☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

画像ファイルの見直し

2021-02-26 23:48:43 | 日記

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

先日『歴史探訪時系列インデックス』に《2008年》の出来事の追記をしていたところ、画像を貼らなくては!と探していたら見つからず、CDに保存していたものをようやく引っ張り出してPCに画像ファイルを作り、それからブログの画像ファイルにアップして、どうにか今、更新できたところです。

 

追記部分は以下の通り ( 備忘録として)

 

<2008年>

☆ 1月10日は『篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)』行き、思いがけず、城下絵図に「名越家」の表記を見つけました。

 

これをきっかけに、1月23日には名越家があった場所を探しに上町散策をしたのでした♪

名越家屋敷跡

   

 

☆1月13日日曜日、西郷南洲顕彰館~南洲墓地~南州神社。
そのあと福昌寺まで行きました。

その際には初めて「竹公園」にも行ってみたことを書いています

郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

この二つの記事は2017年6月26日と28日に書きましたが、2008年に訪ねたものです。

それと前後して、6月25日にも『西郷南洲顕彰館と竹公園』を書きました。

このインデックスアップ当時、まだ記事に出来なかったので画像アップのため、先に記事にしたもの。

(以上は、'21.2.16追記



☆ 2月4日の日記
『2008年 2/1~2/3 金魚、雨、いろいろ。(mixi日記より)』
黎明館で開催された『「島津氏一門家の雅と由緒」 ー重富(越前)島津家資料展ー』を見に行ったことや、
名越家邸宅跡の場所もこの展示会でわかったことなどを書いています。

(1月10日に「篤姫館」で目にした地図では「この辺りかな?」くらいしかわからず、ここだ!と判明したのがこの資料展)

   

 

☆ 3月になると、11日には改葬されたという「坂元墓地」の管理事務所を訪ね、無縁納骨堂に並んだ町田氏の骨壷も見せて頂いたり。

「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より』(※ 後日画像アップ予定 '21.2.24追記)

   

 

更に左源太の墓があった場所「長谷場墓地跡」を市役所で訊いて教わった龍源寺の墓地を、本当にここは『加治木島津家関係の墓地?』と思いながらも3月13日に父と訪ねてみたこともありました。('21.2.15 に記事アップ)

   

 画像は全て2008年当時撮影したものです)

以上、今日の記録でした〜

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長谷場墓地跡は今‥‥

2021-02-23 23:53:38 | 日記

先週14日深夜に『加治木島津家関係の墓地?』を書き始めて

今日23日、ようやくアップしたところです

実は数年前までこの画像を保存したCD-Rを長いこと探していて見つからず、mixi日記を辿っても画像が無いので、この長谷場墓地に行ったのがいつだったかもはっきりせず、2008年前後の手帳をめくってもわからずじまいでした。

しょうがないので、日頃買い物に出る際に書き付けていたメモ帳を何冊もめくってみたところ、2008年の3月だったことが判明!

最近になって画像の入ったディスクも出てきたので、今回どうにか記事にすることが出来ました。

 

深固院、島津氏第9代忠国の法名が「深固院殿」
「島津歴代略記」巻末に、墓地の改葬経緯など一覧がありました。地図も付けてみます。
✖️長谷場(北)」とありますが、福昌寺の北にあったという事か、「✖️」は改葬済みの印(画像参照)なので、福昌寺跡の「長谷場墓地北部」から「長谷場(現・福昌寺跡の墓地)へ改葬」した、ということだと思います。

 

 

今回記事にしたこともあり、先日、記憶が曖昧だったこのお寺の場所を確かめに行ってみました。

随分手前のスーパーの駐車場に車を停めて行ってみると、路地が入り組んでいて、

車で通れる道とそうで無い細く曲がりくねった道もあり、歩いてみたらお寺の手前からは結構な坂でした。

(帰りにはスーパーでちゃんとお買い物して帰りましたヨ

 

いつものことながら出かけたのが夕方だったし、父も一緒だったこともあり、長い階段を上るのは見送ることにしました

※今回撮った画像(といってもお寺の看板と下から見上げた階段のみですが‥‥)は後日アップ予定です

では〜

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加治木島津家関係の墓地?

2021-02-15 00:49:06 | 歴史探索

このブログを始めたのは、2008年3月20日の春分の日だった→『春分の日に、ブログを始めてみた。

 

その後、それ以前に書いていたmixi日記を当時の日付でいくつか当ブログに記録し出したのだけど、

2008年3月のブログを読み返してみた。

坂元墓地で猫の兄弟に出会う(mixi日記より)』などを読むと、まだこの頃は名越家のお墓のことも町田家とのこともほとんど知らない状態だったんだなぁ、ということがよくわかる

 

「なぜ?」mixi日記より』(2008年3月10日の日記)に書いたように、左源太の長男の家系の方が書いた資料に載っていた、移設前の長谷場墓地のお墓というものがどうしても気になっていたので、「深固院」だか「長谷場墓地」だかの跡がどこなのか知りたくて市役所で教えてもらったのだった。

 

現在、池之上の玉龍高校の裏手の小高い山にある、深固院龍源寺の墓地があるらしく、

市役所の担当の方によると「加治木島津家の関係の墓しかないですよ」「少し前の台風被害でそのままになってるみたいです」ということでした。

あれ以来行ってないけど、今どうなってるのか、気になっています。
丸十紋のお墓もありましたが、文字は読めない状態でした。
 

 2008年の3月13日、父と行ってみた時に写真も撮ったので、いくつか並べてみます。

 

玉龍高校(2006年以降は中高一貫校になっている)の裏手にある「深固院龍源寺」

 

 また別のお寺さんらしき「發照寺(ほっしょうじ)」の表示もある

その右手に伸びる長い階段を昇ると、

 

   

上から見ると、こんな感じ

 

 

そこから更に奥の小高いところに、墓地、らしきところがあった!

 

その右隣には何やら立派な墓石が‥‥!

 

父の前、向かって左の五輪塔 側面を見ると、

「新納刑部大輔 忠秀 室」とありました。

 

そして、真ん中の石の祠の背後には、草に覆われた墓石群が‥‥既に無縁仏なのだろうか?

  

 

父の前の右手の五輪塔の横にも、雑草に埋もれた小さな墓石が並んでいました。 

 

他にも没年月日や「法名」?の刻字なども見える墓石群‥‥

 

更に、五輪塔の手前にある石祠に添えられた石柱には

「樺山資賢」「小山田貞雄」「向井友敬」など刻まれていました。 

 

他に丸十紋らしきものが刻まれた墓石もありました↓(画像をクリックして見て下さい)

 

 丸十紋の五輪塔 名前は不明ですが、こちらが加治木島津家のどなたか、でしょうか?

 

「亀山氏」の墓石群がありました。右側の墓石に「亀山良盛」の名があります。

 

こちらの五輪塔周辺も「亀山氏」。奥の墓石には「亀山良智」の名も。

 

こう言う状態のものが多くありました。

  

 

更に奥の方にもお墓があるようでした。

 

丸十紋の五輪塔越しに、桜島を撮影

 

この日、上空には飛行船が飛んでいました。

  

結構頭上近くをゆっくりと旋回して行きました。

 

 

日が傾いてきたので、この辺で降りることにしました。

 

登り口とは違う寺の名前、「発照寺」

 

長い階段を降りて帰りました。

 

帰りにはワンコに吠えられつつ見送られ、、、^^;

 

最後に、墓地から見下ろした景色

 
(ここまで全て2008年3月13日撮影)

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2010年のことなどを振り返ってみた

2021-02-14 23:28:30 | 日記

 備忘録として

出来事別インデックス<自分用」に2010年の4月以降のことを少し追記

2010年の当ブログの記事が少ないのでmixiで確認したら、理由が判明

そこで「mixi過去日記」をアップ

 ↓↓↓

2010年4月16日『久しぶりのmixi活動

 

「<2009年

☆旧・伊作街道〜白山神社〜黒丸神社を散策‥‥3月8日 」と書いてはいるけど、記事がない。。

写真をアップしたつもりが、出来てない。。。

 

ということで、2009年のこともあまり記録していないので、

写真をアップしつつ、書き留めておこうかな、と思ったりしているところ

 

 

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