☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

川上忠堅(ただかた)は武之橋の方?

2020-10-31 23:02:58 | 『都見物日記』

 いつもお読み下さり、ありがとうございます 

 

前々回、川田義朗に関する記事を書きました。

川田義朗、沖田畷、龍造寺隆信からの田中裕二さんのご先祖へ』(2020.10.27)

 

島津義久の側近であった川田義朗が「沖田畷の戦い」でも義久の陣代である家久の側で軍配者として託宣し、それに勇気付けられた島津軍は龍造寺勢を撃破、そして、隆信を打ち取ったのが川上忠堅だったということです。

(『さつま人国誌』戦国・近世編 p.60~p.67「神変奇特」の軍配者 川田義朗 (上)(下) を参照)

 

ここで、川上イサさんの『都見物日記』の冒頭部分の話になるのですが、

→『「4月17日 鹿児島を出帆」』(都見物日記)

 

『都見物日記』の紹介文で、寺師若法師さんの説明によると、

「川上ドンは新屋敷と武之橋にあり、新屋敷の方は関ヶ原で勇名をとどろかした川上四郎兵衛忠兄、いわゆる川上シロンペロンの方で、当主は谷山市山田町谷におられる矢吉氏。武之橋の方は四郎兵衛の兄、左京亮忠堅の方で、天正十二年春に竜造寺隆信を討った智勇の士。筆者いさ刀自の夫君は久達氏、その子息が兄 久良氏、弟 橋口精一氏、丹下さんはその久良さんの娘さん。こういうことになっている。」そうなのです。

 

川上式部の屋敷は「武之橋」にあることも以前書きました。→『川上式部邸跡と「授産社跡」

川上四郎兵衛忠兄(ただえ)と、その兄・川上左京亮忠堅の住まいは確認しようがありませんが、

例によって『島津家家臣団系図集』を読んでいて気づいたのです。

 

名越左源太の長女・イサは式部家・川上(勘解由)久達の妻であり、

その婚家・川上式部家川上氏「二男家筋」(家格寄合 本領串木野)で、

川上氏五代上野介兼久三男・忠塞 ー 栄久 ー 久朗 ー 久辰 ー 久国(式部 将監 因幡守 家老) ー 久将 ー 久孝 ー 久量(初,久重 伊織 式部 家老) ー ---- 久達(ひさゆき)と続いています。

 

一方、忠堅・忠兄の兄弟は、川上氏庶流「二男家分家忠興流」(左太夫家)小番

忠塞の三男・忠興(信濃守)から始まり、その子・忠智(三河守 家老)の嫡男・忠堅(左京亮)、二男・忠兄(四郎兵衛)、三男・久智(叔父忠里嗣)となっています。二男・忠兄(四郎兵衛)はさらに系別の「庶流忠兄流(四郎兵衛家)」(小番)とされています。 

 

なので、寺師若法師さんの説明では、少しばかり足りない気もします。

武之橋にはもともと忠堅の家系が住んでいて、その後時代が下って川上式部家がその敷地に住んだ‥‥ということでしょうか??

はてさて、私程度の頭では、、、さっぱり分かりません が、

ちょっと気になったのでここに記しておきます。

 

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旅の終わり

2020-05-30 23:44:27 | 『都見物日記』

最後の1ページは「さんぎし」未掲載分です。

イサさんのお孫さん・川上久雄さんが平成6年3月27日に完成させたものです。

 

『都見物日記』(このページは「さんぎし」には未掲載)

 

(桜島の頭のような山を描いて)↑※トップ画像

此のやうな所が見えて元気も出。チン〳〵甲板にあがり眺めおり候所、早。故郷のなつかしき所などそろ〳〵見え、天保山の前も通りて いよ〳〵前の浜に着き 荷物などかたつけ 端舟(ハシケ)にて上陸致し候。上より皆々様がお出迎に来り居られ、精一殿(久良の弟)ツバタ(津端?)迄来たり居られ 久々にてうれしき事妙々

酒匂問屋より皆々さんとお分かれ致し、精一どのと帰り 武之橋の入口に迄に着く。

子供皆々「おとみ」「貞」他に「おみか」「おけさ」来り居り

夕暮より「お君さん」を取寄せ(芸者を呼び の意?)三味などひき 心悦びいたし候。

酒肴にて精一どの待ちうけ居られ 大喜び。さらば地歌「君さん」にお頼み申さん

ペコ〳〵ツン〳〵テン〳〵とひかれ候所 ぢきにオババが踊り伊勢音頭のナリソコネなど出し大笑。皆々よろこび 嬉しさおめでたさ おかしきなり 実に〳〵すぐれた初のぼりの新下り妙々

 

(※ 以下は、結びにイサさんの孫・川上久雄氏が書かれたものです)

明治廿三年 寅 五月廿九日着

            五十一才  川上いさ 記

この最後の頁は寺師若法師「さんぎし」に記載の内 未完の項を いさ日記原本から猶野(ナオノ)耕一郎・芳即正様の御協力を頂き、いさの孫 川上久雄が完結し 猶野耕一郎氏(久良の娘・丹下幸代、長男)、二階堂飛虎氏(久良の次男=久雄の弟)、内村八紘氏(名越左源太翁 子孫)へ贈る

平瀬実武氏は平成六年一月十八日死去の為 未贈

                 平成六年 三月二十七日

 

 長い旅を終え、皆さんに迎えられてほっとするやら嬉しいやら、といった様子が目に見えるようです

 最初にこれを読んだ時にはよくわからなかった「武之橋の入口」の意味。

「精一どのと帰り」着いた「武之橋の入口」にあった川上家の場所については以前書いています。

川上式部邸跡と「授産社跡」  2019-10-19 11:31:49  』

☆下の画像の右下に「武之橋」があります。「松方正義誕生地」と橋との間の一画が川上式部邸跡。(画像共追記:'20. 5.31  15:21)

 「子供皆々」と名前が並んでいますが、最初イサさんの子供?と思いましたが、おそらく精一さんの子供さんでしょうか

 最後は芸者さんだか三味線弾きの「お君さん」の地歌に合わせて賑やかな様子です。

「オババが踊り 伊勢音頭のナリソコネなど出し」とあるのは、イサさんご本人? 

「実に実にすぐれた(東京)初のぼりの新下り」と大満足で締めくくられて、めでたしめでたし、ですね

          『都見物日記』ご紹介(完)

 

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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「5月29日 船旅は、行きも帰りも・・・」

2020-05-29 18:14:09 | 『都見物日記』

 さてさて、第八章も最後になりました。長かった旅も終わりを迎えます。 

 

『都見物日記』(八)‥‥ ⑦

 五・二九 天気よし。別に風なし。

船大ゆりいたし それにこまり、今日は七時ごろより苦きもの吐き、実に頭痛いたし、三人ともいね居り申候。残念には存居候え共 めしも得(エ)食べず、うろうろ気分也

 十一時比(ゴロ)よりチンチン鹿児島が見え(桜島の頭のような山を描いて)此ような所が見えて元気出

   (以下次号へつづく)

 

 風もなく天気はいいのに、船は大揺れ‥‥。ご飯も食べられず、うろうろ気分のイサさんです。

思うようにいかないのが船旅ですね〜

 第八章、終わりました。次号への掲載は、果たしてあったのでしょうか?!

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「5月28日 三原氏母様も一緒に鹿児島へ」

2020-05-28 18:12:57 | 『都見物日記』

 昨日午後四時、美濃丸で神戸を出帆。船に乗って2日目です。

 

『都見物日記』(八)‥‥ ⑥

 五・二八 今日天気よし。夜明け三時ごろに売船通りかかり、其船とつき合わせ中々の混雑。然し人は皆あがりバッテラ(※→ボート、大きな船に積載する短艇)にておくり候。其(ソレ)がため七時過に漸くこのかかりし所より出帆、鹿児島着も自然おそく相成るとの頃。先(マズ)船おだやかにて仕合(シアワセ)、鹿児島之人だんだんのり込み居られ候。そろそろ気分あしく寝ねつづき母上様も三原氏母様も 同敷(※オナジク)気分あしき風にお見え居候。

 

 この頃になると、ひたすら鹿児島へ向けての船旅で快適とは決して言えない状況のためか、日記も短いです(^-^;)

 往路と違うのは、御三方に加え、三原氏母様も一緒に鹿児島へ向かっていることです。

三原氏母様は轟の妻・ツタの母親でもありますが、西村時彦様、つまり西村天囚氏の妻も(先妻・後妻共に)三原家の女性なので、轟の義母が同一人物かは今のところ確認が取れませんが、文面からすると、西村氏の義母でもあるのかも知れません

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「5月27日 神戸を離れる日」

2020-05-27 18:09:26 | 『都見物日記』

 長かったお江戸上りもいよいよ締めくくりとなりました。

 

『都見物日記』(八)‥‥ ⑤

 五・二七 今日天気よし。六時過に起き 茶、七時過にめし、今日はゆるゆると薩摩屋より出立の賦り(←※くばり)。十二時前昼飯、美濃丸へ二時乗込、四時出帆、例のごろごろにて酒を飲み候て 夜の入る頃よりいね、海も平和故、先ず酔いもせず。船へのり着(ツク)と後(アト)より鈴木さん お暇乞にお出被下(クダサレ)候事

 

 ※「賦り」が読めず。。「くばり」と読むんですね 

 今回は船酔いもせず、まずまず良かったですね

 前後しますが、船に乗り込んだ後、前日にもお見えになった鈴木さん(=名越氏の知人)が挨拶においでくださったようです。

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「5月26日 神戸最後の夜に・・・」

2020-05-26 18:06:27 | 『都見物日記』

 神戸・薩摩屋、最後の夜です。衝撃のアクシデントが、あったとか、、なかったとか、、いや、あったようです

 

『都見物日記』(八)‥‥ ④ (※印は、ゆき註釈)

 五・二六  今日雨。六時おき茶飲み 夫(※ソレ)より程なく 青山と申すお方はなしにお出、又 鈴木信弥さんと申お方 お出にて暫らくお談(※ハナシ)、九時過にお帰りの事。 程なく三原母様、西村時彦様とお出、今日船も出帆之はずにて 此方へお越しにてゆるゆると成され、皆々十二時過にはめし、牛(ギュウ)など向こうさん買入 ちんと酒などお分かれに飲かた(※飲み方=宴、酒飲み)有之候。二時には西村さんもお帰り之事。

 三時過に楠公社辺に又歩行致し、少し雨降出し せわせわ敷候に付、早目にかえり候得ば 上(カミ)の納屋の上の田尻様もお出の事。 夕飯は此宿にて四人ともたべ、ゆるゆるといたし居り候処、鈴木さんお出にて、それより酒、牛など差出し、芸者の御馳走など有ておもしろく、ゆるゆるゆると致され十一時前お帰之事

 轟どの酔候て小便を二階のすみにて致され、小便所と思いてのことならん。轟どの格別のしくじりもなかりしに 終にしくじりの終(シマ)いを首尾いたされ、おかしおかし、皆大笑。十二時いね候。

 

 「青山と申すお方」は他の日には出て来ないと思いますが、どなたの関係かはわかりません。

 「鈴木信弥」という方は、 往路の4月21日の日記「名越氏の知人」と書かれています。神戸最後のこの日は午前中と夜にも宿に来られていますね。また、明日27日の日記では、イサさん達が神戸を離れる時にもお暇乞いにおいでになります。

「名越氏の知人」ということですので、よほど縁の深い方なのかもしれません。ただ、ここでいう「名越氏」が誰のことなのかまではわかりませんが、時成兄さんか、その家系の方かもしれませんね。

 「牛(ギュウ)」というのは「神戸ビーフ」でしょうか?「向こうさん買入」とは西村時彦様がお昼にお別れのお酒と共にご馳走下さったということ?

「夕飯は此宿にて四人ともたべ、」とあるのは西村時彦様が帰られて、三原氏母様と御三方との四人ですね。

 あと、よくわからないのが「上(カミ)の納屋の上の田尻様」です。「納屋(なや)」というと、鹿児島市街地にある地名の「納屋通り」というのがあります。

「田尻様」で思い浮かんだのは、「田尻務」様。桂久武の兄で、霧島神宮の初代宮司になられた方で、その後を左源太の妻・タネの実弟が明治7年から2代目宮司になっています。・・・が、「上の納屋の上の‥‥」というのだから、違うでしょうね?? どちらの田尻様でしょう??

 轟の「しくじり」は、ひ孫としては恥ずかしいので、小文字にしました (大笑いされてるし〜

 

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「5月25日 神戸へ移り、布引瀑見に出掛け候」

2020-05-25 18:04:58 | 『都見物日記』

 大坂滞在は5泊。今日は大坂を後にして神戸へ移ります。

 

『都見物日記』(八)‥‥ ③

 五・二五 今日天気よし。六時おき茶飯、今日より又神戸へ差越す。九時比(ゴロ)に出立、梅田停車場迄人力車にて、それより十時に汽車も出、途中鳥渡(チョット)ずつとどまる所、神崎、西の宮、住吉、三宮などなり。 神戸停車場に着、直ぐ浜辺の薩摩屋へ十二時比(ゴロ)行く。 昼飯たべ腹ならしに三人連れ布引瀑(タキ)見に出掛け候。雄瀑雌瀑とて随分見ものなり。茶屋など有り、景色よろしき也。瀑見の道に神戸直き見える所も有り、帰りには小さき石など七つ八つ拾いて帰り、又たかつぶり也。夕暮にかえり着、七時に飯、ちんと酒飲み、十二時ごろにいね申候。

 

 往路でも泊まった「薩摩屋」へ移った御一行は、「布引の滝」を堪能したようですね。

 「たかつぶり」って、何? まさかの「かたつぶり」の誤植? 小石を拾って帰ったら「カタツムリ」だったとか

 今夜はちょっと夜更かしで 、午前零時頃ご就寝です

 

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「5月24日 宿屋増元、長崎の小間物屋さん」

2020-05-24 18:03:42 | 『都見物日記』

 復路の旅、大坂見物をした翌日の様子です。

 

『都見物日記』(八)‥‥ ②

 五・二四 今日は天気よし。六時過に目醒め、茶飯にて、今日は轟殿は電信局へ参られそれより西村時彦様方へ参らるる筈にて出掛けられ候。 私、母様は風呂入に、後で行き ゆるゆるは入候。 此二階の廊下ごしに昨日より参りし人有り、是は長崎の人と申候得共 実は長崎より二里計りの所の人と申候もの、大坂に小間物 仕入に参り候由。今日は朝早々より小間物屋十五、六人参り いろいろとたくさん買入、これのため 其の人等そろばんカツカツと朝より賑々敷事に候。

母上様、私と茶のみいたし居候処に 轟どのも帰られ候得ば、私共の方へ隣の小間物品々たくさんにひろげたて候得ば、母上様、轟どの、私も詮方なしにチンと買入候。これは何もとらん(←※傍点有り)つもりにては候得共、又私も十四銭五リ(←※「厘」と思われます)だけ買いました。ノサンノサンノサンと申候也。十二時に飯たべ、程なく今日は久々に轟殿は風呂入、かみつみ(←※髪摘み=髪切り)有之、大坊主の様にて帰られ大笑之事。夕ぐれに晩飯、九時にいね申候。

 

 轟さんが散髪してもらって帰ったら「大坊主の様」だったと、またしても大笑いです (^o^;) 

 轟はここ大阪でも22日に「電信の事に付」出て行ってますが、今日も電信局へ出掛けたようです。「電信の事」はこれで5回目。

 小間物屋(問屋?)さんが早朝からそろばん弾いて賑やか(少々迷惑?)な様子です。この人物について、「長崎の人」ではなく「実は長崎から二里計りの所の人」と書いてあるのが面白いですね。長崎から二里(約8km)というと、どのあたりになるでしょうか?

ここでもイサさん、押し切られてか予定外の買い物をして「ノサンx3」と嘆いていますね 

 さて、明日は神戸へ移動。旅も終盤です

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「5月23日 今日は三人で大坂見物」

2020-05-23 18:01:49 | 『都見物日記』

 宿屋増元に3泊、早くも大坂は4日目です。

 

『都見物日記』(八)‥‥ ①

 五・二三 今日天気よし。六時起き 茶のみ 七時過めしたべ、和田すみ同道の四人は今日出発、兵庫へ出掛けるとの事。鹿児島へ遣わしの文も頼み候私等三人は今日大坂の見物致し候。 途中にて三味乃糸取入れ、難波より汽車にのり、天下茶屋と申所にてとめ、又 住吉にても とめ堺にて停車場よりおいり堺の浜を見物致し これもよき景色、いろいろ茶屋あり。

 程なく車より住吉様まで参り候、此橋涯の住吉茶屋に一寸たちより、住吉様お神楽の所に参り付候。まえの店は麦がら細工と土人形有り、此所の茶屋にてちんと飯たべ、ここより車にのり 阿倍野の神社の前を通り、太閤秀吉の戦いの天下茶屋を通り、天王寺に行き候。 此寺は古びたる寺にて随分奇麗には有り、こは聖徳太子様の安座まします所にて、右の内に聖徳太子様十六歳の時に御像を刻み、外にだんだん刻みたる仏様入らせられ候。 又 上の少し坂あがりて行きし所に 御むそふ御うけの仏様入らせられ、其所にて薬茶戴き直(ジキ)ついで飲み候。 聖徳太子様の御門に大きなる石亀の口より水出でて、其所には何かお願にや 附木(ツケギ)のような物に字を書き、それが皆其池につけ 何とか申 祈願いたす人だんだん有り、私共は只見て通り候。池には亀 沢山おれり。

 それより矢張り車にて大坂城の下迄のり、ここにて車よりおいり、ちんちん歩みて帰りつき候。夕暮は飯、酒二瓶ばかり飲み、今晩は早目にいね候 

 

 

 和田すみ殿一行は宿を発ち、兵庫へ出かけ、一足先に鹿児島へ向かわれるのでしょう。

 イサさん達三人は大坂見物。ちょうどひと月前にも大坂で過ごしていましたね。

「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」

「4月23日 三原氏御母様と源水楼茶屋へ」

 明日も天気が良いといいですね

 

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「5月22日 昼間はお買物、夜は西村時彦さん方へ」

2020-05-22 17:49:20 | 『都見物日記』

 20日から大阪の宿屋・増元に宿泊中です。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ③

 五・ニニ  今日 朝天気よし。六時起き茶、めしたべ、九時過より轟殿は電信の事に付 出行かれ候。御母上様、私は 和田屋、すみ婆殿、そのばばどのの三人都合五人連れにて 又品買物にいで、笄(コウガイ)、櫛ども買入、又 荷ぜき品取入れて大笑い也。一時前 内に帰り候。昼飯たべ 轟どのも帰り来り、今日の買入品、金は又壱円だけ轟どのより借入れ いろいろとり候也。

 午後四時過より 轟殿と母様西村時彦(天囚)さん方よりお呼の事。私はるす也。六時頃に亦私も参る様にと車迎いに来り 行き候而、三人ともに十時頃に内にかえりいね申候。

  あと二回だけで帰鹿まで漕付けます(若)

 

 轟が「電信の事」で出かけるのは東京・大阪合わせてこれで4回目。

以前も書きました → 『電信の・・・。』('19.6.28)、『「電信」の仕事?』 ('18.7.23)

 

 轟が出かけたのち、川上のお姑さんとイサさんは、都合5人連れ、ということは和田屋さんと、すみ婆殿と、そのお姑さんとで3人ということかな?、で、お買い物に出かけたんですね。

 

 西村時彦(=西村天囚)さんからお呼びがかかり、夕方には川上家のお姑さんと轟が出かけ、イサさんはお留守番しておられたけど、約2時間後にはイサさんも車で迎えがきて西村さんに会いに出かけてようですね。

 

 ところで「笄(こうがい)」について気になったので画像がないかなと思い、またまた検索してみた。

『髪結ねっと』というサイトに「笄という名の武具」という記事があったのでご紹介。

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「5月21日 和田すみ殿と再会、 三原氏母様とも久々にお目にかかり上げ」

2020-05-21 17:21:36 | 『都見物日記』

 前日、大阪の宿屋「増元」に落ち着いた御一行です。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ⑥

 五・二一  今日も天気よし。六時過目醒め 茶、朝飯たべ、一寸私二階よりおり候えば、下へ和田すみ殿居られとりあい候て お互いにハラアハラアと申し 挨拶致し、お互いにお噂致し居候ひしに 亦よき所にて御出合申せし事よとて大喜び之事。九時過に皆連れ立ち 近所の風呂屋にゆき ゆるゆると入り、此所へ帰り候。轟殿は三原氏母様の所へ 如何(イカガ)之事かと伺いに参上せられ候。

 両人にてここに留守淋敷致し居候得ば、十一時過に此方へ三原氏母様と轟殿てなみ(←※傍点有り)お出にて、久々に御目に懸り上げ ゆるゆるとお話し申上、此宿屋にて昼飯四人にてたべ候也。 四時過にはお帰之事。 三人は早々夕飯などたべ 大坂の人形芝居見に行き候。これは人形の方よりも浄瑠璃の方が名高きとのこと。少々はおそく参り候故 漸く二幕ほど見候。それでも肝心の跡(アト)語りにておもしろく、耳も新しく相成り候樣 覚え候。明烏にて有之候ひし。此近辺はいろいろの店有り賑々敷事。十一時前に帰り直(スグ)といね申候。

 

 和田すみ殿は、【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば や4月22日の日記 にも書きましたが、この大阪「増元」は、和田屋のおすみ殿の知人のようですね。 帰りに寄ったらまたばったり再会したので喜び合っている様子です。

 轟は、妻・ツタの母、三原氏母様のところへ出かけ、宿屋へ連れ立って参られた後、ゆっくりお話しされ、お昼もこの宿屋で4人で召し上がり、夕方には帰られたようですね。

 大坂での人形浄瑠璃はどんなところで演じられたんでしょうね?「明烏」というのは劇場の名前???

             ↓↓↓

 俄然気になったので「大坂 浄瑠璃 明烏」で検索したら、「明烏六花曙(あけがらすゆきのあけぼの)」と出てきました

上方では「文楽」と言われますね(そういえば随分前に大阪在住の兄から聞きました)。「人形浄瑠璃」というのは関東だそうです。

 

検索した結果、咲寿大夫という方のブログに「文楽は大阪弁で作られたお芝居。じゃあ江戸のお芝居はないの??」という記事がありました。江戸で大流行した「新内節」の「明烏」を元に作られた文楽が「明烏六花曙」だそうです。

 かなり詳しくしかも分かりやすく解説されていて、文楽では「花魁」という言葉は滅多に使われないのだ(この作品には出てくる)とか、花魁の髪飾りや格好、遊郭の文化や衣装なども上方と江戸では違いがあって、その違いも楽しめるのだとか、興味深いことがたくさん紹介されています。読んでみられたら楽しめると思います

 

こちらの→『文楽応援団』というサイトで紹介されていたものによると、

『‥‥ 舞台で上演された初めは嘉永4(1851)年2月、江戸・市村座の『仮名手本忠臣蔵』八段目の裏に清元の所作事『明烏花濡衣(はなのぬれぎぬ)』としてですが、翌3月には大坂・大西の芝居で新内を地とする切狂言『明烏夢泡雪』として上演されています。2年後の嘉永6(1853)年2月には大坂新築地清水町浜の竹本綱太夫座で初めて操り浄瑠璃芝居『明烏雪の曙』「山名屋の段」(もちろん義太夫節)となり、安政元(1854)年4月道頓堀・竹田芝居で現行外題『明烏六花曙』となりました。』

他にも「明烏」について書かれた記事が読めたので、「大坂 浄瑠璃 明烏」で検索してみて下さい〜

「大阪 文楽 明烏」でもいいかも知れません

 

つい長々と書いてしまいましたが、「明烏」に関しては別途記事にすればよかったでしょうか?

ともあれ、大阪での文楽鑑賞、これまた面白かったことでしょうね、イサさん達

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「5月20日 神戸、そして大阪へ」

2020-05-20 14:29:47 | 『都見物日記』

 船旅も楽じゃない‥‥と言ってる間にも確実に船は神戸に着き、御三方は更に大阪梅田の宿屋へ移動です。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ⑤

 五・二〇  今日も天気よし。矢張船にてごろごろといね続き也。朝飯も得食べず気分勝れず海も穏やかに候得ども 近き所も見る事も出来ず、此節は先日よりの吟味通りにいきませんと申す事也。

 夕方に もはや神戸に着(ツク)。至極の海も静にて仕合せに存候。 薩摩屋と申す汽船問屋へ上り 茶飲み、直(スグ)と荷物も此宿に頼み、又すぐ停車場迄 車にて行候得ば、八時の汽車 今晩出た跡にて暫く其所に休み居り候、此所は三宮停車場也午後十時前 汽車に乗り 大阪迄の内に五ヶ所計りに五分位宛とめ候に、皆其処より下る人有り乗る人有り、十一時過には大阪梅田停車場へ着、又いつぞやの増元と申す宿屋へ参り、今晩はゆるゆるとやすみ候也。

 

 「先日よりの吟味」とは5月13日の「帰りには決して酔いはしませんとな」などと川上の御母様と話していた事

 ようやっと神戸に着いて、一休みのお宿がまたまた「薩摩屋」さん!! 鹿児島の上町 堂の前煙草屋の嫡子の、ではない、

 4月21日に兵庫入りした時の「薩摩屋」さんと同じ所だと思われます。「此処もよき宿屋にて候」と記していました。

 三ノ宮から汽車で大阪梅田まで移動、宿泊は「いつぞやの」とありますが、往路4月22日に泊まった「増元」でした。

 

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「5月19日 新潟丸で横浜出帆」

2020-05-19 13:12:58 | 『都見物日記』

 横浜からは船旅ですが、、、行きも帰りも大変そうです。。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ④  (※印は私、ゆきの註釈です)

 

 五・一九  今日も雨降り也。七時前起き茶のみ 八時過に飯たべ、あとに又茶入れ 茶菓子まどの月二つ宛(マデ)差出し、ちんちん又着替えくくり、船のり仕度いたし、切符取り 一人前二円五十銭にて候、神戸迄也。 昼飯は此宿屋(※横浜の蓬莱屋)より折詰弁当取入れ候、船に もちこし用に候。 十一時頃には浜ばたに出かけ 皆々荷物つみかた、跡にて小舟にのり 其折には雨ふり候得ば 皆々混雑いたし大船もなかなか臭気いたし のし申さず。此船は新潟丸と申すのにて 大きな船也 左様には候得ども下等部屋にて候。 私は直(スグ)とやすみ 御母様もその通り、二時ごろには弁当を取出し 三人ともたべ、四時頃に私は小便に出候得ば 又それより船の臭いあしく候故、胸がまくじり(←※傍点有り)直とたべたる物も凡そ吐き出し、何とも気分悪く 鼻をふさぎ 只々やすみ居り候也其儘今晩も何もたべず寝(イ)ねつづき也

 

 茶菓子「まどの月」が気になって調べたら、四角い最中の名称のようですね。

参考までに→ 「菓子の用語」ではその名前が付いたエピソードが書かれています。

ちなみに「最中の月」とは十五夜の満月のことだそうで、こちらも参考になりました → 「最中の由来」

丸い物が主流の「最中の月」、四角いものは珍しくて「窓の月」と呼ばれたとか。

最中談義はこの辺で(笑)

 船に乗り込む時には雨で混雑した上に、船に乗っても臭気のせいもあって具合悪く、

この頃の船旅って、本当に大変ですね。。

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「5月18日 東京を離れ、横浜の蓬莱屋に一泊」

2020-05-18 13:08:51 | 『都見物日記』

 東京を離れる日がやって来ました。5月1日に東京入りして18日目です。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ③

 五・一八  今日は天気也。五時前起き早く飯たべ、今日は帰りのつもりにて東京新橋より汽車にのる八時也 久良殿永岩さん薩摩屋の喜太郎停車場まで見送に参られ候。 品川、大森、六合川、川崎、鶴見、神奈川、横浜までまたたく内に着蓬莱屋という宿屋に着き九時二十分頃也。 

 茶、煙草のみ 茶菓子はせんべの事。此所にて ひる飯十二時頃にはたべ、今日は船も神戸行はこれなしと申し、皆々も又ゆるゆるといたす事に候。 神奈川にくる頃より雨少々降り なおなお日長き事也。 三人とも昼寝など致候。七時ごろに早や食、ちんと酒のみ、程なくやすみ候。

 

 薩摩屋の人、「喜太郎さん」って名前だったようですね。

 せっかく午前中に横浜まで着いたというのに、この日は神戸行が無くて時間を持て余してる様子が目に浮かびます

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「5月17日 久良さんと永岩さんと」

2020-05-17 12:59:53 | 『都見物日記』

 予定では今日出立のつもりだったようですが、イサさんの長男・久良殿と久々の再会に予定変更、一日ゆっくり過ごされたようです。

 

『都見物日記』(七)‥‥ ②

 五・一七  今日天気よし。四人にて六時起き、久良殿は五時過に目さめられ飯一緒にたべ、今日出立のつもりに候得共久良どのへ久々の面会にて 皆々内にゆるゆると致し候得ば、十時過より永岩さんもお出 ゆるゆると話され十二時ごろに帰りの事。

 本日は皆ひる飯は内にて食べ、久良どのは三時過 脇方へ出られ夕暮に永岩さんとてなみ(←※傍点有り)此宿屋へ参られ、又暫くはなし 今晩皆々くたびれ、早目にやすみ候

 

 

 「永岩さん」は4日の日記に登場9日には精一さん(イサの次男)の手紙を持って訪ねています。

 東京滞在も今夜が最後。明日はいよいよ復路の始まりです

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