☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

皆様にお知らせです

2021-06-23 10:17:57 | ある日の父の問わず語り

いつもお読みいただき、心より御礼申し上げます

 

先月いっぱい『都見物日記』の再度のご紹介を続け、一段落したところでした

 

本日でちょうど二週間が経ちますが、

去る6月9日未明、父が他界いたしました

あと20日で95歳の誕生日、という日の午前3時前、家中で倒れ救急搬送

搬送中もさまざま手を尽くしていただきましたが、

搬送先の病院で午前4時16分、死亡が確認されました

突然の病死(腹部大動脈瘤破裂)でした

 

翌日、家族葬にて静かに送りました

これまでのご厚情に感謝致します

 

昨年の今頃、父と史跡巡りをした際のことを記事にしていますので

最後にご紹介して

ご報告を終わります

これまで本当にありがとうございました

 

皇徳寺跡 2020

高祖父・名越左源太泰藏の命日に、皇徳寺跡へ再び

 

☆なお、今回のカテゴリーは「ある日の父の問わず語り」としました

お時間のある時にでもお読みいただければと思います

    

コメント (2)
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父の想い出、祖父の思い

2020-12-06 16:01:39 | ある日の父の問わず語り

父がふとした時に語る話を「ある日の父の問わず語り」カテゴリーに記していますが、別ブログに書いてここに残していない話がありました。

 

3年前、テレビで西郷隆盛が連れていた犬のツンについて伝えている時の話です。

元記事はこちら

『犬にツンが切っ掛けで祖父との思い出話へ』 (2017年12月27日)

 

 NHK鹿児島放送局『ひるまえクルーズかごしま』

「我が家のツン」

http://www4.nhk.or.jp/P2896/

昨日テレビでこんなのやってまして、父が

「ツン、て、なんだったっけ?」というので

「西郷さんの愛犬でしょ」と言うと「あぁ、そうか」と父。

 

そして「おじいさんが犬が好きでねえ、いつも犬を連れて歩いてたんだよ」と語り出しました。

複数飼っていたわけではなく、それでも常に家には犬がいたそうで父の犬好きはこの頃の影響もあるのかもしれません。

 

散歩の途中、飼い主さんに連れられた大きな犬が向こうからやって来た時に、犬好きの祖父が撫でようと手を伸ばすと突然、その犬が大きな声で吠えたことがあったそうです。

祖父は平気だったようですが、傍にいた幼かった父の方が犬の大きな声にビックリしたことも思い出して語ってくれました。

 

 父が小さい頃の記憶で、もうひとつ。

父は上に4人の兄姉がいる末っ子です(実は弟が二人いたのですが、二人とも幼くして亡くなっています)。

 

「おじいさんがねぇ、お父さんが子供の頃、背中におんぶしてず〜っと話をして歩いたことがあったよ」と、懐かしそうに、私に話して聞かせてくれました。

 

「何の話をしたのかは覚えてないけど、二人だけでどこかへ行った帰り道だったのかも知れない。おんぶされるということは、まだ小学校に上がる前だったんだろうなぁ、」と振り返り、

「そんなことは初めてだったからねぇ‥‥。」と父は話し始めました。

 

それを聞きながら、写真でしか見たことのない祖父が、幼かった父を負ぶって歩くその情景を思い浮かべていた私は、あったかい空気を感じるのと同時に、少しだけ父のことをいじらしく感じて、何となく父の方に顔を向けることが出来ませんでした。

話している父の顔はどんなだろう…と一瞬思いましたが、残念ながら表情までは分かりませんでした。

 

懐かしくて、少し切ない顔だったのではないかと思います。

「なのにねぇ‥‥」と父が続けます。

 

「おじいさんに黙って海軍航空隊に志願して、合格の通知が来た時に初めて告げると、『そうか‥‥、上の学校の制服も準備してたんだけどなぁ‥‥。』とポツンとつぶやいて、見せるともなく新しい制服を広げる姿を見たときは、本当に申し訳ないことをしたと思ったなぁ。。」と。

 

「一人くらいは大学まで行かせたかったんだろうなぁ…」と、祖父のその時の心情に心を寄せる父。

 

この話はこれまでもことあるごとに聞いているのですが、余程心残りであったのだと思います。親不孝をしてしまったと、この話をするたびに、そう言っていました。

 

 昭和19年3月下旬に家族が住む台南から高雄港へ向かい、そこから船で日本本土は四国松山へ。

その途中で船から見たトビウオの群れの話、アメリカ艦(潜水艦だったかな?)からの攻撃を避け釜山近くの島影へ一晩避難したこと、瀬戸内海に抜ける途中クジラも見たこと、幾度となく聞いてきました。

 

しかし、おんぶの話は今回が初めてでした。

父の問わず語りの日でした。

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野津鎮雄の...?!

2017-09-12 21:09:13 | ある日の父の問わず語り
9日の記事『佐々木 克氏監修『大久保 利通』からのあれこれ』で、
佐々木 克(すぐる)氏監修の『大久保 利通』(講談社学術文庫)を読んで気になったことや気付いたことなどを書きましたが、
米田虎雄(※)氏の談話の中に、「野津鎮雄(のづ しずお)」の名前が出てきます。(→26. 佐賀陣中の公 27. 沈勇なりし公)

 (※) 米田虎雄(こめだ とらお)…… 1839(天保十)年 〜 1915(大正四)年
   熊本藩家老 長岡監物(ながおか けんもつ)の子。父の旧姓の米田(こめだ)を名乗った。
   1871(明治四)年七月、宮内省の改革が行われた際、熊本県権大参事から侍従に登用された。ついで侍従番長となり
   1873(明治六)年三月の明治天皇断髪に奉仕した。また、佐賀の乱の際には熊本士族の鎮撫のために派遣された。
   1879(明治十二)年に侍従長就任、以後も長く宮内省に出仕した。
   父 長岡監物は1859(安政六)年八月に没したが、西郷隆盛と大久保利通が信頼を寄せていた熊本藩の要人である。
       ( 同書P.144-145 より)
この本、貴重な上とても面白いので、是非実際に読んで頂ければと思いますが、談話の内容を簡単にまとめると、
大久保公が佐賀の乱の時自ら進んで平定に出かけ、米田氏も河野敏鎌(こうの びんけん・とがま)と一緒に随行したところ、大戦争の真っ最中に鉄砲の弾丸が飛んでくる中を周章(あわ)てる様子もなく当時司令官だった野津のところへ歩いて向かい、それを見ていた河野も米田もその沈勇ぶりに愕いたという話、また、陛下が北越御巡幸になったことがあったがその御巡幸の前に近衛兵が混雑を起こした時には、騒動が起こって第一に飛んで来たのは大久保さんであった(※※)と、後になって野津(この時は近衛の参謀長をしていた)から聞いた話で、公の次に大隈(重信)さんが来たほかは騒動が済んで弾丸の雨の降り止むまでは誰も来なかった、危険な中を冒し陛下のご機嫌を伺い、野津を御前に召して万事をご命令になるように取り計らったのは実に泰然たるもので、野津も敬服したと言い、公は実に沈勇な人であった。……といったことが綴られているものです。

(※※)ただ近衛兵の騒動、いわゆる「竹橋騒動」が起こったのは明治11年8月23日で、大久保はこの年の5月14日に暗殺されているから、野津から聞いたと紹介しているこの話は米田の記憶違いである、と<監修者注>には書かれている

談話は最後に、(取材時)72歳になる米田氏が今までに感服して真に天下の豪傑だと思ったのは大西郷と藤田東湖、それからこの大久保公、この三人だ、と語られます。
(『報知新聞』明治四十三年十一月十七日、十八日掲載記事) 《参考までに→「tsubu(ツブ)」さんのHPより「西郷隆盛と藤田東湖」》  

で、ここで父の話になるのですが、
ある日、藤田東湖が出てくる部分としてこの談話を音読して父に聞かせている最中のこと、
急に「野津鎮雄の孫だという人が居てねぇ、」と語りだしたのです。

話の続きを訊いてみると、弟が通っていた幼稚園の保護者会でその「野津(鎮雄)の孫」という人に「会長になってくれ」と言われ、
父は何度か固辞したものの、やむなく承知、しばらく任に付いた後、退いた、という話でした。

またまたひょんな話でしたチャン、チャン
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台南での想い出

2009-09-04 23:03:27 | ある日の父の問わず語り

きのう、父と車で出かけた時に聞いた話。

車を運転していると、助手席の父が突然、
「篤彦じいさんがねぇ‥‥」*と
台湾での祖父との思い出話を聴かせてくれた。


まだ台湾の麻豆(台南市の北方)に住んでいた頃、祖父は
麻豆から少し離れた台南市街に出ることがあると
子供たちを食事に連れて行き、
食事をしたあと、
「お前たちは外に行って遊んでこい」と言って
よく、そのままその店の畳の間で横になっていたのだと言う。


たぶんそこが行きつけの店になっていて、
気兼ねなく休める場所だったのだろうなぁ
と言っていた。


その話を父が切り出す直前に、
通り沿いにある中華料理店の前を通りかかったのだが、
その店の名前に「桃園」の文字が入っていた。

私:「台北の空港がある場所の名前だね。」
父:「中華料理ってあるけど、台湾料理かな?」

などと話したのだけど、
それが切っ掛けで
昔のことを思い出したのだろう。


そんな
9月の午後、でした。



*篤彦じいさんは、左源太の孫にあたります。
 で、私の父は5人兄弟姉妹の末っ子。
 長子で長女の伯母と父は13違い。
 今では兄弟でふたりだけになりました。

 

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新しい事実

2008-06-23 16:51:51 | ある日の父の問わず語り
といっても、左源太のことではなく、
その息子、轟とその長男(左源太の孫)のことなんですけど。

私の祖父に当たる轟の長男、"篤彦じいさん"は
てっきり台湾生まれの台湾育ち、と思い込んでおりましたが、
どうやら鹿児島で生まれ、12~13歳の頃までは大竜町の辺りで暮らし、
その後"轟じいさん"共々、家族で台湾に渡ったらしいのです。

なぜ台湾だったのか?その辺のいきさつは詳しいことはわかりませんが。


きのう今日と、沖縄戦没者の慰霊祭関連のニュースを見ていた父が
 「沖縄戦で自決した牛島総司令官は"篤彦じいさん"の
  小学校の頃の同級生かもしれないって、篤彦じいさんが言ってたんだよ。」
と言うのです。

牛島という人物のことも知らなかったので「どういうこと?」と訊いてみると、
"篤彦じいさん"が鹿児島市の大龍小学校に通ってた頃、
同じ名前の同級生がいて、牛島氏のことをその同級生ではないかと思った祖父が
父のそばでぽつんと話したことがあったんだ、ということでした。

ちょっと待って!?
大龍小学校?! えっ?!
おじいさん、大龍小学校に通ってたの?!!

初耳でした。
「そうだよ。知らなかった?」だって。
そんなこと初めて聞いたよ~

ひょんなことから事実が判明するものです。

ただ、祖父が小学校に通っていた頃に住んでいた家がどこなのか、
未だにハッキリしないのは、実にもどかしいものですねぇ。。

*写真は名越右膳の屋敷が記された地図。
今年2月にあった「重富(越前)島津家資料展」で見かけて写真に収めました。
 
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祖父と徳富蘇峰のエピソード(mixi日記より)

2008-01-30 12:17:52 | ある日の父の問わず語り

先日、去年の手帳(日記 10.18 Thur. )を見ていたら、
こんなメモがあった。

☆徳富蘇峰   (横に「吉田松陰」とも書いてある)
(1863~1957)     ↑どんな関連があるのだろう?
             思想家繋がり??


メモには「フェリアの10月20日号より」と書いてある。
フェリアの記事自体はどんな事が書いてあったか内容は覚えていない。
(☆ ↑リンク切れです)

このとき、父に「徳富蘇峰って、知ってる?」と尋ねてみたところ
「蘇峰が台湾に来た時に澎湖島で、篤彦じいさん(=私から見れば祖父)が
一緒にビリヤードをしたんだという話を聞いたことがある」とか。

祖父がビリヤードをやったということも初耳だけど、
なんの気無しに訊いたことでこんな逸話が出て来るから面白い。

台湾にいた頃に名越左源太(=父からすれば曾祖父)の原画を
父親から見せてもらったという話もそうだけど、
実は『南島雑話』の著者(*)は名越左源太だと紹介されて話題になった時期(※永井亀彦著「高崎崩の志士 名越左源太翁」発行の昭和9年頃?)に
※↑()内、‘18.7.26加筆

「あの原画を持って帰っていたら、
 ○○さん(当時の研究者)に渡せたのになぁ。。』

と言っていたことを思い出す、とか

終戦後台湾から鹿児島に引き上げてきたあと
母親(=私から見れば祖母)が先祖の墓(左源太の奥さん、
タネさんの実家のお墓だったかも?)を尋ねようとしたら、
大雨の後だったため道路が土砂で埋まっていて結局尋ね当たらなかった話とか

この数年の間、聞かせてもらうことが多くなった。

父方の祖父・篤彦についてはこちらに(追記:'18.5.11)
『昭和21年の父と祖父・篤彦』

 註:『南島雑話』の著者(*)については
 こちらに詳しいことが書いてあります。
  ↓
:: 幕末奄美遠島生活 ::
《左源太さんの日記》
『名越左源太「大島遠島録」の、なんちゃって現代語訳と
   食と菓子についてのあれこれ』
http://sagenta.nature-f.com/?eid=415997#comments(←リンク切れ)

この方は後にご本を出されています(追記:'18.5.11)
『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』


ひょんなことからもっといろんなエピソードが聞けるんじゃないかと
最近父の話を聞くのが楽しみになっている。

知らなかったので調べてみた。
《徳富蘇峰記念館/プロフィール》
http://www2.ocn.ne.jp/~tsoho/frame_set.html(←リンク切れ)
《徳富蘇峰のページ》
http://www.hi-ho.ne.jp/tastevin/soho/sohomain.html(←こちらはリンク先へ行けます♪)


徳富蘇峰の弟の事も載っていた。

☆ 徳富蘆花は実弟で、日本文学の小説家
(1868~1927)
トルストイに心酔し、晩年はクリスチャンとして田園生活を送る。
著書に「思い出の記」「黒い目と茶色の目」「みみずのたはこと」など

『不如帰』(ほととぎす)は、明治31年(1898年)から32年(1899年)にかけて国民新聞に掲載された徳富蘆花の小説。のちに出版されてベストセラーとなった。


記事を読んでいくと次々と興味が尽きない。
興味が尽きないのだけど、その分やることが多くなり
いろんなことが山積みになるのである。

山積みの下の方に埋もれてしまうこともある。
だから、これはメモ代わりでもある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

追記>10/20号のフェリアの記事、見つけました。
甲南中学校正門横にある石碑の碑文を書いたのが
"徳富蘇峰"である、とありました。
http://373news.com/felia/bn/no213/maturi/index.html
<記事より>
「城下に18あった郷中(ごじゅう)のなかでも、特に高 麗・上之園・上荒田の 3つの 方限からは、大久保利通ら幕末 ~明治に多くの偉人を輩出。昭 和10年、彼らの業績をたたえ るため三方限の顕彰碑が建てら れた。碑文は熊本県出身の文豪・ 徳富蘇峰が書いたもの。 」
 

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