☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

十三屋を見つけた!

2021-10-25 16:03:29 | 『都見物日記』番外編

タイトルの「十三屋」というのは、昨年シリーズで紹介していた

『都見物日記』で出てくる老舗の髪結い道具のお店なのです。

「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」 

ここ↑に「十三屋という東京にて名高き櫛屋に行き、又ここにて櫛、へら、すき櫛 〆て八十四銭だけ買入、‥‥云々」と出てきます。

 

    

9月1日にあったBS放送の番組での再放送『神田川紀行』 を観ていて、

画面に映った橋の名前、何だったかなぁ?と東京のガイドブックを見たのでした。
橋の名前は「万世橋」というのは分かりました。
 
で、ふと前のページに「十三や」という「髪結いのプロが使うツゲ櫛」とあるのが目に留まり、

「十三や‥‥どこかで見聞きしたような‥‥」と思ってハタと気づきました

慌てて確認すると、やはり載っていたのです

  

これ、嬉しくて9月1日当日に FBでアップしたのですが、

このブログに書いていないことに気づき、今になってアップしている次第

 

「十三や…元文元年(1736年)創業の柘植櫛の老舗である。」とありました。
「屋号の十三は、9と4を足すと13という数をもじってつけたもの」だそう。

 

では〜

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佐原芳どの、天王寺の吉次殿、からの~金杉通り!

2021-05-08 09:50:19 | 『都見物日記』番外編

本日、 

 

さてさて、明治23年の「都見物日記」には何が書いてある?

☆ 「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」

 

「天王寺の吉次殿」も「佐原芳(よし)どの」も、相変わらずどなたなのか判明しません。

 

「お筆どの知人」の「金杉の多田親愛さん」とありますが、

「金杉」はおそらくは地名、では、どこだろう?と思い、ネット検索しました。

 

上野の墓参の帰りに立ち寄った、とあるので、「東京台東区金杉、現在の下谷(したや)」 のことでしょうね。

Wikiの「地名の由来」を読むと、下谷村が先なのかと思うけど、

「沿革」には↓このようにありました。

  • 1590年:領地替えで江戸に移った徳川家康により姫ヶ池、千束池が埋め立てられる。寛永寺が完成すると下谷村は門前町として栄える。江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道(現:金杉通り)沿いに発展する。江戸時代は商人の町として江戸文化の中心的役割を担った。

 

 ちょっと待って、「金杉」を検索した時に「金杉橋」というのもあった。

金杉橋 (かなすぎはし)

現在の地図から探すへ戻る

現住所
港区浜松町~芝大門・芝
解説
現在の港区浜松町2丁目・芝大門2丁目と芝1、2丁目を結ぶ、金杉川(古川の地域称)に架かる橋。また、橋から南、入間川に架かる芝橋までの海側を金杉と称した。地名の由来は、「暗い夜に金色の光を発する杉に似た栴檀の木が沖合からの目印となったため、漁師たちの願いにより金杉大明神が建立された」、「金洲崎(かなすき)という洲崎の名称が転訛した」、などの説がある。
なお、金杉橋を渡って南、芝田町1丁目には、幕末、勝海舟と西郷隆盛が会見し、江戸城無血開城を決めた薩摩藩蔵屋敷がある。
 

 

そもそも「金杉橋」とは、何?

☆『港区観光協会の「金杉橋」の紹介』

 東京の地理に疎い私はこういうところで躓くのでした〜

 

 

 気持ちを立て直して、「上野 金杉」で検索  ポチッ

 

ここで新たに「金杉通り」というキーワードが!

リンクした「TAITOおでかけナビ」によると、

「金杉通りは昭和初年に開通しました。旧道は上野山下から入谷口通りを経由、昭和通りと並行して東北に延び三ノ輪で昭和通りと合流します。この道を俗に「金杉通り」と呼びますが、昔はこの街道を奥州街道裏道と呼びました。金杉の地名は、鎌倉時代に金曽木彦三郎という人物の姓から、初めは金曽木、それが金杉に変わったものとされています。」

 

 同じく「TAITOおでかけナビ」の

「根岸・入谷・金杉エリア」の地図表示 を見ると、よくわかります

 

金杉通り近くに「金杉公園」表記がありました

 

 実は6日の日記としてカテゴリー〈「都見物日記」と令和3年日記〉で書くつもりでしたが、

内容から〈「都見物日記」番外編〉と致しました

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いづろの和田屋

2021-03-08 12:10:05 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 さて、『【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば』のタイトルにある「和田屋」について、昨年になってわかったことがあるのでここに記しておきたいと思います(確か、これまでには書いていないと思います)。

 

 FBで鹿児島の歴史を学ぶグループやFBFの投稿などで刺激を受けることも多く、興味を持ったことをネット検索する中で唐鎌 祐祥先生と北 隆志さんの共著ブログ『鹿児島市歴史地理散歩』を見つけました  

 

嬉々としてブログを読み漁ると、『⑥ 「下町の商店街」』(この著者は北 隆志さん)を見つけ読んでみたところ、

この「呉服商」の項に「明治22年ころの石灯籠通りの主な呉服商」として、いくつか店舗名を紹介する中に

 「呉服太物琉球反物商和田店」

という記述があり、これが「石燈籠(いづろ)の和田屋」ではないか!?と思ったわけです。

おそらく間違い無いと思うのですが、どうでしょう

欲を言えば、「和田屋のすみばば」と同行の「上町柳町の酒屋の相良」さんもわかるといいな、なんて

 

2021.3.12(金曜日)追記

冒頭で「確かこれまでに書いていないと思う」‥‥と書きましたが、今日改めて見てみたら、

昨年5月に『いづろの和田屋のおすみ殿』で書いていました〜(^-^;) コラコラ

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「上野の博覧会」と「帝国博物館」

2020-09-17 23:21:55 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読み頂きありがとうございます

 

さて、9月15日は町田久成(名前の読みは「ヒサスミ」)の命日でした。

3年前に購入した本、関秀夫 著『博物館の誕生 ー町田久成と帝室博物館ー』によると、明治29年頃から体調を崩し、上野の博物館に近い谷中道に面した「明王院」に定住し、そこで一年半ほどの療養生活を送ったそうです。

(以前書いた記事もありますので宜しければお読み下さい →『関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり) 』)

そして、明治30年(1897年)9月15日に、不忍池が見える上野公園の韻松亭で、親しかった女主人(‥‥って、どなただろう??)に看取られて亡くなったそうです。

 現・東京国立博物館の裏庭には、没後十七回忌の供養を兼ねて大正元年10月に旧友であった井上馨らが建立した顕彰碑があり、その碑文は重野安繹の作成になるものだそうですが、そこには政府の出した公式発表と同じく、東叡山明王院で没したと記されているそうです。

また、同書のp.186 には「明治二十二年二月十一日、大日本帝国憲法が公布され、その三ヶ月後の五月十六日になると、宮内省の博物館は館名を「帝国博物館」と改めた。」とあります。

 

 そこで、明治23年に書かれたイサさんの『都見物日記』と照会してみたところ、

上野の博覧会へ出掛けた事が書かれているのは、5月7日から9日にかけてで、

☆7日には「上野の博覧会に」出掛け、「三時過まで色々の品を見、」博覧会(場)の中の茶店で弁当を食べ、その後また夕方まで展示物を見たようです。(「5月7日 雨降りながらも、上野の博覧会に」 )

 

☆8日には「馬車に乗り上野迄行く。直ぐと美術館に行く。」

この日の「美術館」というのは、博覧会の2階の展示会場の「美術部」だったのかもしれません。最初に読んだ時には、単独の美術館かと思っていましたが、これも前述の関氏の本(p.204)を読んで気づきました。(「5月8日 上野博覧会、美術館、九段坂招魂社」 )

 

☆9日は上野の博覧会へ行ったのは弟・轟だけでしたので、イサさんの日記には博物館の展示については書かれていません。

「5月9日 轟殿は博覧会へ、 佐原芳どの、 山井於時様、 永岩直次郎さんもご来訪」 )

 

そういえば偶然にも、今日9月17日(明治17年)はイサの妹・筆さんが町田久成と離婚した日でした。

「お筆殿の子供の墓」って、やはり気になります。。

→(「5月10日 泉岳寺、大円寺、浅草の観音へも参詣」 )

これも前述の本によると、明治12年に結婚した町田久成は長男を早くに亡くしているそうなのですが、もしかしたらその子の墓なのかな?と思ったり。

ただ、「結婚後三男一女をもうけたが、長男と妻を早く亡くしている」とあるので、

今ひとつハッキリしないのですけどね。筆さん、大正14年まで生きてるし。→ 『 大正14年まで生きた筆(フデ)さん 』

 

この本には、二男・秀麿さん(明治13年生まれ)、三男・茂さん(明治15年生まれ)とあります。

結婚が明治12年で、離婚は5年後の明治17年。

 

<この間、明治15年3月20日、上野の山に念願の「博物館」がオープンした。それまでには、紆余曲折(明治11年に大久保利通が亡くなったことも影響するなど)様々な苦労があったようですが、それは別の機会に書きたいと思います>

 

また、曽祖父の戸籍に養女で入ったテウ(蝶子)さんは明治16年生まれなのですが、「町田久成 二女」とあるのです。

もしかしたら、亡くなった長男というのは実は長女だったのでは?と思ったりも‥‥。

イサさんたちが大圓寺でお参りした筆さんの子供の墓とはこの子かしらん?よくわかりません。。

 

ところで、町田久成(ひさすみ)が滋賀県の園城寺(通称:三井寺)で剃髪し出家したのは明治22年12月1日だそうで(因みに、出家した際には同時に「二人の幼い息子も」剃髪させ、稚児僧として久成のそばに置いたと当時の新聞にもあるそうです)、その翌年にイサさんや曽祖父・轟は「都(東京市)見物」しているわけですね。

 

出家した町田久成については、当時度々新聞記事の話題に上ったらしく、

明治26年のシカゴ博覧会には、13歳になった秀麿さんを連れて渡米したことが伝えられているそうです。

町田家の家督を相続した町田秀麿さんは、昭和42年までご存命だったそうです。(p.229)

 

実は終戦後、町田家の今のご当主一家が台湾から引き揚げて来られたのち、戦後の「尋ね人」放送で秀麿さんから探されて家督を相続されたということを、以前あった「子孫が語る薩摩スチューデント」(2017年7月)の講演後にご本人から伺っています。

町田久成の弟・町田申四郎(のちに町田棟(むねき)実種)の息子さんが、町田秀麿さんから家督を継承され、更に今のご当主に引き継がれたということのようです。

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「おすぎおたま」と伊勢音頭

2020-09-02 17:54:06 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読みいただき、ありがとうございます。

今日は台風9号が九州の西海上を北上中で、外は風も強く、時折雨も窓ガラスに強く打ち付けておりますが、

皆様のところはいかがでしょうか?

台風10号も発生した模様です。どうぞお気をつけ下さいね

 

さて、つい先ほどBSプレミアムで放送された「浮世絵ツアー お伊勢参り」でのお話。

江戸時代には、お伊勢さん近くの「古市」というところは旅館や芝居小屋、遊郭などが立ち並ぶ歓楽街で、ここでは色々な大道芸が見られ、

 

その中でも有名な「おすぎ おたま」という女性二人組もいたと紹介があったのです。

「お客の投げ銭をかわしながら三味線で歌う芸が旅人を楽しませ」たそうです

どこかで見覚え聞き覚えのある名前、と思って確認したところ、

「4月29日 御伊勢様参り〜伊勢音頭見物」』のお伊勢参りについての記述で

「途中にお玉おすきという三味線にて銭をうける芸を一寸み申候。」とあります。

やはりこの二人の女性だったようですね

 

 

このシリーズ好きで、これまでも再放送を含め何度も見ています。

今日は偶然見ていたのですが、この回は見ていませんでした。

 

また、今回は伊勢音頭についても見ることが出来ました。

なるほど前述の4月29日の日記にも「夕飯などたべ 今晩は伊勢の山田古市伊勢音頭見に参り」と書いてあります

ここ「古市」のことだったんですね〜

 

今でも創業から約240年の「麻吉」という旅館が残っているそうです

    

 

そこで番組では「伊勢音頭」も披露されました〜

「尾張名古屋は城でもつ〜♪」って聞きますが、「伊勢音頭」に歌われているんですね  知らなかったです

大伯母イサさんの『都見物日記』シリーズ、5月30日の『旅の終わり』にも書きましたが、

長旅から鹿児島に帰り着き、皆と無事を喜び合った場面では

「伊勢音頭のなり損ね」なども飛び出して楽しんだようです。きっと楽しい旅の思い出となったのでしょうね 

番組でも林家三平さんがレクチャーを受けて踊っていました〜 こうやって楽しんだのでしょうね♪

静止画と画面の歌詞でお楽しみ下さい 

 

  

 

    

 

 

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いづろの和田屋のおすみ殿

2020-05-30 02:17:11 | 『都見物日記』番外編

『都見物日記』4月19日に「和田屋のすみばば」とあります。→「4月19日 讃州多度津〜金比羅様へ」

そして4月22日に↓「石燈籠(いづろ)和田屋 母おすみ殿」とあります。

「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」

 

わかったんです 「いづろ和田屋」というのが「呉服店」だということが

 

昨日(というか、先ほどAM2時前)「5月26日 神戸最後の夜に・・・」を書いている時に

「納屋町」か「納屋通り」か、当時の町名を知りたくて

唐鎌祐祥(やすよし)先生の『昔の鹿児島 ー かごしま 新聞 こぼれ話 ー』

(南日本新聞開発センター 2008年発行)をパラパラめくっていたら、

「祗園祭は休日だった」というタイトルのところに明治30年7月14日の鹿児島新聞の記事紹介と共に、

 ほかに石燈籠(いづろ)通りの「和田呉服店」は反物で「道成寺安珍鐘入りの場」の人形をつくり店先を飾りつけた(p.27)

とあったのです

そう!いづろ和田屋の母おすみ殿は、呉服屋の方だったのです〜!!(きっとそう、そうだわ!)

ありがとうございます!唐鎌先生 

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「堂の前(どのまえ)」、、、とは?!

2020-05-26 23:56:30 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読みいただきありがとうございます ( 画像を複数枚、追加しました〜)

昨日は『都見物日記』のアップも18日から20日の分まで進み、だいぶ捗りました

 

ところで、  5月15日の『都見物日記』「鹿児島の上町 堂の前 煙草屋の…云々」と書かれていましたが、

本日別件で、以前撮っていた画像を探していたら、2年前の3月に撮った写真(↑トップ画像)の

「鹿児島城下絵図」に「堂の前」の文字を発見 

通りの名前として載っていることに気付きました 

 

福昌寺(現、玉龍高・玉龍中)や大乗院(現、清水中学校)があった地域に「堂の前通り」という表記があったので、父にも話してみたら、場所が何処かということこそ知りませんでしたが、地元の人たちが「どのまえ」と言うのを聞いたことはあったと教えてくれました。

「坊中馬場(ぼじゅんばあ)」と「清水馬場(しみっばあ)」の交わる所「仁王堂水(におうどうみず)」があります。

   

 

 今日雨の中撮ってきた写真です(クリックすると大きい画像になります)。「仁王堂水」は清水小学校の向かいにあります

    

で、肝心の「堂の前(どのまえ)通り」は稲荷川を挟んで、一つ橋を渡った西側の通りで、大龍小学校(大竜寺跡)を左手に見て北上すると皷川町へ、更には名越左源太の別邸があった韃靼冬(たんたど)へと登る道に繋がります。 

最近の地図には「堂の前通り」の表記がなくわかりませんでした。

 

 今日夕方、思い立って現地に行って探してみたところでも、付近に「堂の前」の表記はありませんでした。

画像↓の左端に「玉龍高校前」のバス停が写っていますが、「堂の前通り」は、その先から地図の「皷川町」表記の辺りの短い距離のようです。右折表示の方へ行くと「一つ橋」から「仁王堂の水」の清水馬場です。

(この病院敷地の一角、実は父の叔父(=「池之上のおじさん」)家族が住んでいた場所なんですよね。小さい頃は時々家族で尋ねていたので、懐かしい場所です

 

 上町の資料を調べると載っているのかも知れませんが、現・玉龍高校・中学校(=福昌寺跡)に続く通りなので、おそらく「福昌寺の御堂の前の通り」ということからそう呼ばれているのだと思います。これについては後日確認してみたいと思います。

 

 せっかく行くのだからと、以前からFBFさんたちが画像を上げていた「鶴嶺高等女学校 校跡碑」と「良子女王殿下御台臨記念碑」も見たい!と、先日検索して見つけた「クマタツ1847」さんのブログ記事「鹿児島市 上町歴史散歩(その五)(12)」で下調べの上、無事に見つけました!

通り一つ北へ上がった「本立寺馬場」という通りにありました。それについてはまた後日アップします 

 

では。

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ブラタモリで「清水坂」

2020-05-16 22:47:46 | 『都見物日記』番外編

今日は一日中雨降り、雷もなりました

そんな中、当ブログでは『都見物日記』の「5月3日【後編】」↓をアップしました。

「5月3日 【後編】 イサさん、団十郎の道成寺に感激!」

 

ところで、今夜の「ブラタモリ」は2017年4月8日の「京都・清水寺」アンコール放送でした。

その中で「清水坂」についての話が出ていたのです。→ 「# 69」

「かつては現在より広い範囲」で、鴨川にかかる松原橋から東側に伸びる参道を指して「清水坂」と言ったそうです。

    

「4月26日 西京見物 2日目」』でイサさんたちが「清水坂の吉野屋」でお昼ご飯を食べた、と出ていたので、「清水坂」のことがわかってよかったな〜と思った次第です 

 

では、今夜はこれにて‥‥

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上野寛永寺界隈をテレビで観る

2020-05-10 23:51:10 | 『都見物日記』番外編

やっと『都見物日記』の「5月1日の続き」↓を書き上げました〜

      「5月1日(続き) ついに東京入り!」

 

これアップする前に、ちょうどテレビのBS放送で「今昔!古地図東京巡り 花の上野で江戸さがし」と云うのをやってました。(「寛永寺」は地図上部(上野)にあります↓)

残念なのが、視聴予約してたのを忘れて席を外していたら、15分ほど見逃し(録画も逃し)てしまった(~_~;)

でもそのあとは録画したので、明日また見直してみよ〜っと

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「はだもち」とは?

2020-05-08 23:23:05 | 『都見物日記』番外編

ちょっとここらでひと休み的なお話です。

『都見物日記』の『「4月21日 兵庫着、神戸楠公社参詣」』に「はだもち着物一枚は寒さになり、‥‥」というフレーズが出て来て、以前読んだ時にもタイピングしながらもイマイチしっくり来なかったのですが、今日になってようやく理解できました!

 

たまたま鹿児島弁について調べていたところ、「はだもっ」という単語が二つ並んでいました。

意味は「気候」と「天気」とあり、

「気候」の例文として、「気候(はだもっ)がよくなってきた。」

「天気」の例文としては「秋の天気(はだもっ)は いい気分にさせてくれる。」

というものでした。

 

なので、イサさんの日記にあった「はだもち」は 鹿児島弁なのではないかと思います

前の文章から続けて表示すると、

「今日天気宜敷 少し風出(イデ)晴上り はだもち着物一枚は寒さになり、‥‥」 で、

「今日は天気良く 少し風が出て晴れ上がり、気候としては着物一枚重ねるくらいの寒さになり、‥‥」といったところでしょうか。

 

 鹿児島弁、地元そだちですがまだまだ知らない言葉が多く、なかなか難しいです。。 

ちなみに今日調べていた鹿児島弁は、「そがらし(大変、豊富な)」と「せからし(うるさい)」の違い、でした〜

 

ところで、4月28日までの分をまとめて30日〜5月1日までにアップし、しばらく更新できませんでしたが、

地図を添付することを思いつき、そのための画像を撮ったり、画像フォルダにアップしたりに費やしておりました。

 

4月29日〜5月1日の分は昨日(5月7日)にようやくアップできましたが、まだまだタイムラグが縮まりませんことをお詫びします。

(下書きは形ばかりのものを10日まで作ってあるんですけどね。。

 

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「みますだゆう」か「さんしょうだゆう」か?

2020-04-22 19:18:42 | 『都見物日記』番外編

前回『「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」』で「三桝太夫」について触れましたが、ネット検索すると「三枡太夫」に「さんしょうだゆう」と振り仮名されているものがありました。

イサさんの『都見物日記』にはフリガナがないので、「三桝」から「みます」だと思い電子辞書を引いたわけですが、もしかしたら「山椒大夫(さんしょうだゆう)」だったのでしょうか??

イサさんの日記には「芝居は三桝太夫と申物にて あわれなる外題に候、‥‥」とあります。

 

改めて、電子辞書(広辞苑)で確認してみました。

 

「『山椒大夫』‥‥ 丹後国加佐郡由良に住んで、強欲非道の富者としてつたえられる人。(この名は由良長者の話を語り歩いた太夫の称に由来するかという)

讒(ざん)によって筑紫に流された陸奥太守の子の安寿姫と厨子王は、母と共に父を尋ねる途中 人買い山岡太夫の手に渡り、母は佐渡へ、2子は山椒大夫に売られる。

姉は弟を逃して死んだが、厨子王は京都に上り、山椒大夫・山岡太夫を誅し、仇を報いたという。

中世以来、小説・演劇の題材となり、森鴎外にも作品がある。山荘太夫・三庄太夫とも書く。」

 

なるほど、内容からすると、イサさんたちが見た芝居は

「山椒大夫(さんしょうだゆう)」の事だったみたいですね

 

 参考までに、江戸時代後期、上方に 「三枡大五郎(4代目)」 という役者がいたそうです。

以前「三枡太夫を」調べた時に、これを見て何か勘違いしたかも知れません。。^^;

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