に殉じていくことに、喜びを感じているんだ。

自分たちの正義のために、戦うことこそ、彼らの戦いの理由だ。

だから、大本なんて、意味はない。なぜなら、彼らの中に、正義があるから。それだけで、こと足りているんです。

そして、西郷が、それを、先師として、握っていれば、それでいい。そして、将領が、その場その場で絵を描くことこそ、彼らの流儀なんだ。


それが、彼らのシステムであり、そのシステムで、勝てばよし、負けたところで、死ぬだけだ、というのが、彼らの価値観なんですよ。

これまで、見てきた、薩軍の様子から、それが、よーく、わかりました。


だから、ここで、議論することは、当然な感覚なんですよ、彼らからすれば。わかっていないのは、司馬さん、あんただけなんですよ。


「議論は、熊本城など放り出して、さっさと九州を横切って東京へ出るか。それとも、全力をあげて熊本城攻撃にかかるか、ということであった」

「「こういう中途半端なこと(兵力の一部をもって熊本城をおさえておき、一部を持って外の敵にあたるということ・・・西郷自身がめずらしく決めた方略)」

「を繰り返していてもだめだ。どちらか一つを採るべきだ」というのが、篠原国幹の考え方だった。そのどちらかを採るとなれば篠原は薩軍の全力をあげて」

「熊本城を攻めつぶすというほうだった。熊本城を開かせてその武器弾薬および食料を自軍のものにし、しかるのちに東上する、というものである」

まあ、司馬氏は、小説家ですから、創作もかなりしただろうと、考えられます。この篠原の考え方にしても、このひと、相当な無口で通っているわけです。

しかも、文章を残したひとではない。よって、この部分は司馬氏の創作だろうと、考えられるわけです。というのも、この後に、村田新八の考えが説明されるわけですが、

それを強調するために、篠原は、多分、こう考えているという文章を置いているにすぎないからです。

じゃ、村田について、書いているあるところを見てみましょう。

「村田新八は、違っていた。彼は元々、桐野・篠原が主導して西郷を引き入れたこの暴発には反対だった。西郷がのっかってしまったために、西郷への情誼ということだけ」

「を理由に自らもその部将のひとりになって戦場に立っているのである。西郷の征韓論についてさえ村田は懐疑的<中略>」

「村田からすれば、篠原の二者択一論も空論であることを免れない。彼はことがこうなった以上できるだけ着実にやることだ、としていた。占領地を踏み固め、戦いには」

「補給を堅固にし、決して軽挙妄動をしてはならない、ということだ」

ここまでに、村田という人間は、篠原・桐野より、司馬氏的には、頭がイイと、表現されてきました。

彼が、権力を握り、篠原・桐野を動かす位置についていれば、高瀬の戦いも、勝てるとしていましたからね。


しかし、この内容をみてください。

村田は、この内容を伊倉村の会議で、主張した、ということが書かれているので、まあ、それを事実として考えてみると、

戦争継続の目的が、ないことに、気づくんですよ。


なぜ、篠原や村田が、会議をしたか、と言えば、当面の目標を打ち立て、モチベーションアップを測るため、というのは、明白なんですよ。

なぜかと言えば、政府軍を打ち破れなかったからです。自分達以上に、武器に特化し、戦術的退却を繰り返し、融通無碍に戦う政府軍に対して、

薩軍は、本能的に恐れをもったんだと、思うんです。だから、その恐れを、抑えるために、モチベーションアップを図らざるを得なかった。

だから、当面の目標を欲したわけです。

そして、それを考えるのが、この将領たちの仕事だったのです。


篠原が、考えたとする説をまあ、実際にどうだったかを別にして、篠原案として考えてみましょうか。

この案は非常に具体的です。目的もしっかりしている。東上のための武器弾薬を奪い、食料も奪う。すべては、東上のためだ。

わかりやすいし、目の前の敵をつぶしていく、という考えは、薩摩武士にとって、当然の考え方ですから、

もっともモチベーションアップを図れる案なんですよ。だから、篠原がほんとうに、これを押していたとしたら、彼はやはり、

物事の見える将領だったんですよ。薩摩武士として、仕事のできる将領だったんです。

もちろん、それが、実際に、やれるか、どうかは、また、別問題です。


それに対して、村田案には、目的が、ない。

篠原の案が薩軍のモチベーションアップに資するのに、対して、全然資するところがないんです。

というか、この案、まるで、村田が、西郷の薩摩士族削除の決意を、知っているかのようなんです。

だって、現状維持が、この村田案でしょう?モチベーションはアップしないは、かといって、目的もない。

なんとも、中途半端。これ、何に資するかって、西郷の意図にのみ、資するじゃないですか!


これ、村田は、西郷の意図を知っていた、傍証になるじゃありませんか!


そうか。だから、自分たちが死んでいくことを知っていた村田は、フロックコートで、自分を、飾りあげていたんだ!


まあ、いずれにしろ、村田は、この高瀬の戦いで、薩軍の将来を見切ってしまった、ということでしょう。

彼が司馬氏のいう、できる子であったとすれば、現実的に負けているにもかかわらず、

「俺たちは、強い!」

と、する薩軍の正体も見えたであろうし、政府軍が湯水のように鉄砲を撃つ状況から、政府軍の補給能力の高さも知ったと思います。

だから、将来が、見えてしまったのが、村田だ、ということにもなります。

だから、篠原のように、目的をもった案を出せなかったとも、言えるんですね。


少なくとも、篠原は、将来がまだ、見えていないから、目標を持って、ただ、戦うだけだ、とし、

村田は、将来を見極めてしまったから、あとは、堅固にするだけ、と言ったのでしょうね。


人間、何を口にするかで、その頭の中がわかってしまうんです。


そうやって、その人間が、何を考えているかを、見ながら、事態を見ていかないと、司馬氏のようなとんちんかんな説明になってしまうんですね。


さて、ここに福地桜痴の東京日日新聞の記事が掲げられていますので、それを見てみましょう。

「成程、薩兵の名は虚しからず。其の強きこと論に絶えたり。恰(あたか)も昔時、アラビヤの野蛮が凶暴なりしと一般にて」

これ、おもしろいですね。福地桜痴に、東京の記者である、自負が見えます。多分、福地は、時間をかけて、遠く戦場にやってきたのでしょう。

三月になって、戦場にやってきたとされています、からね。その長い移動時間への怒りが、

「薩軍は、確かに強いけど、辺境の野蛮だから、強いんじゃね?」

という言葉を吐かせているんでしょうね。こういう当人の文章だからこそ、味わえる味がありますね。

そして、これ。もうひとつ、言っていることがあります。

「野蛮」ということは、文明化されていない、ということです。明治も10年になれば、文明の力、というのを、特に東京人は、理解していたはずです。

文明が急速に進んでいくのを目の当たりにした、東京人は、幕末と現在の大きな違いを、痛感していたはずです。

そこにもたらされる情報としての薩軍の軍備・・・幕末程度の軍備の軍隊、という情報を東京人は、どうみたか。


「いくら、野蛮が強くても、文明の力には、勝てない」


この言葉が、この文章の裏側から、透けてみえるんです。

つまり、この西南戦争とは、文明対非文明の戦いでもあったんですね。

文明人である東京人と、幕末で時代が止まっている薩軍。

その戦の結果は、東京人には、わかっていたんでしょうね。


いやあ、おもしろいですね。当時のいろいろなひとの想いが透けて見えます。


だから、大久保も、薩軍が起ったときに喜んだんですね。


自分たちの置かれている立場が、わかっていなかったのは、桐野と篠原と、薩摩武士だけなのかもしれません。


そうなってくると、いよいよ、厳しくなるわけですが、


まあ、そこらへんは、次にまわしますかね。


いやあ、ジャーナリストの言葉って、おもしろいですね。


いろいろなものが、そこから、透けてみえる。

やはり、生の言葉だから、いろいろなことがメッセージとして伝わるんですよ。


いやあ、なかなか、楽しい論考になりました。


今日もここまで、読んで頂きありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。



第13章 「生まれながらの被害者」!

2010年09月23日 | 先人の分析
おはようございます!

さて、今日はお休み!ということで、

まあ、こーゆう、平日の祝日というのは、なかなか、味があっていいですね。

なんとなーく、ラッキーな感じがして、それが、楽しい。

ちょっとした陽だまりのような日で、まあ、でも、今日雨らしいですけどね(笑)。


さて、木曜日の村上論考です。1Q84というこの本は、長く村上ファンを続けてきた人間には、

やはり、読んでいて楽しいものがあります。なんというのか、村上要素が、そこここに散りばめられているし、

ああ、こういう表現は、男性を、こういう表現は、女性をターゲットにしているのか、

というあたり、バッチリわかるしね(笑)。そういう意味では、僕は、肉食女性をターゲットにしているはずの、

青豆さんストーリーのほうが楽しめます。まあ、ちょっとおかしいんでしょうね、感覚が(笑)。

さて、13章ということで、ここから、BOOK1の後半に入りますが、なにしろ、BOOK3まで、あるからなあ・・・、

と遠い目をしております。


さて、んじゃ、今日も始めますか!というわけで、今日は女性向け、青豆さんのストーリーです。


さて、青豆さんの前回のストーリーでは、シングルズバーで、婦人警察官のあゆみと知り合い、ターゲットをナンパしようとしたところで、

終わりました。というわけで、今回は、その次の日の朝から、ということで、壮絶に二日酔いな青豆さんから、話が、始まります。


青豆さんは、全裸で自分のベッドに寝ていた、という事実から始まります。まあ、これ、僕、この夏、毎日こんな状況でしたけどね。

暑くて、気がつくと、服を全部取っちゃう、ということなんですけど、まあ、前日の記憶があやふやだったりするわけですね。

そういう不安を感じながら、まず、シャワーを浴びて、性器と肛門を丹念に洗うというわけで、それで、前日のセックスライフがどんなだったか、が想像できるわけです。

そして、推理小説さながら、自分の持ち物から、いろいろ推理していくわけです。

まず、財布を確認して、あれも確認して、これも、確認して、みたいな、まあ、ちょっとした日常の恐怖ですよね。

そして、コンドームが四つなくなっていることに気づくわけです。


昨日は、どうだったか、青豆さんは、記憶をたどるわけですが、四人で飲んだあと、四人で、ホテルに行き、パートナーに決めていた男と寝たわけです。

そして、また、四人で合流し・・・それから、ごにょごにょ、という感じで、肝心な記憶がない。とすれば、もちろん、ここで、あゆみさんから電話がかかってくるわけです。


このあたり、まず、村上さんは、二日酔いを体験したことがない、とどこかのエッセイで書いていたのを覚えています。

まあ、けっこう若い頃に書いていたから、今は、二日酔いを経験されたのでしょうかね。僕も最近は、二日酔いを体験していませんね。

というのも、最近は、お酒を飲むと、すぐ寝ちゃうので、そんなに大量に飲むことが、少ないんですよね。

だから、二日酔いにならない、ということで、まあ、いいのか、悪いのか、よくわかりませんけどねー。

にしても、この青豆さんは、ワイルドなセックスライフですねー。いやー、何が彼女をこういう生活にしているのか、そこらへんが気になるところですね。


さて、あゆみさんは、その時間、しっかり警察のお仕事をしていて、さらに都内の高校で、コンドームのつけ方まで、指導しているひとだった、ということになるわけです。

もちろん、青豆さんが、避妊していたか、どうか、ばっちり確認する必要性があるので、どうしても、そういう役柄にならざるを得ないんですよね。

まあ、いわゆる、ストーリーが登場人物の役柄を決める、という奴で、青豆さんが、酔っ払っている状態でセックスしたときに、避妊した証拠を言い立てる

人間が必要だから、あゆみさんは、そういうひとになっているわけですねー。だって、女性警察官が、高校で、コンドームのつけ方を教えてまわっていたら、

やっぱり、それは、それで、セックスの奨励みたいな、感じも与えるから、問題視されちゃうよねー。しかも、1984年の時代性としては、それはありえない。

まあ、1Q84の村上ワールドだからいいの!というのが、村上さんの言い分でしょうけどね。


さて、青豆さんは、その午後、例の柳屋敷のおばさまの体をマッサージする日で、二日酔いをどうにか、治し、柳屋敷に向かうわけです。

そして、彼女にマッサージをしながら、そのおばさまから、質問を受けるわけです。

「あなたには好きなひとが、いるのかしら」

と。すると、青豆さんは、

「好きなひとは、いる。しかし、相手は自分のことを好きでない。なぜなら、自分の存在を知らないからだ」

と、こころのうちにある、好きなひと、ストーリーを、教えてくれるわけです。それに対しておばさまは、

「昨日は、はめをはずしたのね」

と、やさしく言うわけです。まあ、いろいろな体験があるから、いろいろわかっちゃう、ということで、

こういうひとは、ちょっとこわいなあって感じですね。

それに対して青豆さんは、

「そういうのが、必要なんです。ときどき。あまり誉められたことじゃないことは、わかっていますが」

と、言うわけです。

それについて、おばさまは、普通にしあわせになればいいのに、という見解を示すのですが、青豆さんは、

「それは、無理でしょう」

と、受け流す。どうもなにか、秘密がありそうなわけですね。ま、好きなひとストーリーも謎ですが、いろいろ謎な青豆さんです。

そして、おばさまは、

「あなたは、何も損なうようなことは、していない」

と言うわけです。これ、青豆さんの前章(第11章)のストーリーで、

「慢性的な無力感は、人を蝕み損ないます」

と、青豆さんが言ったセリフに関連しているんですね。

つまり、村上さんは、ひとを損なう、という行為が、最も人生でいけないことなのだ、と考えているということです。

だから、おばさまは、

「あなたは、そうなっては、いない」

と、言ったわけです。ただ、自分を損なう、という言葉は、ちょっと抽象度が高い。

これは、なぜか、と言えば、読者は、自分なりの損なう行為を、そこに当てはめるからで、あまりに具体的すぎると、読者の幅が限定されるからなんですね。

広い読者層に、アピールするために、抽象度が高くて、でも意味のある言葉を使っているわけです。


ここで、唐突に大塚環さんの死が説明されます。あの高校生の頃のレズビアンごっこから、相当経ってますからね。その後の青豆さんと環さんのストーリーが

語られるわけです。環さんとは、高校のソフトボール部のチームメイトになり、青豆さんは、そのソフトボールに打ち込んだ。成績もよく、

体育大学から奨学金をもらい、大学のチームの中心選手として、活躍する。環さんは、一流私立大学の法学部に進み法律家への道を歩む。

二人共道は違ったが、親友同士だった。しかし、大学一年の秋、環さんは、処女を失っちゃうわけです。テニス同好会の一年上の先輩に、無理やりレイプ。

よくあるパターンなのかな?でも、大学一年の秋って、けっこう、そういうひと(レイプじゃなくて、処女でなくなったってことね)が、多かったような記憶がありますね。

こう春に知り合って、夏を乗り切って、なんとなく、うまくいくのが、秋くらい、という感じがしますからね。

そういうラブストーリーを何度か経験しましたねー(笑)。


さて、肝心の環さんですが、それが原因で、うつ状態になってしまうわけです。一ヶ月で6キロもやせたそうで、それはちょっとひどい状態ですね。

環さんからすれば、

「環が相手の男に求めていたのは、理解と思いやりのようなものだった。それさえ示してくれたなら、また、時間をかけて準備段階を作ってくれたなら」

「身体を与えること自体は、それほどの問題でもなかったはずなのに」

なんだそうです。でも、男は身勝手に奪い取り、それが元で、環さんは、深い無力感に陥ってしまった。ここにも、無力感という言葉が使われているわけです。

つまり、女性の共感、というところに、この無力感というワードがフィットするんですね。うーん、なんか、この説明、ルーライク(笑)。


さて、親友をそういう状態にされた青豆さんは、怒ったわけです。そして、個人的に制裁を加えることにした。相手の住所を割り出し、環さんが法事で出かけている時を

見計らって、相手の部屋に侵入し、とにかく徹底的に破壊した。水洗便所の水槽のストッパーさえ外して破壊した、というから、徹底的ですね。

つまり、青豆さんは、怒ると行動するわけです。そう、人間の行動エネルギーは、怒りによって、最も大きく発現しますからね。


さて、環さんは、頭も良いし、ソフトボールをやっているときは、注意深いプレイヤーだったそうです。しかし、致命的なことがあったんです。

男を見る目が、まったくなかった。外見ばかりに固執し、中身を考えない女性だったのです。

まあ、そういう女性は、少なからずいますからね(笑)。

それについての青豆さんの助言は、全然受け付けられなかった。まあ、そこは、自分の人生ですからね。そういうあたりは、自分の好きにやらせてくれ、

という意識は誰にでもあるでしょう。自分の生き方に、いろいろ言われたくない、というのは、誰でもそうでしょうしね。


環さんは、二十四歳のときに、資産家の息子で、外見はよいのだが、中身の空疎な男と結婚してしまうんですね。


そのとき、青豆さんは、初めて思い切り、

「この結婚は、うまくいくわけない」

と、言い切ってしまうんですね。そこで、もちろん、喧嘩。結婚式にも青豆さんは、いかなかったそうです。しかし、新婚旅行後、やっぱり仲直りするわけです。

さすが、親友同士ですね。でも、結婚生活に入った環さんは、あまり外出もできなくなり、青豆さんとの関係も希薄になっていったんですね。

青豆さんは、孤独になった。でも、

「誰かと個人的な深い関わりを持つことが、青豆には、苦痛だった。それなら、むしろ孤独なままでいる方がよい」

なんだそうでした。


そして、そんな中、環さんは、自殺してしまうわけです。二十六歳の誕生日を三日後に控えた、風の強い晩秋の日に。原因は、夫のDV。

自殺の直前、環さんは、最後の最後に、手紙を青豆さんにくれるわけです。そこには、彼女の自殺の理由、

「無力感というおぞましい牢獄に入っています」

が語られていました。そして、

「私にはもう救いはありません。てきれば私のことをいつまでも覚えていてください。いつまでも二人でソフトボールをやっていられればよかったのだけれど」

と、さよならを彼女は、言うわけです。環さんを殺したのは、無力感だったんです。


青豆さんは、この親友を殺した男を許さなかった。まあ、レイプだけで、部屋を爆撃された後のようにしてしまう青豆さんですからね。

そして、例のワイルドな殺しの手口を考えつくんです。アイスピックのような特殊な器具で、首のある一点を突く。

まるで、藤枝梅安のように・・・。そして、それを実行し、お祈りまで、唱えた。

そして、殺した男に対して、

「王国をその男の頭上に到来させた」

としているのです。そう、王国を到来させる、ということは、相手を、あの世へ送ることだったんです。

そして、彼女が、唱えた文句は、

「天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたされますように。私たちの多くの罪をお許しください」

「私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与えください。アーメン」

です。

これは、天吾ストーリーに出てきた、あの、少女のお祈り。つまり、青豆さんはあの「証人会」の少女だったのです!

そして、彼女の、好きなひとは、多分、天吾くんなのです!


なるほど、この章で、天吾ストーリー、青豆ストーリーは、つながったんですねー。

青豆さんが、子供の頃、家庭の問題で、親戚の家にいたのは、「証人会」の問題があったからなのですねー。

そして、青豆さんは、小学生のころに、天吾くんを好きになった・・・だけど、それは叶えられず、青豆さんも心の奥深くに押し込んだまま、

今度は、環さんとつながった。でも、切断されてしまった。だから、彼女は、女性の敵を殺す、クールでワイルドな殺し屋になっちゃったんですねー。


青豆さんは、この殺し以降、男の身体を求めるようになった、としていますから、彼女がレイプにあったわけでは、ないんでしょうね。

この環さんのストーリーがあったから、レイプされたり、自殺してしまったり、があったから、

無力感を敵と考え、レイプを敵と考える人間になったんですね。だから、マーシャルアーツを習い、キン蹴りを実戦形式で、教えたりするようになったんですね。

ストーリーには、原因と結果が必要です。原因のないところに、行動はない。

青豆さんは、そういう原因で、これまでの行動をしてきたわけなんですねー。

というわけで、この章で、やっと、青豆さんのある程度、全般の説明が、できあがった、と見るべきなんでしょうね。


ただこの章には、1Q84要素の展開がありませんでしたね。やはり、この章の目的は、天吾くんとのつながり、と青豆さん全般の説明終了を目的としていたので、

そちらが、メインとなった、ということでしょうか。

このあと、1Q84要素が、どう展開するのか、天吾くんストーリーとどうつながるのか、が興味になってきますね。

そして、どうやって、青豆さんが、今の仕事をするようになったか、柳屋敷のおばさまとの関係も目が離せないところです。

宗教とその信者という登場人物が、増えてきました。村上さんが、宗教者というものに対して、どういうストーリーを与えるのかも、気になるところです。


いずれにしろ、青豆さんが、いろいろなところとつながった、本章というのが、今日の結論になるでしょうか。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


頭がいい!とか、悪い!という評価は、意味がない!(フロックコートの意味)

2010年09月21日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、すっかり秋ですねー。

もう、すっかり温度も下がって、昼間、自転車に乗っていても、涼しくて

まあ、サイクリングには、いい季節ですね。

でも、これ、1週間、2週間と経つと、寒さに変わってくるんでしょうねー。

ま、いつまで、Tシャツ、短パンが楽しめるのかなあ?って感じですけどね(笑)。


さて、今日は、「翔ぶが如く」シリーズということで、

まあ、なんというか、論考シリーズの中でも、古くからやっているシリーズなので、

まあ、リラックスできるというか、怒りのエネルギーがわくというか(笑)。

結局、この論考をしてきたことで、

「まちがいだと思ったら、素直にその点を指摘し、怒り、書いても良い」

と、勝手に勘違いして書いてきたわけですからね(笑)。

まあ、それで、

「ひとの本を読み、勝手に突っ込む!」

という方式もできてきたわけですから、この論考シリーズの母と言ってもいいわけです。

ま、だから、今回も素直に、怒るところは、怒りながら、書きたいと思いますね。

だいたい、土日で、自転車トレーニングを本格的にやって、アドレナリンをガンガン出してきたわけですから、

ま、まだまだ、アドレナリンは、出やすいよ!ということで、進めていきましょうかね!


さて、今日は、冷たいレモンティーなどを、ぐびびと飲んで、ゆるゆると論考をはじめていきましょう!


さて、前回は、この西南戦争の関ヶ原とも、言われた高瀬の第三戦の様子を見ました。

菊池川の東から進出してきた薩軍は、三方から攻撃した。しかし、遠方からの銃撃戦に特化した政府軍は、

容易に薩軍の渡河を許さず、唯一、総軍で、渡河した桐野隊も、うまくあしらった感じになりました。

西郷の弟、西郷小兵衛は、戦死し、西郷は、涙を秘し、強い精神力を見せたのでした。


さて、この高瀬の第三戦について、司馬氏は、次のように書いています。

「この高瀬の第三戦ほど、薩軍に勇卒があって名将が存在しないことを証明したものはない。彼らは確かに三道に分かれて西進し高瀬にせまった」

「中央(篠原)右翼(桐野)左翼(村田)という風に分進したことは、多少、玄人らしくあった。が、渡河すべき菊池川(南北)の線にいおいて」

「同時に敵を圧迫し、攻撃すべきだった。しかし、三者は、甚だしく到着時間を異にし、到着するごとにばらばらに攻撃した<中略>」

「政府軍は、薩軍の三梯団を各個に応接した」

「いかに薩軍が戦略に暗かったと言っても、この戦線における指揮の統一をはかっておれば、こういうことは、なかったかもしれない」

司馬氏は、「戦とは、勝たなければ、意味がない」という立場をとっています。

これは、第二次世界大戦に敗退した、当時の日本兵の共通した思いでしょう。

その一般の思いをうまく使って金儲けしたのが、この司馬氏ですから、まあ、レベルが低い考え方になるのは、当然なんですね。

さらに、薩軍をくさすこと、ここでは、薩軍は、戦略に暗かった、などと適当にくさしていますが、事実はまったく異なるのですから、

その司馬氏の浅さが出ていて、笑ってしまいます。


薩軍を構成する人間の意識は、戦をする、ということに重きが置かれており、特に議を嫌う人間達です。

巧緻な作戦で、敵を討ち破ることより、どのように華々しく戦ったかに、彼らは、価値を見ているのです。

そういう価値観の人間が、やる戦だから、こうなるのは、当たり前なんです。

そこを見てやらなければ、薩軍を見ている意味がない、と僕は思います。

確かに、信長の野望や、太閤立志伝程度をやる僕でも、戦力を同時に三方からぶつけるのと、別の時間に、順番にぶつけるのでは、

同時にぶつける方が、効果的であることは知っています。

ですが、それを指摘して、悦にいる、意味が、どこにあるのか?単に気持ちよくなって、俺偉い病になっている、あさましい精神の持ち主である

ことを、指摘されるだけではないか?

それより、なぜ、素人考えでもわかるようなミスを、薩軍が、おかしたのか。それも、薩軍のエースと言われる将領が?

そういうところから、考えていかないと、この西南戦争の意味は、わからないと思います。


さて、司馬氏は、文官あがりの村田新八が、この戦場の指揮権を握れば、各種の混乱はなかった、としています。

村田は、戦略戦術に長じていたし、他の二将より、先輩だし・・というのです。

これ、あてずっぽうも、いいところですよ。


じゃあ、なぜ、それを村田がしなかったか、ということが、問題になります。

彼は、薩軍のやり方で、勝たなければ、意味がない、と考えていたのでしょう。

さらに性格の問題が、あったと思います。

この村田というひと、この「翔ぶが如く」の各所で語られますが、西郷に私淑して、すでに、彼も自身の栄達をなげだし、

ただただ、西郷について行こうとしているだけなんですね。

であるとしたら、彼は、西郷の本意を、わかっていたんじゃないですかね?

彼は、薩軍から離れたければ、離れることもできたんです。大久保は、それを期待していたし、帰る場所も用意していた。

しかし、それをしなかった、彼は、西郷と同じように、自分の身を投げ出してしまったんですよ。

であれば、彼は、桐野や、篠原のやりたいように、やらせたでしょう。

そうやって、華々しく戦い、そして、散っていくことが、西郷の本意なのだから。

村田は、それを知らなかったとしても、西郷の意図をなにがしか、感じていたのでは、ないでしょうか。

だから、彼は、フロックコートを着て、戦場に出ていたんですよ。

戦場で、自分を、着飾った・・・それこそ、華々しく、戦っていたんです。フロックコートの意味は、そこにあるんです。

であれば、村田は、同じく、華々しく戦おうとしていた、桐野や、篠原に、声などかけませんよ。

「一緒に華々しく戦い、散っていこう!」

そういう意識だったことが、だだわかりじゃないですか!


これに対して、司馬氏は、西郷が、陸軍大将として、東上する建前をあくまでとったから、陸軍少将である桐野と篠原が元文官に過ぎない村田より、

上の階級になるから、そういうことが、村田を動かさなかったと、要は西郷をくさすための、とってつけたような、浅い見解を述べています。

アホか!

戦やるのに、そんな建前論を気にするか?

ばーか!


まず、勝つために戦をするなら、村田はそんな建前論など、へーきで、投げ捨て、自分が指揮権を掌握し、効果的に政府軍に立ち向かったでしょう。

華々しく戦うためだから、村田は、フロックコートを着て、戦場を疾駆した。そして、何も言わずに、桐野、篠原のやるに任せた。

いずれか、ですよ。

このひとは、ほんとに、人間が見れていない。結果から、見えることに、浅い脳で考えるから、まったくとんちんかんな説明しかできない。

ほんとに、しょうがない人物ですね。


さて、高瀬の第三戦の描写が、まだ、ありました。

篠原指揮の中央隊、千二百人の動向です。

彼らは、菊池大橋の付近で、対岸の政府軍に向かい射撃をするだけに、留まったそうです。

桐野の右翼隊、村田の左翼隊が、菊池川を渡河し、内部に大きく入り込み、四方八方の敵と戦っているというのに、

この薩軍最多人数の部隊は、結局、渡河できずに、射撃だけをやり、弾が切れると、さっさと戦場を離脱したのだ、そうです。

ま、指揮官の篠原にすれば、

「弾なくなったんだもん。戦えないじゃん」

と、横浜弁は、使わないでしょうが、まあ、そういう感じですよね。

つまり、このことからも、彼らが、戦略なんて、これっぽっちも、考えてないことが、だだわかりなんです。

如何に自分達が、華々しく戦っているか、それを他人に見せるための戦いなんですよ。


そして、司馬氏は、この篠原を、

「自分自身がなすことについての影響の計算において、致命的なものを欠けさせていた男ではなかったか」

として、まーた、他人をくさして、悦にいる、をやって俺偉い病にかかりまくっています。

その司馬氏について、僕は、こう言ってあげましょう。

「他人をみて、それを説明するのが、小説家の本務であるはずなのに、致命的にその能力を欠けさせていた男こそ、司馬遼太郎である」

どうでしょう?(笑)。


司馬氏は、篠原を、頭が悪い、と、くさすわけです。

ですが、頭が悪いとか、いいとか、で、この時代の薩摩武士を語れるものじゃないと思います。

そういう評価は、小学生の道徳レベルの話で、とても浅いし、何ら意味がない。

人間とは、何に価値をおいて、生きているかで、決まってくるものです。

どういう目的を持って生きているかにより、そのひとが、実際に引っ張った事実と照らし合わせて、それが、実現できていたら、その人間の生きた意味がある。

僕は、そう思っています。頭がいい、とか、悪いとか、そういう評価が、いかに意味がないか、わかるでしょう?


篠原は、勇敢に戦うために、生きていただけなんですよ。

それが、目的だったんですよ。彼の。

であれば、彼のやったことは、それに合致している。すばらしいじゃありませんか。彼には、生きた意味がある。

そういう考え方をしてはじめて、日本人の評価ができるんですよ。

そういう評価システムさえ、構築していない、あんたは、ナニモノだ?え、司馬遼太郎さんよ!


はー・・・。ほんと、アドレナリン噴出しながら、書いてますね。

ま、冷静になりましょう。


さて、篠原隊が、退却したことで、敵中で戦っていた村田隊は、重囲に陥ります。そして、篠原隊が退却した二時間後の午後四時、菊池川東岸の伊倉に撤退します。

桐野隊も、戦力に余裕のできた政府軍の猛攻に会い、全滅の危機に陥りかけましたが、北方へ逃げ、なんとか、危機を乗り越えたそうです。

つまり、政府軍は、薩軍の攻撃を退け、薩軍は、全面的に、敗北した、というわけです。


この戦いで、見えたのは、

近代的軍隊としての政府軍という姿、と、まるで、薩摩武士のままの、薩軍、ということです。

戦略、戦術を駆使し、勝つために戦う政府軍と、

戦で、輝くことを、目的として、戦う薩軍という二つの団体です。

そして、薩軍は、今まで、こうして、勝ってきたという自負があったんですね。

そういう経験があったからこそ、そういう戦い方になったんです。

そして、西郷は、大村益次郎の上野山攻略を、指揮官として経験していた西郷は、その薩軍のやり方では、政府軍に勝てないことを知っていたんです。


さて、このあと、薩軍の将領達は、菊池川東岸の伊倉に集まるわけです。

そして、彼らの思いとして、語られるのが、

「政府軍は、弱い。薩軍は、強い」

ということだったそうです。もう、皆、大満足なわけですよ。

多分、政府軍は、白兵を恐れて、というより、戦術的に、薩軍から距離をおくために、逃げていたんでしょうね。

それを、薩軍から、見ると、

「弱い」

という感想になってしまう。


おもしろいですね。


つまり、薩軍の彼らは、

「この戦いで、思う存分、自分たちの強さをアピールできた!しあわせ!」

と、考えちゃうわけですよ。だから、大満足なわけで、ここからも、彼らが、

「自分たちの強さをアピールするために、戦っていた」

ということが、わかるわけですよ。


そして、今、彼らは、大満足なんですよ。


ま、ある意味、勝ち負けなんて、関係ないんですよ。



いやー、すごいね、薩摩武士は。



さて、ここで、素直に、思うわけですが、

「彼らは、何のために、戦っているのだろうか?」

と、考えなかったのかな、ということです。

これ、薩軍の将領たちは、疑問に思わなかったのかなあ、と普通に思うわけです。

西郷の言った、東上を、素直に信じていたんでしょうか?


とにかく、最初のほころびが、この高瀬第三戦の負け、ということになります。


ここから、薩軍のほころびが、大きくなっていくわけです。


ま、だんだん、おもしろくなってきましたね。

事態が動くことで、人間達の意識も変化していくはずですからね。

そのあたりの推移を、今後は、見ていくことにしましょう。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました!

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。




弟の死さえ、予期していた西郷!(そりゃ、しゃべれないよ!)

2010年09月14日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、なんだか、天気、崩れそうですねー。

昨日あたりで、残暑は、終わったとか、言われてますが、

まあ、秋もいいもんですよね。

太りやすくなるけど(笑)。

ま、それでも、おいしいものを食べながら、

楽しみたい秋です!


いやあ、火曜日のこの「翔ぶが如く」シリーズは、

ほんとに、生き生きとして、書いてますね。

もう、モチベーションが上がりまくる!

やっぱり、書いていて楽しいですからね。

いろいろなことが、わかるし、やっぱり、日本人というもの、

日本人の大切にしているものは、なにか、というあたり、

さすがにわかってきますからね。高いストーリー性を持っています。


さて、今日も、季節外れになりつつある、麦茶をぐびびと飲んで、ゆるゆる論考していきましょう!


さて、前回、薩軍と政府軍の本軍対決が近づきつつあることを話しました。

薩軍は、「三面合撃」という言葉で表されるように、三方から攻撃を加えようとしていたんですね。

さて、それぞれの戦いが、まさに、今、始まろうとしていました。


さて、薩軍の攻撃部隊は、二十六日午後六時に、熊本を発しました。


この二十六日は、例の熊本隊の佐々部隊が政府軍に攻撃を受けて窮地に陥っていたため、

熊本隊主力千人が、救助に向かったものの、各所で、政府軍に惨敗したそうです。


つまり、このあたりから、政府軍が、有利になってきたのです。


この状況を一気に打開するためにも、薩軍は、三面合撃を仕掛けたのでしょう。


薩軍は、エースとも言われる将領達と、ピッチピチの薩摩隼人で占められていますから、負けるとは思っていない。

しかし、政府軍も、実は、エースと言われる「近衛」が加わっていたんですね。

近衛とは、桐野や篠原らがかつて属していた組織で、元々は薩長土が、天皇に供出した人数であって、

かつて、御親兵と言われていた部隊です。

まあ、政府軍のピッチピチのエースなわけです。まあ、元士族なわけですから、薩摩隼人に負けてはいないわけです。

この近衛部隊、帽子が赤いわけです。普通の鎮台兵は、黄色ですから、まあ、全然違うわけです。


そして、薩摩の苦手とするところとして、

「一に雨(鉄砲が撃てなくなる)、二に赤帽(近衛)、三に大砲」

と言われたそうですから、いかに薩軍が、この近衛部隊を苦手としたか、わかるというもんですね。



さて、場所的な話をまず、しておきましょう。

頭の中の、左側に、高瀬という場所があると考えててください。

そして、そこから、少し右に行くと菊池川という川が上から下に流れている。

その右側、ちょっと行くと木葉が、あるわけです。

そして、政府軍は、この菊池川の左側に集結しつつあるわけです。


政府軍は、ニ月ニ十七日、まだ、太陽が昇らない時間に、偵察をだしたそうです。菊池川を渡り、木葉のあたりまで、いくと、

前方から薩軍の大部隊がやってくる。これが急報され、政府軍は、その薩軍への迎撃体制を敷くことができたわけです。

「菊池の堤に拠って、敵の前進を拒止せよ」

これが、堤防に配置された部隊への命令だそうで、配置された部隊の中には、もちろん、近衛の赤帽部隊もいたわけです。

彼らは、菊池川にかかる高瀬大橋を、中央付近で破壊し、戦闘配置を完了するわけです。


最初に、菊池川にやってきたのは、中央隊、篠原国幹、別府晋介の部隊だったそうです。

橋を渡ろうとして来たら、橋が壊されていて、

「どうすっか」

的にそのあたりをうろついていたら、政府軍からの射撃があった、ということで、これが、最初の銃撃戦ということになります。

もちろん、薩軍も撃ち返すわけで、夜が明けるころになると、政府軍側の射撃が、激しさを増していたようです。


薩軍は、銃器の能力が低いので、渡河して、白兵をしかけるべきなのですが、

政府軍は、前回見たとおり、薩軍との戦い方を

「敵の白兵を封じての、銃撃攻撃」

に特化していますから、薩軍が渡河しようとすると、銃撃を激しくし、それを阻止しようとするわけです。


それを見た、薩軍は、

「川上に行って、渡河すべし」

として、各隊が、上流に向かうわけです。


しかししかし、もちろん、政府軍も黙っていない。

薩軍部隊が、上流へ向かうのを見るや、隊を割き、上流で阻止すべく北上している。

その中心が、近衛兵だったわけで、薩軍が今まで戦ってきた兵とは、全然違う、機敏さがあるわけです。


さらに、旅団司令長官 三好重臣は、砲を重視する人間だったそうで(普通、打撃力が高い兵科なんだから、誰だって重視するよなあ?)、

高瀬から、2キロ上流の地点に、二門の砲を築き、午前七時半頃より、発砲させたそうです。

まあ、薩軍が苦手なモノ、ベスト3なんだから、そりゃ、使うわけですよ。


さて、その頃、薩摩左翼隊、村田新八以下は、高瀬より下流で、菊池川にたどり着きます。

しかし、これにも、政府軍が対岸から発砲し、渡河を許さないんですね。


さて、上流から渡河しようとした、薩摩中央軍の篠原部隊は、三好が据えた砲のあたりで、ひるんでいると、

なんと、政府軍の一部が、渡河し、薩軍と激戦となり、薩軍側の坂元申太郎は、頭を打ち抜かれて即死、

政府軍の知識大尉は、太ももを貫通され、対岸に退却したそうで、

この種の戦闘が、そこかしこで、起こったそうです。


さて、渡河したい薩軍と、そうはさせたくない政府軍との戦闘は、苛烈さを増しますが、午前六時から始まった戦いが四時間程続くと

膠着状態に陥ったようです。


その時、その状態を破ったのが、桐野率いる右翼隊六百でした。

この桐野隊は、大きく迂回し、高瀬の上流十二キロの地点で渡河し、作戦通り、政府軍の中央、南関と高瀬を遮断しようとしたのです。

彼らは、南方の銃声を聞くと、その方角へ急ぎます。これについて、司馬氏は、敵情を偵察し軍の手薄な場所をつけば、

政府軍は名状しがたい程の混乱に陥ったはずだ、とし、さらに、

「薩軍はつねに自軍の勇に頼みすぎ、敵情を十分に偵察することを怠った。この場合も、土地の者に聞く程度で、軍隊の進路を決めた」

「後方を遮断するはずの彼らは、とるべき経路をとらず、<中略>川沿いに南下し続けた。敵味方の銃声が南方にさかんであったからで」

「あり、それにひきずられてしまったのである」

としています。

これね、あとからなら、なんとでも、言えるってやつですよね。

例えば、彼ら、右翼隊、中央隊、左翼隊は、連絡手段をもっていないわけですよ。

攻撃の様子が、どのように、千変万化するか、わからないわけです。

であれば、敵を求めて動くのが普通であり、闘いながら、いちいち絵を描いていくのが、この時代の薩軍の本筋のやり方だろうと思うわけです。

このとき、薩軍がもっていなくて、政府軍がもっていたのが、電信です。

この電信こそ、戦い方を一変させた。

その後の、第二次世界大戦を戦車兵で体験した、司馬氏は、その時の体験を元にこれを書いている。

第二次世界大戦での、偵察という考え方から、この西南戦争での薩軍の戦術を馬鹿にしているわけです。

あのね、あんた、頭悪いんじゃないの?

たまたま、後年に、戦術の基礎として、偵察について、教えてもらったからと言って、偉そうに、あんたみたいのが、桐野を馬鹿にできると思っているの?

桐野は、多くの戦場を自分の足で、歩いた経験から、戦闘をしているので、あって、あんた風情の経験なんぞ、

足元に及ばないし、人間観察眼に至っては、ゲロレベル。

金輪際、しゃべるな、ばーか!って言いたくなりますね。


桐野以下の薩軍のやりかたは、確かに古い形の戦争の仕方かもしれません。

でも、桐野は自分の経験から、確立した方法で、最新装備の政府軍を窮地に陥れるわけです。


川沿いの青木村というところで、桐野達は、政府軍の哨戒兵を見るわけです。

兵達は、逃げた。そして、石貫というところまで、逃げて急報するわけです。

そのとき、その石貫に、野津参謀長が来ていた。

野津参謀長は、とりあえず、桐野部隊に対する手当をするわけです。兵力が少ないので、近くの高地、高地をその兵力で、占領させ、

位置的な有利を作ったわけです。ま、いくつもある、小さな隆起の頂上部分に、兵を配置した、かっこうですね。


その政府軍部隊を桐野は、攻略し始めるわけですよ。


「敵はそれぞれ険を頼んでいる。わが一隊を持って背後に潜入させ、主力を持って正面から攻めれば、容易に覆るだろう」

ということで、それを実施するわけです。


野津の配置した兵の多くはそれで、あっけなく壊乱しちゃうわけです。さすが桐野!というところですね。


ただ、稲荷山という高地を占領した部隊だけは、動かないわけです。

この稲荷山、位置的に見ても、政府軍の喉首の位置にあたるわけで、政府軍としては、どうしても、薩軍に渡せない場所だったんですね。

桐野は、この場所にも、部隊を派遣するんですが、結局、落とせないわけです。

その結果、桐野部隊は、せっかく、多くの敵を破りつつも、戦果を拡大できなかったわけです。


さて、戦場に、もうひとりの勇者が登場します。

西郷小兵衛。西郷隆盛の末弟です。歳は三十。彼は、左翼隊村田新八の部隊に、後続して入った部隊の指揮官だったのです。

彼らは、兵六百を率いて、下流へ南下します。ほぼ四キロほど、行ったところで、渡河し、政府軍を突き上げたのです。


政府軍側は、これに驚き、すぐさま兵を当たらせますが、これが、簡単に打ち破られる始末。

三好は、またもや、砲を高地に引き上げさせ、この西郷軍に発砲します。これに、西郷軍は悩ませられたといいますが、

とにかく、政府軍も必死だったようです。

その頃、村田新八とその主力もようやく、渡河し、西郷軍に加わろうとします。


薩軍としては、もう、思い切り有利な状況で、


皆、


「よし、これからだ!」


と思ったことでしょう。


そのとき、西郷小兵衛が、死にます。


「自分は兄に先立つようだ。そのことが、苦しい」

と遺言したそうです。これから、というときに、無常にも、左胸部に銃弾を受け、倒れたのだそうです。


西郷は、この小兵衛の亡骸が運ばれたときに、瞬きをわずかにしたのみで、終始無言だったそうです。


なぜ、西郷は、こういう態度だったのでしょう。


あの、感情量がありすぎる西郷が、弟の死に対して、瞬きをわずかにしたのみで、終始無言なんて、普通に考えられませんよね?

泣くわけにいかなかったから、言葉も出せなかったということです。

彼は、弟が死んでしまうことも、覚悟していたんですよ。

だから、涙も流せなかったし、涙を流さなかったんです。

すでに、こういう光景に出会うことは予期していたんですね。

だから、涙も流さず、ただ、無言でいたんです。

そして、彼は、終始自分を攻めつづけたでしょう。でも、それこそが、彼がやらなければいけないことだった。

薩摩士族削除は、着々と進んでいたんです。


西郷は、自分を責めながら、でも、自分がやっていることは、正しいんだ、としていたでしょう。


彼が愛した故郷と故郷の若者たちを削除するのは、どれほど、心の痛みを伴ったか。

そりゃね、しゃべれなくなりますよ。

気鬱な物事があるときって、やっぱり、あまりしゃべれないじゃないですか。

彼はそれでも、自分の生き方を変えなかった。

思ったことを、やり遂げた。

それが、彼の、西郷の、すごさだと、思いますね。


僕なんか足元にも、寄れません。


その精神力の強さ。


「すげえな」


この一言ですね。




さて、今日も、長々と書いてしまいました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。

第12章 「あなたの王国が私たちにももたらされますように」!

2010年09月09日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、なんか昨日一日雨でしたねー。

ま、こういう日も、たまには、いいんでしょうか。

まあ、トレーニングは、お休みしましたが、

体休めることになったから、まあ、いいかな、という感じですかね。


さて、木曜日の村上論考ですが、BOOK1の24章のうち、

今回はやっと第12章に辿りつきました。やっと半分ですよ。

まあ、この1Q84という作品は、読み味を楽しむ作品ですから、

このように一章一章、ぶった切ってその内容を吟味するのは、あまり意味のない作業

かもしれません。僕も、思わず先を読みそうになりますからね。

つまり、こういう文章を書いていなかったら、思ったままに、ガンガン村上的ワールドを

楽しみながら、それこそ、一日か、二日かけて、読み続けて、

脳みそを思い切り快感の中に突っ込ませてしまうことでしょう。

ただ、それをやったあとで、何か文章を書いたとしても、それは、単なる感想・・・脳みそが

揺さぶられた、という感想にしかならないような気がするんです。確かにそれは、魅惑的な

体験だし、体験至上主義の僕としては、是非体験したい体験ですけれど、

それは、この解説記事が全て出来上がり、1Q84のからくりを全部理解してから、

おもむろに体験したいんですね。そして、その体験からなら、何かを感じることができる。

村上さんの主張する、

「この作品だからこそ、作ることのできた構造」

というもの・・・他の小説家がつくり得なかった・・・を見つけることができるかもしれない、そんな思いを持っています。

だから、今は、村上氏がせこせこと外国文学を翻訳しながら、自身の作家としての能力を伸ばしたように、

僕もこのストーリーの創作者としての先輩の作品を、せこせこと、一章ずつ、見て解説していこうと、考えているわけです。


さて、天吾くんは、前回、あれが来ちゃうわけで、まあ、気を失ったりしているわけです。

でもなんとか、立てなおして、復活する、ところからはじまります。なにしろ、ふかえりの「空気さなぎ」の再構成を

天吾くんがやってもよいか、その可否を先生に聞くために、この場所にきているわけですからね。

まあ、天吾くんも、そうそう倒れているわけには、いかないわけです。

ふかえりは、お茶をいれることを先生に頼まれ、応接室を出ていきます。そこから、ふかえりのこれまでのストーリーが語られるわけです。


ふかえりは、深田夫妻と暮らしていた「さきがけ」コミュニティから、突然ひとり脱出して、せんせいの家の玄関に立っていたのでした。

言葉を失い、頷くか、首を振るくらいしか、外界と交渉できなくなったふかえり。もちろん、せんせいは、「さきがけ」の両親に連絡をとろうとするわけですけど、

連絡は絶対にとれなかった。というわけで、ふかえりは、このせんせいと、アザミと、暮らすことになったわけです。

「さきがけ」は、この間、有機農業の農業コミュニティから大きく様変わりをしていった。ふかえりの両親は、どういう状態で、その場所に

関わっているのかもわからない。ふかえりが、せんせいのところにいることも、ふかえりの両親に伝わることもなかった。


そして、「さきがけ」は、どんどん変化し、1979年(!)宗教法人「さきがけ」になってしまった。

その間、ふかえりは、回復を見せた。アザミとも親友になった。ふかえりと、アザミは、夜になると、ふたりだけで何かやっていた。

せんせいは、ふかえりの回復には、時間が必要だと考えていたし、特にそのことについて詮索もしなかった。

その結果、ふかえりが、物語を語り、それをアザミが記録し、文章に起こすことが、二人の関係性になっていた。

そうして、出来上がったのが、「空気さなぎ」だった。


先生は、こう言う。

「興味深い物語だ。すぐれて暗示的でもある。しかしそれが何を暗示しているのか、正直なところ何もわからない。盲目の山羊が何を意味しているのか」

「リトルピープルとは、空気さなぎとは、何を意味しているのか」

それは、正直な感想で、それに対して、天吾くんは、

「その物語は、エリさんが、「さきがけ」の中で、経験した、あるいは目撃した具体的な何かを示唆しているのだと、思われますか?」

と、言って自分の意見を質問の形で現しているわけです。

この二人の会話で、最も重要なセリフは、せんせいが、発した次のセリフだと思います。

「私の専門は文化人類学だ。<中略>その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見出し」

「もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない」

「おそらくそれと同じ作業を君は要求されている」

そして、せんせいは、

「君が書き直した「空気さなぎ」を私も読んでみたい」

として、この天吾くんの「空気さなぎ」のリライト作業にOKを出すわけです。


ここで、大切なのは、ふかえりの境遇として、語られる、有機農業共同体「さきがけ」の宗教法人への進化であり、

その「さきがけ」の胎動のストーリーとして、用意された「空気さなぎ」という示唆的なストーリーということだと思うんですね。


ここで、村上氏は、この宗教法人を新宗教、カルト集団と、指摘しています。これは、氏の仕事であった「オウム真理教事件の被害者、加害者からの聞き取り」

という著作作成の際に、村上氏の中に醸造された思いから、創造されたストーリーだと言えることができます。

あの聞き取りで、氏にどんな想いが、去来し、それをどのような形で、ストーリーに編んだのか、それがものすごく、興味を引きます。

そして、氏は、そのなんらかの想いがあったからこそ、この作品に登場させてきたんだと思うわけです。


だから、この「空気さなぎ」のリライト作業は、そういう村上氏の「カルト教団」への想いや立場、意識がはっきりと提示されるストーリーを

新たに登場、説明するための、からくりなんですよね。リライトといいながら、その想いは、すでに、村上氏の中で、確固たる考え方として存在する。

それを、効果的な形で、読者の興味をひく形で、提示するために、リライト作業というのが、ここに設定されているわけなんですね。


この章では、そのあたりの環境を整備し、リライト作業にGO!をかけ、カルトへの想いというのを、提示する準備をした章と、言えると思いますね。


しかし、興味深いのは、あの60年代、政治闘争から、作られた政治的団体が、いつの間にやら、カルト教団に進化していた、というストーリーですね。

現実を考えれば、あのオウム教団の事件と、60~70年代の赤軍やらの闘争、あさま山荘事件などが、つながるとは、とても思えない。

でも、このストーリーでは、それがつながった、ということ、いや、進化した、という形で、説明しているんですね。


このあたり、60年~70年代の政治闘争を実際に目にしたり経験した層にも、アピールするでしょうし、オウムの事件を知っているひとびとにも、

アピールするわけです。このあたりが、つながり、さらにその秘密が、「空気さなぎ」として、描かれる。

となれば、読者の「空気さなぎ」への興味は、一層かきたてられるわけで、このあたり、非常にうまくできているなあ、という感想です。


村上氏は、あの「オウム」の事件にどういう結論を出しているのか。90年代を、リアルに生きた人間としては、そのあたり、非常に興味がありますね。


そして、上にも指摘しましたが、

「人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できる」

という、ひととしての、状態。これが、人間の生きる上での理想のように、掲げられています。

この考え方は、60~70年代に持て囃された「自立と共生」に近い感じもします。あるいは、コミューン幻想・・・それを志向した「あけぼの」

が、壊滅するわけですけど、このあたりの、

「あの頃、僕らが持っていた理想という幻想は、どうなったのか」

というあたりを、描こうとする村上氏の真意が垣間見れます。

それらに、どう決着をつけるのか。

60代になった、氏が、そろそろ決着をつける必要がある、と考えたことは、容易に想像できます。

このあたり、今後の興味になっていくと思いますね。


さて、章の後半の終りの部分。さらっとあるストーリーが語られるのですが、これが、後々重要な伏線になっていくんですね。

それが、天吾くんの知っているある少女の話ということになるでしょうか。


天吾くんは、ふかえりのせんせいのうちを辞し、電車に乗って帰ってくるわけです。途中、三鷹駅から乗ってきた母親と少女の親子づれ。

見たところあまり幸せそうでない。そして、その少女が、目にある光をたたえて、何かを、天吾くんに訴えたように感じるわけです。

その光景を、天吾くんは、以前見ていた・・・それが、彼が、小学三年生と四年生のとき、同級だった少女の風景でした。


その少女の母親は、「証人会」という、ある宗教に入信していた。

日曜日になると、母親は、少女を連れて、その宗教の布教に出た。しかし、その教義は、狭量で、その話をきちんと聞いていくれる人間など、

いないに等しかった。でも、母親は、毎週日曜日に、布教活動に出かけ、少女も連れていかれる。まるで、NHKの集金をしてまわる、天吾くんと

同じなんですね。そして、同じような境遇にある、天吾くんは、彼女と、一瞬、目を合わせたり、していたわけです。同じ境遇の淋しい人間同士として。

でも、彼女の方が、大変だった。宗教上の理由から、修学旅行にも、クリスマス会にも、誕生パーティーにさえ、出席できなかった。

されに、平日の昼には、大きな声で、長いお祈りをしなければ、ならなかった。

彼女は、周りから、忌避されているわけです。いない人間として、扱われていた。

それが、ある時、理科の実験の時間、たまたま、彼女が失敗したことで、まわりからいやみを言われてしまうわけです。

ま、小学生は、残酷ですからね。ひとの一番痛いところを突くのが、仕事みたいなものですからね。

たまたま、その時、隣の班にいた天吾くんは、彼女に、

「こっちの班に来るように」

と、言うわけです。そして、実験の手順を懇切丁寧に教え、実験を成功させるわけです。

彼女と、口を聞いたのは、それが最初で、最後になるわけですが、その少女が、持っていた目の光が、三鷹から乗った少女の目の光と同じだった、というわけです。


この少女。ある時、唐突に、天吾くんの近くに来て、彼の手を握るんです。

天吾くんは、彼女の目をみつめた。そうすると、そこには、これまで見たことのないような透明な深みを見ることができたそうです。

彼女は、長い間、彼の手を握り締め、そして、手を離し、教室から出て行った。


そんな印象的なストーリーが、天吾くんに、あったんですね。


同じような悲惨な境遇。その天吾くんより、さらに悲惨な境遇の少女。その少女が、多分、人生で、初めてくらいに、異性にやさしくされ、

理解された。そこには、希望の光が灯ったんだと思います。

彼の手を握った少女の目にたたえた、透明な光。


それこそ、人を恋したときに、美しく光る少女の瞳ですよ。


さすがに、それくらい、今の僕には、わかります。

あれは、とても、美しいし、ほんとうに、透明な深みをたたえている。そこには、少女の純粋な思いが、ディスプレイされている。

あの美しい目を、僕は、見るのが、とても好きですね。

混じりけのない、純粋な少女の想い、それを、天吾くんは、獲得していたんですね。その時に。


王国という言葉が、出てきます。

そういえば、前章、青豆さんのストーリーにも、王国という言葉が使われていました。

天吾ストーリーと、青豆ストーリーが、このところ、急速に近づき、つながりを見せてきています。

これは、以前にも、書きましたが、将来的に、二つのストーリーが邂逅することを、示唆しています。


どのような形で、二つのストーリーが邂逅するのか、そのあたりも、楽しみに、今後も、見ていきたいと思います。


反政府組織としての、政治結社と、カルト教団。その進化の過程と、内部のストーリー。それが、「空気さなぎ」であり、それが、提示されること。

さらに、天吾ストーリーと、青豆ストーリーの邂逅。


これらが、本章での、結論になりますかね。

今は、空気さなぎの、リライトに興味津々です。それが、どういう形で、示されるのか。村上氏の考える、60年代70年代の政治活動の結論は。

そんなあたりを、今後に、期待しながら、今日は、筆をおきましょう。


ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。


負けることで、自軍を成長させた、政府軍!

2010年09月07日 | 先人の分析
おはようございます!

いやあ、なんか、台風なんかも来ているみたいですねー。

まあ、九月だし、そういう季節到来か?って感じですけど、

相変わらず、夏のまんま、という感じで、僕はとらえています。

ま、好きな季節なんで、当分楽しみたい、気持ちですねー。

え、もう、残暑はいや?残暑だって、思うからいやなんですよ。

まーだ、夏だと、思ってれば、こころの負担も少なくなりますよ!(笑)。


さて、前回、

「西南戦争は、日本の大きな価値転換の場になった!」

として、日本の最強のサムライが、地方の農家の次男坊、三男坊に負けてしまうという

ストーリーを編む場になると、指摘しました。

それまで、サムライこそ、日本の支配階級であり、読書階級でもあったんですよね。

つまり、知識と力で、日本を牛耳っていたわけです。

その階級が否定されるのが、この西南戦争なんですね。

そりゃ、もう、大変ですよね。何を信じればいいのか、わからない。

まあ、第二次世界大戦後には、日本も、そうなったらしいですからね。

そういう価値転換の場が、日本には、近代に立て続けに起こった、ということになるわけです。


さて、前回は、高瀬の戦いのほんの最初のあたり、政府軍が作った陣地が、薩軍側に取られたというあたりを話しました。


じゃ、続きを始めましょうかね。冷たいレモンティーをぐびびと飲みながら、ゆるゆると論考していきましょう!


さて、前回の終りのところで、政府軍が、せっかく作った陣地を惜しげなく捨てて逃げちゃったという話をしました。

まあ、薩軍に怖れをなした、と書いたわけですけど、

おもしろいことを司馬氏が、書いています。


「この場合、政府軍のほうが、戦闘の玄人であったと言える」

「彼らは、植木や木葉での乃木連隊の敗北を戦訓としたのか、自軍の長所が射撃戦であるということに、どうやら徹しようとしていた」

「彼らは、大橋を渡って薩人が白刃で殺到してくるのに、逆らわなかった。また、その川下で熊本士族が渡し舟をとびおりて」

「水しぶきをあげながら堤防を駈け上がってきたときも、さっさと逃げ出した<中略>」

「こういう平坦地の民家群の間に籠れば射撃戦に効が薄いばかりか、指揮もとりにくく、さらには敵の白兵突撃で各個にやられるだけだということを知っていた」

「村落を盾にした<中略>乃木の連隊の失敗が生かされたということかもしれない」


つまり、政府軍は、乃木連隊の経験を生かし、新たな攻撃の方法を編み出した、ということなんですね。

まあ、司馬氏は、乃木連隊の失敗を強調していますが、戦争というものは、絶対はないんです。作戦が完璧でも、負けることは、あるんです。

どうも、この司馬というひとは、乃木の失敗ばかり言い立てますが、状況的に非だっただけで、これまで、見てきた状況からも、

彼の司令官としての能力が劣悪だったとは、言えないと思います。それより、わざとそう見ようとしているのが、司馬氏であり、

そうやって、他人をくさし、間違った説明を続ける司馬氏の人間的浅はかさ、無能さばかり、目立っていると思いますね。


さて、政府軍は、高瀬村の西にある岩崎原という高台に移動し、眼下の高瀬村に入り込んだ、熊本隊と薩軍を猛射し始めるんですね。

さらに、政府軍には、大阪の第八連隊の二個中隊四百名が加わったんですね。政府軍は、1600、薩軍、600、熊本隊、300ですからね。

まあ、なんとか、雰囲気だけ(?)でも、互角な感じになったのでしょうか。


さて、ここで、おもしろいことになるわけです。

元々、熊本隊の目的は、

「兵気をくじけさせないために、攻撃をしかけたい」

という佐々の考えから来ているわけです。

つまり、攻撃し、戦うこと、自体が、目的なわけですよ。

まあ、そのあたりは、薩軍もそうですから、まあ、熊本隊と薩軍が共闘することは、問題がないわけです。

ただ、その攻撃すべき相手が、高台に移動して、自分たちを猛射してくる。

こちらの目的は、果たせず、相手は効果的に自軍を追い込んでいる。

こりゃ、やばいわけですよ。状況的に。


まあ、これについて、司馬氏は、

「要するに、軍隊というより壮士団的な発想で、熊本士族の勇気の証明のために、駈けたり射ったりしているだけのことなのである」

としています。また、出た。このひとの、タニクサ行為が。他人をくさして、悦にいる行為です。

まず、浅い説明で、熊本隊を貶めています。

それ、違うでしょ?最初にあんたが、

「兵気をくじけさせないために、攻撃をしかけたい」

という熊本隊のちゃんとした目的を提示したんじゃん。

それが、あんたの勝手な思い込みで、軍隊以下の壮士団的な意味合いに落とし込み、さらに、

「勇気の証明のために、意味のない事をやっている」

としている。違うでしょ?目的は、戦うことなんだから、戦えないのなら、撤退すればいいだけなんですよ。


佐々は、眼前の八幡山というところに敵があるのを見て、この山を取ろうと決意するのだそうです。

そして、隊を率いて進出する途中、政府軍側の伏兵に合い、驚愕して逃げ散り、薩軍も熊本隊ともに、高瀬から撤退し、菊池川の東に向かったそうです。

まあ、このあたり、熊本隊をバカにしているんですね。司馬というひとは。

でも、当然のことをやっているに過ぎないんですよ。熊本隊は、別に戦略的に動いているわけじゃないんです。最初から。

「敵と戦い兵気を養う」

これが、目的なんだから、そのために動くのが、筋なんですよ。

それを軍隊ですらない、とか、壮士団的とか、もう、バカにしまくるわけですよ。

だいたい、このひとの価値観で言えば、軍隊ですら、唾棄すべき存在ですからね。

それ以下ということは、いかに熊本隊がバカにされているか、ということになるわけです。


僕は、目的のために、行動し、その目的が達成されないから、撤退したに過ぎないと思います。

何も馬鹿にする部分はないし、馬鹿にできる人間もいるはずがない、と思いますね。

まあ、人間というものが、何もわからない馬鹿ぐらいでしょ、彼らを馬鹿にできるのは。

もう、ほんとに、能力のなさ、が、すぐに露見するから、笑いますよね。この馬鹿司馬という人物は。


さて、政府軍は、南関という場所に集結しているわけです。

ここに第一旅団の将、野津鎮雄と、第二旅団の将、三好重臣が会し、作戦会議を開くわけです。

そして、この高瀬の遭遇戦の勝利を聞き、

「幸先がいい」

とするわけです。そして、政府軍を二手に分け、前進することを決めるわけです。


まあ、熊本城に向かって、方向で言うと、東に向かうということになるわけです。

位置関係で言えば、南関から、南下すると高瀬があり、そこから東に向かうと、菊池川を渡り、木葉に至ります。

そこをさらに東に行けば、田原坂を通り、植木に達し、そこを南下すれば、熊本城に至るわけです。

まあ、政府軍は、熊本城から、3~40キロまで、来ているというわけです。


そして、その高瀬の緒戦で、政府軍は勝ちを収めた。

そりゃ、政府軍首脳は、気分がいいでしょう。

政府軍首脳は、第一軍で、高瀬を通り、木葉を抜き、植木をとろう、というわけです。

第二軍は、別働隊として行動し、別路で、木葉に進出し、植木に至るとしています。

つまり、高瀬や、木葉は、軽く落とし、植木まで出て、薩軍とあたろうと、意気軒昂なわけです。


これに対して、薩軍は、

「高瀬の敵を覆そう」

と考えるわけです。まあ、負けたわけですから、そこは、ほおっておいたら、敵の前線基地になりかねませんからね。

ただ、彼らの意識が、そこまで、この状況を危機だと感じていたかと言えば、まだ、蚊にさされたくらいの意識しか、

なかったんじゃないですかね?

だって、たまたま、熊本隊が、敵と戦うために、高瀬に突入した。敵は這這の体で逃げた。遠い高台に陣取り、

撃ってきた。それだけですからね?

まあ、敵は逃げちまったし、高瀬に踏みとどまる理由もないから、撤退しただけで、薩軍側は、この戦いで、負けたという意識すら、

なかったんじゃないですかね。

なにしろ、この段階まで、薩軍が、負けたのは、これが初めてですからね。しかも、負けた意識すら、ないかもしれない。

であれば、薩軍は、政府軍を侮っていたと思いますよ。

「俺たちが本気をだせば、あいつら、すぐ逃げちゃうし」

的に。そのおごりが、結局、彼らを、敗北に引き込むわけですから、やはり、俺偉い病は、不幸を呼び込むんですよね。


これについて、司馬氏は、次のように書いています。

「政府軍の攻撃思想がはるか植木まで達しているのに対し、薩軍の攻撃思想の限界がたかだか高瀬で留まっているというのは、薩軍としては兵力の寡少による」

「兵力の寡少が考え方を規制しているのであり、その寡少の一因は、熊本城に抑えの人数を残さねばならぬためであった。熊本城にこだわったことが」

「以後のすべての作戦に響いたが、この場合はその顕著な例と言っていい」

そして、その戦略を言い渡したのが、西郷という事実を考え合わせれば、西郷の本意がわかるはずですね。

薩摩士族削除装置を、熊本城と見定め、日々、その削除を実行していた西郷。その凄みがわかると思います。


そして、薩軍と、政府軍の、関ヶ原が、起こるわけです。

政府軍は、植木まで進出しようとしている。薩軍は、高瀬の敵を屠ろうとしている。

自然、激突するわけです。今までの戦は、まあ、前座であり、

この政府軍本軍VS本気の薩軍こそが、メインイベントなんですね。


薩軍は、二千八百の兵を三軍に分けます。

率いる将は、桐野利秋、篠原国幹、別府晋介、村田新八という薩軍のエースと言ってもいい将領です。

作戦としては、第一に、右翼部隊として、桐野が兵600を率い、高瀬の北に進出し、政府軍の中央、南関と、前線である高瀬を遮断することを目的とする。

第二に、中央部隊として、篠原と別府が、兵1200を率い、植木から田原坂を越え、木葉を経て、菊池川を渡り、高瀬に至る、

言わば、政府軍の第一軍の行軍行程を逆に進む部隊である。

第三に、左翼隊として、村田率いる1000は、熊本隊が、前回進出した、伊倉に進出し、高瀬の南方から、攻撃を加えようというわけである。

これを、薩軍では、「三面合撃」と呼んだそうですが、まあ、ごく標準的な戦い方ですよね。


司馬氏は、

「妥当な戦術であったが、しかし、作戦の発動時期としては、遅きに失したうらみがないとしない。数日前か、せめて一日半早ければ」

「政府軍の態勢が整う以前にそれを搏撃できたであろう」

としています。そうかもしれませんが、それは、実は意味のないことなんですよね。

だって、政府軍は、順次、増援されるわけですから、ここで、搏撃したとしても、さらに政府軍は増援され、高瀬は落とされることになるわけです。

それこそ、目の前の戦いに目を取られているのは、司馬氏ではないでしょうか。


さて、この作戦、とりあえず、熊本から進発した四人の将領が、途中、兵を休めているところで、おもむろに決めた作戦なんだそうです。

つまり、戦に慣れているから、こんな作戦、パッパと出てくるわけで、まあ、ごく当然な戦い方なんですよね。

これね、よく考えると、敵の情報を彼らは、持っていないということなんですよね。

自分達の全力を使って戦えば、必ず、敵は敗れる!という圧倒的な自信の上に、成り立つやり方なんですよ。

まあ、考えてみれば、ここまで、彼らは敗れたという実感は、持ちあわせていないわけです。

相手が逃げちゃった、ということばかりなんですよ。

だから、こういうおもむろな作戦になっているわけですよね。


それに対して、政府軍は、負けたり逃げたりを繰り返して、いかに自分たちが有利に戦いを進められるか、を重視して、戦闘をするように

なってきている。つまり、負けたことが、経験となり、政府軍を進化させたんですね。

勝ちにおごっている形の薩摩軍。そして、負けることで、シビアに自分たちを進化、成長させている政府軍。

結果は、見なくても、わかりますよね。


これね。人間でも、同じなんですよ。

勝ちにおごり、今の自分のあり方に、あぐらをかいちゃうひと。

負けをシビアに経験し、その状況から、なんとか、脱しようと、考えて考えぬいて、自分をシビアに成長させようとするひと。

時が経つと、おのずと、差が出てくるんですよね。

まあねー、そういうストーリーを、そういう人間ストーリーを、たまに、見たりするんでね。

こういう物語と重ねあわせながら、自戒にするようにしているわけですけどね。

ま、そういう意味では、僕は負け続けた人間ですから(笑)。

だから、がんばって、進化、成長を、志向しているわけです。


おごりは、人間をダメにする。


真摯に物事を見ていくことが、自分を進化させることだ。


これね。とっても大事なことだと、思いますよ。

そう、薩軍と、政府軍が、教えてくれているじゃないですか。


ま、そんなことを、結論にしながら、今日はここまでにしましょう。


ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう!


ではでは。


第11章 肉体こそ、人間にとっての神殿である!

2010年09月02日 | 先人の分析
おはようございます!

もう、九月だよね。

あのー、朝から、太陽がものすごいんですけど!(笑)

朝、走っていると、

「ここは、熱帯か?」

というほど、熱いし、まとわりつく湿気!

というわけで、全然、夏のまんまな、感じの九月ですねー。


というわけで、久しぶりの村上論考!というわけで、

今回は、青豆さんのストーリーということで、どうも僕は、この女性向けストーリーである、

青豆さんの話の方が、好きなんですね。これ、天吾くんのストーリーは、奥手男性向けなんで、

合わないんでしょうね。青豆さんは、やり手肉食系ですし、まあ、そういう意味じゃ、

僕は女性的な感性を持っているんでしょうかねー。まあ、以前から、村上作品を楽しんできましたし、

村上さんの読者は、女性が中心ということを考えると、村上さんは、女性向けに作品を綴ってきたんでしょうけど、

どうも、それが、好き!ということが、わかって、俺って、おっかしいのかね・・・という感じがします。


まあ、この章は、女性のひそひそ話!の章!という感じで、いろいろ秘密の匂いのするひそひそ話が、語られて、

もう、女性が大好きなストーリーですね。だいたい女性というのは、こう、ひそひそ話が、好きですし、

少し秘密がある・・・というスパイスが効果的ですからね。

まあ、感じとしては、「柳屋敷の老婦人との出会い」と「男をナンパするパートナーとの出会い」

というあたりの話で、なかなか、興味深い話が、提示されています。


ま、Vittelなど、ぐびびと飲み干しながら、ゆるゆると論考に入っていきましょう!


さて、青豆さんは、睾丸の蹴り方のエキスパートなんだそうで、自分の身を守るため、という漫然とした理由だけでなく、

それが、女性としての積極的な生き方であると、どうも、考えているようです。

そのために、蹴り方のパターンについても、日々研鑽し、実地練習を欠かさない、というわけで、エキスパートになっちゃっているわけです。


これね。女性からすれば、

「睾丸を蹴り上げる!」

という言葉の響きもちょっとエロス入っているし、やっぱり、ひとつの夢(?)だったりするんじゃないですかね(笑)。

やっぱり女性って、生きていれば、何回かは、根源的なレイプに対する恐怖!というものに、出会うでしょうし、

あれは、こわいですね(笑)。なんで、おまえが知っているんだ?ということになりますが、それ、話しますか。


実は、僕は、けっこう昔ですけど、スナックに自転車トレーニングの格好で、行ったことあるんですよ。

メットして、アイウェアをつけて、ボディラインがバリバリにでる派手なサイクルウェアを来て、もちろん、グラブもしてね。

まあ、職場の飲み会だったんで、コスプレのつもりで、一次会に出たら、やたら好評で、そのまま、二次会まで、行っちゃった、というわけで、

やたら、モテました。まあ、そういうことをやるひと、いないでしょうからねー。でも、僕はやるんですねー。

ウケるためにはねー。もう、課長とか、うれしがっちゃって、「由美ちゃん物語」に出てた、須賀田課長のモデルですけどね(笑)。

そいで、スナックとか、行っちゃうわけですよ。でね、そのスナックには、まあ、同じ会社の別の職場の知り合いのおじさんとか、

来てたわけですけど、このひと、酔うと、思ったことをやっちゃうひとなんですね。普段は温厚なスポーツマンなんですけど、

このひとが、僕の局部を触りたがるんですよ。まあ、サイクルウェアって、バリバリにボディラインが出ているんで、

まあ、セクシーなアピールをしちゃう部分があるんで、さらに、パンツはいてませんからね。直ですからね。

だから、触ってみたくなったんでしょうけど、その時、正直、こわかったです。

飲みながら、なんとか、逃げまくりましたけど、いやー、酒飲んだ、おやじは、こわいです。

もうね、ほんとに、

「これは、レイプの、疑似体験では?」

と、思いながら、その根源的な恐怖に、おののきましたねー。

あの知り合いが、変貌してく感じ。

「あれ?俺の体を、ひょっとして、求めてるぅ?」

と、ビビる感じ。

誰も、信じられなくなる感じ。

自分が、たったひとりになる感じ。

そして、大切なものが、奪われそうな感じ。


いやあ、レイプって、こわいです・・・。


ちょっと脱線しましたね。元に、戻しましょう。

そういう恐怖を前提に、青豆さんは、睾丸の蹴り上げがいかに重要かを、まあ、主張するわけです。

相手の弱点に、最大の攻撃を加える。

これこそが、男性に勝ち得る、唯一の方法だと。


僕も、じつは、そう思っていて、あるストーリーで、そういう方法を使おうか、と思っていたんで、

これ読んじゃって、うーん、というところですが、まあ、そっちは、予定通り、行きますけどね。


で、睾丸を蹴られたら、男性は、どう感じるか、ということについても、語られるわけです。

「あれは、じぎに世界が終わるんじゃないか、というような痛みだ。他にたとえようがない」

と、ある男性に言わせて、映画「渚にて」との関連性を話したりするわけですけど、

要は、この男性の言うところの、

「そこには、ただ深い無力感しかないんだ。暗くて切なくて救いがない」

という言葉を、象徴的に映画で、示した、ということなんですね。


キンタマを蹴られた体験は、僕はないですけど、よく球技とかで、ボールが当たって死ぬ想いをしたことは、

子供の頃、よくありましたね。鈍痛ですよ、あれは。

こう、鈍いんだけど、ものすごい、痛み。

つまり、最も、男性の体の中で、守らねばいけない場所だ、ということなんですよ。だから、一番痛く感じる。

まあ、精子工場ですから、無くしたら、生物として生きる意味がありませんからね。

生物の意味とは、先祖から受け継いだDNAを、さらに進化させて、次の世代へ、つなぐことですから、

晩年、というか、年をとってから、子供を作る、というのは、生物的には、最も意味のある行為になるんですよね。

だって、若い頃に作ったら、まだ、DNAデザインが完成していないってことでしょ?

と、そんなことを考えたりしちゃいますね。


でも、女性は、男性の睾丸を蹴るという行為に、あこがれを、感じるんでしょうか。

感じるんでしょうね。普段、体力的には絶対に勝てないわけですから、そこに勝利を得るというのは、快感でしょうからね。

まあ、そういうネタとしての、睾丸蹴りが、提示されているわけですね。


青豆さんは、大学卒業後、企業の女子ソフトボール部のエースで、四番を努めた、そうですが、大塚環が、死んだ翌月に退職したそうです。

出ました、大塚環!青豆さんのレズビアン相手・・・なのかな。とにかく、読者が忘れないように、死というスパイスをふりかけて、

ここに提示して、少女のレズビアンやら、少女のオナニーやらの話を女性読者に、思い出させているわけです。


その後、青豆さんは、スポーツクラブに入社、睾丸蹴りのクラスを立ち上げ、人形に睾丸をつけ、蹴りの練習をするインストラクターになっちゃうわけです。

これ、ビジュアル、すごいよね。女性が、嬉々として、睾丸蹴りの練習していたらねー(笑)。

で、もちろん、マネージャーから、注意されちゃうわけです。

でも、青豆さんは、男性会員に不安や、苛立やら、不快感を与えることに、毛ほども、後ろめたさを感じないんだそうです。そして、

「力づくでレイプされる側の痛みに比べたら、そんな不快感など、とるに足らないものではないか」

として、どうも青豆さん、若い頃に、力ずくのレイプ、という体験をしているようです。


いや、あれは、根源的な恐怖だよね・・・。


であれば、睾丸蹴りに固執する青豆さんの気持ちもよくわかります。

なにしろ、後輩の男の子に、防具をつけさせて、実践してみたりしているわけですからね。

それで、後輩の男が泣き言をいうくらいですから、まあ、気合入っているわけですね。


で、青豆さんは、セックスライフを楽しむべく、シングルズバーというところに、来ているわけです。

シングル同士、声をかけあい、エッチを楽しむ。

そんなところが、あったんだ?

まあ、青豆さんは、例のごとく、頭の形のいい中年が、好きなんで、若いガキに声かけられても、無視を決め込むわけですけど、

若い子というのは、青豆さんにとっては、

「彼らは、鼻息が荒く、自信だけはたっぷりだが、話題が乏しく、話がつまらない。そしてベットの中では、ガツガツとして、セックスの本当の楽しみを知らない」

だそうです。まあ、

「どうせ、エッチが目的なのに、話なんて、必要ある?」

とか、考えているでしょうからね。若い子は(笑)。


そんな話の中で、「柳屋敷」の老婦人と知り合った経緯が語られるわけです。


その女性は、例のタマ蹴りクラスにいたんですね。そして、ある時、連絡を受け、一緒に食事をすることになる。

それが、元になって、彼女は、女性に個人的にマーシャルアーツを教える先生になるわけです。

そして、マッサージも担当することになるわけです。


食事をしたときに、その老婦人は、青豆さんにそういうことを頼む理由を話すわけです。

「あなたが、口にしたことに感心させられました。無力感についての話です。無力感がどれほどひとを損なうかということです」

で、その青豆さんの話というのは、

老婦人が、

「私くらいの歳になると、特に護身をする必要もないわけですが・・・」

という言葉に対して発せられたもので、

「歳の問題では、ありません。これは、生き方そのものの問題です。常に真剣に自分の身を護る姿勢が大事なのです」

「攻撃を受けることにただ甘んじていては、どこにも行けません。慢性的な無力感は、人を蝕み損ないます」

という言葉なんですね。


つまりこれは、この章での、主張ということになりますね。

「慢性的な無力感は、ひとを、蝕み、損なう」

ということです。これは、睾丸を蹴られた人間も、無力感を感じるわけですから、無力感、という言葉をキーワードとして、

何度も使うことで、強調している、という手法なんですね。


慢性的な無力感・・・。


これは、女性のことを、言っているんでしょうか。

男性には、勝てない、という慢性的な無力感。

それに対抗する、睾丸蹴りを、繰り返す、青豆。


要は、これは、女性への共感を生む作業なんですね。

女性の思っていることを指摘してあげることで、共感を生んでいるわけですねー。


まあ、このあと、老婦人と青豆さんの会話があり、青豆さんの今の仕事につながる、ストーリーへの序章が語られるわけすが、

まあこれは、特に重要じゃ、ありませんね。それより、老婦人が、青豆さんの中身を見抜く場面の、彼女のセリフが重要でしょうね。


「あなたは、何かを内側に抱え込んで、生きているように私には見えます。何かずいぶん重いものを。最初に会ったときから、それを感じていました」

「あなたは、決意をした強い目をしています。実のところ、私にもそういうものは、あります。抱えている重いものごとがあります」

「だから、わかるんです。急ぐことはありません。しかしいつかは、それを自分の外に出してしまった方がいい」

「私はなにより口の堅い人間ですしいくつかの現実的な手立ても持っています。うまくすれば、あなたのお役に立てるかもしれません」


まあ、青豆さんは、この言葉を聞いて、自分の新しいドアを開けたそうですけど、これ、うつ病のカウンセリングとほぼ同じ、内容なんですよね。

「あなたの中にある、なにか、重いものを、外に、出してみたら、どう?ずいぶん、楽になれるわよ」

でしょ、これ?

よく、言われましたよ。まあ、人間話すことで、楽になりますし、おしゃべりというのは、高級なストレス解消方法だと、僕は、思っていますけどね。

まあ、こうやって、書く事で、ストレス解消しているわけですけれどね、僕は(笑)。


そういう、この章の大事なことが、語られた後は、例のセックスパートナー探しの時間なわけです。

まあ、前回は、座っていたら、近くにいい獲物が来たんで、まあ、軽くゲットした青豆さんですが、まあ、毎回、同じだと、

読者もあきますから、今回は、ぽっちゃり感のある女性が、ペアを組んでくれるわけです。

その女性は、なんと、婦人警察官ということで、もちろん、ベレッタの話なんかも出てきて、1Q84要素も忘れずに提示しているわけです。

でも、まあ、ここは、あゆみというその女性と、青豆さんの恋愛事情やら、ひそひそ話で、女性を楽しませるわけです。

そして、あゆみさんのセックストーク、

「たまにセックスしたいなあって思うんだ。率直に言えば男が欲しくなる。ほら、なんとなく周期的にさ。そうするとおしゃれして、ゴージャスな下着をつけて、ここに来るわけ」

「そして、適当な男を見つけて一晩やりまくる。そで、しばらくは、気持ちが落ち着く。健康な性欲が備わっているだけで、べつに色情狂とかセックス・マニアとか」

「そういうんじゃないから。いったんぱあっと発散しちゃえばそれでいい。尾を引いたりすることはない。あくる日からまたせっせと駐車違反の路上取締に励む」

で、女性読者に、

「そうよね。そういうこともあるわよね」

と、思わせている。まあ、女性を楽しませている、という部分なわけですね。


これさ。レイプで、こころが傷付いた青豆さんの成長ストーリーなんでしょ?

だから、最初は、性欲に対する対処療法的なセックスが提示されるんだけど、最後には、こころが、つながる、感動的なセックスを求めるようになる、

成長ストーリーに、なるんじゃないかな?

だって、こころのつながらないセックスって、よくないよ(笑)。

まあ、オナニーより、マシだけど、その程度だぜー(笑)。


ま、あゆみさんの存在もまあ、おもしろいんだけどね。

そんなことを思いましたけどね。それは、ごく普通の反応か。


まあ、とにかく、セックスのために、男性を狩るのは、女性にとって、けっこうワクワク話でしょうから、まあ、女性読者サービスというところでしょうか。


この章は、とにかく、慢性的な無力感は、ひとを損なう、ということを主張することを、中心に語られた感じですね。それが、結論かな。


ということは、何?女性であることは、ひとを損なう、というストーリーを生むってこと?


素直な疑問が生まれました。まあ、これに対する回答は、読み進むうちに、出てくるんでしょうね。


今日も長くなりました。

ここまで、読んで頂いたみなさん、ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。


ではでは。