ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

条件の違い

2012-05-21 07:49:09 | Weblog
「条件の違い」5月15日
 専門編集委員の玉木研二氏が、『小学生の落第』という標題でコラムを書かれていました。その中で玉木氏は、明治時代の留年制を取り上げ、『小中学での留年という手段は、結局「切り捨て」になるしかないと明治の経験は教える』と、留年制の導入に反対意見を述べていらっしゃいます。
 教育問題についての発言が多い玉木氏については、このブログでもたびたび取り上げさせていただいています。しかし、今回の見解には、玉木氏らしからぬ雑な部分が目につくように思います。明治と現代の学校教育を取り巻く状況の違いについての目配りが足りないように思うのです。
 まず、『毎月「小試験」も行われ、子供の席順に反映させた』という部分です。確かにこれは、子供にとって大きな心理的圧迫となったでしょう。しかし、現在、保護者やメディアの反発を押してまでこんなやり方を取り入れる小中学校があるとは思えません。また、こうした競争的な条件付けが、子供の学習意欲にプラスに働かないことは、すべての教員が常識として理解しているはずです。
 次に、『大試験などでは、各府県が規則で役人や有力者、住民らが参観するように定めた。親兄弟も来たという。そんな「衆人環視」の試験に受験生の精神的負担は極めて重かった』という点も、現在起こり得ないと言ってよいでしょう。
 さらに、『進級できた子が平均30%台という地方の記録もある』という指摘については、現行の全国一斉学力テストの結果からも、あり得ない数字ですし、もし仮に、30%台という現実があるのであれば、7割もの子供を授業が理解できないまま進級させることの無責任さこそ問われるべきだと思います。
 そして、『最も大きな弊害は、パスしなかった子供が低学年にたまり、学校の児童分布がピラミッド型になったことだ。学校嫌いから投稿しない子供の増加にもつながった』ということについても、現状認識に問題があると思われます。小学校の低学年段階での学習到達度は、非常に高いのです。子供をお持ちの方なら経験があると思いますが、小学校の低学年では、我が子の通知票の学習の記録欄の評価は、ほとんどが「よくできる」になっていたはずです。さらに、明治初期の段階では、学校に通わせることの意味やメリットについて多くの保護者が正しく理解してはおらず、安易に「勉強に向いていないのならいかせる必要もない」と、我が子を登校させなかったという事実も忘れてはならないと思います。
 最後に、『成績上位者に賞品を与えたり』という部分についても、現在、そんなことをする学校や教委が表れるはずはありません。
 要するに、明治と現代とでは、条件が異なることを考慮しないまま、「経験は教える」と結論付けるのは間違いだと考えます。ただ、橋下大阪市長の発言について、多くの人が単なる話題作りと、早くも忘れてしまおうとしている中で、玉木氏の見解が、改めて留年論議を深める役割を果たすことには期待したいと思います。

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一度は言ってみたい

2012-05-20 08:08:24 | Weblog
「本音で語る」5月13日
 ミュージシャンの横山剣氏が、『学校と私』というコーナーで、インタビューに答えていました。その最後に横山氏は、『最近はモンスターペアレンツみたいな親もいるけど、冗談じゃない。自分の子どもだけでも気が遠くなるほど大変なのに、先生は30人ぐらいの子をみなければいけない。先生も人間。万能じゃない。多少のことで文句を言うなと思うんです』と語っています。
 これこそ、多くの教員の本音を代弁した言葉ではないでしょうか。少なくとも私の本音は、横山氏の指摘とピッタリ重なります。しかし、私は教員時代も、教委に勤務するようになってからも、このブログの中でも、横山氏のような主張はしてきませんでした。
 私は、一部の識者が唱える「保護者の訴えにきちんと耳を傾ければ、モンスターペアレンツも理解してくれる」というような現実離れした楽観主義には大反対の立場です。教委勤務時代も、理不尽な保護者に対しては、「あなたのご要望にはそえません」とはっきり断ることを対応の基本にしていました。
 しかし、そんな私であっても、横山氏の意見のような「本音」を吐いたことはありませんでした。私の「公的見解」は、「教員は教育の専門家であり、専門家である以上、どのような些細なミスも許されない。人間だからミスを完全に防ぐことはできないが、心掛けとしてミス0を目指すべきである。そして、万一ミスをしてしまったら、素直に認め謝罪し、今後の改善策を約束すべきである。教員が保護者の訴えを批判することが許されるのは、それだけの対応をしてもなお理不尽な要求を続け、教員の職務に支障をきたす場合だけである」というものです。多くの教委の公式見解もほぼ同じニュアンスだと思います。
 これは私の理性が言わせている言葉であり、私の感情は、横山氏と同じことを叫んでいるのです。感情を生のままぶつけ合うことは、決してよい結果を生みません。しかし一方で、感情を無視した綺麗事や建前だけでは、真の解決には程遠いことも事実です。
 私は、横山氏の率直な意見にゆさぶられてしまいました。この「本音」を教委や校長が、保護者やメディアにぶつけてみたら、大きな論争になるような気がします。やってみる価値はありそうです。私には怖くてできませんが。
 
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これって体罰?

2012-05-19 08:14:53 | Weblog
「体罰の是非」5月13日
 石原慎太郎都知事と識者が公開討論をする「ビッグトーク」が行われたという記事が掲載されました。その中に、『体罰が話題になると議論は熱を帯び~』という記述がありました。参加者の意見は様々だったようですが、こうした議論でいつも気になることがあります。
 それは、参加者それぞれのイメージする「体罰」が共通なのか、ということです。実際、ある人は『トップアスリートは皆、しごきに近いことに耐えて超一流になっている』と言い、別の人は『体罰は権力と結びついた時に暴走する危険がある』と言い、さらに別の人は『体罰に頼るというのは、親としての想像力や知恵がない』と話しています。
 三者三様の体罰観が窺えます。しごきとしての「体罰」とは、フラフラになるまで走らされるようなイメージですし、権力と結びついた「体罰」とは、戦前の軍隊のリンチを連想させます。親の「体罰」とは、現代では児童虐待と重なる感じです。
 これでは、議論は深まりません。そして、三者に共通しているのは、軽度の「体罰」容認ということです。「しごきに耐えて」はもちろん、「権力と~」も、権力と結びつかない「体罰」はかまわないというニュアンスですし、「体罰に頼る~」というのも、様々な方法の中の一つとしての「体罰」は許容範囲ということです。こうした結論になるのも、「体罰」の定義が曖昧なまま議論をしているからです。
 実は、「体罰」の定義は学校教育においても、大変難しい問題です。私は体罰についての校内研修会に講師として呼ばれたことがありますが、必ずといってよいほど出されるのが、「どこまでが体罰なのですか」という体罰境界論的な質問なのです。体罰についての教員の関心事は、ここにつきるといっても過言ではありません。言い換えれば、ここまでなら処分されない、それならそのぎりぎり手前のレベルまでは「体罰」を有効に使おうという発想です。
 私は、子供と物理的な接触があった場合、「体罰」を受けたと訴えられる可能性がある、と話しています。それが、問題になるかならぬかは、ここのケースで判断するしかないと話します。実際、整列しない子供の腕を引っ張っただけで「体罰」を受けたと訴えられた教員もいるのです。彼は、口頭注意という一番軽い処分でしたが。
 体罰について語るのであれば、個別の事例を10程度取り上げ、それぞれについて意見を述べ合うという形でなければ具体性がなく、意味のある話し合いにはなりません。

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つまらない

2012-05-18 08:16:15 | Weblog
「つまらない授業」5月12日
 永六輔氏が、『話し上手な元選手を』という標題でコラムを書かれていました。その中で永氏は、『スポーツの中継で気がつくことがある。それはファンを増やそう、そのために面白く中継しようという努力が見えないことだ。昔はアナウンサーと解説者のコンビとしての楽しさがあった。つまり話芸としても成立していたのだ』と書いています。
 そして、『過去の成績でなく話の上手な元選手やスポーツファンを探すことを努力してほしい』の述べています。まったく同感です。そして、永氏の指摘は、教員と授業についてもあてはまると思います。
 永氏は、『最近はどのスポーツも技術論が主流で、これがつまらない原因』『解説者は元OBが過去の人気を頼りに話芸を磨く意識がない』とも書いています。これを教員と授業にあてはめてみます。技術論が主流ということは、授業が親学問についての解説に偏っていることと子供というものを理解していないことに当たります。
 前者は、日本史について専門的に語ること=歴史の授業と思っているということです。歴史の授業は、まず歴史に興味をもたせ、歴史的に物事を考える経験をさせることがねらいです。それなのに、自分が専門だからといって、江戸時代の問屋制度の実態について滔々と語っても、それは授業ではありません。そんなことは学会で発表すべきことなのです。それなのに、教員は教えることの専門家であるということを忘れ、自らを学者であるかのように誤解している教員、これは中高に多いのですが、そんな教員が授業をつまらなくしているのです。
 また、後者は、児童・生徒が何に興味関心を抱いているか、どの程度の予備知識があり、理解力があるかということを把握しないまま、「大学院で学んだ俺の高度な話を聞けて幸せだろう」とでもいうよな自己陶酔に陥っている教員の姿に似ています。
 さらに、過去の人気を頼りに話芸を磨く意識がないということは、自分の学問上の知識や知見にアグラをかいて授業法の工夫をしないという思い違い教員の姿そのものです。
 要するに、プレーヤーとして優れていたものが解説者としても優れているとは限らない、という永氏の指摘は、日本史や物理の成績が良かったからといって、良い教員になりよい授業ができるとは限らないという事実につながります。教員の養成や研修を考える際に忘れてはならないことだと思います。

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「私見」ですが?

2012-05-17 08:28:43 | Weblog
「許されることor許されないこと」5月12日
 東京経済部の三沢耕平記者が、『土俵出てつぶやこう』という標題でコラムを書かれていました。その中で三沢氏は、『霞が関でもツイッターを活用する「つぶやく官僚」が増えてきた。入省間もない若手から局長級の幹部など、所属官庁と氏名を明らかにしているケースも少なくない』と現状を紹介し、『省益を優先しがちな霞が関において、私には彼らが「民」と一緒に歩む「日の丸官僚」に見えた』と、「官僚のつぶやき」を肯定的に評価しています。
 以前にも書いたことですが、私にはよく分からないのです。公務員が、公務員として、公務について、個人で情報発信することに、違和感を禁じ得ないのです。私は、教委勤務時代に、月間の広報紙の編集発行を担当する部署を統括していたことがありました。内容についての企画は、直属の上司の決裁だけで済みましたが、実際に記事を集め、レイアウトし、イラスト等も入れた原稿が完成してからは、関係課の決裁をとるために、何日間もかかりました。
 こうした稟議システムがよいと言いたいのではありません。ただ、公的機関からの情報発信には、それだけ多くの関係者の目による点検が必要とされていたということを指摘しておきたいのです。また、学校から依頼を受け、校内研修などの講師として訪問する場合でも、持参する資料について、事前に上司のチェックをうけるという決まりもありました。
 いずれも、不用意な発言や誤解を受けかねない表現が、教育行政そのものに対する不信感を生じさせ、無用なトラブルが発生することを防ぐための措置だったのです。もし、教員や校長が、所属や氏名を公表して、ツイッターでつぶやくことが認められるようになり、そこに教委の見解や学校としての方針と異なる内容が記載されていたとしたら、どんな事態になってしまうのでしょうか。
 また、校長が、給食調理民間委託や校庭の芝生化、教室への扇風機設置といった教委の方針の問題点を列挙するつぶやきをしたらどうなってしまうでしょうか。
 卒業式での国歌斉唱について、校長の考え方を批判するつぶやき、指導力不足教員が自分に対する他の職員の対応に不満を述べるつぶやき、保護者名こそ明らかにしないものの自分が直面している「モンスターペアレント」の実態を明らかにするつぶやき、そのようなものと上述した「つぶやく官僚」が発信している有意義な情報とは違うという指摘もあるでしょうが、私があげた事例でも、「公教育における思想信条の自由の危機」「教員への不当弾圧が教育を歪めるのを防ぐ」「モンスターペアレントの実態を基に保護者との連携のあるべき姿を考える」など、有意義な情報を装うことは可能なのです。両者の間に線を引く作業は、実際にはとても困難なことだと思います。 
 「教員のつぶやき」への将来展望は、準備が進んでいるのでしょうか。

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教育規制緩和

2012-05-16 07:56:56 | Weblog
「いつかの失敗」5月11日
 子ども・子育て関連法案が衆院で審議入りしたことを受け、『将来に恥じない議論を』という標題の社説が掲載されました。その中に、『行政の規制で質の確保を図ろうとしたことが結果的に待機児童の増加を招いたのではなかったか。保育サービスを増やし、互いに競い合う中で質の向上を促してはどうか。そのためには何よりも選択肢(多数の保育サービス)と情報公開が必要だ。利用者がより良いサービスを選べるようにし、結果的に質の低いサービスを淘汰していくのである』という記述がありました。
 どこかで目にしたような意見です。ようするに規制を緩め、市場原理に任せればうまくいくという考え方です。学校教育にもこうした考え方が導入され、それが学校選択制という形に結実しました。教育クーポン制など、さらなる市場原理的制度の導入を唱える政治家もいますし、企業の学校教育参入を後押しする意見もあります。しかし、それらは本当に正しい考え方なのでしょうか。 
 現に、学校選択制については、廃止や縮小を図る自治体が増えてきています。必ずしもうまくいっていないのです。そうした現状に対しては、規制緩和が中途半端だから十分な効果が出ていないとする反論があります。しかし、公教育に規制緩和という考え方は危険ではないかと思います。特に、義務教育においては。
 学校教育における規制の最たるものは、教員免許と学習指導要領です。この規制をなくすことが、最大の規制緩和です。教員免許のない者でも教壇に立てるとなれば、様々な教員を揃えることで差別化を図ることができます。落語家だったり、元オリンピック選手だったり、あまり売れないタレントなどを特別授業の講師にするというような学校が出てくるかもしれません。また、学習指導要領にとらわれず、小学校で中学校レベルの授業をうたい文句にしたり、国語算数理科社会英語だけに特化した学習塾のような学校も誕生するかもしれません。
 義務教育というものに対する考え方にもよるのでしょうが、私は、そんな学校は義務教育に相応しくないと思います。冒頭に話に戻りますが、保育の規制緩和が、劣悪な保育環境に大勢の幼児を詰め込むという弊害となって表れている地域もあります。競争原理礼賛は、子供という人に関わる営みに於いては、万能でないことを忘れてはならないと思います。 

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学校の縦割り化

2012-05-15 08:04:55 | Weblog
「教員という仕事のあり方」5月11日
 反貧困ネットワーク事務局長の湯浅誠氏が、社会保証制度のあり方についてコラムを書かれていました。その中で湯浅氏は、『仕事、生活、性や心の悩み、自殺念慮など、あらゆる相談の窓口を一本化した「よりそいホットライン」で~』と書かれています。
 縦割り行政と批判される我が国のお役所仕事のあり方に対する批判から、困難に直面している人が、ここに行きさえすれば大丈夫と思えるようなところを設けることの大切さが言われていますが、その考え方を具体化した仕組みなのでしょう。そういえば、震災復興に関しても「ワンストップ」システムの構築の大切さが唱えられていました。
 ここで、私の連想は、教員のあり方へとつながってしまいます。従来、教員というものは、「ワンストップ」的でした。学校における子供の勉強だけでなく、家庭での躾も、放課後の問題行動への対応も、保護者の悩みまでも、すべて背負い込んでいたものでした。私も20代の頃、「実は子供に恵まれず、この子は養子なのだが、本人は知らない。いつ話したらよいか」「妻が他の男と家を出てしまった。自分一人では子供を育てられない」「子供が自転車泥棒と言われている。鍵のかかっていなかった自転車にちょっと乗っただけなのに。警察沙汰にしない方法はないか」「娘がまだ帰ってこない。夕食のとき殴ったのがよくなかったのでしょうか」など、こんなことまで教員の仕事なのか、と疑問に思うくらい様々な相談に対応しました。
 こうした状況が望ましいと言っているのではありません。このブログで何回も繰り返し述べてきたとおり、教員の多忙化は授業の質の低下を招くと考えています。しかし、一方で、こうした経験が教員としての自分を一回り大きく成長させてくれたという面も否定できません。
 今、学校には様々な職種の人がいます。図書館指導員、補助指導ボランティア、教育カウンセラー、スクールソーシャルワーカーなどです。こうした人たちの力が、教員の負担軽減に役立つと同時に、教員から大切な何かを失わせるということもあるのではないでしょうか。
 実際、教員が不祥事を起こす、子供が不慮の死を遂げるといった事態になると、子供の心のケアのためにカウンセラーの派遣を、という声が出されます。教員もそれを当たり前のこととしています。しかし、昔は、傷ついた子供の心は普段から子供と接し子供を理解している教員の役目であったのです。家庭の問題で不登校になった場合、保護者に関わることで保護者の信頼を得、そのことで問題が解決することもありました。こうした経験なしに教員生活を送ることは、教員の子供理解を浅いものにしてしまうように思えてなりません。教員が、子供のことは自分がよく知っているという専門家としての自負を失って平然としているように思えることも気掛かりです。
 ワンストップ化を求める世間の流れとは逆に、縦割り化が進む学校教育、なんてことにならなければよいのですが。

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経済的合理性と創造性

2012-05-14 08:14:43 | Weblog
「創造性」5月10日
 土屋渓氏が、『テレビ界のジレンマ』という標題でコラムを書かれていました。その中で土屋氏は、『日本テレビの土屋敏男エグゼクティブディレクターは、「かつては作り手が(市場を意識せず自由に)面白いことをやるんだという甘い考えが許されたが、だからこそテレビは生き延びてきた」と話した。ビジネスが先行すると制作者の創造性が発揮されず、面白い番組は生まれにくいという考え方だ』と述べています。
 確かにそうだと思います。教員が行う新しい指導法の開発にも、同じことがいえるのです。私が教員になった35年ほど前には、区や市の研究会では、教委からは予算が配当されるだけで、教員たちが自由に研究開発に取り組むことができました。もちろん、校長が部長になり、複数の教頭(当時の呼称)が副部長となって組織を動かしていましたが、実際の授業研究においては、私のような若手教員が自由に取り組むことができました。
 研究発表の場では、先輩たちからこっぴどく批判されることもありましたが、同年代の仲間とともに、夜遅くまで議論を戦わせるのは、楽しく刺激的でした。私は、後年、指導主事になりましたが、指導主事仲間のほとんどが、私同様、若い頃から区や市の教育研究会で「自分磨き」の経験をもっていました。自分の思いで自由に研究に取り組む経験が教員を成長させるということです。
 今思えば、当時の私は、都の教育課題や文部科学省が示す指針などのはまったくの無知で、自分がやりたい研究、それは社会科の指導法の研究だったのですが、に夢中でした。自由に取り組めたために、企業の研修会の手法を授業に取り込んだり、当時の流行りだったワークショップ型を生かす授業なども試みていました。いずれも理念先行で成功とは言い難い結果に終わってしまいましたが、そうした多くの「無駄」があったからこそ、多くの教員に影響を与えた指導法も生まれてきたのだと思います。それは、油井を掘る作業に似ています。無駄を避けていたのでは、決して鉱脈にぶつかることはできないのですから。
 しかし、現在は、教委が教員の研究のテーマを設定したり、教委が抱える教育課題についての調査研究を行わせたりする形が主流になってきています。これらは、議会や市民に対し、「○○の予算を投入して調査研究した結果、△△ということが明らかになりました。この結果を基に来年度から□□という事業を開始したいと思います」と説明ができるという意味で、適正な予算執行と言えます。それは分かるのですが、そこからは新しい指導法や授業の形は生まれてはきません。それは長い目で見たときに、学校教育の衰退につながっていくような気がしてなりません。

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体罰教員

2012-05-13 08:34:44 | Weblog
「体罰教員」5月9日
 元外務官僚の佐藤優氏が、石川衆院議員に対する検察の取り調べについて、コラムを書かれていました。その中で佐藤氏は、『特捜検察に逮捕された経験がある人以外には、なかなか理解されにくいのだが、被疑者と検察官の間には、独特な信頼関係が育つことがある』と述べています。その実例として、石川議員が自分を取り調べた田代検察官について『田代さんも、組織の命令で無理をしたのでしょう。こういうひどい仕事をさせられて可哀想だ。何とか守ってあげる方法はないのだろうか』と話していることを紹介しています。
 私は、特捜検察に逮捕されるような大物ではないのですが、佐藤氏の指摘したことは、よく分かるように思います。似たような事例を経験してきたからです。それは、猛烈な体罰教員とその学級の子供たちとの関係です。
 私が教委に勤務していたとき、Aという教員が毎日のように体罰を行っている、という情報が入りました。校長に連絡し調べさせると、学級のほとんどの子供が被害者となっているという考えられない実態が明らかになりました。校長に報告書をあげさせ、処分に向けた手続きを進めようとした矢先、Aの学級の保護者代表という人たちが教委に押しかけてきました。私は、こんなひどい状況なのに今まで把握することができず申し訳ないと謝罪しましたが、保護者たちの反応はまったく予想を裏切るものでした。彼らは、「A先生は熱心な素晴らしい先生。子供たちも自分たちが悪かったから叩かれるのは当然と言っている。A先生を処分するという話を聞いたが、事実だとすれば許せない。私たちはマスコミに訴えかけても反対運動をする」という言ったのです。体罰への抗議ではなく、体罰を理由にした処分への抗議だったのです。こんな様子ですから校長の聞き取りにも協力が得られず、結局処分はできませんでした。つまり、加害者と被害者の間に、考えられないような「信頼関係」が生まれていたのです。石川議員と田代検察官のように。
 翌年、A教員は他区に異動していきましたが、その後、夏休みも近づく頃になって、A教員の学級だった子供たちは、洗脳から目覚めた人のように、A教員への批判を口にし出しました。
 学校での体罰について、メディアや世間の人は「学校と教委がグルになって隠そうとしている」という見方をしますが、実際には、被害者である子供や保護者自身が事件化を嫌うことが少なくないのです。体罰厳罰派の私はそのたびに悔しい思いをしたものです。

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決める職員会議

2012-05-12 08:08:33 | Weblog
「職員会議のあり方」5月8日
 周防正行氏が、『映画監督の舞台うら』というタイトルのコラムを書かれていました。その中で周防氏は、映画監督の仕事について、『映画監督は映画のすべてを演出する。~(中略)~なんだか大変そうだが、実は自分で具体的なアイデアを出さずとも、各パートのプロフェッショナルが様々な選択肢を用意してくれるので、イエス、ノー、を言うだけでも大丈夫だ』と書かれていました。
 そういうものなのでしょう。そして、私は、これこそ校長の学校経営の理想の姿と重なると思いました。学校は、教員という専門家集団で構成されている組織です。どんな「スーパー校長」であっても、教育活動のすべてについて、どの教職員よりも優れているということはあり得ません。優れた校長は、自分の描く理想像を明確にもち、それを分かりやすく教職員に提示し、理想の実現に向けて「専門家」たちのアイデアを募るのです。
 そこで必要なのは、自ら「戦術」を考え出す能力ではなく、高次な戦略に基づいた判断力、評価力なのです。つまり、出されたアイデアに「イエス、ノーを言い続ける」ことなのです。そして、その前提には、自由にアイデアを出すことができる雰囲気づくり、出されたアイデアに「ノー」を言っても、相手に再提案の意欲をもたせ続ける人間関係づくりができる能力があります。
 かつて都教委が、職員会議を校長の諮問機関、経営方針浸透の場と位置付けたとき、「職員会議で反対意見も言えない」「民主主義のない学校で生徒に民主主義を教えることはできない」などという批判がなされたことがありました。今でも、そうした捉え方をしている人たちがいます。大きな誤解です。 
 教員は自らの専門的な知見に基づいて、大いに意見を言うべきなのです。何も言わないのは責任放棄でさえあります。しかし、そのことと教員の意見が採り入れられることとは別の問題です。自由に意見を言い、その結果組織としての決定、学校の場合は校長の決定には従うという、組織人として当たり前のことを再確認したのが、かつての都教委の判断だったのです。
 自分の考えと違うからといって、組織の決定に従わず駄々をこねるのでは、何も決められず前に進めない民主党と同じです。それがいいというのであれば話は別ですが。

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