ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

善意の下の不敬

2024-04-01 08:06:52 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「善意でもしてはいけない」3月24日
 みんなの広場日曜版は、『作文につづる 私の思い』というテーマでした。読者からの投稿は、小中学生時代の作文にまつわる思い出が多かったようです。その中に気になる記述がありました。
 熊本県K氏(72)と埼玉県K氏(75)のお二人の投稿です。熊本県のK氏は、『小2の頃だったと思う。私の作文を学校の文集に載せることになったらしく、もう少し書き加えるように担任から言われた。そうは言っても何も思い浮かばない(略)「何か買ってもらったことはないですか。服を買ってもらったことがあるでしょう」と言われ、記憶にないことを書き加えた(略)初めて活字になった私の文章だが、ちょっぴり苦い味のするデビュー作だった』と書いていました。
 埼玉県のK氏は、『小4の時の作文「くつのせんたく」(略)指先のけがが痛むが鼻歌で楽になったことなどをつづっている。先生に渡すと、赤ペンで「らんらんと歌い出したくなるでしょう」と添え書きされ、書き加えて清書するよう原稿用紙を渡された。それがつづり方教室というラジオ番組に送られ、朗読することに(略)しかし、最後の2行を書き足したばかりに、私の作文ではないという思いがずっとあった』と書いているのです。
 お二人とも、作文の上手な子供だったのでしょう。選ばれ、褒められ、それ自体は嬉しい思い出になっていますが、教員からの「干渉」によって加筆させられたことによって、自分の力だけで書き上げた作文ではないという思いをもち続け、それが心にトゲとなって刺さっているのです。
 以前このブログで、授業中の子供の発言を教員が「要するに~ということですね」と勝手に要約してしまうことの問題点を指摘しました。今回のお二人の担任教員がしたこともそれに共通する問題があります。一つは善意で、ということです。もう一つは、子供に対する敬意に欠けることです。
 子供の作品に、教員が言う通りに加筆修正するように指示する行為の根底には、子供の書いたものなど未熟で取るに足らないものだという認識が潜んでいます。未熟な作品しか書けない子供に対し、比べものにならないくらい高い文章表現力をもつ自分(教員)が、作品の質を飛躍的に高めるために、加筆修正を指示してやれば、素晴らしい作品になり、高い評価を受け、子供も喜び、保護者にも感謝されるはずだ、という考えなのです。
 こうした指摘をされれば、多くの教員はそんな思い挙がったことは考えていないと答えるでしょう。それは嘘ではないかもしれません。しかし、本人も意識できていない無意識下に、こうした思いや価値観が隠れているのです。こうした行為は、子供を侮辱し、子供の作品を貶めるものです。教員が絶対にしてはいけないことなのだという自覚が必要です。60年以上も子供の心に違和感を植え付けるような行為は慎まなければならないのです。
 作文の場合、教員が子供の「完成品」に対して指示していいのは、誤字脱字のチェックと、改行等の原稿用紙の使い方、読む人のことを考えて丁寧な字で書くことだけです。

 

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