いつもお読み下さり、ありがとうございます
前々回、川田義朗に関する記事を書きました。
『川田義朗、沖田畷、龍造寺隆信からの田中裕二さんのご先祖へ』(2020.10.27)
島津義久の側近であった川田義朗が「沖田畷の戦い」でも義久の陣代である家久の側で軍配者として託宣し、それに勇気付けられた島津軍は龍造寺勢を撃破、そして、隆信を打ち取ったのが川上忠堅だったということです。
ここで、川上イサさんの『都見物日記』の冒頭部分の話になるのですが、
→『「4月17日 鹿児島を出帆」』(都見物日記)
『都見物日記』の紹介文で、寺師若法師さんの説明によると、
「川上ドンは新屋敷と武之橋にあり、新屋敷の方は関ヶ原で勇名をとどろかした川上四郎兵衛忠兄、いわゆる川上シロンペロンの方で、当主は谷山市山田町谷におられる矢吉氏。武之橋の方は四郎兵衛の兄、左京亮忠堅の方で、天正十二年春に竜造寺隆信を討った智勇の士。筆者いさ刀自の夫君は久達氏、その子息が兄 久良氏、弟 橋口精一氏、丹下さんはその久良さんの娘さん。こういうことになっている。」そうなのです。
川上式部の屋敷は「武之橋」にあることも以前書きました。→『川上式部邸跡と「授産社跡」』
川上四郎兵衛忠兄(ただえ)と、その兄・川上左京亮忠堅の住まいは確認しようがありませんが、
例によって『島津家家臣団系図集』を読んでいて気づいたのです。
名越左源太の長女・イサは式部家・川上(勘解由)久達の妻であり、
その婚家・川上式部家は川上氏「二男家筋」(家格寄合 本領串木野)で、
川上氏五代上野介兼久三男・忠塞 ー 栄久 ー 久朗 ー 久辰 ー 久国(式部 将監 因幡守 家老) ー 久将 ー 久孝 ー 久量(初,久重 伊織 式部 家老) ー ---- 久達(ひさゆき)と続いています。
一方、忠堅・忠兄の兄弟は、川上氏庶流「二男家分家忠興流」(左太夫家)小番
忠塞の三男・忠興(信濃守)から始まり、その子・忠智(三河守 家老)の嫡男・忠堅(左京亮)、二男・忠兄(四郎兵衛)、三男・久智(叔父忠里嗣)となっています。二男・忠兄(四郎兵衛)はさらに系別の「庶流忠兄流(四郎兵衛家)」(小番)とされています。
なので、寺師若法師さんの説明では、少しばかり足りない気もします。
武之橋にはもともと忠堅の家系が住んでいて、その後時代が下って川上式部家がその敷地に住んだ‥‥ということでしょうか??
はてさて、私程度の頭では、、、さっぱり分かりません が、
ちょっと気になったのでここに記しておきます。