☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」

2019-03-05 13:42:43 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
Facebookで知ったのだけど、3月10日に種子島で歴史関連のシンポジウムがあるらしく、
  種子島のシンポジウムはこちら↓
   歴史シンポジウム「種子島と東アジア海域」

その中に上がっていた「西村天囚」の名前。
確か以前書いた気がしてブログ内を検索してみた。
西村天囚の妻(前妻・後妻とも)は、曾祖父・轟の妻ツタの実家である三原家から嫁いでいる。

結果は‥‥、
残念ながら↓この1件のみ。。
『古の遺愛』

ただ、久しぶりにこの記事を読んで、再び『黎明館調査研究報告』一覧を眺めていたところ、第21集 に「島津吉貴の時代(PDF:3,337KB)」(2008年 林 匡)に目が止まった!

今頃?な感じだけど、家系(相関)図の凄さにウ〜っ!!と頭を抱えながらも6ページまでざっと読んでみた。

吉貴様の実母は二階堂家の娘だったこと、異母弟・忠英(のちの花岡家・島津久儔)の存在、
注目すべき事がいろいろあった。

あまりに有名な「島津四兄弟」、それに比べてあまり注目されない島津吉貴・継豊の時代だけれど、もっと注目されても良いのではないかと思った次第です。
p.14 (五)吉貴の時代 ー 島津斉彬が羨望した人材と時代 参照)

また、第18集「黎明館所蔵「奄美史談」(写本)をめぐる一考察 - 特に「南島雑話」との関わりを中心に-(PDF:699KB)」2005年 内倉昭文や、
第20集「「小松」改号一件-近世祢寝氏の系譜意識と島津吉貴-(PDF:1,700KB)2007年 林 匡」などもあるので、併せて、更にじっくり読み返してみたい。


「西村天囚」の名は轟の長姉・川上イサの『都見物日記』にも出てくる。
昨年3月にカテゴリーに「轟の姉・イサさんの『都見物日記』」を作ってはみたものの、
まだ取りかかれていないので近く始めてみようと思っています。
  
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谷山地頭館跡

2019-03-03 19:30:15 | 谷山街道散策2008
いつもお読み下さってありがとうございます

カテゴリー:谷山街道散策2008 第5談

引き続き、11年前に投稿した『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』の画像をアップし直すために新たに書いています。

今回が最後で、「谷山地頭館(じとうやかた)跡」のご紹介です。


鹿児島市内南部の谷山地区にあります。現在は谷山小学校となっています。

以下、「地頭館跡」の案内板より

 薩摩藩は、鹿児島城下のほか113の外城(とじょう)という区域にわかれ、その
うち直轄の外城には、地頭館(役所)が設けられていた。地頭館の周囲は、麓という
武士集落で、その外城の軍事・行政を管轄していた。
 谷山には、この付近に地頭館がおかれ、周囲に郷士が住んだ。 地頭館は石垣に囲
まれ、本門のある正面側は棟石のある石造りとなり、高さ12m、長さ113. 5m
にも及んだという。境内には、杉・楠・柞・孟宗竹等があって森山といわれた。この
前の通りを仮屋馬場と呼んだ。その後、地頭館は子弟を教育する稽古所さらに立志館
とかわり、明治5年(1872)には、第15郷校となり、明治9年 谷山小学校と
なった。


「地頭」というと、すぐに「小林市の地頭仮屋跡」を思い出すのですが、こちらの「地頭館」は役所と書かれていますね。
「仮屋」というのも役所の機能ももしかすると成していたのでしょうか?「住居」的なイメージを持っているのですが。

「仮屋」で思い出すのは、小松帯刀の領地であった「吉利(現・日置市内)」の「御仮屋跡」です。
御仮屋跡にある吉利小学校や小松帯刀ゆかりの園林寺(おんりんじ)、小松家の墓地などを訪ねたのはもう10年以上前になりますが、最近またツイッターなどSNSでも「小松帯刀」が注目されているようで、また行ってみたいと思っています。

ということで、最後の画像は吉利にある小松帯刀の像です

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