今回の震災はまだまだ終わってない事がいっぱいで、これからが本当の頑張りどきに違いない。
原発のことは常に心配だし…といっても、自分が癌になるのでは?とかいう心配とはちょっと違う。前にも書いたと思うけど!
これからいったいどうなってしまうんだろう?どうして政府は本当のことを発表しないんだろう?どうして沽券にばかりこだわっているんだろう?日本にはとっても優れた人が大勢いるし、それに優れた技術もあるのに、今テレビに出たりいろんなことを仕切ったりしている人は、これがどうして…と信じられないくらい、危機管理ができてなくて、対処療法ばっかりだし、都合の悪い事は隠している…こんなことでこれからどうやって復興していくんだ?世界とどう関わっていくんだ?そして、どうして国民のことを第一に考えないんだ?!!!それが一番の疑問でもあるし。特に原発付近や風下などの放射線量の高いところの人たち(東京も含めてだけど)に、適切なデータを提示して、どのように動いたらいいのかを知らせないんだ?20年後にたくさんの子供たちが癌になっても平気なのか?人の命よりも大事なものなんかあるのか?そんな十字架背負ってよく平気で「健康には影響がない」なんて言えるな…。せっかくの支援物資などもいろいろな縛りで腐らせて廃棄になったりってことも出てるらしい…どうしてなんだ???今そこにいる人を助けようよ!
…そういったいろんな不安だ。
正しいデータと正しい知識が早めに伝えられる事によって、パニックは防げるはず。パニックを防ごうとヘタに隠す事によって、本当にヤバいことになったときにもヤバいと言わずに隠ぺいするか、または慌てて発表して本当のパニックを引き起こす。ちゃんと隠さずに公表してほしいよ。
…んで、
そんな中で、日本には本当に大事な事が分かってる人も大勢いるんだ!ということも分かった。
例えば…孫正義さん。
ソフトバンクをずっと使ってるんだけど、全く電波は悪いし、どーなってんねん?!!!とイラつきながらも、今更キャリア変えれんし~という思いで使って来た。でも先日の個人資産から100億円の話を聞いて、初めて、「イエ~イ!ソフトバンク!!!」と思った。
こんなときに、お金持ちの鳩山前首相などはバーンと寄付をしてもいいではないか?
いや、寄付をしなくてはいけない、とか善悪でいうのはよくないよね。寄付なんだから。でも、不思議な事にあんまり政治家がおっきな金額を寄付するって話を聞かない。寄付は政治家にとっては頂くものなのに違いない。
また、中京や大阪のテレビ番組も、本当にズバッとハッキリしているものが多いんだ!と知った。これは凄い!
こういう本音トーク的なものは実に気持ちがいい。本音というのは時に残忍だったり、恐怖であったりするけど、でも嘘やごまかしでは前に進めない。まず現実を直視して、そこから解決策をみんなで考える、というのがいい。それに本音というと、悪口とか誹謗中傷みたいに思う人は、逆に怖い。どんなことを思って、またどんな本音と違う事を言っているんだろう?…相当怖い。そうではなくて、自分の持っている知識や経験に正直に、それに照らして考えた場合の意見を出せるかどうかってことだと思う。それを言ったらちょっと都合が悪い…とか考える必要がないお互いの信頼関係があればこそ成り立つ。
相手も本音であれば、例えばその意見に反対であればそれを言うだろうし、腹が立てばどうして腹が立っているかを言うだろう。そこで意見を交換し、違いがあれば、その違いもアリだし、よく聞いてみたら同じってんだったら、それでいいし。
そういうところから、いっぱいこの人は尊敬しちゃうな、という人が出てきた。
んで、今最も注目してるのは中京大学の武田邦彦さん。
この人のブログ(ホームページなのかな?)は、とても考えさせられる。この度の原発事故に関して、ツイッターから辿りついたんだけど、顔の写真を見てビックリ!あら、この人、ペットボトルはリサイクルしない方がいい、二酸化炭素を減らそうとかしなくていい、と言ってた先生だ。
一見、すっとぼけた風貌なので、またなんだか変な事言う人が出てきた!っていう印象なんだけど、言ってる事を聞いてると、なーるほど!確かにそうだ…とすっかり感心し、今では温暖化なんかしてねーじゃん!!!と硬く信じる私である。
で、この先生は原発関連のみならず、いっぱいブログに記事を書いてるんだけど、原発のところはとりあえず全部読んだので、こうなったら、今までに先生が書いたものは全部読みたい!と今は全部制覇するべくiPhone片手に読んでたりする。
ときとして、なぜか涙が出る。なんでだろう?別に浪花節的なことなどなんも書いてない。でもこの一風変わった感じの先生には、人を大切に思う気持ちが溢れている。きっとそのせいだ。
そのうえ、大体は無断での引用や転写はお断り…とかなもんだけど、この先生、「引用はご自由に」と来たもんだ。
先日、ネットでみた、ノルウェーで研究されている先生も同じく「引用は自由です」的に書いていた。これが学者なんだな…と思う。
自分の知り得たことを多くの人の役に立てたい…そういう気持ちなのかな!と思った。
で、早速引用しちゃう。さっき読んで、今は受験がひと段落した所だと思うけど、また来年の入試に向けて頑張っている人もいるだろうし、受験生じゃなくても、とってもいい話だと思うから。
人生の鱗 其の二十五 ー人生の目標の立て方ー
人生とは難しいものである。
1) 人は広い野原で一人で生きていくのは寂しい。だから都市に群れる。
2) 人は目標を持つ。その目標の多くは「人より良くなること」である。
3) 人は目標が無ければだらけてしまう。
この3つの矛盾を抱えて、人間は悩む。いわば、自分で創り出した解決のできない悩みである。
1) 一人で生きることができないのだから、一緒に生きてくれる人に感謝しなければならない。
2) だから、感謝する人より良くなろうとするのは恩知らずというものである。
3) でも、目標はどうしてもいる。
この矛盾を無くし、悩みの無い人生を送るためにはどうしたら良いだろうか?
毎日を目標の達成のために生きる人がいる。その典型が「大学受験生」である。大学の受験生はすべての生活を大学合格という目標に捧げる。まれには受験時代が充実している人もいるが、多くの学生は苦しむ。そして、この時代に勉強がイヤになる人も多い。
人生で時に受験時代を過ごすことも悪くはないが、それは若いこと、一時期であることが条件である。長い人生を「目標のために生きる」と苦しい。
人間は目標のためには生きることができない。人間に生きる力を与えてくれるのは、
1) 目標があるが、その目標が達成されるかどうかには関心が無いこと、
2) 自分のためではなく、愛する人のために生きること、
である。それしか生きる方法がない。
私の目標は普通の人のような目標ではない。たとえば会社員の時には「社長になる」というのが目標ではなく、「この研究を成功させたい」というのが目標だった。研究が成功したらどうなるか、などとは考えなかった。
大学の管理をしている時には「学長になる」という目標を立てても私はファイトが湧かなかった。学長の仕事は意外に単調なものである。「工学教育を良くしたい」とか「この大学を良い大学にしたい」というのが私の目標だった。
学長補佐をしていたある時だった。毎日、夜遅くまで学長室で大学の仕事をしていた。そうしたら私と親しい事務の人が「先生、学長を目指して頑張ってください」と励ましてくれた。私は「ありがとう」とは言ったものの、私が夜遅くまで大学で仕事をしている目標が、「その大学を良くすること」とは言えなかった。他人が聞いたら歯が浮くような目標で、それは胸の内にしまっておくものだからである。
でも、私の人生が順調だったのは、目標が普通の人と違ったからではないかと思う。
学生時代は一番になりたいとは思わず、勉強ができるようになりたいというのが目標だった。
会社時代は社長になりたいとは思わず、仕事を成功させたいというのが目標だった。
大学時代は学長になりたいとは思わず、教育を改善したいというのが目標だった。
中学校や高等学校で先生が生徒に夢や目標を書かせる。
東大に行く、社長になる、お金持ちになる・・・それはみんな「他人との関係」で「勝つ」ことを要求する。でも、自分の目標に他人との関係が入ると挫折し、暗く、そして苦しい。
勉強ができるようになりたい、仕事を成功させたい、お金を節約し家族に安心を与えたい・・・それは自分自身で完結し、自分だけでできる。だからストレスは無いし、一度、失敗しても気にする必要も無い。
勉強をすれば必ず少しはできるようになる、仕事は時に失敗するが何度か挑戦していればやがて成功する、お金を儲けることができなくても精一杯働き節約することはできる・・・何でも自分だけでできる目標である。
それに、一緒に暮らしてくれる世の中の人を押しのけないから、それほどは恨まれない。そして、結果的に勉強ができるようになり、仕事が上手くいけば地位が上がり、人より上に立つかも知れない。でもそれは「結果的にそうなった」ということであり、それを目的にしていない。このところは非常に大切だ。
私はこれを「お布施主義」ということもあるし、「日々主義」と呼ぶこともある。
お坊さんは檀家に呼ばれると出向いて一所懸命にお経を読む。読み終わってお茶が入り、檀家の人としばらくお話をする。そして帰る段になるとお布施が包まれる。少ない時もあるし多い時もあるけれど、それはお経を読む時にはわからない。いつも一所懸命お経を読み、結果としていただくものである。
人間は目標がなければ生きていけない。でも目標を達成することに意味があるのではなく、目標を置くことによって日々、充実して生きることができるのである。だから、それが逆転して「目標のために日々が苦しくなる」というのでは意味が無い。
人間はやがて死ぬ。だから最終目標は死ぬことと言っても過言ではない。でも、同時に自分の人生はかけがえのないものである。その人生を充実して送るためには、
1) 他人と関係の無い目標を立てる。できれば他人を助ける目標が良い。
2) 目標は毎日のためにある。目標のために毎日を過ごさない。
以上のことを決めれば人生はずっと楽しくなるだろう。
自分で決めることができず「向こうから来るもの」を目標にしてはいけない。自分ができることに力を注ぎ、向こうから来るものは気にしない。試験を受ける時、勉強は一所懸命やるけれど、点数は気にしない、あるいはお店を大きくしようとするのではなく、毎日お客さんに喜んでもらおうという目標を立てると良いということだ。
おわり
武田邦彦
あ~、ケチケチすんな、全部私にも読ませろ~という人はこちら! 武田邦彦(中部大学)
いろんなサイトでボコボコに書いてる人もいる。うそつき呼ばわりしている人もいる。もしかしたら間違っている部分もあるかもしれない。でもこの人は絶対に嘘はついてないと信じられる。こういう信じられる人をたくさん自分に取り入れたい。そういう人間になりたい。
原発のことは常に心配だし…といっても、自分が癌になるのでは?とかいう心配とはちょっと違う。前にも書いたと思うけど!
これからいったいどうなってしまうんだろう?どうして政府は本当のことを発表しないんだろう?どうして沽券にばかりこだわっているんだろう?日本にはとっても優れた人が大勢いるし、それに優れた技術もあるのに、今テレビに出たりいろんなことを仕切ったりしている人は、これがどうして…と信じられないくらい、危機管理ができてなくて、対処療法ばっかりだし、都合の悪い事は隠している…こんなことでこれからどうやって復興していくんだ?世界とどう関わっていくんだ?そして、どうして国民のことを第一に考えないんだ?!!!それが一番の疑問でもあるし。特に原発付近や風下などの放射線量の高いところの人たち(東京も含めてだけど)に、適切なデータを提示して、どのように動いたらいいのかを知らせないんだ?20年後にたくさんの子供たちが癌になっても平気なのか?人の命よりも大事なものなんかあるのか?そんな十字架背負ってよく平気で「健康には影響がない」なんて言えるな…。せっかくの支援物資などもいろいろな縛りで腐らせて廃棄になったりってことも出てるらしい…どうしてなんだ???今そこにいる人を助けようよ!
…そういったいろんな不安だ。
正しいデータと正しい知識が早めに伝えられる事によって、パニックは防げるはず。パニックを防ごうとヘタに隠す事によって、本当にヤバいことになったときにもヤバいと言わずに隠ぺいするか、または慌てて発表して本当のパニックを引き起こす。ちゃんと隠さずに公表してほしいよ。
…んで、
そんな中で、日本には本当に大事な事が分かってる人も大勢いるんだ!ということも分かった。
例えば…孫正義さん。
ソフトバンクをずっと使ってるんだけど、全く電波は悪いし、どーなってんねん?!!!とイラつきながらも、今更キャリア変えれんし~という思いで使って来た。でも先日の個人資産から100億円の話を聞いて、初めて、「イエ~イ!ソフトバンク!!!」と思った。
こんなときに、お金持ちの鳩山前首相などはバーンと寄付をしてもいいではないか?
いや、寄付をしなくてはいけない、とか善悪でいうのはよくないよね。寄付なんだから。でも、不思議な事にあんまり政治家がおっきな金額を寄付するって話を聞かない。寄付は政治家にとっては頂くものなのに違いない。
また、中京や大阪のテレビ番組も、本当にズバッとハッキリしているものが多いんだ!と知った。これは凄い!
こういう本音トーク的なものは実に気持ちがいい。本音というのは時に残忍だったり、恐怖であったりするけど、でも嘘やごまかしでは前に進めない。まず現実を直視して、そこから解決策をみんなで考える、というのがいい。それに本音というと、悪口とか誹謗中傷みたいに思う人は、逆に怖い。どんなことを思って、またどんな本音と違う事を言っているんだろう?…相当怖い。そうではなくて、自分の持っている知識や経験に正直に、それに照らして考えた場合の意見を出せるかどうかってことだと思う。それを言ったらちょっと都合が悪い…とか考える必要がないお互いの信頼関係があればこそ成り立つ。
相手も本音であれば、例えばその意見に反対であればそれを言うだろうし、腹が立てばどうして腹が立っているかを言うだろう。そこで意見を交換し、違いがあれば、その違いもアリだし、よく聞いてみたら同じってんだったら、それでいいし。
そういうところから、いっぱいこの人は尊敬しちゃうな、という人が出てきた。
んで、今最も注目してるのは中京大学の武田邦彦さん。
この人のブログ(ホームページなのかな?)は、とても考えさせられる。この度の原発事故に関して、ツイッターから辿りついたんだけど、顔の写真を見てビックリ!あら、この人、ペットボトルはリサイクルしない方がいい、二酸化炭素を減らそうとかしなくていい、と言ってた先生だ。
一見、すっとぼけた風貌なので、またなんだか変な事言う人が出てきた!っていう印象なんだけど、言ってる事を聞いてると、なーるほど!確かにそうだ…とすっかり感心し、今では温暖化なんかしてねーじゃん!!!と硬く信じる私である。
で、この先生は原発関連のみならず、いっぱいブログに記事を書いてるんだけど、原発のところはとりあえず全部読んだので、こうなったら、今までに先生が書いたものは全部読みたい!と今は全部制覇するべくiPhone片手に読んでたりする。
ときとして、なぜか涙が出る。なんでだろう?別に浪花節的なことなどなんも書いてない。でもこの一風変わった感じの先生には、人を大切に思う気持ちが溢れている。きっとそのせいだ。
そのうえ、大体は無断での引用や転写はお断り…とかなもんだけど、この先生、「引用はご自由に」と来たもんだ。
先日、ネットでみた、ノルウェーで研究されている先生も同じく「引用は自由です」的に書いていた。これが学者なんだな…と思う。
自分の知り得たことを多くの人の役に立てたい…そういう気持ちなのかな!と思った。
で、早速引用しちゃう。さっき読んで、今は受験がひと段落した所だと思うけど、また来年の入試に向けて頑張っている人もいるだろうし、受験生じゃなくても、とってもいい話だと思うから。
人生の鱗 其の二十五 ー人生の目標の立て方ー
人生とは難しいものである。
1) 人は広い野原で一人で生きていくのは寂しい。だから都市に群れる。
2) 人は目標を持つ。その目標の多くは「人より良くなること」である。
3) 人は目標が無ければだらけてしまう。
この3つの矛盾を抱えて、人間は悩む。いわば、自分で創り出した解決のできない悩みである。
1) 一人で生きることができないのだから、一緒に生きてくれる人に感謝しなければならない。
2) だから、感謝する人より良くなろうとするのは恩知らずというものである。
3) でも、目標はどうしてもいる。
この矛盾を無くし、悩みの無い人生を送るためにはどうしたら良いだろうか?
毎日を目標の達成のために生きる人がいる。その典型が「大学受験生」である。大学の受験生はすべての生活を大学合格という目標に捧げる。まれには受験時代が充実している人もいるが、多くの学生は苦しむ。そして、この時代に勉強がイヤになる人も多い。
人生で時に受験時代を過ごすことも悪くはないが、それは若いこと、一時期であることが条件である。長い人生を「目標のために生きる」と苦しい。
人間は目標のためには生きることができない。人間に生きる力を与えてくれるのは、
1) 目標があるが、その目標が達成されるかどうかには関心が無いこと、
2) 自分のためではなく、愛する人のために生きること、
である。それしか生きる方法がない。
私の目標は普通の人のような目標ではない。たとえば会社員の時には「社長になる」というのが目標ではなく、「この研究を成功させたい」というのが目標だった。研究が成功したらどうなるか、などとは考えなかった。
大学の管理をしている時には「学長になる」という目標を立てても私はファイトが湧かなかった。学長の仕事は意外に単調なものである。「工学教育を良くしたい」とか「この大学を良い大学にしたい」というのが私の目標だった。
学長補佐をしていたある時だった。毎日、夜遅くまで学長室で大学の仕事をしていた。そうしたら私と親しい事務の人が「先生、学長を目指して頑張ってください」と励ましてくれた。私は「ありがとう」とは言ったものの、私が夜遅くまで大学で仕事をしている目標が、「その大学を良くすること」とは言えなかった。他人が聞いたら歯が浮くような目標で、それは胸の内にしまっておくものだからである。
でも、私の人生が順調だったのは、目標が普通の人と違ったからではないかと思う。
学生時代は一番になりたいとは思わず、勉強ができるようになりたいというのが目標だった。
会社時代は社長になりたいとは思わず、仕事を成功させたいというのが目標だった。
大学時代は学長になりたいとは思わず、教育を改善したいというのが目標だった。
中学校や高等学校で先生が生徒に夢や目標を書かせる。
東大に行く、社長になる、お金持ちになる・・・それはみんな「他人との関係」で「勝つ」ことを要求する。でも、自分の目標に他人との関係が入ると挫折し、暗く、そして苦しい。
勉強ができるようになりたい、仕事を成功させたい、お金を節約し家族に安心を与えたい・・・それは自分自身で完結し、自分だけでできる。だからストレスは無いし、一度、失敗しても気にする必要も無い。
勉強をすれば必ず少しはできるようになる、仕事は時に失敗するが何度か挑戦していればやがて成功する、お金を儲けることができなくても精一杯働き節約することはできる・・・何でも自分だけでできる目標である。
それに、一緒に暮らしてくれる世の中の人を押しのけないから、それほどは恨まれない。そして、結果的に勉強ができるようになり、仕事が上手くいけば地位が上がり、人より上に立つかも知れない。でもそれは「結果的にそうなった」ということであり、それを目的にしていない。このところは非常に大切だ。
私はこれを「お布施主義」ということもあるし、「日々主義」と呼ぶこともある。
お坊さんは檀家に呼ばれると出向いて一所懸命にお経を読む。読み終わってお茶が入り、檀家の人としばらくお話をする。そして帰る段になるとお布施が包まれる。少ない時もあるし多い時もあるけれど、それはお経を読む時にはわからない。いつも一所懸命お経を読み、結果としていただくものである。
人間は目標がなければ生きていけない。でも目標を達成することに意味があるのではなく、目標を置くことによって日々、充実して生きることができるのである。だから、それが逆転して「目標のために日々が苦しくなる」というのでは意味が無い。
人間はやがて死ぬ。だから最終目標は死ぬことと言っても過言ではない。でも、同時に自分の人生はかけがえのないものである。その人生を充実して送るためには、
1) 他人と関係の無い目標を立てる。できれば他人を助ける目標が良い。
2) 目標は毎日のためにある。目標のために毎日を過ごさない。
以上のことを決めれば人生はずっと楽しくなるだろう。
自分で決めることができず「向こうから来るもの」を目標にしてはいけない。自分ができることに力を注ぎ、向こうから来るものは気にしない。試験を受ける時、勉強は一所懸命やるけれど、点数は気にしない、あるいはお店を大きくしようとするのではなく、毎日お客さんに喜んでもらおうという目標を立てると良いということだ。
おわり
武田邦彦
あ~、ケチケチすんな、全部私にも読ませろ~という人はこちら! 武田邦彦(中部大学)
いろんなサイトでボコボコに書いてる人もいる。うそつき呼ばわりしている人もいる。もしかしたら間違っている部分もあるかもしれない。でもこの人は絶対に嘘はついてないと信じられる。こういう信じられる人をたくさん自分に取り入れたい。そういう人間になりたい。