☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

2017-06-28 00:15:24 | 浄光明寺と竹公園

☆☆☆ 前回『郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)』のつづき


2008年 1月13日 日曜日撮影。
(写真は全て9年前のもの。但し、☆マークの書き込みは2017年6月27日追記)

西郷南洲顕彰館の後ろにある竹公園へ昇り、それからぐるっと回って南洲神社〜南洲墓地へ。






西郷南洲翁のおしえ  「負けるな」とは、自分に負けるな、ということ。弱いものをいじめちゃいけません。





神社の受付に、かわいい猫さんがいたので撮ろうとしたら隠れてしまいました。ちょっと脅かしてしまったみたい。。
ごめんね、ねこさん。白足袋ちゃんの♀猫でした。あぁ、、敷物がくしゃくしゃです~(笑)

☆訪れたのは1月。梅の季節でした。


☆神社の鳥居を背に振り向くと‥‥、


☆南洲墓地です。(南洲神社と隣接)


☆そして、西郷さん初め、西南戦争戦没者のお墓がどーーーん!と並んでいます。




☆西郷隆盛のお墓

☆村田新八

☆辺見十郎太

☆永山盛弘(永山弥一郎)



☆写真撮ってたら、猫ちゃんが♡(お隣の南洲神社の受付にいた猫だったと、今になって気づいた←'17. 6. 27 記)


西郷小兵衛(こへえ=隆盛の末弟)の墓。 後ろには「町田」の文字も。
 顕彰館で購入した「墓石一覧」で確認→「町田実文」って誰だろう?


☆そして、名越姓のお二人。

☆家紋は「開き三本傘」。やはり繋がりがあるのかしらん?別の家系と聞いていたのですけど。
 (残念ながら今はもう見ることが出来なくなっている『墓標を縫って 南洲墓地にて』というホームページにありました。)


☆こちらのお墓、丸十ではなく十字架のように縦棒が長め。ネットで見かけた永吉島津家のお墓の家紋もこんな感じ。
 やはり「栗川」は永吉島津家と繋がり深い?(尚古集成館HPより「島津豊久」の項)
 ※「永吉島津家」 島津久敬 島津登 
 ※当ブログ関連記事「名越右源太篤烈とは?」



☆☆☆

以上、先月26日、西郷南洲顕彰館を久しぶりに訪ねたことに関連して
過去のmixi フォトアルバムから加筆掲載してみました。


☆ところで、どこかに『墓標を縫って 南洲墓地にて』が移ってはいないかと検索かけてみたところ、見つからなかったのですが、
 拾い物と言っては失礼ながら、南洲墓地に関してとても解りやすく紹介されているサイトを発見しましたのでご紹介します。
 私の拙い私的日記とは比べ物にならないくらい、詳しいです。是非ご覧下さい。
  ・こちら→『幕末・維新風雲伝』

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郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

2017-06-27 22:49:27 | 浄光明寺と竹公園

☆ 2008年01月20日作成の mixi フォトアルバムより

 ’08. 1/13日曜日。
西郷南洲顕彰館~南洲墓地~南州神社。
そのあと福昌寺まで行きました。
(*写真は2回の記事に分けて掲示することにします)
福昌寺には島津家歴代のお墓があります。
今、郷土史(主に島津氏史)にハマっています。

まずは、西郷南洲顕彰館へ。

西郷南洲顕彰館の駐車場からの眺め





顕彰館の後ろにある竹公園へ。





☆ところで、顕彰館を出て右手には「太宰府天満宮の梅」の説明板があり紅白の梅が花を咲かせていました。(← ☆'17. 6. 28 追加掲載)
 梅の写りが悪くてごめんなさい。。(写真は2008年当時のものです)




☆☆☆ 続きは次回へ→『郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

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西郷南洲顕彰館と竹公園

2017-06-25 22:29:14 | 浄光明寺と竹公園

桐野利秋の直筆文書が昨年末に見つかり展示されていると、ツイッターフォローしている方の投稿を目にして
数年ぶりに顕彰館へ行くことにしたのは先月も末5月26日のことでした。

《遠矢浩規さんのツイート ↓↓》



mixi日記を遡って確認すると、もう9年も前の
2008年1月13日の日曜日に父と訪ねたきりでした。

☆あとでmixi日記を当時の日付けでアップする予定


そこで見つけたのが、顕彰館の建物の裏手にある「竹公園」!


残念ながら先月行った時は時間的に余裕が無く、裏山に登ること無く帰りました。。

なので案内板だけ撮りました。向こう側に隣の南洲墓地が見えます。

☆以下の写真は9年前に撮影したもの(写真の地図上部)





ご存知の方もおありでしょうけど、ここには浄光明寺があり第21代島津吉貴公のお気に入りの場所だったと聞いたことがあります。
その吉貴様が琉球から中国江南地方の孟宗竹二株を取り寄せ、磯別邸に植えられたそうです。

案内板にあるように、そこから日本全国に繁殖した、とあります。

「えっ?」と思われた方もおられると思いますが、正直なところ私も
孟宗竹なんて今ではごく普通にあるものだし、にわかには信じられませんでした(笑)

でも、何にでも始まりはあるものなんですね。


9年前の1月、ここが私にとっても特別な場所になった、そんな気がしています。
なぜかというと、吉貴様のお気に入りの場所であり公(=浄国院殿)の墓所があった場所だから。
                  (現在、お墓は福昌寺跡の島津家の墓地にあります)
 ☆これについてはコチラの記事をどうぞ→『月桂院とは』



写真の転載厳禁

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名越左源太のお墓は?

2017-06-16 23:52:00 | 名越左源太と家族
名越左源太没後135年
今日は名越左源太(なごや さげんた)の命日。明治14年(1881年)に亡くなって135年になります。と言って、別段何もないのですけど。亡くなった時は「泰藏」でした。数え......


去年はこんな記事を書いていたのですが、
左源太の命日の今日、直系の子孫のお宅のお墓を御参りしてきました。

墓石には「先祖代々」とありましたが、
以前、時成さんの娘さんの子孫の内村氏が纏められた冊子にあったように
直系の子孫の方はあまり詳しいことはご存じないようで、
ここは時成さんの男系子孫の方のお墓であって、
おそらく左源太の墓は存在しないものと思われます。
(※あくまでも推測です。もしかしたら子孫の方のお墓に骨壺などがあるのかもしれないけど、確認取れません)


前にも書きましたが、南洲墓地でスケッチ画を描くうちに、
そこを訪れる方達に何度となく墓石のことを尋ねられたことが切っ掛けで
ご先祖の墓石を探しにくる子孫の方達の為に
西南の役で亡くなった方々について調べ聞いたことをホームページでまとめておられた湯場崎さんという方がありました。

☆以前の関連記事:
『墓標を縫って 南洲墓地にて』の作者、湯場崎末次郎様へ。('10. 10/8 記)

そのホームページの(今は無い)記事で読んだところによると、
明治24年の区画整理で、元あった長谷場墓地(福昌寺跡墓地)から、市内の別の場所に移築される際に、
どこぞの墓石屋さんが喜んで持って行ったとか。。。


左源太の墓石には息子・時成による碑文が刻まれていて大層立派だったそうなので、そんなこともあったのでしょう。

おそらくは、無縁仏のひとつとしてそのためのお堂のどこかにあるのかもしれません。

☆以前の関連記事:
これまでの経緯−2('08. 4/25記)
  ↑この記事に書いてある中から抜粋すると、以下の通りです

  ('08) 3/11(火)
   福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
  * ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
              『名越左源太公の墓』(← ☆リンク切れです)
           ☆一応念のため、元のURLはコチラ→ http://www2.synapse.ne.jp/hanjirou/nan/yubatop.htm

   墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
   名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

  昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
  全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

   *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
   市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
   まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
   左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

最初に行ったのは2008年の3月10日。結局翌11日再訪した際に上のような状況がわかったのです。
☆以前の関連記事:
坂元墓地で猫の兄弟に出会う(mixi日記より)('08. 3/10 記)

  
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再びの『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』

2017-06-07 02:43:36 | 奄美大島と名越左源太

左源太キーワード検索でヒットしたページで、
ブログ『与論島クオリア』さん、久しぶりに読んでみました。
☆2010年5月3日の記事。食べ物はもちろん、著者の今村規子さんのことなど書かれていて、
その楽しい文章も紹介されています。 ↓
『名越左源太の見た 幕末奄美の食と菓子』

☆以前の当ブログ2010年10月4日の記事→「改めて『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』の紹介」

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