☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

親族目線で『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』を読む

2021-10-31 14:06:06 | 名越左源太と家族

 

☆ 『鹿児島県史料 名越時敏史料』ですが、私個人としては歴史史料としてよりも、

やはり、親族としての注目・着眼点というのがあります。

例えば、小林地頭に任命された頃の日記が収められた『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』ですが、

以前からじっくりと読んでみようと思っていましたが、今回のきっかけは、

小林の郷土史に関心を持つFBFが、ある1ページを画像にアップして紹介していたことでした。

 

その画像は『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』のp.236でした。

「常不止集(とことわしゅう)」(六・七・八之巻)が収められている部分です。
調べてみたら、天保12年(1841年)8月19日の日記ですので、これは名越左源太時敏の父親も地頭職ということなのか、詳細はわかりません。
 

それから、『同 名越時敏史料 二』を持ち出してきて、もう少し丁寧に目を通してみることにしたのです。

 

サブタイトル〈『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』に見る左源太の次女・筆、吉次郎と徳熊の名前〉

として少し書きます。

 

 「お筆」は曽祖父・轟の次姉です。

 また、「吉次郎」「徳熊」は曽祖父・轟の弟に当たるようです。

(『同 名越時敏史料 一』の文久二年(1862年)の正月の日記に「三男・吉次郎、四男・徳熊」と記載あり)

  →『没後130年2011-06-16 23:38:01 | 名越時敏史料

 

 

《 関連記事 》

小松帯刀清廉の誕生日に』 2020-12-03 22:35:40 | 曾祖父・轟のこと

「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」2020-05-06 16:11:36 | 『都見物日記』

数年越しでのコメント返信2018-02-10 13:30:09 | このブログのこと

8月もあと3日。その後のことあれこれ。2011-08-29 08:46:42 | 名越左源太と家族

名越左源太泰藏の子供たち2011-01-20 13:37:52 | 名越左源太と家族

 

 

 

元治元年=西暦1864年

名越時敏が小林の居地頭に任命されたのは元治元年の九月十六日で、居地頭は228年ぶりのこと。

期間は、小林地頭仮屋に着任した同年十月五日着任から2年程の間

 

 

『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』より

 

p.152〜

日史第四十二   名越時敏(花押)

 

元治元年甲子十二月中

 

元治元年十二月

朔日 雨後晴、

朝六ツ起、薬種取調いたし、四ツ前より右不足之品 岩次郎江申付け求に遣し、伊福十郎太出候、伊福十郎左衛門・(以下、14名の氏名記載あり)出勤二而候、九ツ時分より面高与蔵殿 入来、八ツ過より同伴、今日は武術式日ニ而 不時為見分差越候、尤、稽古所出席人数 堀伴之助・(以下45名氏名略)、

 右 稽古之甲乙 星之大小を以て分つ、

右相済 円岳寺江参、示現流見分、名前 左の通り、(柳川伝四郎・以下18名氏名略)ニ而候、大鐘比帰り風呂ニ入、珍敷今晩ハ独りニ而 焼酎少々給候、夫より四ツ前歌集とも見候而慰ミ臥候事、

 

二日 快晴、

朝六ツ前起、六ツ過より‥‥(中略)‥‥

一 先日小林郷士年寄 堀之内半五右衛門江 申付置候、‥‥(以下略)

 

三日 快晴、

今暁 時計見損シ、七ツ半之考ニ而八ツ半時起出、皆々起し飯共為焚、も

 

四日 

 暁六ツ前起、詠歌三首、

  へたてなく幾千世守神ならん 熊野の杜の枝もさかへて

  けふよりハ宮ゐ新になりぬれは 猶行末を神や守らん

  祈るそよ君か恵の露の玉 民の草葉にかゝるへしとは

右者此節当所熊野権現御社 伊福十朗左衛門祖母寄進ニ而 新ニ出来替り、今日御遷座ニ付参詣者如何之旨承、‥‥(中略)‥‥暮過帰宅、‥‥(略)、拙者事、明日者高原江(へ)差越筈候故、今日参詣之事為申と存候、帰候得者 平馬より書状来、兵左衛門(福留平左衛門事)よりも同断(※)、鹿府并拙宅無事、お筆(千石馬場 町田家)平産(=安産)、女子出生之段 申来候、

 (※)同断=同様

 

お筆姉さんは弘化二年(=1845年)六月十六日生まれだから、この時は19歳ですね。

この前後を読んでいないので、状況がわかりません。今後の課題

 

「平馬」は曽祖父・轟の兄、名越時成

 

 

・・・・・(間省略)・・・・・

 

二十四日 間々小雨、

五ツ半時分 国府出立ニ而、加治木・帖佐・重富・吉野・たんたとふ筋帰り、七ツ過ニ 野やしき迄参候而 夕方帰宅候事

 

二十五日 晴、

今日者 終日在宿ニ而候、町田民部(久成)殿川上勘解由殿 入来候、其外来客不記候、

 

二十六日 小雨、

今日初而出 殿、御届申上候事、

 

二十八日 雨、

今日も出殿候事、

 

 

 

 

p.170〜

元治二年乙丑 正月ヨリ七月ニ至ル

日史第四十三

元治二年正月

十一日 晴、

暁大鐘過起、平馬事、今日五ツ時 右衛門殿より小森新蔵 御取次を以 御用承知ニ付、六ツ半時出候、拙者ニも

五ツ前出勤、四ツ時御用承知、平日学文武芸致 出精心掛宜段被 聞召上詰衆被仰付候、誠ニ難有次第ニ而

 

p.178〜

元治元年二月

三日 晴、

「朝六ツ起、吉次郎江素読、岩次郎同断、‥‥(以下略)」

四日 曇、

吉次郎徳熊召列参候而無程帰候、夜入五ツ過臥候事、」

 

 

名前が出てくる箇所がまだまだ沢山ありますが、取り急ぎ上げてみました。

また追記・編集あるかも知れません。

 

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十三屋を見つけた!

2021-10-25 16:03:29 | 『都見物日記』番外編

タイトルの「十三屋」というのは、昨年シリーズで紹介していた

『都見物日記』で出てくる老舗の髪結い道具のお店なのです。

「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」 

ここ↑に「十三屋という東京にて名高き櫛屋に行き、又ここにて櫛、へら、すき櫛 〆て八十四銭だけ買入、‥‥云々」と出てきます。

 

    

9月1日にあったBS放送の番組での再放送『神田川紀行』 を観ていて、

画面に映った橋の名前、何だったかなぁ?と東京のガイドブックを見たのでした。
橋の名前は「万世橋」というのは分かりました。
 
で、ふと前のページに「十三や」という「髪結いのプロが使うツゲ櫛」とあるのが目に留まり、

「十三や‥‥どこかで見聞きしたような‥‥」と思ってハタと気づきました

慌てて確認すると、やはり載っていたのです

  

これ、嬉しくて9月1日当日に FBでアップしたのですが、

このブログに書いていないことに気づき、今になってアップしている次第

 

「十三や…元文元年(1736年)創業の柘植櫛の老舗である。」とありました。
「屋号の十三は、9と4を足すと13という数をもじってつけたもの」だそう。

 

では〜

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曽祖父の養母・須賀の前夫、島津務(司)久命とは?

2021-10-22 15:16:43 | 曾祖父・轟のこと

以前、『島津 登について』で頂いたコメントの中で、

「島津務(司=つかさ)久命」という人が気になり、今頃ですがネット検索してみました。

この方、曽祖父の養母・御須賀さんの最初の夫・「島津務(司)久命」だったようだ、とのこと。

(「久命」の読みがわかりません 「新納久命(ひさのり)」という名前があったので同様かな?)

 

検索した結果、そこから「島津歳久」→「島津常久」→「島津忠隣」と見ていったら、

「木脇祐定」の名前を見つけました。こちらは日向伊東氏の一族とのこと。

 

この結果、「島津務久命」についてはわかりませんでしたが、

自分用のメモとして取り敢えず並べてみることにします。

 

「島津歳久」 

これは単に「島津」と「久」に反応してヒットした模様 

 

島津 歳久(しまづ としひさ)は、戦国時代武将島津貴久の三男で、島津義久島津義弘の弟。日置島津家の祖にあたる。

【生涯】【略記】

祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ[1]、若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。

その初陣は、天文23年(1554年)、歳久が17歳の時の祁答院良重が拠る大隅岩剣城における合戦で、同母兄の義久、義弘もこの合戦で初陣を果たす。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院地方(現在のさつま町の大部分と薩摩川内市の一部)へ退くこととなる。

しかしその1年後の大隅蒲生北村城の合戦においては島津勢は敗北を喫し、義久・義弘兄弟は戦場より辛くも脱出し、歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。

永禄5年(1562年)、島津氏・北郷氏相良氏の三氏は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するのだが、歳久は北原氏への恭順に応じない北原旧臣北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久は永禄6年(1563年)から吉田城(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦の統治を任され、44歳になるまでの18年間を吉田城主として過ごした。

この間にかつて姶良地方を追われ祁答院地方の虎居城(現・宮之城屋地)に拠った祁答院良重は、なお入来院氏東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保ったが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(島津実久の娘)によって暗殺され、祁答院氏の勢力は急速に衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院氏、東郷氏などの渋谷一族はこぞって帰順し、ここに島津氏は鎌倉時代以来強勢を誇った渋谷一族の拠点である祁答院地方を平定した。この平定された祁答院領には後に歳久が入る事になる。

天正3年(1575年)には先行した弟の家久に引き続いて、歌道の伝習のために上洛。ただ歌道伝習は名目的なものであり、実際は情報収集と織田信長とのパイプを強化することが最大の目的であった。

天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津勢の侵略により豊後国に一時的に退去すると、伊東氏一族の娘であった梅を梅君ヶ城に連れ帰る。梅は歳久の側室となり、後に伊集院久洪室を産む。歳久には、児島備中守女との間の長女(婿養子の島津忠隣室)と、この梅との間の次女しか子供は居ない。しかも、二人の室は、ともに連れ子ありの再婚である上、身分が正室にしては低すぎるとの事から、歳久は側室のみで、正室はいないとの見方がある。

天正8年(1580年)、先に平定された祁答院十二郷(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川)1万8千石を加増され、虎居城に入った。歳久はこの地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果して行く。その後は56歳で死去する12年間をこの祁答院虎居城(現在のさつま町宮之城)を本領として過ごしたため、歳久直属軍は祁答院衆(宮之城衆)と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの祁答院衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、君臣間の信頼が厚かったとされる。

 

「島津常久」

島津 常久(しまづ つねひさ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将島津家の家臣。薩摩藩家老日置島津家3代当主。

天正15年(1587年)、島津家臣・島津忠隣の子として誕生した。母は島津歳久の長女・湯之尾。

誕生してわずか3か月後の同年4月17日(5月24日)の根白坂の戦いにて父・忠隣が戦死した。残された常久は祖父・歳久の手によって養育されたが、その歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれた。歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院宮之城(現・鹿児島県さつま町宮之城)の虎居城に籠城した。この事態を重く見た細川幽斎と主君・島津義久新納忠元を使者として差遣し、歳久の遺族・遺臣を害さないことを約するなど説得を行い、1か月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至った。

成人後の文禄4年(1595年)に日置(現・鹿児島県日置市日吉町日置)の山田・神ノ川3600石を賜って移住、さらに慶長6年(1601年)には藺牟田を、翌年には祁答院船木村を、慶長13年(1608年)には伊作の中ノ里などを賜った。主君家久の信任厚い家臣として活躍、家久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めた。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である上之山城の城主に任命された。

慶長19年(1614年)、疱瘡(天然痘)により急死した。享年28。日置の大乗寺に葬られ、後に同じ日置の光禅寺へ改葬された。

 

「島津忠隣」

島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代武将島津家の家臣。

【生涯】

島津義虎と御平(島津義久の長女)の次男。天正12年(1584年)、男子のいなかった大叔父・島津歳久(義久の弟)の養嗣子となり、歳久の長女を室とした。

天正14年(1586年)、叛乱した筑紫広門征伐の副将に任じられる[1]。しかし若年であり、また初陣であったことから[2]島津義久より遠矢信濃守良時木脇伊賀入道祐定を付けられた上で7月6日鷹取城攻めを行った[1]。同27日の岩屋城の戦いにも参加、取添口より攻撃し軍功を上げた[1]

天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州平定において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂(現・宮崎県木城町)を宮部継潤に占拠されてしまう[1]。忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、無謀な攻撃であり島津家久(義久や歳久の弟、妻方では叔父、母方では大叔父にあたる)に反対されたという。しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が討死し完敗した(根白坂の戦い)。

忠隣も鉄砲傷を被り、その出血はなはだしく家臣・鎌田囚獄左衛門政金に水を所望すると、囚獄左衛門が傍らにあった青梅を引き千切り差し出した[1]。忠隣はそれを末期の水代わりと一口食べ絶命した[1]。享年19。家臣らは遺体を盾板に載せて退却した[1]

なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・常久は歳久によって養育され、日置島津家として系譜は続いた。

 

「木脇祐定」

木脇 祐定(きのわき すけさだ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣。

木脇氏日向伊東氏の一族で、祐定はその祖である木脇祐頼より続く嫡流であるが、父の祐利の頃に伊東氏より離れ、島津氏15代貴久に仕官して島津氏の家臣となった。祐定も貴久に仕えていたが、主命によりその三男である島津歳久後見となり、弘治3年(1557年)4月には菱刈氏との戦いで兜首を討ち取るなど、その元で軍功を為した。

天正14年(1586年)6月、歳久の娘婿である忠隣筑紫広門攻めで初陣を果たす際は、遠矢良時と共にその補佐に付けられ鷹取城攻めに参加する。そのときの事、祐定は土瓶に水を入れ鑓に付けて回っていたのであるが、忠隣が焼山を通って顔が黒く汚れたため、忠隣の家臣・脇元城之介がその水を所望して忠隣の顔を洗ったという逸話が『本藩人物誌』に記されている。

 

以上。メモでした。

 

「務」ではなく「中務」だとしたら?と検索したら、「豊久」さん関連しか出てきません〜〜。。

 

鹿児島もすっかり寒さを感じる季節になってきました。

では〜

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鎮守神社(炭床)

2021-10-13 20:25:27 | 歴史探索

 2010年11月28日撮影

前回に続き、これも過去に撮った画像

炭床(すみどこ)、地元では「すんどこ」というのかな?

そこの鎮守神社です。

 

確か2010年当時、引っ越しからだいぶ経つのに、

「そういえば、土地神様、氏神様に一度もご挨拶していないなぁ」と思い、

鹿児島県神社庁に電話して尋ねたところ、ここと、黒丸神社を教えていただきました。

それで父と訪ねてみたのです。

県道35号永吉入佐鹿児島線を春山方面へ向かい、途中右手の道に入ります。

行き着いたのは住宅の横の細道の奥まったところでした。

市のコミュニティバスは近くの公民館までは通るみたいですが、そこからさらに奥に行ったところです。

車で行ったので止めるスペースがかろうじてあったので良かったです。

鳥居の奥の階段を登ると社殿がありました。(トップ画像)

 

 社殿の横には紀念碑がありました。

左:「明治三十七、八年 日露戦役紀年碑 明治三十九年八月十六日○(不明)」

右:上部に「紀念」とありますが、「大正十一年」(?)の他はこの画像では不鮮明です

  

 訪れる人、いるのだろうか?と思うほどの静かな、ちょっと寂しい感じの神社でした。 

地元の方が守っておられるのかもしれません。

11年前の事でした。

では。

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歌誌「にしき江」創刊者の歌碑と烏帽子嶽神社の鳥居

2021-10-08 23:07:46 | 歴史探索

いつもお読み頂き、ありがとうございます

 

例によって、FBにアップしたきりで

当ブログにあげてなかった画像が多々あるので、

ちょっと並べてみます。

 

国道226号線を鹿児島市から南へ向かい、平川付近の左手に鳥居が見えます。

 2014年11月2日撮影

 

車を降りて見てみたところ、「烏帽子嶽神社御由緒」の案内と、

短歌雑誌「にしき江」創刊者の歌碑がありました。

「鶴田海南歌碑・昭和三十九年三月建立

  同 さゑ歌碑・昭和四十七年九月建立」とありました。

〈海南〉歌碑↓

 

〈さゑ〉歌碑↓

  

 

7年前の撮影時にはありませんでしたが、FBで最近撮影された方の画像には

「鶴田正義歌碑」が写っていました。新しく建立されたのだろうと思います。

 

今、「にしき江」で検索したところ、HPのTopics にありました!

平成27年3月28日に除幕式があった模様です。

 

 実は亡き母が一時期「にしき江」に参加しており、

家には鶴田正義先生のお写真を一緒に額に入れた賞状(免状?)が掲げてありました。

(現在は亡き父が部屋の模様替え時に鴨居から下ろしてどこかへしまってあり確認出来ず‥‥)

また、鶴田正義氏は南洲神社の宮司(当時)で、著書に『南洲神社・墓地由緒』があります。

  (画像はリンク先「日本の古本屋」さんよりお借りしました)

 今あらためて本の出版年月日を確認すると、

「平成15年5月20日第1刷発行」でした。母が亡くなったのが平成11年なので、

これは母が亡くなった後に購入した本でした。父が購入したのか私だったのか‥‥不明。

気になる本があるとやたらと購入してた時期があったのでその中の一冊だったか、

結果としてはその後の学びに貴重な一冊となりました。

「著者略歴」を読むと、

「大正3年 鹿児島市平川町に生まれる」とありました。

続いて、

「昭和8年 鹿児島県立一中卒業

 昭和7年1月より父の偉業を継ぎ、歌誌『にしき江』を編業、主幹となる

 昭和9年10月より南洲神社に奉職、宮司

 平成15年4月より名誉宮司」

「昭和51年 藍綬褒章受章

      (鹿児島刑務所篤志面接委員の功による)

 昭和59年 南日本文化賞受賞

 昭和63年 宮中歌会始入選」とありました。 

  

⛩烏帽子嶽神社御由緒の案内板より

 

「御祭神 建速須佐之男命 天之手力男命」

 

⚪︎天文年中(1532〜1555年) 島津貴久公、国中平定にあたり

烏帽子嶽飯網大明神を御信仰になり、父君日新公は木造の本尊を、時の修験者、長野武蔵坊に命じ、

三鉾杉の下に勧請せしめられる。

 

⚪︎弘治三年(1558年) 鶴田伊豫守(烏帽子嶽神社初代宮司)は、

平川津野崎大明神、烏帽子嶽飯網大明神祠官を命ぜられた。

(「飯網(めしあみ)」と読みましたが「飯綱」かも?間違えていたらご指摘下さい)

祠官となった伊豫守は、風雨により破損のはげしい三鉾杉の

本尊を、子丑の方、吹き晴らし峯(今嶽=今の社地)に御遷座申し上げた。

元の場所(三鉾杉の下)には、小石祠を建立して本山と呼ぶ。

以後、社家(シャケ)道、修験道の両道奉祀せるも 明治の初め、

廃仏毀釈に際し本尊は鏡となり、烏帽子嶽神社と称され、

社家道の奉祀により現在に至っている。

 

⚪︎天正(1572〜1592年)初め、義久公詣で、太刀薬丸(?)二尺三寸)を

御寄進さる。

享保十一年(1727年)春秋彼岸中日を以て祭典日と定めらる。

中でも柴打ち神事は、当社独特のお祓いであり門外不出の

特殊神事である。(一体、どんなんだ??

諸祭典神事は、現在も受継がれ、厳粛に執り行われ、又、

修験の行場としても親しまれている。

          宗教法人 烏帽子嶽神社

          第十八代宮司 鶴田千明

  

 思うに、「鶴田伊豫守」は鶴田海南、鶴田正義、両氏のご先祖様なのではないでしょうか。

 

 昔の携帯で撮ったので画質が荒く、今回初めて細部まで読みました。

読み間違い書き間違え、勘違い等があればご指摘下さい。

では〜 (この記事、草稿は10月8日、現在10月13日17時です〜

 

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