ゆこちんのトランペット

トランペット奏者 藤井裕子のコンサート情報、トランペット談義のつもりが…こぼれ話や大きな声では言えない話も…毎日更新中♪

さ~て!

2011年05月25日 17時24分22秒 | Weblog
ここ1週間ばかり、なんだか気分が晴れないなぁ…(*_*)

体調が悪い、とかそういうのはないよー。
でも、まずはずーっと車に酔ってるみたいな感じにはなってる。なので気持ち悪い。。。

かといって、それが気分が晴れない原因でもないのだね、うん。



羽がはえたかと思うくらい、心も体も軽やかですがすがしいときもあれば、そんなときもあるさ。

で、いろいろ何でかな~って考える。

そうやって悩み悩み、考え考え、そうしつつ日々を生きていくと、あるとき急に… あ!!!!!そっかー!!!!! とどこかからヒントや答えが降ってくることがある。そうすると心の中で、「おお!!!今日も神様!!ありがとう!!!」と小躍りして目の前がパーーっと明るくなるのさ。

まあ今週は、気分が晴れなかった分、そういう神様からのヒントみたいなものがいっぱい受け取れた気がする。
単に、そこで小躍りするけど、また別の問題がやってくる…ただそれだけのこと。


まず、ひとつ気がついた事。

レッスンについて。



ここのところ、「ちゃんとレッスンしなくてはいけない」というある種の強迫観念みたいなものに駆られていた気がする。ちゃんとプログラミングされたレッスン。しっかりとした思想のあるレッスン。基礎を押さえたレッスン…などなど、ある種の「正解」の「形」みたいなものを自分が出さなくちゃいけない…そんな強迫観念があった気がする。
だから、何だか「これを教えなくては!」というところから入ってしまい、生徒の現状に必ずしも合ってない、そういう状況が沢山あった気がする。
生徒がハッピーな顔をするのが見たくてやっていた、「教える」という仕事が、いつの間にか「きちんと教える私」の方にシフトしていたんじゃないか?っていうことに気がついたのだ。

周りを見渡すと、たくさんの指導者がいる。スーパープレーヤーだったり、たくさんのコンクール上位の常連校を教える人だったり、優秀な生徒をたくさん出している先生だったり…

そして、そういう指導者を「使う」サイドの先生や事務方がいる。

そういうことにどこか気を取られてた、って思う。ちゃんと教えて、先生に喜ばれて、その上生徒もハッピーにする…それが一番いいに決まってるけど、そう簡単じゃない。

するってーと、生徒の笑顔が見たくてやってるのに、生徒が笑顔になることよりも、ちゃんとしてるようにさせる(変な言い方だけど…)ことを一生懸命やってしまう。そうすると、どこか生徒にとっては不自由と言うか、必要性が分からないままやらされるような、何かしらの拒絶感が出る。
それが自分じゃかなり気持ち悪い。
だから何とか「分かって」やってもらおう、とするんだけど、教えようとする分量とか内容が一方的になってしまうので、受け取り手が消化不良。するってーとお互いにかなり気持ち悪い。



…そういうことに気がついた。


先生がどう思おうと、そのせいで二度と使われなかろうと、生徒が演奏や音楽する事の本当の楽しさ、また自分にもできる!という自信や達成感、よろこび…そういうのを感じられれば、私は一番嬉しいんじゃないか?!
そこを忘れたら、私の大事なエネルギー源…「みんなの笑顔」が見られないんじゃね?!


とハタと気付くのであった!!!良かった。完全に見失わない内に、気付くことができたことを神様に感謝せねば~\(^o^)/




んで、演奏。

ようやく復活の手ごたえが出てきたので、いろいろできる気はしてきているが、やっぱり他人様に喜んでもらわなくては全く楽しくない。

でも、これもふと気がついた!

「きちんと吹いてるでしょー!」とか「素晴らしい音楽をちゃんとやってるでしょー?!」とか「これがスタンダードでしょー?!」とか、そういうことにこだわって吹いてたって、だーれも喜ばない。

私がちゃんと吹いてるかどうかは、もちろん大事だけど、ちゃんと吹く事を最優先にするってのはある文化では一番大切でも、あるところでは一番大切な事じゃない。

う~ん、変な言い方だけど、きっとある種の真実だと思っている。

基準通りの品質であることも大切。同時に、それだけじゃ唯一無二の音楽でもない。

基準を満たす事ができないから、自由でいいじゃん?って逃げるってことだとまたいけないんだろうけど、そうじゃなくて、どこを目指すか、何を一番大切に考えるかって話ね。

私ったら、もともとが教育学部のピアノ科あがりなもんで、「スタンダード」ってものに対するコンプレックスがある気がするのね。
要するに、ちゃーんと最初っからトランペットで音大に4年間行った人なら、当然出来てるであろう、当然習ったであろうものがないんじゃね?という不安みたいなのね。
まあそういうのや、また世間がそういうに私を見る、ということから逃れようと芸大の別科へ行ったわけだけど、心なしか世間の目は「音大卒」みたいになったものの、自分の中では何かしら微妙な引け目が否めない。

それでいて、大学に行ってた時は、ピアノ科なら当然分かるような事がすっぽ抜けてる管楽器の人を、「どうしてそういうの考えないんだろう?」と訝しく見ているんだから、まあ困ったもんだけど(^^ゞ

なんだかんだ、自分がなんか勝手に思っている、音大卒スタンダード的演奏の枠に、自分の演奏がハマってないってことが、あるときには自分の武器であると思い、あるときには大きな弱点と感じつつ、微妙に生きているのである。

まぁ、そんなの、被害妄想と一緒で、きっと音大出ようが出まいが、なんだってかんだって、そう思う人もいれば全く感じない人もいるんだろうし、逆に立派に音大を出ちまったが故に、自分の身の丈と合わない状況に己に鎧を着せて、守りに入ってるっていう人もいると思ったりすると、それもちょっと辛い。
と言う風に、きっと人生なんて自分の実際の状況以上に自分の心持が大きく左右するんだって思う。


周り道をしちまった!

最近、被災地に演奏をしに行く、というボランティア的活動の話を耳にする。何にしてもボランティア精神というのはステキだし、自分にもできることがあるならやりたいって思う。

で、ここで…果して自分が演奏することが、何かの役に立つんだろうか?
自分が演奏したい、という気持ちを相手にぶつけて、たまたまキャッチしたい!って思ってた人のところでならいいけれど、そうじゃない場合って本当に喜んでもらう事ができるんだろうか?

そんなことを考えてしまう。

「演奏してあげる」…そういう気持ちになれない。「聞いてもらえれば嬉しいなぁ…」的な感じ。

ん~、ちょっと違うか…え~っと…「喜んでもらえるような演奏ができる自分になりたい」かなぁ…。。。
「喜んでもらえるような演奏ができる自分じゃなかったらどうしよう…」かなぁ…


かなり難しいが、これってきっと小さい時から、自分が演奏したら親が喜んだ、とかそういう経験があんまりないからかもね。

逆に今の方が、親は喜ぶ。聞きに来てくれた人が喜んで帰るのをみて、ちょっと鼻が高いって。
そういう風に親が思う事は嬉しい。


自分が一番演奏してて幸せだったのは、聴いてくれた人が、「元気になった」とか「藤井ちゃんのラッパは聞くとスカーっとしてさ、一週間の疲れが吹っ飛ぶんだよ!」とかってお客さんが言ってくれてた時代かな~。

最近、やっと「元気が出た!」「元気を貰った!」とかって言ってもらえるようになって来たから、それはとっても嬉しいさ~。
ここ数年は自分でもダメだったと思う。こっちが必死。

今でもちょっとしたときに、あ~っと必死モードになる。

でも、その「ダメだった数年」のおかげでそこからできるだけ早く抜け出す方法も少しづつ見つけられてきた。

そして、大学出たてのころ、自分のうちの金魚相手に、金魚が喜んで聞いてくれるようにトランペットを練習してたころの感覚をもう一回思い出せそうな気がする。

そう、誰かを喜ばせるように吹きたい。自分がちゃんと吹こう、ちゃんと吹かないとダメと思われる…と必死になる事よりも、誰かを喜ばせるようにお話しする様に吹きたい。

そうなんよ、またそういうことに気付いた。またまた神様ありがとうタイムがやってきた!

そしてついでに、前原さんが教えてくれたアタックのこととかいろいろ使うとこれまた、表現の幅が広がりそうだし!


昨日のゲルマニアでは、音量のことがかなり問題になり…というより前からできるだけ小さく、という風に社長に言われていたのだけれど、自分の中では人生最高に小さい音で吹いているので、これは困ったなぁ…と思ったり。。。周りの共演者は、全然問題ないし、第一これ以上無理だよね!とか、また励ましてくれたり褒めてくれたり、音楽やってる人ならこういうもんだってわかるよねー気にしなくていいよとかって…ありがたい限り。。。

で、今までの自分なら、そうだそうだ!分かんないヤツは全く困るぜ!と思っただろうけど、ここんところは新しい困難は自分にとってのチャンスだ!という境地に達したので、なんとか限界にチャレンジしたれ~っと思って、頑張ってみた!

社長がどう思ったかは分からない。でも、そういう中でもお客さんがアンコールって盛り上がったり喜んだりしてくれ、トランペットが入ってる日に来るよ!と言ってくれたり、共演者や応援に来てくれた由紀乃がステキだった、と褒めてくれたので、自分の中ではまた一つ新しいことを覚えられたって思うし、だから良かったって思う。

またゲルマニアに出ることがあったら、もうワンランク進化した演奏でお客さんに喜んでもらえたら嬉しいね!

なので、大音量トランペット吹きの私としてはかなり切ない状況の中で、何とか頑張る事ができたこと、また超小音量の中でも、いろんな表現をつけるという新しい技(普通は出来るだろうけど、えへへ!)をゲットするキッカケを作ってもらった事に、またまた神様ありがとう!と思うのであった。

きっとこのことは生きて来る、と確信できる。


ところで、最近レッスンに行くと、自分の出来る範疇のことはやるけど、ちょっとできなそうなこととか、ちょっと難しい事、またちょっと今までと違う事をいうと、ただちに拒否反応、あるいは自分は正しく周りは間違ってる、自分は可哀そう、あるいは泣く、ふてくされる…こういうタイプの子がちょいちょい出てきてる。

少々頭が良く、といって物凄くできるわけでもない…という中間守備的な子に多い。

「できない」、ということを認めたくない。あるいは「できない」ということを周りに知られたくない、知られると自分の価値が下がってしまう…みたいに感じて完全に過剰防衛状態になる。

これって、また悪い事に本人は「自分は正しい」と硬く信じている。世の中に「正しい」が一つだなんて私は思わない。「今はこう信じてる」が関の山。
だとして、「今信じてる」だけだから、しばらくしたら違ってくるかもしれないし、逆の考えになるかもしれない。

だから、いろんなことにチャレンジしてみる価値があると思う。一見自分の考えと違っていても、そこに向き合ってみることで新しい何かが得られることもある。できないことでもとりあえず向き合ってみると、できることもあるし、また今すぐにはできなくても数年後に、「あ!!!あれか!!!」とピカっとくることもある。いや、かなりそういうことがいっぱいある。

だから、ひとまず自分の中に引き受けてみたらいい。

でもまあ考えてみれば、何でも自分の中に引き受けてみることができるかどうかは、もしかすると器の大きさも関係あるかもしれない。
少々頭が良く…みたいな状態だと、それを引き受けたら爆発しちゃうのかもしれない。
でも、本当にそうだろうか?
この器は、いろいろ入れてみたら、ビヨーンと伸びるかもしれない。入口狭くても結構奥が広いかもしれない。まだ焼き上がってないから大きく伸ばす事ができるかもしれない。

ビビってたらできない。


これは、レッスン生のことが入り口になってるけど、きっと私自身に向けて言ってもいい事だと思う。
もう歳だから?

そんなこと、やってみなけりゃわかんない!やってみる価値はある、つーかやんないなら辞めちまえ!


そんなことをいろいろ考え、そしていろんなヒントをくれる神様に感謝しつつ、せっかくだから忘れない様にブログに書いておこう!と張り切って書いてるうちに、やばい!レッスンまであと30分!!!と焦るゆこちんです。

さーて、練習するべー!!!\(^o^)/

(さて、ちなみに私の中の「神様」は私にも分からない、超自然的な何か…キリストさまか、ブッダさんか、ご先祖さまか、自然か…分からないけど、いつも私を見守ってくれる何か凄い力です。きっとみなさんにもあるはず!)
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