「感覚からくる違和感」9月21日
『見直し進む教職大学院』という見出しの記事が掲載されました。『教員の資質向上を目的とする教職大学院が2008年度に発足して12年余り(略)設置が広がる中、先行した大学では従来の大学院の教員養成系修士課程との統合など見直しや改革も進む』という現状について報じる記事です。
記事の内容については、「?」マークばかりが頭に浮かびます。まず、『教職大学院は実践力の育成を重視する』ものであるということです。その具体的な例として『国語や英語、保健体育など教科の専門性や指導力を磨くプログラムも新設』とあります。教科の指導力とは授業力のことでしょう。授業力を磨くのに、実際に授業をしてその反省と改善を繰り返すことよりも有効な方法があるのでしょうか。ない、と思います。
これは現職の教員や校長などの管理職に訊いてみればはっきりするはずです。校長には「あなたは、新たに自校に配属される教員について、実際に2年間教壇に立って授業をしてきた人と大学院で2年間学んできた人のどちらが望ましいですか」、教員には「あなたは、新たに一緒に学年を組む教員について、実際に2年間教壇に立って授業をしてきた人と大学院で2年間学んできた人のどちらが望ましいですか」、と問うてみるのです。多くの人が前者を選ぶはずです。自力で学級経営をし授業をし保護者と対応することができ、その指導や支援に労力と時間を割く必要がないからです。つまり、子供のいないところで何を学び演習を重ねようと、実践力など身に着かないということです。
次に、『教職大学院で学位を取得しても給与や昇進など制度上のメリットが整備されていないことは当初から課題に挙げられている』ということについてです。要するに教職大学院出身者は、高給で迎え、管理職登用時にも優遇すべき、ということです。私が教員になったころ、小学校では短大卒の教員がたくさんいました。彼らが学級経営力や授業力において4年制大学卒の教員よりも劣るという実感は全くありませんでした。私と一緒に配属されたG教員も短大卒でしたが、学級経営も授業も巧みで、同期の私は内心悔しい思いを抱き続けていたものでした。私のつれあいも短大卒でしたが、国語の研究に打ち込み、教え子を作文コンクールやコンテストで入選させました。区の教育研究会の国語部の研究部長を務め、都の研究員、開発委員、研究生に選ばれ、教頭、校長として学校経営にも実績を挙げました。つまり、いわゆる学歴と教員としての資質能力との間に相関関係はないというのが実情なのです。
最後に、『学校運営リーダーコース』が設置されていることです。私は退職後、他の教委から依頼され何度か「ミドルリーダー育成研修会」の講師を務めたことがありました。主幹等を対象にしたものです。そのときの講義で最も共感を得ることができたのは、ミドルリーダーとは、他の教員から見て「役に立つ人」であるという話でした。悩んでいるとき、困っているとき、切羽詰まったピンチのとき、援助の手を差し伸べてくれたり、役に立つ情報やヒントを与えてくれたり、共に具体的な対応策を取ってくれたりする人ということです。
そうした能力や知見は、組織論や人材育成論を学んで身に着くものではありません。教員としての豊富な経験と能力の裏付けがあって初めて机上の空論ではないノウハウが身に着くのです。もちろん、~論を軽視するわけではありません。私自身も指導主事や指導室長になったときにそうした研修を受けました。しかしそうした研修については、それまでの実体験の積み重ねがあってこそ、「そうか、なるほど」と納得がいき、自分なりに咀嚼できたというのが実感でした。
全体的に、教員は子供を目の前にして学ぶという原則が軽視されている印象です。畳の上の水練にならなければよいのですが。