☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

岷山?

2020-07-28 23:01:28 | 歴史探索

 トップ画像↑ 画面右の墓石に「前 東福寺岷山士融大釋師」とあります。

(中央の墓は「中西長門守秀長」の墓、画面左奥が「琉球人の墓」)

 

 福昌寺墓地の石塀の外の一群の墓を見て、よく知らない人物のことを調べてみることにしました。

まず、「K」の「岷山(樺山資之 父)の墓」です

 ←こちら、画面右の墓石に「前 東福寺岷山士融大釋師」とあります。

(中央の墓は「J」の「中西長門守秀長」の墓、画面左奥が「I」の「琉球人の墓」)

 

そもそも「樺山資之」という方を知りませんでしたので、ネット検索してみると、

「樺山三円」の諱であると出ていました。

また、「樺山資之」の別称:樺山三円の実父が「樺山資雄」と書かれたサイトを見つけ、

「樺山資雄」(かばやま すけお)は「幕末から明治期の国学者」であることがわかりました。

晩年は「松原神社の宮司となった」とあります。

 

以下、「コトバンク」より「樺山資雄」の項 

 

「 1801-1878 幕末-明治時代の国学者。
  享和元年10月14日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。香川景樹(かげき)に和歌をまなぶ。藩命八田知紀(はった-とものり)らと地誌「薩隅日地理纂考」を編集。晩年,鹿児島の松原神社宮司となった。明治11年7月13日死去。78歳。通称は武左衛門。著作に「山陵遺考」。

出典 講談社 」

 

「中西長門守秀長」についてはまた後日調べることにします。

 

 

 

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横山安武の命日(旧暦7月27日)

2020-07-27 22:44:10 | 歴史探索

以前撮った福昌寺墓地の写真を見ていたら、明治3年に「集議院」前で自刃したという横山安武の墓が目についた。

 説明板には「衆議院」とあるが、「集議院」であり、現在の「衆議院」とは別物のようですので修正しました('20. 8.3)

 

墓石をよくよく見てみると、、、「七月廿七日卒」とあり、旧暦ながら今日が命日!

明治3年のことだから、1870年、ということは、今年が没後150年ということですね。

 

 3年前の6月4日に訪ねた時の写真をフォトチャンネルにまとめてみました。

福昌寺墓地 2017.6.4

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苦辛(くらら)城跡へ

2020-07-24 01:39:04 | 歴史探索

しばらく雨が続いた後2〜3日は晴れたので、7月21日 火曜日に、

以前から行きたかった「くらら城跡」を訪ねてみました。

今回は先に別ブログに画像満載で記しました → アメブロ『クララ〜、くらら城跡に行って来たよ〜♪

が、こちらにも記録しておきます(一部微妙に違う写真もアップしました

☆ 訪ねる前にこのサイトを参考にしました↓

  http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10724.html

 

 

城跡からの眺め(南〜南南西方向)。昔もこんな感じで見下ろしていたのでしょうか‥‥。

 

島津勢に渡る前までは「鞍良城」と記されていたとか。

また、「くらら(苦参)」というマメ科の薬草が城の周りに自生していたことが名前の由来だそうです(以上、前述サイトによる)

 

 

皇徳寺小学校が見えます。小学校の前を通って右手の奥まったところにあります。

  

 

6時35分くらいから10分ほどで夕闇が迫って来ました。

 

 

公園の入り口から桜島が見えます。

 

公園は地震時の緊急避難場所になっています。

 

 

 以下、画像など追加('20. 7. 27)

『「かごしまデジタル」より、中世の山城「苦辛城」模型 』 ←※これで何となく全体像がイメージできる、かも?

  

 

 

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ブログでの嬉しい繋がりを得た6月

2020-07-21 23:25:01 | 日記

何から書けば良いか書きあぐねていましたが、、、

まとまらないけどとりあえず書いてみることにします。

 

これまでに書いた記事の

「堂の前(どのまえ)」、、、とは?!』(2020.5.26)

仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて』(2020.5.31)

で、参考にさせていただいたブログの主、クマタツ1847さんと

6月に入ってコメントとメールでのやりとりが始まりました。

 

クマタツさんとは父も私も務めていた同じ会社のある方のご親戚である事にまず驚きました!

そもそもは、クマタツさんが『名越左源太泰藏の子供たち』(2011. 1.20)の「竹迫温泉」のことに目を留めて下さり、

その女将の遠縁であるというお話が切っ掛けでした。

(竹迫温泉の平瀬実武氏は、曽祖父の長姉・川上いさの孫であり、現女将は平瀬氏の孫嫁)

<関連記事>

乃木静子夫人銅像、再び』の奉賛会にそのお名前がありました、が、今はリンクのページが残っていないようで、

探したところ、こちらにありました → 『乃木静子夫人顕彰会』

 

 

そして、6月8日の『「吉利宝探しマップ」を求めて( '20. 4/25 )』でのコメントで、

日置市の永吉南郷会の前会長、本田氏をご紹介いただき、「本○どんのブログ」を教えていただきました。

その時点での最新記事は『日置市立永吉小学校創立150周年の「記念誌」が刊行された。 (05/29)」でした。

 

その後、『永吉小学校創立150周年記念誌刊行の余話。 (06/28)』でのコメントやりとりを経て、

直接本田氏へメールをお送りし、またクマタツさんからも先方にコンタクトを取っていただいて、

その記念誌をお送り戴くまでに至りました。

 

実はその記念誌のことは、FBでお友達になった大寺氏のタイムライン(FB記事)で見たことに始まるのです。

 

このブログでも書いている通り、「永吉」とは少なからず縁があり、気になるところでありましたので、

この記念誌も是非読んでみたいと思っていたところに、クマタツさんから本田氏の紹介があったのです。

 

記念誌が届いたのは6月30日の午後。

まず開いてみると、この企画を本田氏に持ちかけたのは大寺さんだったことがわかりました!

そして、本田さんの寄稿文を読むと、本田さんも「湾生(戦前台湾の生まれ育ち)」であることもわかり、更に驚きました!!

(私の父も「湾生」です)

 

お礼のメールでその事にも触れ、不思議なご縁にただただ感謝した次第です。

 

更には、本田さんもクマタツさんも、昨年亡くなった叔父とほぼ同年であります。

(もっと言えば、クマタツさんは叔父と同じ高校同窓生♪でした)

 

7月に入るとコロナ禍も身近に感じるようになり、また九州各地、日本各地での「令和2年7月豪雨」もあり、

何かと落ち着かない日々でしたが、

6月の不思議で有り難い繋がりを記録として残しておこうと思い、ここに記しておきます。

コメント (2)
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