☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

関勇助誕生の地

2022-07-21 09:54:31 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

 皆さま、おはようございます

 

以前、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)』(2017-09-19 カテゴリー| 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008) で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。

 

 画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関 勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。

 

改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。

2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。

 

【関 勇助】 (せき ゆうすけ)

生没年不詳
名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・高麗町)に生まれた。

1851(嘉永4)年、島津斉彬が藩主となると、深く勇助の人柄と学問を愛し重く用いた。すなわち、常平法(飢饉の年のために備える法)の施行、城下士外城屯田兵の制度、藩内諸郷に郷校を設けて育英の事業を起こすなど、勇助の業績によるものが多かった。

また、蝦夷地(北海道)開拓計画のための調査立案や、大政の権限を朝廷に帰すための七ヶ条の意見書の添削など、重要な仕事のほとんどは斉彬が勇助にさせたものである。

勇助は、当時の著者たちの指導・教育に大変熱心で、西郷隆盛や大久保利通など多くの人材を世に送り出した。ひとえに勇助が日本の国の将来を考える思慮深い人物だったからであろう。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)

以上、「かごしま市観光ナビ」より

 画像は2008年当時のものです。

 

 

 その後ここへは行っていないので、現在の様子がわかりませんでしたが、鹿児島市とは別のサイトのページで画像が見られました。リンクサイトを読むと、この方も「お由羅騒動」で謹慎処分を命じられていたことがわかりました。

 

 「関 広国」が本名、「関勇助は通称」とWikiにはありました。

今のところ、極一時期の動向しかわからないようです。

==========================

追記:2022.7.21  12:45

芳 即正著『島津斉彬』のp.85~86に関勇助のことが少し載っていました

 

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維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(3)

2017-09-24 00:58:43 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

☆☆☆ 前回の「維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)」からの続き ☆☆☆
※画像はすべて、2008年当時のものです

さてさて、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008』の第3段です。
      (※小さい画像はクリックすると拡大表示されます)
「篤姫ウォークマップ」にも載っていなかった「田代安定誕生之碑」と思いがけず遭遇し、
 

「八重山や南方諸島の研究者であった方だとか。左源太さんとも重なるじゃないですか!興味がわきました。」などと、
当時はまだ、数年後に判明する両者の不思議な繋がりなど知る由もなかった私たち親子は
地図を頼りに先へ歩を進めました。

次に向かったのは、鹿児島市立病院(※)の敷地の一角にある「彫塑家 安藤照誕生地」です。
父は当然のように知っていたこの名前、私はこの時初めて知りました。☆Wikipediaより「安藤 照」代表作
鹿児島市の城山の麓にある軍服姿の西郷隆盛像や東京の「初代・忠犬ハチ公像」などの作者として知られています。
明治25年生まれで旧制県立川辺中へ入学後旧制二中(現・鹿児島県立甲南高等学校の前身)へ転校、8年かけて卒業後東京美術学校へ入学。
在学中・卒業後と数々受賞し活躍するも、1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲の犠牲となって死亡。享年54。《Wikiより》

そしてその横には「四方学舎の跡」の石碑と説明書きがありました。

この石碑もマップには載っていなかったのですが、ここで薩摩の偉人たちも文武に励んだのですね。

 ○Wiki『郷中(ごじゅう)』より→「方限(ほうぎり)」
 ○WaShimoさんのHPより→「郷中(ごじゅう)教育」

(※)現在、鹿児島市立病院は以前のJT(日本たばこ産業)の跡地に移っており、市立病院跡地 についてはPDF『市立病院跡地緑地基本計画』(平成29年7月)が公表されています。またそれとは別に今年9月には『鹿児島市における明治維新150年・大河ドラマ「西郷どん」放送に向けての取組みについて』(イメージパース図あり)も。来年の大河ドラマ『西郷どん』放送に向け『大河ドラマ館』が新設される予定。
 鹿児島市HPより《西郷どん 大河ドラマ館の案内》
☆HPによると、設置期間は平成30年1月13日(土)〜平成31年1月14日(月・祝) (367日間)。年中無休だそうです!
 期間終了後は、緑地公園になるのかな?

そこから今度は路面電車(市電)通り沿いに北上し、「山本権兵衛とその甥・英輔の誕生地」を見て
(☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます。)

中央高校の周囲に点在する御歴々の偉人たちの誕生地を観て回り(東郷平八郎誕生地は高校の敷地内で写真無し)、

☆なぜか川向こうに続きこちらにも「井上良馨誕生地」の石碑が?! 川向こうの大久保誕生地近くの方が石碑が古い感じ。↑説明書きは全く同じ





白猫に誘われつつ「西郷隆盛・西郷従道 誕生の地」を訪ね、
維新ふるさと館横の「大久保利通生い立ちの地」を巡って


鹿児島市の戦災復興記念碑(祈念ではなく記念)や大久保利通銅像を写真におさめ、
無事ゴールする事が出来ました♪

☆今思い返しても、今に繋がる有意義なイベント参加となりました。

   ☆☆☆ 完 ☆☆☆


☆四方学舎の碑から大久保利通銅像前までアルバム第2部です。
   ↓ ↓ ↓
維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008ー②

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維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)

2017-09-19 14:37:33 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

☆トップの写真はこのイベントの際に頂いた「篤姫ウォークマップ」

☆☆☆ 前回「維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)」より続き ☆☆☆
画像は断りのない限り、2008年11月15日当時のものです

さて、松方正義像をあとにして、武之橋を渡った右手には、乃木希典夫人の乃木静子像のあった公園があります。
乃木静子誕生地です。

小さい画像はクリックすると拡大表示されます。  静子夫人、生い立ちから殉死までの年表
お守り札のエピソード、など 

辞世の句「出でまして かへります日の なしときく 今日の御幸に あふぞ悲しき」

☆おや?とお思いの方もあるでしょうが、現在は今年7月「乃木静子夫人銅像、再び」にも書いたとおり
去年11月27日(夫人の誕生日)に新しい乃木静子像が建立されています。《乃木静子夫人奉賛会のHP》

 (以前のものがリンク切れだったので、新たに検索して貼り直しました!  ↑ 2020. 7. 21)

☆ご覧の通り、以前の案内板には現在の像の基になったと思われる写真が映っていました。

 現在の様子
              


乃木静子夫人の誕生地をあとにして武之橋方向へ戻り、今度は甲突川左岸を上流へ辿ります。

そこには牛島満大将生い立ちの碑があります。

沖縄軍司令官 牛島満大将 生い立ちの碑(石碑裏側) 苔むした台座 金丸三郎 元鹿児島県知事による碑文

☆2017年現在まで、ほとんど詳しい事は知らずにいたので改めて調べてみました。
Wikiによると、牛島満は1887(明治20)年7月生まれ。父母ともに薩摩藩出身だが、満の出生地は東京で、
生まれてすぐに父親が急逝したため、母親の郷里である鹿児島に兄弟とともに帰郷。
1897(明治30)年に熊本陸軍地方幼年学校に入校。1906年に陸軍士官学校に入校。
但し、第一鹿児島中学(現・県立鶴丸高校の前身)が母校とある。

    建立期成会委員の御歴々

(ここでは敢えて沖縄戦時下の出来事に関する事は書きません。Wikiなどを参考にして下さい。)
なぜここに碑が立てられたのか経緯は分かりませんが、この辺りに暮らしていたのかもしれませんね。

☆牛島満中将(没後大将)について2008年当時は全く聞いた事がなく、ここを訪れた時に父が親から聞いた話を私に語ったのです。
父の話によると祖父から「もしかしたら(大龍小学校で)同級生の牛島かなぁ」というのを聞いていたようですが、今回調べてみると生まれた年が違いました。
祖父は明治14年5月生まれなので牛島氏は6歳若い。
もしかすると牛島氏の兄弟が同級だったのかも?などと思ってみたり、同名でも全く別人か?とも。今となってはわかりませんが。

「篤姫ウォークマップ」見ながら歩いていたところ、牛島満生い立ちの碑はコースから外れていたので
次の安藤照誕生地を目指して市立病院の裏手を歩いていると……
そこに唐突に現れたのが「田代安定誕生之地」と書かれた石碑と説明板だったのです!

☆mixiフォトアルバムを見ると作成当時の写真説明コメントのところに
「八重山や南方諸島の研究者であった方だとか。左源太さんとも重なるじゃないですか!興味がわきました。」と書いてありました(笑)

☆関連記事→「田代安定について考える【追記あり】」


☆☆☆ もう暫く続きますがまた次回へ↓ ☆☆☆

維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(3)


アルバムも作ってみました。
枚数が多いので2部に分けました。
「維新のふるさと鹿児島ウォーク2008ー①」

2冊目の
「維新のふるさと鹿児島ウォーク2008ー②」も出来ました♪('17. 9/20完成!)

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維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)

2017-09-19 00:10:18 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

☆ 2008年012月8日作成の mixi フォトアルバムより抜粋
なので、現在とは違いが見られるところもありますのでご了承下さい

'08. 11/15土曜日、JR九州と鹿児島市企画の「維新のふるさと鹿児島ウォーク」5kmコースに参加した時の写真を並べてみました。
 維新に関する人物だけではなく、渋谷の忠犬ハチ公を作った安藤照誕生地乃木静子誕生地、それに、もしかしたら祖父の小学校時代の同級生かもしれないという牛島満生い立ちの碑なども見ることが出来ました。
 乃木静子誕生地や牛島満生い立ちの碑などはコースには入っていないのですが、もらった地図にはしっかり記されていて、父の解説付きであれこれ見て回ることが出来ました。

☆まずは、鹿児島中央駅からスタート!共研公園の中を通り、「西郷南洲翁宅地跡」

……と、ここでは写真撮らなかったので、今年2017年5月に撮った画像を
☆共研公園の画像など 小さい画像はクリックすると拡大表示されます

ここだけは今年(2017年)5月撮影

続いて甲突川沿いを桜島に向かって歩きます。

振り返って中央駅の大観覧車「アミュラン」をながめつつ、川沿いから離れナポリ通りに戻り、石塀沿いに歩いていくとそこには‥‥

井上良馨(いのうえ よしか)の誕生地、そして同じ区画の角地には大久保利通の誕生地碑が立っていました!


ここはナポリ通り。桜島を望むと川の右側、錦江湾(鹿児島湾)に流れ込む甲突川の右岸です。
(この時はもしかしたらナポリ通りのライトアップの工事中だったかな?それとも街路樹の手入れ?)
ナポリ通りを横切り更に甲突橋近くには、関勇助誕生地の石碑と説明板がありました。ちょうど何かの工事中で作業道具が広がっていました。
 

 

  歩行者専用道路を示すガードには小鳥のオブジェ。猫にも遭遇♡ 更に川岸を下流へ歩くと、

甲突川に架かる武之橋が見えてきました。

残念ながら五大石橋のひとつだった以前の「武之橋」は平成5年8月6日の「8・6水害」で破壊流出してしまいました。

武之橋の一つ下流側の橋が見えます。橋の名前は、「松方橋」!近くには松方正義像があります。


☆この当時、名前だけは知っていた、2度にわたって首相を務めた松方正義

mixiフォトアルバムでは「まさに、大河ドラマ「天璋院 篤姫」の現在放送中の激動の時代背景と重なります。良く見ると篤姫と同い年!!」と書いています。

西暦で言うと松方正義は1835年、天璋院 篤姫は1836年ですが、旧暦の天保6年生まれということでは同じ年なのですね。


「我に奇策あるに非ず 唯 正直あるのみ」と書かれています

で、この銅像があるこの場所が「松方公園」だと思い込んでいたところ、
今回写真を見直しイベントでもらった地図を見直すと、ここから少し住宅地に入ったところでした。そこが誕生地です。

 

☆☆☆ 長くなるので続きは↓次回へ ☆☆☆

維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(2)

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