☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

『新 南島雑話の世界』

2022-07-22 12:36:06 | Books

 今日は記録がてら、本の紹介です

 

一昨日のこと、午前中にFBをチェックしたら、歴史関連のグループでご自身の本の紹介を投稿された方の画像の一つに、名越(なごし)護さんによる書評(推薦文)が書かれていたのですが、その名越護さんの紹介に著作としてこの『新南島雑話の世界』が載っていました。

 

「新‥‥?!」と思い早速検索かけたら、某通販サイトに今年の5月10日発行とあり、最近出されたばかりの本があったことに気付きました。(ただし、購入後に奥付をみると、4月20日発行とありました)

 

『南島雑話の世界』の続編とのこと。

その日のうちに、早速近所の書店に買いに行くと、1冊、ありました

支払いの時に、つい、「ここに載ってるのは先祖が書いた本なんです。曽祖父の父親なんです。」と話してしまいました。

カウンターの青年は驚いたように「あぁ、そうなんですね!」と言ってくれました

「また入れておいてくださいね。」とお願いして家に帰りました。  

 

以下に、上記リンクの紹介文を上げておきます。

 

幕末奄美の貴重な生活記録

幕末期の薩摩藩士・名越左源太(1820~81)。 『南島雑話』は、左源太が5年間の奄美遠島中に、島内の動植物、魚介類や農耕儀礼、冠婚葬祭から伝説に至るまで、奄美の風土をつぶさに観察、取材し、詳細な図入りで書いた民俗・博物誌。幕末期奄美の暮らしを知ることができる貴重な記録である。 本書は、著者が原文を読み込み、黒糖や焼酎の製法など生業を中心に、自然、民俗を現在と比較しながら紹介。左源太の描いた図絵も多数収録する。

なお、本書は前著『南島雑話の世界』の続編に当たるもので、祭事が中心の前著に対し、本書は、生業、民俗、動植物を中心にする。著者は、奄美大島出身で、昭和初期~中期に残る奄美の古風の体験が本書にも生きている。

※ 画像は南方新社さんのページより拝借

 

 

 

 

 

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㉑ 島津重豪の娘・敬姫

2022-07-21 12:50:03 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもご覧いただき、ありがとうございます

私はブログを書くのも読むのもPCを使うのですが、スマホだと読みにくかったりしないだろうかといつも気にしつつ、つい長々と書き、画像も大きいものにしてしまいがちです、、、

今時はスマホでご覧の方も多いかもしれませんね。

 

PCで見ると、「このブログの人気記事」という表示があり、

今日は『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018-03-20 カテゴリー| 歴史探索)が5番目に上がっていました。

ありがたいことです   

 

で、どんなこと書いていたっけ?と、読んでみたところ、

そこにある画像について、

「「島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」 こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。
※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。」と書いていました。

 

画像が小さく、またこの2008年の写真をPCファイルなどで探しても見つからないので、「島津忠厚」(今和泉島津家第8代当主)についてネット検索してみたのです。

 

吉貴公の祖父・島津綱久墓など』や『19代・光久公などの墓所』で「敬姫(島津重豪女)」の墓を確認しましたが、この方について今日知ることができたので記しておきます。

 

Wikiで「島津忠厚」を読んだところ、島津重豪の三男とあり、長兄・島津斉宣で、次兄は奥平昌高で豊後国中津藩第5代藩主(中津藩奥平家9代)とありました。この関係性は初めて認識したところです。

さらには、奥平昌高が継いだ奥平昌男へは、昌高の異母姉・敬姫が嫁ぐはずだったと!

 

昌高の姉・広大院(=茂姫、徳川家斉室)の項を読んでいたところ、

「弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に奥平昌男婚約者)がいる。」とあり、

それで気付いたのです

 

なるほどそれで、福昌寺墓地の案内図に珍しく「敬姫」と名前表記がされていたのですね

 「鍋保丸(綱貴男子)」の上のあたりに↓「敬姫(重豪女子)」とあります

 

 

 奥平昌男に嫁ぐはずだった「敬姫」は、若くして19歳で亡くなったとありました 

そして、その奥平昌男自身も失意のうちに24歳で亡くなり、重豪次男が「末期養子(まつごようし)」として家督を継いだ奥平昌高ということなのですね。

(Wikiによると「天明6年(1786年)9月20日、急逝した中津藩主奥平昌男末期養子として6歳で家督を継ぐ」とあります)

 

また、奥平昌高の子供たちを見てみると、その中に「女子:島津忠寛正室」とあったのです。

島津忠寛は佐土原藩最後の藩主で、その三男が西南戦争で戦死した 島津啓次郎(1857年 - 1877年)なのですね。

これまでは個別にそれぞれについて読んでいましたが、ここで繋がり、関係性がよく分かりました。

 

何がきっかけになるか、わからないものだな、と思った次第です 

 

結局、最初の「島津山◯忠厚」 の表記についてはまだ判明しません

 

 では、また書きます

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関勇助誕生の地

2022-07-21 09:54:31 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

 皆さま、おはようございます

 

以前、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)』(2017-09-19 カテゴリー| 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008) で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。

 

 画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関 勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。

 

改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。

2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。

 

【関 勇助】 (せき ゆうすけ)

生没年不詳
名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・高麗町)に生まれた。

1851(嘉永4)年、島津斉彬が藩主となると、深く勇助の人柄と学問を愛し重く用いた。すなわち、常平法(飢饉の年のために備える法)の施行、城下士外城屯田兵の制度、藩内諸郷に郷校を設けて育英の事業を起こすなど、勇助の業績によるものが多かった。

また、蝦夷地(北海道)開拓計画のための調査立案や、大政の権限を朝廷に帰すための七ヶ条の意見書の添削など、重要な仕事のほとんどは斉彬が勇助にさせたものである。

勇助は、当時の著者たちの指導・教育に大変熱心で、西郷隆盛や大久保利通など多くの人材を世に送り出した。ひとえに勇助が日本の国の将来を考える思慮深い人物だったからであろう。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)

以上、「かごしま市観光ナビ」より

 画像は2008年当時のものです。

 

 

 その後ここへは行っていないので、現在の様子がわかりませんでしたが、鹿児島市とは別のサイトのページで画像が見られました。リンクサイトを読むと、この方も「お由羅騒動」で謹慎処分を命じられていたことがわかりました。

 

 「関 広国」が本名、「関勇助は通称」とWikiにはありました。

今のところ、極一時期の動向しかわからないようです。

==========================

追記:2022.7.21  12:45

芳 即正著『島津斉彬』のp.85~86に関勇助のことが少し載っていました

 

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⑳ 玉里2代・島津忠済の墓所

2022-07-17 22:33:26 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 今回は、玉里島津家2代・島津忠済の墓所です。

案内図には「久光男子」とあります。

 

☆玉里邸は斉興公が隠居後に暮らし、ここで生涯を閉じたと『島津歴代略記』にもあるので、初代は斉興公かと思っていたところ、Wikiで確認したら、明治4年に分家して出来たのが「玉里島津家」とありました。

Wiki(上記の各リンク)に詳しくあるので、そちらをお読みいただくとして、ここでは写真を並べることにします。

 今回の写真は2018年6月13日に撮ったものです。 

福昌寺墓地の東側の石塀。

 

 

 

手前の入口へ。

 

 島津忠済墓所入口の門扉です。

 

 福昌寺墓地へのメインの入口よりも右手にこの門扉があります。

  

中へ入ってみます。

 

 

 

 

 

 

 

「従一位勲一等公爵島津忠済卿・田鶴子 墓」

 

 

 

  

 

 

 

 

大正五年二月とあります(Wiki 情報によると、忠済卿は大正4年8月19日歿)

 

島津久大(ひさなが) は忠済卿の三男(Wiki「島津忠済」の項による情報)

 

男爵・島津隼彦 、男爵・島津忠夫

 

(一部敬称略

 

木漏れ日が良い感じの静かな空間でした。

 

 

☆ 実は私の母校が玉里島津家屋敷跡地に今もあるのですが、あの頃は「日本史」どころか郷土史にも疎く、まさかこうして歴史をあれこれ綴ることになるとは、全く想像もしていませんでした(笑)

 

では、福昌寺跡の島津家墓地については一先ずこの辺で。

 

ありがとうございました

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⑲ 19代・光久公などの墓所

2022-07-17 11:52:02 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 今回は19代・島津光久公の墓などの画像です。

 

☆ 19代・光久公は「初代藩主・島津家久」の二男。

なので「第2代藩主」ということですね。

以前(2017年6月)に撮った写真は、光久公のお墓を意識して撮ったものではありませんでした。

この画像は光久夫妻の墓があるあたりを区画入り口から撮ったもので、

中央に写っているのは「20代 島津綱貴」の墓です。

 

 

 また、19代・光久公の長男が島津綱久様で、綱久夫人・真修院殿との長男が20代・綱貴公ということになります。

☆ 20代・綱貴公のご両親の墓(画像左:真修院殿、右:島津綱久様)は、継豊公の墓所の後方に。

 

 

・こちらは継豊公の墓石の背面を撮った際に光久公夫妻の墓所が写り込んだもの(画像左端の2基)

 

「綱久夫妻」と「光久夫妻」、案内図で確認してみます。

 

 

☆ 『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』(2022-07-03)で、すでに紹介していました鍋保丸の墓の、石塀の向こうにある「三夫人の墓」 ですが、

左から、「敬姫(重豪女子)」「重豪夫人」「斉宣夫人」の墓石です。

・「重豪夫人」 … 一橋家徳川宰相宗尹(ムネタカ)の女子。保姫。慈照院殿。かな?(未確認)

・「斉宣夫人」 … 秋田藩主佐竹右京太夫義和の姉。梅姫。光照院殿。かな?(同じく未確認)

光久公墓所区画の同じ入り口から奥を撮った別の写真、中央に写っています。

 

これは同じ画像で『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』(2022-07-03にも書きましたが、

その際にはお名前の確認までは至りませんでした。

 紛らわしいのは「斉宣実母」はあっても「重豪実母」がなかったり、

「重年実母」は「継豊後夫人」と書かれているのに、「重年夫人」なのに「重豪実母」の表示が無かったり、

そのうち「重豪夫人」と「重豪実母」や、「斉興夫人」と「斉興実母」が途中からこんがらがって来たりするのです 

 

 

☆ 綱久様は御当主ではないので、当然ながら歴代藩主の一覧にお名前はありません↓

また、以前『島津継豊公の後の夫人(2) ー 島津重年公の実母・嶺松院殿の墓』で、

「24代・重年公の墓」と「重年公の実母の墓」を紹介しました↓(重年は23代・宗信の弟であり、22代・継豊の二男)

 

 

「〇〇実母」の表記は、光久公墓所奥にも3基、 まとまってあるようです。

☆ 案内図上部に「斉宣実母」「斉興実母」「吉貴実母」と並んでいます。

斉宣公の実母は重豪後夫人(側室?)「堤前中納言長卿の女子。お千万。御内証様。春光院殿

斉興公の実母は斉宣後夫人(側室?)「鈴木甚五郎勝直の女子。お八百。御内証様。宝鏡院殿

吉貴公の実母は綱貴後夫人(側室?)「二階堂十郎左衛門宣行の女子。お重。蘭室院殿

と、なります。

 

それぞれここまで照合が大変でした(はぁ‥‥疲れた

 

 以前、「カテゴリー| 島津家の女性」として『歴代藩主の母親は?』(2021-08-24)を書きましたが、墓所の写真を整理する中で思いがけず確認することができました。

今後、気が向いたら書くかもしれませんが、元来気紛れなので先の事はわかりません

 

 では〜。

 

 

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⑱ 重年実母・嶺松院殿の墓の周りにあるのが、斉宣公の子供達の墓だったことに気付く!

2022-07-16 17:31:45 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 ちょっと気付いたことを書いておきます 

 

昨年3月の『島津仲家の女性のお墓が福昌寺にあった!』(2021-03-07 )カテゴリー| 福昌寺墓地探訪

に載せた画像の墓石があった場所確認のために『島津歴代略記』巻末の「長谷場御墓(福昌寺跡)略図」を見てみたところ、島津仲家の女性「壽賀」などは「年寄ほか」の一つとして記載されていることを確認。(「壽賀」はNo.97)

 

 

 

 

 そこで、重年公の墓の周りの墓もちゃんとチェックし直してみたのです。

墓所にある「福昌寺墓地 案内図」には「24代 重年」の墓と「重年実母(=継豊後夫人)」の表記しかありませんが、

 

『ー 略記』の略図によれば、

 

 「24代 重年」墓(No.86, 画像上部)の左には「重豪女子」(No.85)、

右には奥から「斉宣男子」が2基と手前に「重豪子」の墓、

また「重年実母」=「継豊後夫人(嶺松院殿)」の墓(No.93)の周りには、

左サイド奥から「斉宣女子」1基「斉宣男子」2基、

右サイドには奥に「斉宣男子」

右手前には「地蔵」と、‥‥「斉宣後夫人」(No.95)の墓があるんですね

気付かなかった〜!でも、後夫人は4人、そのうちのどなたのかがはっきりしません。

 

(島津仲家の女性「壽賀」の墓はNo.97)

 

 

※それならば、と「斉宣後夫人」をチェック!(『島津歴代略記』より)

 後夫人のうち、吉貴墓所の向かいにあるのが「蓮亭院殿」の墓 ( 奥州二本松藩主丹羽左京太夫長祥の妹。享姫)。

   ☆ 関連記事『寿国寺にあった4人の島津家女性の墓 』(2022-07-06

また、 「蓮亭院殿」以外の「斉宣後夫人」は次の通り

・貞心院殿 … 久留米藩主有馬中務大輔頼貴の女子。恒姫。

・芳蓮院殿 … 秋田藩主佐竹右京太夫義和の妹。お梅。幸(たか)姫。敦姫。美栄姫。

・宝鏡院殿 … 斉興公の実母。

 「斉興実母」=宝鏡院殿の墓は、吉貴実母と並んで「20代 綱貴」の墓のそばにあります。

 

ということは、重年実母の墓(No.93)の右横にある墓(No.95)は、

残る2人の後夫人、「貞心院殿」と「芳蓮院殿」のどちらかのお墓ですね。 

 

 こうして書いてるうちに、前の記事には書いてないけど誤認識・間違いがあったことに気付いたので良かった 

「No.77 斉宣後夫人」を「宝鏡院殿」と間違えてメモしてることに気付き訂正できた

 ←「宝鏡院殿」=斉興実母はNo.61に。

それでは、また

 

 

 

 

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⑰ 継豊長男・宗信公の墓所にある三基の墓

2022-07-16 10:21:03 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

いつもありがとうございます

以前にも継豊公の嫡男で23代・島津宗信とその実母については『④ 第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)などで触れていますが、宗信公の墓所をもう少し、いくつか画像を追加してご紹介します。

 

☆ 前回の『⑯ 継豊公の墓所』でも書いた通り、

継豊公の墓の右後方にあるのは、第20代・綱貴公のご両親、綱久夫妻の墓です。

・綱久の長男・綱貴、その長男・吉貴が継豊の父です。継豊は綱久の曽孫ということですね。 

 

☆ また、左後方にある3基の墓は、

 左から「重豪後夫人」「吉貴夫人」「重年夫人」。(以下『島津歴代略記』より)

・左、重豪後夫人 … 玉貌院殿か、春光院殿か、清貌院殿。(慈光院殿の墓は吉貴公墓所にある)

・中、吉貴夫人 … 霊竜院殿。桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。

・右、重年夫人 … 垂水家島津備中貴儔の女子。都美。正覚院殿。(=重豪実母)

 

 第22代・島津継豊公の墓(2017.6.4 撮影)

 

 

☆綱久夫妻の墓から、隣の3基と宗信公の墓を取り込んで撮りました。 

 ↓左端に写っているのが宗信公の墓('08.2.29撮影)

 

 

 

 宗信公の墓所を吉貴公墓所の後方の通路から見てみると、こんな感じです。

 

上の画像、右下に少しだけ写っているのは、吉貴公墓所の後方にあるコレ↓です。

 

 

また、継豊公夫人「浄岸院殿=竹姫」の墓の方向から見るとこんな感じ。↓左手は宗信公墓所

 

同じ場所からもう一枚、右の立木の奥には台座の上にある「継豊夫人=瑞仙院殿」の墓が写っています↓

 

☆ 吉貴公の墓所後方から向こうに見えるのは、継豊公の墓所。左の小さな階段を上ると宗信公の墓所

↓黄色い墓石が3基と奥に1基、継豊公の墓が見えます。

   中央の緑に隠れていますが↓「継豊夫人・瑞仙院殿」の墓があります。

 

☆ それぞれの位置関係がお分かりになるでしょうか? 

では。

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⑯ 継豊公の墓所

2022-07-15 09:42:47 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 おはようございます 

 今日もお読みくださって、ありがとうございます

 

前回の『⑮ 斉彬公の墓所』と、前々回『⑭ 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界』(2022-07-13)の中程でも、斉興公の夫人・賢章院殿の墓が継豊公の隣にあると紹介しました。

 

そこで今回は継豊公の墓所付近を写した写真を並べてみたいと思います。

☆22代・継豊公の墓(2017年6月4日撮影) 右奥の2基は綱久夫妻の墓(=継豊公の曾祖父母)

 

(下の2枚は2008年2月29日撮影)

 

 

 

 

☆案内図

 

 ここで間違えそうなのが、「22代 継豊」の後方の3基の墓と左隣の3基の墓。

後方の3基については後述します。

まずは継豊墓左隣の3基です。

 

☆ 左の2基は斉彬男子の墓で左から「虎寿丸」「菊三郎」、右が「斉興夫人(賢章院殿)」の墓

(上・2008年2月29日撮影、下・2017年6月4日撮影)

 

 継豊公墓所の入り口から3基を見ると↓こんな感じ。右端に継豊の墓の頭の部分が写っています。

 

 

 3基に寄りで撮ってみたもの

・「虎寿丸」の神号 …「葦原角久美彦命」、かな?

・「菊三郎」の神号 …「王籬稚菊彦命」、王か玉かはっきりしませんが、お二人の墓面には「童子」とあります

・「斉興夫人(賢章院殿)」(右端)の神号は「玉垣堅壽姫命」、とあります。

 

☆ 継豊公の神号は「常隆眞秀香彦命(トコサカマホカヒコノミコト)」

 

継豊公の墓の後方から撮ったもの。

 

☆ 少し引いて撮ると、

左に「18代 家久」、中央の2基は「19代 光久夫妻」、右奥台座の上に「20代 綱貴」の墓が写っています。

 

 

☆一方こちら↓は継豊公の墓から後方を撮ったもの(2008.2.29撮影)

奥の3基は左から「重豪後夫人」「吉貴夫人(霊竜院殿)」「重年夫人(正覚院殿)」 

 

 継豊公の後方。画像の左1基は宗信公の墓、3基を挟んで右端は綱久夫妻の墓

 

☆ 下の画像2枚は2017年6月4日撮影の継豊墓所。左後ろの3基、コレで位置関係がわかると思います。

 

 

 

 

☆ 継豊夫人・瑞仙院殿の墓は、以前『第22代・継豊公夫人の墓、二つ』(2022-07-05)でもアップしましたが、

父君・第21代 吉貴公墓所の右隣にあります。

 

 

次もお楽しみに

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⑮ 斉彬公の墓所

2022-07-14 10:34:37 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

福昌寺跡の島津家墓地、斉興公の後はこの方、

・島津斉彬(二十八代  藩主)… 斉興長男。母は鳥取藩主相模守斉邦の妹。弥姫(いよひめ)。周子。賢章院殿。

    文化六年(1809年)九月二十八日、江戸の芝藩邸に出生。

※ 文政四年(1821年)父・斉興の加冠により元服。同七年(1824年)十一代将軍徳川家斉に謁し、同年元服の礼を行って諱(いみな)を賜り 斉彬と改めた。

     (中略)

  安政五年(1858)七月十六日、藩内外多くの人々に惜しまれつつ亡くなった。歳50。

※ 斉彬は死に臨み、後嗣に異母弟 久光の長男・忠義を定めた。

 

『島津歴代略記』を読み始めた頃は、例えば「島津重豪(二十五代藩主)」とあったり、また別の書物などでは「八代藩主」とあったりして、混乱したものですが、そのうち、江戸時代の藩政になってから「藩主」と言われることで「島津氏当主」としての表記とが混在していたのだな、と気付いたのでした。

なので、

「島津氏第28代当主・第11代藩主、島津斉彬」となるのでしょうね。

斉彬公と英姫(左)、右奥にもなぜか「斉彬墓」がありますが詳しいことは存じません。

 

 

 

また、前回紹介した「斉興夫人=賢章院殿」の墓は↓継豊公の墓の隣にあります。

 

☆下の画像の3基のうち、右が斉興夫人、真ん中と左は斉彬公の男子の墓

 

 

 以上の画像は2008年2月29日に撮ったものです。

 

PC内の画像ファイルをチェックする中で、2017年6月4日に撮ったものもありましたので、並べてみます。

☆ 先の3基と同じく右が斉興夫人、隣り合う2基は斉彬公男子の墓

後ろからも撮ってみました。

2017年6月4日、墓所近くの生垣にクチナシの花が甘く香っていました。

 

 

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⑭ 島津斉興と真了院殿の墓所は別世界

2022-07-13 10:51:57 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読み下さりありがとうございます 

 

今回は、島津久光公の御両親の墓所を画像でご案内します。

 

 

  墓所入り口から広場を横切り、

左手の区画が斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所。

 

案内図のこの画像で、右手やや下の部分です。

 

入り口の手水鉢。

 

階段を上ると、正面に斉興公の墓。

 

周りにはずらっと石灯篭。

 

背景に緑が広がります。

第27代 島津斉興之墓

 

石塀に囲まれ、そこだけ異空間な感じも。

こちらはお由羅様=真了院殿

お由羅様のお墓越しの斉興公の墓。なんだか、ますます二人だけの世界、という空気感

斉興公の墓、向かって左手に「島津周防忠教(ただゆき)=久光公」

2008年に初めて見た時もこんな感じでした。かなり風化も見られますが、刻銘は読めます。

 

ひとつ隣のものは更に風化が見られます。

 

ここで、ふと思ったのですが、久光公が「忠教(ただゆき)」だったのはいつ頃かな?ということで、いつものように『島津歴代略記』で確認。父親である斉興公の略歴から考えてみます。

 

・島津斉興(島津氏二十七代・藩主)… 斉宣長男。母は鈴木甚五郎勝直の女子。お八百。御内証様。宝鏡院殿。

    寛政三年(1789年)十一月六日、鹿児島に出生。

※ 享和五年(1808年)斉宣が隠居して斉興が襲封したが、若年だったため藩政は初め祖父・重豪が後見した。

         (中略)

※ 嘉永二年(1849年)、嘉永朋党事件、別名,高崎崩れ(俗に「お由羅騒動」)をきっかけに、

結局、同三年(1850年)斉興が引退し、斉彬が後を継ぐことになった。

    斉興は安政六年(1859年)九月二十日、鹿児島玉里邸に亡くなった。歳六十九。

 

亡くなった後の石塔に「忠教(ただゆき)」の刻銘があるということは、1859年時点ではそう名乗ったということ?

この辺詳しくないので参考にはなりませんが

また、久光公の兄・斉彬公が亡くなったのは安政五年(1858年)で、斉興公よりも一年早く亡くなったわけですね。

万延元年(1860年)久光は島津本家に復し、子・忠義を補佐して藩政を執り、「国父」と称えられることとなった。

残念ながら、『島津歴代略記』では一貫して「久光」で書かれているので、名前の変遷についてはわかりませんでした。久光公についての他の本を読めばそのうちわかるかも知れません〜

 

斉興公の夫人 … 鳥取藩主池田相模守斉邦の妹。弥姫。周子。賢章院殿。

        岡田小藤次利武の妹。お由羅。真了院殿。  

☆ちなみに、「斉興夫人=賢章院殿(弥姫)」の墓は継豊公の隣に斉彬男子二人の墓と並んで立っています。

 

墓所の右奥には外への出口があります。

墓所右手の石灯篭。風化しているものも見られます。苔むして、名前が読みにくくなっています。

 

「御中臈」ほか。

 

「御年寄 花田」など見えます。

 

刻銘の部分に苔が。

 

「徳寿院」などの刻銘もあります。

 

「◯壽院」?風化で不明。

 

もう一つ別のもの。こちらは「松壽院」とも読めるが不明。

 

左端、「徳壽院」か、他のものも埋もれて読めなくなっている。

 

 

長年の降灰なども影響があるのかも知れませんが、名前の半分ほどが埋もれています。

 

石塀にあいた出口から外へ。

お二人の墓所を後にすると、足元に石畳。

 

振り返ると、斉興公の墓が夕日に浮かび上がっていました。

 

目の前には、もはや見慣れた吉貴公墓所。特別な空間から解放されて、懐かしささえ感じました。

 

右へ行くと、久光公墓所前の大階段と広場に出ます。

 

☆参考になりましたでしょうか?

 

では、また。

 

 

 

 

 

 

 

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⑬ 島津家歴代御当主の墓(4)ー忠治・忠隆・勝久

2022-07-12 11:05:05 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ ブログ記事のアップの順番、久光公の墓所紹介で後先になってしまいましたが、

島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌』(2022-07-11) に続き、

福昌寺跡の島津家歴代御当主の墓の続きです

 

 奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓

・左奥台座の墓が「12代・忠治」の墓、右が「13代・忠隆」の墓

・島津忠治(十二大守護職)… 忠昌長男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。

    延徳元年(1489年)一月二十七日、出生。

     永正五年(1508年)、父・忠昌の自刃により、若くして守護職を継ぐ。

  ※この頃領内には一向一揆が続発し、忠治はその鎮定のため身を安んずる暇も無いほどだった。

然るに、忠治は永正十二年(1515年)薩州吉田の吉田位清(のりきよ)を攻略中、八月二十五日、鹿児島に急逝した。歳27。

 

・島津忠隆(十三代守護職)… 忠昌二男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。

    明応六年(1497年)八月十四日、出生。永正十二年、兄・忠治の早逝により若くして守護職を継いだ。

翌十三年(1516年)備中蓮島の三宅国秀が琉球を襲わんと坊津へ来航したので、忠隆はこれを討って島津氏の琉球貿易の権益を守った。忠隆は薩州吉田に吉田位清を討つなど領内の平定を進めたが、領内には依然として不穏な情勢が続いていた。

    永正十六年(1519年)四月十四日、歿す。歳23。

 

そして「14代・勝久」の墓

・島津勝久(十四大守護職)… 忠昌三男。母は大友豊前守政親の女子。天真夫人。

    文亀三年(1503年)八月十八月、出生。勝久ははじめ頴娃氏を継いだが、永正十六年(1519年)兄・忠隆が早逝したので、勝久は若くして守護職を継がねばならなかった。

 この頃、伊集院尾張守が隅州曽於郡(そのこおり)に、或いは新納忠武が志布志に叛するなど、領内はなお騒然としていたので、勝久はその鎮定に奔走せねばならなかった。

   (中略)

    天正元年(1573年)十月十五日、豊後瓜生島の沖之浜に歿す。歳71。

 

※ 以上、『島津歴代略記』を参考にしました。

「豊後で亡くなった勝久の墓がここにあるのは、どういうこと?遺骨は?招魂墓?」と思ったのですが、詳しいことはわかりません。

『ー 略記』を初めてじっくり読んだ時、忠昌公の子供、勝久ら兄弟のことを知ったばかりの頃は、苦労続きのこの親子、特に勝久公にはずいぶん思い入れを持ったものでした

 

今でも「当時は大変だったのだろうな」と思いますが、時代の流れとして、また島津氏以外のことも知ることで特別な思い入れは薄れていきましたけど(笑)

まだまだ不勉強ですが、郷土全体の歴史を捉えるのって、なかなか一筋縄ではいかないものだなぁ、という思いです。

その後、墓所へは行けていないので、またゆっくり時間をとって回ってみたいですね。

 

次はどこにしようかな〜

 それでは、また。

 

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⑫ 島津久光公② - 久光公の墓と墓所内の石塔群

2022-07-11 16:39:21 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 前回に続いて、今回は久光公のお墓とその周りの石燈籠群です。

 

「前左大臣従一位大勲位公爵島津公墓」とあります。

 

 燈籠群は全部は撮りきれないので、興味を持ったものだけですが、こちらには「島津珍彦」 ほか刻銘があります。

 

こちらには「北白川宮能久親王妃 富子」、さらに「公爵島津忠義」

 

「北白川宮能久親王」 がどういった方か気になってこのあと調べたところ、Wikiに以下の通り。

明治26年(1893年11月10日第4師団長となる。明治28年(1895年)、日清戦争によって日本に割譲された台湾征討近衛師団長として出征。ところが現地でマラリアに罹り、10月28日、台湾全土平定直前に台南にて薨去。遺体は安平から西京丸で本土に運ばれた。この際、表向きには「(能久親王は)御病気ニテ御帰京遊バサル」ということになっていた。日本到着後、陸軍大将に昇進が発表された後に、薨去が告示された。国葬に付され[27]豊島岡墓地に葬られた。

皇族としては初めての外地における殉職者となったため、国葬時より神社奉斎の世論が沸き起こり、台北台湾神宮(台湾神社)、終焉の地には台南神社が創建された。」

「また通霄神社[28] をはじめとする台湾各地に創建された神社のほとんどで主祭神とされたが、敗戦後にこれら能久親王を祀った60の神社はすべて廃社となったため、現在は靖国神社にて祀られている」

とあります。

☆ 台南へ父の同窓会にお供をした際に、どこかでお名前を見たように記憶しています。あとでその時の画像をチェックしてみようかな。

 

また、「親王妃 富子」様についてはこちら→「北白川宮能久親王妃」

一部抜粋して紹介

「能久親王との間にもうけた一子成久王が北白川宮を継承したが、能久親王にはこのほかにも5人の側室との間に10人の子女があり、富子はその教育にも力を傾けた。

それも一段落ついた1923年(大正12年)、こんどは最愛の成久王を留学先のフランスで自動車事故で失うという悲劇に見舞われる。その悲しみからか以後は葉山の別邸でひっそりと過ごすようになった。1926年(大正15年)10月に台湾に渡り、能久親王を祀った台湾神社に参拝したのが数少ない表立った行動だった。1936年(昭和11年)に74歳で薨去。」

 

 

 今後も、久光公の御両親の墓所など、ご案内しようと思っているところです。

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⑪ 島津久光公① - 墓所前広場と大階段

2022-07-11 15:42:38 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 福昌寺跡にある島津家墓地、入り口を入ると、

 

島津家墓地の案内図(配置図)があり、

 

そのさきに広場が広がっていて、大階段が悠然と存在している。

私はこの広々とした空間と緑が心地よくお気に入りなのです 

 

 散策するように、画像をお楽しみください('17.6.4撮影、'18.6.13撮影を取り混ぜて)

奥には斉興公墓所と、さらに吉貴公墓所を始め、歴代当主の墓所があります。

 

午後の日差しが良い感じでした♪ 

 

 

 

 

 

☆ 鳥居の傷みが気になるところではある。左の柱、中程が細くなっているし。

大階段の上からの眺め。

こちらは墓所入り口を見下ろした景色。

入り口の右手には大きな神道碑が立っており、画像の下に写っているのがその台座。

神道碑には実は第二次大戦の鹿児島空襲の際に爆撃を受けた証拠の銃撃痕が残っているそうです。

 

側面の左淵の真ん中あたりの黒い点↓。これが弾痕だそうです。

 

 

 

☆ 次回は久光公の墓所内の様子です 

 

 

 

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⑩ 島津家歴代御当主の墓(3)ー忠昌

2022-07-11 13:00:23 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆第十一代守護職・島津忠昌 … 立久長男。母は梶原三郎太郎弘純の女子。茂山夫人。

    寛政3年(1463年)五月三日、出生。

    永正五年(1508年)二月十五日、鹿児島清水城に突然自刃した。歳46。

※ 死に臨み、忠昌が吟じた西行法師の歌。

   願はくは花のもとにて春死なむ 其きさらぎの望月のころ

「11代・忠昌」夫妻の墓画像右手、台座の上の2基です。

 奥の石塀に沿って、左から「12代・忠治」「13代・忠隆」「14代・勝久」の墓が並びます。

☆ 忠昌公は領国統治も意のままにならず、失意のうちに永正五年(1508年)、鹿児島清水城に突然自刃。46歳で没しました。

 

忠昌公へ献花。

 

 このとき、奈良原助八満が忠昌に殉じて自刃。25歳だったそう。

福昌寺近くに碑が建っています。

 

 これが、2008年5月に初めて「かごしま探検の会」の町歩きに参加した時に、当時は島津氏や郷土の歴史について何の知識もなかったのですが、それでも「助八の死は島津家における初めての殉死」という東川さんの説明が強烈に印象に残りました。

 

関連記事 →『5月の歴史探訪フォトアルバム-1』 2008-08-02 (カテゴリー| 歴史探索

 

そのころはピンと来ていませんでしたが、『島津歴代略記』を読んで、少しずつ理解出来るようになりました。

 

 

 2019年にも説明板を撮っていました。新しいものになったようですが、内容は変わっていません。

 

 

 それでは、また。

 

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⑨ 島津家歴代御当主の墓(2)ー忠国・立久

2022-07-10 12:59:50 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

☆ 島津久豊長男、九代守護職・島津忠国の墓所。

島津忠国 … 久豊長男。母は伊東大和守祐安の女子。寿山夫人。

    応永十年(1403年)五月二日、日向穆佐高城(むかさたかじょう)に出生。

    文明二年(1470年)一月十四日、加世田に歿す。

  ※ 逝去に先立ち病床を見舞った立久に守護職を譲っている。歳68。

「9代・忠国」夫妻の墓

 

 

☆ 忠国夫妻の墓の後方、石塀の向こうには福昌寺の「歴代住職墓地」があるそうですが、まだ踏み入れたことはありません。

 

 

 

☆ その斜め後ろには、忠国の二男・島津立久、十代守護職の墓所があります。

・島津立久 … 忠国二男。母は新納近江守忠臣の女子。心萃(しんすい)夫人。

   永享四年(1432年)十一月五日、鹿児島に出生。

   文明六年(1474年)四月一日、逝去。歳43。

「10代・立久」夫妻の墓

撮り方に癖があるのか、なぜか左が下がってしまってます(^^;) 

 

以上、『島津歴代略記』参照。

 ほぼ画像整理目的なので、簡潔に。

それでは、また。

 

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