「これ何?」7月4日
論説委員小倉孝保氏が、『筆記体は難しい』という表題でコラムを書かれていました。その中で小倉氏は、『古文書を読むのは難しい。歴史の浅い米国でも事情は同じである。特にスマートフォンやパソコンが普及し、手書きの文書が減った今、古い書類の解読には一定のスキルが必要になっている。理由に一つは、アルファベットの活字体のhか筆記体があるためだ(略)年配者が手書きで記したカードを、若者が読めなくなっては世代間の断絶を深めてしまう』と書かれていました。
私の中学生時代は、英語の時間に筆記体を教わりました。私のつれあいも同じです。彼女は今でも筆記体の方が書きやすいし読みやすいと言います。この記事を読み、活字体で英文を書こうとしたら、とてつもなく時間がかかり、どうして筆記体をやめちゃうんだろう、と文句を言っていました。
私が指導室長をしていたとき、議会で英語教育についての質問があり、現在では筆記体は指導しないと答えたとき、私より年配の議員から「エーッ」という声が上ったことを思い出してしまいました。我が国においても、英語の筆記体派と活字体派の溝は深そうです。
とはいえ、英語は所詮外国語です。深刻なのは日常使う日本語の問題です。行書や草書となると、書けない、読めないという若者が増えているのではないでしょうか。古文書が読めないのは仕方がありません。私も読めません。しかし、手紙などで使われる現代文で行書や草書が読めない、書けないというのは語学教育として、伝統文化の継承という意味において、どうなのでしょうか。
習字の授業では、行書や草書に触れる時間はごく僅かです。高校生になった「芸術」として書道を履修すれば、行書や草書に触れることになりますが、書道を履修しなければ、そうした機会がないまま成人になってしまいます。
学校教育全体で、文字の読み書き、筆字だけでなく、万年筆や鉛筆での楷書以外の書き方や読み方について、どのように習得させていくか、あるいは必要なしとするのか、きちんと共通理解をもつ必要があるのではないでしょうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます