☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

テウさんについて

2019-04-24 13:35:04 | 町田久成(敬称略)

いつもお読み頂き、ありがとうございます💕
前回から少々間が空いてしまいました。
実は父が先月半ばに急な発熱でそれから3週間ほど自宅で養生しており、看護に時間を当てていたのでブログの更新が出来ませんでした。

幸い父の体調も回復し、今は元気にしております♪

さて、2年前に書いたこのブログ記事です → 「関 秀夫 著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー 』

読み返してみたところ、町田久成の「長女・蝶子」さんは、久成の2人の息子より年長だと思い込んでしまっていたようで…。

☆前述記事の中のこの部分です↓
「と、ここで、「テウ」さんは明治16年生まれとあることに気づき
蝶子さんではないことは明らかになるのですが、(←☆ここも翌4月5日追記しました)」


だから、私の曾祖父・轟の養女に入った「町田久成の二女・テウ」さんが明治16年生まれなので、この本に書かれている「蝶子」さんとは別人かと思っていたけど、次姉フデの娘に間違い無いと思われます。
で、「テウ(蝶子)」の上に2人の兄・秀麿さんと茂さんがいたということですね。

話は飛びますが、昨夜は急遽、町田家の御当主・忠夫様と再会し、父を紹介する事が出来ました。
父は「湾生(=戦前の台湾生まれ&台湾育ち)」ですが、御当主・忠夫様も一時期幼少の頃に台湾で過ごされたそうで、以前から一度会って話が出来ればと希望されていたので、今回の好機を改めてありがたいことだと思っております。

☆画像は、昨日戴いた胸像の特製絵葉書と
一昨年(2017年)の「胸像建立記念 町田久成展」のパンフレットです


☆関連記事
「町田久成さんについて」
「黎明館学芸講座「なごや左源太の明治維新」など」

名越左源太泰藏の子供たち

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品川弥二郎と田中芳男、そして町田久成の関わりとは?

2017-09-17 22:28:16 | 町田久成(敬称略)

いつもお読み頂きありがとうございます♪

前回の『繋がるものたち』の最後に町田久成と田中芳男の因縁について

「田代(安定)が上京し勤めた内務省の博物局(!!)係の局長というのが、田中芳男でした!
 以前書いた通り、初代帝国博物館館長・町田久成の次に2代目館長となった人物でした!」

と書きましたが、自分で検索してもこのブログ内のどこにも書いていませんでした。。

よく考えるとTwitterでつぶやいていたので、こちらにも載せておきます。

タイトルの3人の関わり合いに付いては‥‥うまく纏められないのでご紹介まで。
気が向いたら、というかこの件の元となった本を熟読出来た時には書くかもしれませんが、
詳しく知りたい方は、関 秀夫著『 博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー 』をお読み下さい。(^^;


 

 



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関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり)

2017-04-04 23:50:15 | 町田久成(敬称略)

先日購入した『 博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー 』を拾い読み。
(2005年5月著作 6月21日 第一刷発行)


この本では「ひさなり」と読み仮名が振ってありますが、
私としては敢えて「ひさすみ」と読ませていただいています。
(一新朋秀氏の論文にアルファベット表記がされているらしい)
       ↓
桐野作人さんのブログ「膏肓記」コメント欄を参照ください


さて、焦らず頭から読もう、と思いつつ、やはり気になるのは私生活。

というのも、以前にも書きましたが、曾祖父の姉・筆さんの元夫だったからなのです。
       ↓
2010年4月21日の記事「名越フデさん」

そこで、思ったことなどをつらつらと書いてみようと思います。

     ☆☆☆


まず、
「終章 晩年の町田久成」の中の「橋場の町田久成邸」の件を読んでみた。
「出家後の消息を伝える明治二十三年一月の『読売新聞』の記事」の紹介があり、
「浅草橋場にあった本邸と向島小梅の別邸」を売却したことなどが書かれていた。

☆ここで、「明治二十三年」に反応する私。
というのも、川上イサさんが記した日記(※↓後述『都見物日記』参照)が明治23年のものだったから
そのあたりの年代には自然と敏感に反応する習性がついた。(☆この部分、翌4月5日追記しました)

その先を読んで驚いたのは、
「明治十二年まで独身で家庭をもたなかった」(P.217)と書かれていたこと。

えっ?! そうだったの?

筆さんと離婚したのが明治17年9月12日。

これについては、名越時成さんのご子孫の内村氏から頂いた戸籍謄本のコピーに
「明治十七年 九月十二日 鹿児島懸日置郡石谷村 町田久成 妻 離婚に付き復帰」とあります。
亡き父・名越(左源太時敏 改め)泰藏の後を継いだ時成さんの戸籍に復帰しているのです。

町田久成さん46歳、筆さん39歳の時。


ってことは、やはり現在の久成さんのご子孫は筆さんの子供のご子孫?

読み進めると、「(島津)久光が鹿児島に戻った三年後の明治十二年に結婚している。」
とあり、
「‥‥(略)‥‥確かなことはわからないが、そのころ町田は浅草の橋場にも邸宅を持っており、橋場町二十九番地を公式の住所として内務省に届けている。」
「結婚後、三男一女をもうけたが、長男と妻を早く亡くしている。」と。

おや?ではその妻とは、筆さんではないの?

そして、
「出家のとき、二男で九歳の秀麿(明治十三年生まれ)と、
三男で七歳の茂(明治十五年生まれ)がいて、
後添えの千代が長女 媟子と二人の息子の世話をしていた。」
と書かれていて、私は益々困惑するのでした。

(ついでに言うと、私の祖父・篤彦が生まれたのは明治14年だからフデおばさんの二人の息子と同年代)


一瞬、その千代さんが筆さん?で、筆さんの変名?などと思いましたが、
そんなはずはない、と思い直しました。

更に先を読むと「町田久成の出家」のところには
「久光の死を見届けた町田久成は、奈良で内室の千代を出家させ、」(P.227)とあったのです。
(島津久光は明治二十年十二月六日、七十一歳で亡くなる)

正直なところ、筆さんに関する記録がほとんどない中で、
これも以前このブログでも度々取り上げてきた、左源太の長女・イサさんの『都見物日記』(↓)には、妹・筆(フデ)に関する記述があります。

その中の5月10日の日記には、「(前略)‥‥、八時過ぎより泉岳寺御仏像、由良の助御墓、皆々四十七人のお前拝見いたし候。それから大円寺の名越家御祖先の墓へ御参りいたし、三人(※↓)にて草とり掃除いたし候。お筆どの子供の墓へも参り、少々下にて有之(これあり)候。此れより又浅草の観音に参詣仕候也。‥‥(以下略)」とあり、この「お筆どのの子供」とは、亡くなった長男では?と推察できると思うのですが、どうでしょう。

それから、ウチの曾祖父の戸籍にも「町田久成」の名が記されているのです。
久成さんと筆さんが離婚し、筆さんが兄・時成戸主の戸籍に復帰した日付けで
「明治十七年九月十二日 鹿児島懸日置郡石谷村 町田久成二女入籍ス‥‥(以下略)」として、「養女 テウ」という女性の名があります。
「テウ」は「ちょう」と読みますね。
ということは?もしかしたら「蝶子」とは同一人物?

と、ここで、「テウ」さんは明治16年生まれとあることに気づき
蝶子さんではないことは明らかになるのですが、(←❌ のちに「長女=長子ではない」と気付く

(↑これについては2019年4月に『テウさんについて』に書きましたが「蝶子=テウ」のようです〈2021,3,30追記〉)
テウさんの明治36年生まれの男児もウチ(曾祖父・轟)の戸籍に記されています。
この方のご子孫は鹿児島におられるそうです。面識はありませんが、
前述の内村氏に教えていただきました。


前にも書きましたが、様々事情がありそうですし、あまり推測するのもどうかと思いつつ、あれこれ考えてしまうのです。
こんな風で、なかなか書き出せなかったのですが、どうにかまとめることが出来ました。


ちなみに、「奈良で内室の千代」さんを出家させた後の記述は
「久光三回忌の仏式供養に合わせて、明治二十二年十二月一日に滋賀県の園城寺で桜井敬徳和尚(剃髪の二週間後に示寂)の手により剃髪した。法名は久成(きゅうせい)とした。同時に二人の幼い息子も剃髪させ、稚児僧としてかれのそばにおいたと当時の新聞にもある。」


また、冒頭の「はじめに」の中には、こう書かれています。

「いまでは、かれの名を知る人は少なくなったが、明治時代の新聞にはしばしば登場して、数多くの話題をふりまいた文化人の一人である。JR西鹿児島の駅前に「若き薩摩の群像」という記念塔が立っている。‥‥(中略)‥‥その最上段に、当時の薩摩藩大目付で留学生の督学をつとめた二八歳の町田久成の姿がみえる。」



☆町田家については、お名前や家系図など今ひとつ把握しきれていないので、さらに勉強しようと思います。


☆もし町田家の方なり、この件(フデさんや蝶子さんなどにも)に関してなにかご存知の方がおられたら、ご一報いただけるとありがたいです。
コメント非表示希望の方はそのように明記して下さいませ。


()名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ大坂・西京・東京・日光・金比羅参詣などを巡った際の日記で、寺師若法師さんにより薩摩狂句の『さんぎし』に紹介されたもの。明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。

     ☆☆☆

《'17. 9.17追記》
幸いなことに、この約3ヶ月後のフォーラム『子孫が語る薩摩スチューデント』で町田家の方とお話しする機会を得、いくらか確認することが出来ました。


 

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町田久成さんについて

2017-04-02 00:49:50 | 町田久成(敬称略)


30日に届いた『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(関 秀夫/著、岩波新書)を読んでいてあれこれ考えを思いめぐらせていたら、脳が疲れてきたので明日感想を書きます。

とりあえず今日は、町田久成さん関連でTweetしたいくつかをまとめてみます。

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

桐野作人さんのブログ
 ※ここ↑のコメント欄参照(H.N.「雪見月」が私です)


<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
 
 

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名越フデさん

2010-04-21 18:44:31 | 町田久成(敬称略)
以前、町田久成さんについて
「名越左源太時敏の次女・フデさんの夫だった」と書きました。

以前の町田久成さんについての記事

その後調べてわかったのですが、フデさんと離縁したのは
1884年(明治17年)9月17日とありました。

Wikipediaを見ると、久成さんは

1882年3月 東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任
同年10月 東京帝室博物館長を辞職
1890年 三井寺光浄院住職となる

とあり、博物館長を辞職した約2年後、久成さんが46歳、
フデさん39歳のときに離婚している事に成ります。

あまり人様の離婚の事をあれこれ書くのもどうかと思いますが、
住職になるにあたって考えるところがあり別れたのか、
それともその事とは無関係なのか・・・。

門田明さんの著書『若き薩摩の群像』には
「元老院議官に推挙された1885年、突然官職を捨て、
剃髪して雲水の旅に出ている」と書かれています。

久成さんについてもう少し調べてみたくなりました。


コメント (3)
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町田久成さん

2009-08-03 13:38:18 | 町田久成(敬称略)
「町田久成」といえば、歴史に疎い私などは
同じ左源太の子孫であるU氏から数年前に頂いた、
ご自身で調べられ纏められた資料を読んだ時には
どんな人物なのか全く知りませんでした。

名越左源太時敏の次女のふでさんの夫だったということで
初めて目にした名前だったのです。


で、きょうは
久しぶりに桐野作人さんのブログで勉強しているところです。

例えばここのコメント欄など。


あ~~~、それにしても
歴史って、知れば知るほど限りなく奥が深い。。

しかし、ふでさんと久成さん、結婚生活は何年くらいで、
どうして離縁したのでしょう??

もしかして、あまり追求してはいけないことなのかしら。。


ところで、
東京の亀戸にある「奄美の家」というお店には
名越左源太の子孫という方がおいでになるとのお話を
以前頂いたコメントから知りました。
茅野さん、ありがとうございました。


ということで、
今日は朝からずーーーっと
サイト巡りをしていたのでした。

疲れました~~。。
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