☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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島津 登について

2017-03-09 22:49:30 | 島津登久包

 画像はすべて2021年4月13日に追加掲載しました

 

これまでに頂いた資料や謄本の写しなどを見てみると、
左源太時敏の妻、タネさんは「島津 登(諱:久包)の長女」です。
               (↑「の長女」が抜けていたので追記しました〜(^_^;) '17.12.27)

この方について、よく知らなかったのですが、今月3日まで鹿児島県立図書館で展示されていた「鹿児島城下絵図」の中に名前を見つけました。

そして会場に設置されていた『新たな発見に出会う 鹿児島城下絵図散歩』(編集/塩満郁夫・友野春久 高城書房 2004年初版)で確認したところ、場所は「鹿児島東郵便局」(小松帯刀像のある宝山ホール近くにあります)と記載されていました。

実際に場所まで分かると、ちょっとうれしいですね。
自分のひいおじいさんの母親の実家、ってことですもんね。

で、今日は半日かけて「今和泉島津家」や「永吉島津家」、久光さんの「玉里島津家」「重富島津家」の方々について
いつものWiki頼みで調べ、おさらいしているのでした。



ところで、展示されていた絵地図は「安政6年」のもの。
以前見たことのある絵地図は「天保13年」頃のものだったようで、
前述の『新たな発見に出会う 鹿児島城下絵図散歩』では安政6年の戸主の名前と、当該地の天保13年当時の戸主とが併記されていました。

 

最初は使い道が分からなかったのですが、計5回にわたって通ううちにそれに気づき、左源太の屋敷跡が現在の「春日町」であることや、曾祖父の養子先が天保13年には書かれているのに、安政6年には別の苗字の戸主に変わっていたこと、今和泉島津家の屋敷は天保13年の「安芸殿」が安政6年の絵地図には「島津峯之助」となっていたことも確認できました。(峯之助=忠敬(ただゆき))

 

 

 

そして、島津久敬(ひさたか)は永吉島津家の養子に入ったけれども、のちに島津 登(藩家老)の息子、島津久籌(ひさとし)を養嗣子としているのですね。

この島津久籌についてもこれまであまり書かれたものを目にしたことがなく、私の可能な範囲で調べるのが困難だったのです。

高祖母・タネさんの弟で、のちに霧島神宮の宮司となったこと、永吉島津家を継いだことは、ずいぶん前に、名越時成さんの子孫の内村氏から戴いた資料にもありましたしご本人からも聴いてはいたのですが、ようやく実感として繋がった気がした一日でした。


あと、欲を言えば「島津對馬」についても分かるといいのですが。(戸籍によると、曾祖父・轟の養母は「島津對馬」の長女)
ご存知の方は、ぜひご一報お願い致します。

 ↑『島津對馬』については後日記事にしました(2021.4.13追記)

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※コメント非表示ご希望の方は一言お知らせ下さいね。

 永吉島津家の養子に入ったのは「島津久敬(ひさたか)」でした。「島津忠敬(ただゆき)」と間違えて表記していましたので訂正致しました('19.1.15)

コメント (8)
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