ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

偶発的効果

2019-02-13 08:25:46 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題
「偶発的」2月3日
 読者投稿欄に、世田谷区の中学生I氏の『人の意見はそれぞれ違う』という表題の投稿が掲載されました。その中でI氏は、『母は、夜遅く帰ってきた夫に奥さんが鍋料理を作ってあげるというテレビコマーシャルを、とても不快に思っていました。「夜遅く帰ってきた夫に、妻が何か作ってあげるのは当たり前という考え方が気に入らない」』という話を披露し、『確かに、夫だけの都合で妻にご飯を作らせるのは、おかしいと思いました。女性はみんなそう考えるとも思いました』と述べています。
 そしてその後、学校である教員の話を聞いた経験を紹介します。『家庭科の先生(男性)は家では料理をしないそうなのですが、その理由は、先生がキッチンに立つと奥さんが「まるで私ができないみたいじゃない」と怒るからだそうです。たとえ夜遅くても、奥さんが自宅で仕事中でも、作らせてくれないそうです。それを聞いて、家事をする女性は、みんな母と同じ考えだと思い込んでいた私は衝撃を受けました』と。
 I氏は、家庭科教員の話によって、表題のように「人の意見はそれぞれ違う」ということを実感をもって学んだのです。貴重な経験だったと思います。また、何気ない教員の「無駄話」から、物事に見方・捉え方の真理を見つけ出したI氏の感性や頭の良さも大したものだと思います。人はこうした経験を積み重ね成長していくのでしょう。
 今、「無駄話」と書きました。失礼な表現だったかもしれませんが、おそらく本当に「無駄話」だったのだと思います。ここで言う「無駄話」とは、価値がないという意味ではなく、教員が教育的意図をもって事前に計画し準備した発言ではなかっただろうということです。このブログで何回も書いてきたことですが、教員は授業において、学習指導要領や学校の年間指導計画などによって学習内容と活動の大枠を決められています。その中で目標を達成するのに最も相応しいと考える学習指導案を作成(実際には頭の中で組み立てる程度のことが多いが)し、ここでこんな話をしよう、このエピソードを披露してから質問しようなどといくつかの想定問答をイメージして、授業に臨んでいるのです。そこに家庭における妻との会話というネタを準備していたというのは想像しにくいのです。
 休み時間か、部活や学校行事か、委員会活動の時間か、給食や清掃の時間か、よくは分かりませんが、いわゆる雑談をしているときにひょっこり出てきたエピソードという雰囲気がします。教員の多くはそうした時間をもっているはずですし、それが子供との相互理解を深める役割を果たすことも理解しているはずです。そうした意味では、雑談も立派な教育活動の一つなのです。
 しかし、そうした場に、今日はこの話をして、男女平等について考えさせようとか、価値観の多様性について気付かせようといった意図をもって臨むことは少ないのです。何しろ授業とは違い非意図的な営みなのですから。それだけに事前に効果は見通せません。今回は、教員の無駄話がI氏にとって有益な発見に結びつきましたが、逆に何気ない話が望ましくない価値観を受けつけてしまう可能性もあるのです。教員は、自分の一言に対して、常に子供への影響を考える習慣をもつべきなのです。それが無意識に出来てこそ、中堅教員といえるのです。
 
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