☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

曽祖父の養父母の墓は‥‥どこ?

2020-12-22 13:05:22 | 薩州島津家と我が家の先祖

これは、FBにも上げた話ですが…、

19日土曜日、20日の日曜日と、「島津家家臣団系図集」から関連する系図を書き写しているうちにふと、ある思いが湧いてきたのです。(以下、FB記事より)

  ☆☆☆

 

やるべき事、一番大事なことに気付いた!
曽祖父が継いだ今の家の御先祖の墓を探し、お参りしなくてはならないのではないか、という事、養父母が何処に供養されているのか知らない事に!

これまで名越家や町田家、島津家の系図などをメモに書き留めてきたけど、確かに曽祖父は名越時敏の二男だし、町田氏からの養子の子孫だけど、養母・スガさんのお墓もさらにその前の代々の墓も、一体どこにあるのかわからないままだって事に、今更ながら気付いたんです!

 

曽祖父が台湾に渡ったのはおそらく明治28年頃。
養母・スガさんは明治35年4月18日に当時鹿児島郡吉田村の「本名尋常小学校住宅」で亡くなったと曽祖父の戸籍に書かれているのだけど、届け人の記載が無い。

 

スガさんは島津對馬の、今和泉島津家・島津對馬忠喬の長女。
曽祖父は、前戸主 亡き養父 用行から明治15年3月18日に相続している。

 

(嫡家・久澄さんの跡継ぎについては当方、未確認です)

 

養父母の墓石、あるとしたら「興国寺墓地」か「南洲寺」あたりだろうか‥‥?

今後の課題です。

 

☆ 関連記事『島津對馬の長女・スガ』(2018.1.11)

  〃 『曽祖父の養母・スガの命日でした』(2020.4.18)

  〃 『興国寺墓地を再訪(2018. 5.18)』(2020.6.21 投稿)

  〃 『花尾神社関係資料に三原藤五郎藤原義礼と曽祖父の養父の名前を見つけた!』(2020.9.25 投稿)

「島津對馬忠喬」の名が刻まれた福昌寺の石塔画像 

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薩州家のこと、島津仲家のこと

2020-11-06 17:42:28 | 薩州島津家と我が家の先祖

これまで度々目にしながら、分かったようでよく解っていなかった「薩州家」について

以下、Wikiの「薩州家」(←系図あり)より

『 薩州家(さっしゅうけ)は、薩摩国守護大名島津氏の分家。

島津宗家8代当主島津久豊の次男の島津用久(好久)よりはじまる。「薩州家」の名前は用久薩摩守を称したことに由来する。2代当主国久の死後に起こった御家騒動は、他の分家をも巻き込んだ騒乱となった。一時は半独立状態にあったが、5代当主実久は島津宗家当主の座を巡る争いで、一時的に宗家当主・薩摩守護に就いたと考えられている[1]が、最終的には同じく分家の伊作家に敗北した。以後は島津宗家を継いだ伊作家系に従う。7代当主忠辰はこうした経緯からか豊臣秀吉九州平定に対しては、宗家よりも先に降伏した[1]朝鮮出兵に際し秀吉の怒りを買い改易され、忠辰が朝鮮在陣中に病死したため、薩州家はその所領を失った。』

 

 最初に「薩州家」を意識したのは、『さつま歴史人名集』で我が家の名字を目にした時でした。

(こちらにその頃のことを書いています→『追いつけない。。

 

 

そこに書かれていたのが「薩州家島津仲」だったのです。 

ただ、そこにあったのは「栗川用次」で、「島津帯刀久元二男、今和泉島津家臣。」とありました。

確かに曽祖父が継いだ養父の名前にも「用」の文字があるけど、これだけではよくわかりませんでした。

なので、しばらくはそのまま目にすることもありませんでした。

 

そして、「島津仲」ってなんだろう?「島津用久」って?と調べてみましたが、、、

 

結局、赤鉛筆で傍線を引いて、そのままでした。

今でこそ、これを見て「島津仲」だ!「寺山」だ!「矢柄家」もある!

「島津薩摩守義虎」に「忠辰」か〜。。と感慨深いですが、ここまで何年も経て、ようやく理解できるようになりました。

    

 

では〜

 

 

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薩州島津家と寺山源右衛門家

2020-10-18 18:18:15 | 薩州島津家と我が家の先祖

 皆さま今晩は 最近は鹿児島でも朝夕涼しくなって徐々に秋めいてきました

いつもご覧いただきありがとうございます

 

さて、6月に『寺山源右衛門家』と題して記事を書きましたが、そもそも「寺山源右衛門家」がどういったものなのかを書いていませんでしたので、改めて記しておこうと思います。

それには「薩州島津家」についても知っておいたほうがいいのですが、

薩州島津家については島津用久が祖である事くらいはわかりますが、

正直自分でも把握しきれていないので、ここに書くのは自分のためでもあるのです。

 

前述の6月の記事にも書いたように、

「 昨年7月には除籍謄本を取り、曽祖父・寺山用之の兄が「寺山用信」であり、「寺山源右衛門」を継いでいること、明治20年9月7日に兄から戸籍を相続している事」

また、曽祖父・寺山用之は

「 同じ稲荷馬場町の町田藤蔵の長女・スキと結婚したこと、子供は3人だったこと、長男・用麿は明治21年に生まれ、大正9年に小倉市で亡くなっていること、長女・節は明治25年に生まれ、妹より3年後に清水町の肥田木氏と結婚していること」

などもわかりました。

 

で、この「寺山源右衛門家」ですが、「島津家家臣団系図集」に「寺山氏」が載っており、

『「薩州家六男家」(源右衛門家)小番』とありまして、

「寺山源右衛門」が別立てで出ています。これが父の母方の実家、ということです。

  ←『さつま歴史人名集』より

 

薩州島津家というのは、一度改易されているのですよね。(←詳しくはリンクのページをご覧下さい)

これまではなかなか把握出来ずにいましたが、そういうこともこの1年くらいの間にようやく理解出来るようになりました。

 

でも、悲しい哉、寺山源右衛門家を継いだ用之(曽祖父)は昭和16年に台湾で亡くなり、その長男は親よりも先に大正9年に亡くなっていました。

 

 父から今年になって聞いた(もしかしたら以前一度は聞いていたかも知れない)のですが、

台南一中に入った頃(昭和14〜15年か?)に、母親(私の祖母)から「寺山家を継がないか?」と言われたそうなのです!

でもその時は父もそんなの何だか訳がわからないから「いや!」といったそうで、その話は無くなったようです(苦笑)

もし寺山を継いでいれば、父が「寺山源右衛門」となっていたのかも知れませんが、そうすると今の私はいないかも??

結局「寺山源右衛門家」は曽祖父・寺山用之が台湾で亡くなった時点で潰えてしまった、ということになります。

 

思うに、我が家の(現在の)家系は父方も母方も子孫が残らない家系のようです。それはそれで仕方ありませんね

 

『鹿児島城下絵図』を見ると、「寺山」は「寺山源右衛門」の1件だけで、家は上竜尾町、今の南洲墓地・南洲神社の階段下の付近のようです。今の区画との違いもありますが、安政年間の地図にも麓の一番端の三角形のような土地で表示されています。

 

ただ、戸籍には「稲荷馬場町六番戸」とあるので、用信兄の頃には別の場所に移っていたのでしょうね。

稲荷馬場は稲荷川沿いで大乗院橋を北に渡った清水中学校の前の通りのようです。

 

これは以前『寺山源右衛門家』で、「坊中馬場」の「大乗院坊中 善聚院」と書いていますが、

現在の「稲荷町6」で探した結果の間違いでした。ごめんなさい。

 

では、おやすみなさい。

 

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