「教育評論家」4月12日
関西大教授谷本奈穂氏が、『略歴に隠れるステレオタイプ』という表題でコラムを書かれていました。その中で谷本氏は、新聞紙面で紹介される識者のプロフィルを分析し、『あるテーマを語るにふさわしい「何か」は「学歴」「職業」「活動」の3点セットであるようだ。これはメディア(と我々)が、その3点で他者を判断していることの裏返し』と書かれています。
頷ける指摘です。私には、プロフィルについて2つの印象に残る出来事があります。一つは、ある研修会で講師の紹介をしたときのことです。講師とは知り合いでしたし、念のため事前に調べそつなくこなしたつもりだってのですが、研修会終了後、「指導」を受けてしまったのです。私の紹介に間違いがあったのではなく、講師本人が当日の研修テーマに関わって伝えてほしかったことが含まれておらず、不必要な情報が含まれていたという指摘でした。
その講師は人権教育に造詣が深く、そのことにかかわる経歴を詳しく触れてもらうことで、当日の話の内容に興味をもってもらいたかったようなのです。ところが、私は彼の全てについて網羅的に語ってしまい、参加者に「教育委員会の偉い人」という印象を与えてしまったわけです。
もう一つは、私自身のことです。私が退職後ある全国紙からインタビューを受け、それが写真付きで報じられたときのことです。記者は、「先生の肩書きですが、教育評論家ということでよろしいでしょうか」と訊いてきたのです。それまでに、別の全国紙のインタビューを受けたり、テレビ番組に呼ばれたりしていたので、そう発言したのでしょう。しかし、私は別に評論活動を職業としていたわけではありません。その旨を伝えると、記者は困ったような顔になりました。おそらく「元○○」では格好が付かないと思われたのでしょう。私は彼の立場を忖度し、「お好きなように」と言ってしまいました。掲載された記事には、「教育評論家」という肩書きが記載されていました。
私はこのブログを10年近く続けています。肩書きはありません。略歴は文中で度々触れています。もしかしたら、教育評論家という肩書きをつけ、それを前面に打ち出したらもっと読者が増えるのでしょうか。中身は変わらなくても。教育は国民の関心が高く、誰もが学校生活を体験していることもあって、多くの人が発信できる状況にあります。そんな中で、やはり肩書きは必要なのでしょうか。考えてしまいました。
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