ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

二枚舌

2019-10-21 08:00:58 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「いけないことだったのか」10月13日
 『神戸市で教員いじめ 信じがたい劣化を憂える』という見出しの社説が掲載されました。私のつれあいは、このニュースがテレビで流されると、「見たくない」といってチャンネルを回してしまいます。教員経験者として、教委の幹部と校長として学校教育に携わってきた私たち夫婦にとって、こんな不快で悔しいニュースはありません。ですから、連日報道されるようになっても、この記事にはあまり触れずにきました。ですが、今回の社説には一つだけ気になる記述がありました。
 社説の中に、今回の事件の背景として、『神戸では校長同士で協議し、個別の教員の人事異動を決めることができる方式がとられている。こうした人事体系が閉鎖的な環境を助長した可能性もある』と書かれていました。校長がお気に入りの教員を校長同士の談合で集め、集められた教員が「校長のお気に入り」として校内で特別扱いされ、他の教員に対して優越的な立場と力を得てしまい、それらのお気に入り集団には他の教員が逆らうことができない、という構造があるのではないか、という指摘です。
 そうなのかもしれません。その可能性を否定するつもりはありません。ただ、「閉鎖的な~」という表現に見られるように、こうしたやり方はいけないこと、非難されるべきことなのかという疑問が浮かんでくるのです。
 私は指導室長として、教員人事、具体的には都教委から市教委に名簿が送られてきた教員を市立学校に配置する権限をもっていました。形式的には教育長の権限でしたが、実質的には私が全てを決定していました。どこの区市教委でも同じでした。
 当時、学校教育改革の必要性が叫ばれ、中でも校長の経営者としての権限強化が重要な事項となっていました。企業などと比べると、リーダーとしての校長の権限が弱く、学校が組織体として動かない原因だとされていたのです。具体的には、予算と人事について、全ての権限が教委に握られ、校長には「アメとムチ」がないという問題意識だったのです。
 そこで、校長にも人事権の一部を与えるということが「改革」として支持されたのです。校長が人事権をもてば、非協力的な教員、能力が劣る教員は強制移動させるというムチをもつことになりますし、業績を上げた教員に対しては次期の異動時に希望の学校に異動させるというアメをもつことにもなり、コントロール力が強くなるという発想でした。
 つまり、神戸方式がいつごろからどういう経緯で定着したかは分かりませんが、校長が異動を決めるというやり方は、都道府県から区市町村へ、区市町村から各学校へという分権化の流れに沿う「良いこと」だったのです。当時は、主なメディアもこうした変化を支持し評価していたのです。それなのに、今回は前近代的体質であると非難する、それはあまりにもご都合主義なのではないか、というのが私が言いたいことです。
 なお、私自身は、教員の人事は教委が決定権をもち、校長に参考意見や情報を聞くというやり方がベストだと思っています。それは今も昔も変わりません。

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