ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

阿諛迎合

2016-09-27 07:11:48 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「阿り」9月16日
 インターネットイニシアティブ会長鈴木幸一氏が、『「おもねる」ことに未来はない』という表題でコラムを書かれていました。その中で鈴木氏は、小池百合子都知事の、給与半減やリオ五輪出張の際のビジネスクラス利用を取り上げ、『優れた人材にその能力を発揮してもらうには、能力に応じた報酬を与える必要がある』『東京都に期待するのは、とびきり優れた人材を集めて、将来を見据えた政策をつくり実現すること』と批判なさっていました。
 鈴木氏は、給与半減もビジネスクラス利用も、知事が都民に「おもねっている」と言っているのです。私も、確かにそうした面はあると感じています。そして、こうした「阿り」が、公務に携わる者全体に広がっていくことを憂える気持ちもあります。
 以前このブログで、某大学の教官たちが、自らの給与の一部を拠出し苦学生の援助に充てるという動きを取り上げ批判したことがありました。そのときには使わなかったのですが、その根底には鈴木氏の指摘同様、世間への阿りを感じていたのです。我が身を削ってまで教え子のために尽くすということで、教育者の鏡という評価を得る、悪く言えば人気取りです。
 そしてこうした見方は、大学の教官に限らず、小中学校の教員にも当てはめられているのです。朝食を摂らずに登校した子供に自腹を切って菓子パンを与える教員、積立金が払えず移動教室に参加できない子供の参加費を負担して参加させる校長など、「自己犠牲」を美談仕立てに伝える報道は、今も残っています。
 そんな「自己犠牲」は、制度改革を遅らせ、事態を悪化させる行為であるにもかかわらず、教育者というだけで、自己犠牲を求め、美談に仕立てる世間があり、それに阿る心得違いの教員たちがいるのです。だからこそ、鈴木氏の指摘に共感を覚えてしまうのです。
 公職者、教育者は世間から自己犠牲を期待され、本人たちもそれを自らの使命と誤解するという傾向があります。悲壮感に酔うという言い方もできます。そして公立校の教員は公職者であり教育者であるという二重の自己犠牲陶酔症傾向をもつのです。教員が目指すべきは、優れた業績を残し、堂々とそれに見合った待遇を求める姿勢です。もちろん、能力もなく業績を上げられないにもかかわらず、待遇だけを求めるようではいけないことは言うまでもありません。

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