☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

曽祖父が文久2年正月の時点で居たのは、町田氏二男家?

2021-01-21 15:33:49 | 町田家の人々

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

曽祖父が一時期町田家に居た事は、以前書きました。→『小松帯刀清廉の誕生日に

そこに、

「 ☆名越時敏日史より

二男・郷十郎が私の曽祖父・轟の幼名。
文久2年(1862年)正月の時点で、町田家に。
郷十郎は十三歳。嘉永3年(1850年)1月26日生まれで満12歳間近の頃。」

「 町田家、といっても、どこの町田家? 」 

と書いたのですが、高祖父・名越左源太時敏の父もその前の代も「町田氏二男家」(勘解由家)から来ているので、

曽祖父・轟も二男であることから、おそらくこの「町田氏二男家」(勘解由家)に居たのではないかと思ったわけです。

 

「名越氏」(左源太家)第4代、第5代は、「町田氏二男家」(勘解由家)からの養子。

 

「町田氏本家」と関係あるのは、曽祖父の次姉・筆(フデ)さんとその子供ということになります。

 トップ画像に

「二女 一 町田家へ参居候。於筆当年十八歳」とあります。この町田家は「本家」と思われます。

 

 

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名越フデの命日

2021-01-19 23:58:35 | 大伯母・名越フデのこと

○ 『大正14年まで生きた筆(フデ)さん』と題して2年前に書きましたが、

今日、1月19日は、曽祖父・轟の次姉、名越フデさんの命日です。

父が生まれる前年の、大正14年卒。享年79。

 

☆ 関連記事:『「上野の博覧会」と「帝国博物館」』(町田久成の息子・秀麿さんたち、実は筆さんの子供だった?)

   〃  :『「5月16日(続き) 芳殿、吉村お仙殿、そして久良殿との再会に!」

   〃  :『「5月10日 泉岳寺、大円寺、浅草の観音へも参詣」』(大円寺のお筆殿子供の墓へ)

   〃  :『「5月8日 上野博覧会、美術館、九段坂招魂社」

       (轟の知人で、お筆殿方にお世話になりし神田十助という人登場)

   〃  :『「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」

       (「天王寺の吉次殿」墓参の帰りに、お筆殿の知人・金杉の多田親愛という人の所へ参る)

   〃  :『「5月3日 【前編】 昨日の話で大笑い、歌舞伎座芝居見物も♪」

       (麻布永坂のお染様のお話にて、お筆殿より文が届いたと聞く)

 

☆ 麻布永坂島津氏のお染様(佐土原島津家の女性?)関連の記事

   〃  :『「5月2日 新橋松元屋から 京橋区加賀町へ宿替え 麻布永坂島津氏お染様の所へ」

   〃  :『【第5話】麻布永坂島津氏のお染様

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石塔と島津求馬家の屋敷

2021-01-16 22:21:29 | 爲恵祥院殿菩提石塔

☆ トップ画像は『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄/高城書房出版)より

 

古地図を見だすと時間も忘れるほどにキリがないのですが、

例の石塔が元はどこにあったのか、ふと思うのです。

(石塔についてはこちらをどうぞお読み下さい →『名越右源太篤烈とは?』)

 

島津求馬の屋敷の場所は以前見ていたのですが、最近また城下絵図を見ていて思いました。

この画像↓右上部の「岩崎谷」の「岩」の字の広い敷地、「島津求馬」の邸の場所です。

 

お城の裏の城山に登る途中のようです。

 

 

 

 また、画像フォルダの整理をしていたら、昨年の「鹿児島の城館」展で黎明館の外に展示されていた絵地図にも「島津求馬邸」があったことに気付きました!

画像中央の「岩崎口」から左上に向かいお城の後部の山に上がったところに「島津求馬殿」とあります。

 

この求馬家の屋敷跡にあったとは考えられないでしょうか?

それともやはりお城の二の丸でしょうか?

う〜〜ん、今あるお宅の場所から言えば、二ノ丸なのかなぁ。。

 

   

関連記事:『島津直江久敬でコンプリート~!!

  〃  :『倉山久籌は島津登久包の義理の弟だった!

  〃   :『倉山作太夫久籌?

 

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名越彦太夫の屋敷

2021-01-15 23:17:31 | 名越彦太夫

 いつもお読み頂きありがとうございます

今年も宜しくお願い致します。

 

昨年暮れから父の体調管理で明け暮れ、集中してPCに向かう時間が取れませんでしたが、今日はかかりつけの医院で通常の薬をもらいに一緒に出かけることも出来ましたし、どうにか体力も取り戻しつつあるようでホッとしたところです。

 父は年齢の割には元気なのですが、寒い時期は体力消耗しやすく(8日〜10日は鹿児島でも雪が積もりました)、すぐ眠くなるようです。

何せ今年95歳になりますので

 

 

さて、今年初の投稿です。

先月29日にツイッターでこんな感じで↓呟いたのですが、

「今日は『鹿児島城下絵図散歩』を見ていて、以前ブログにも書いたことがあった名越彦太夫(家?)の、幕末の住まいや敷地について気付いたことがあった! ブログに書こうと思っていたけど、暮れの墓参に2ヶ所ハシゴして疲れ切って眠いので、明日にします。お休みなさい」https://twitter.com/yukie_nagoya/status/1343581959889403904?s=20 

 

当ブログ12月27日の『『現代語訳 上井覚兼日記』に「大興寺」の名を見つけた!』を書くために地図を見ていた最中に、

「名越彦太夫」の名前で屋敷跡を確認したところ、「島津安芸殿 下屋敷」の隣であったことに気付いたのです

 「名越彦太夫」についてはこちらを→『名越彦太夫とは?

☆ 下の画像(天保13年頃の地図)、上部中央にひときわ大きな文字でハッキリと「島津安芸殿 下屋敷 八百四拾七坪」とあります。

その左隣です

 

『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)の表示だと、画像中央↓① の所が「島津安芸殿 下屋敷」で、その下の部分が「名越彦太夫」の屋敷跡です。

 島津安芸殿(安政6年時は「島津峯之助殿」)下屋敷のすぐ隣が名越彦太夫の添地150坪(清水馬場の「馬」の字の所)、

真ん中に219坪(墨字の濃い部分)、続いて添地185坪(清水馬場の「場」の所)です。

 

 

以前「本立寺馬場」を散策した時に撮った写真があります

 

 

 

 

現在の区画とは違うのですが、この右隣辺りが「名越彦太夫」の屋敷跡だと思います。

上の地図で言うとちょうど「①」の辺りに、「⑤ 鶴嶺高等女学校跡」に向かって、写真の駐車場横の道路が通っている感じですね。

 

 

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