☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

鶴嶺神社と鎌倉殿と

2022-03-30 20:59:31 | 鶴嶺(つるがね)神社

 3月も明日で終わりますね。

今日は新型コロナワクチンの3回目接種に行ってきました。

行き帰りに目にした桜はそこかしこで満開となり、

思いがけないお花見ドライヴで幸せな一日となりました

 トップ画像は数日前に撮った近所の集会所の桜

 

 

 さて先日、昔撮った画像を見ていたら、

現在放送中の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関連するものがあったので

ちょっと並べてみたくなりました

 画像は全て、2008年2月18日に撮ったものです。

 

鶴嶺神社」と書いて「つるがねじんじゃ」と読みます。

 

仙巌園の隣にあります 

 

正面には錦江湾(鹿児島湾)越しの桜島

 

 

 

 

 

  

 

ここに、鎌倉殿と島津氏との繋がりを示すものがあります。

『遷塔之記』に説明されています。

 

鎌倉市の方々との繋がりを記しています。

 

 

 

 

おまけ↓  「狭野杉(さのすぎ)」

 

 

 

以上、画像は全て2008年2月18日に撮ったものでした〜

それでは、また♪

 

 

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14年間の軌跡(3)

2022-03-19 23:33:37 | このブログのこと

前回『14年間の軌跡(2)』からの続きです

 

高祖父・名越左源太のことが分かればそれで済む、と思っていたのは大きな間違いで、名越氏を初代が名乗ったのが島津吉貴公の時代で、その吉貴公の世継ぎを産んだのが、名越家始祖の妹・須磨(月桂院殿)ということで、島津氏のことを知っておかなくては分からないと、『島津歴代略記』を読んだはいいのだけど、分家のことまでは詳しく知ることもなく、そのうち新聞の連載記事やツイッターなどで歴史に関するものを読んだり、黎明館の「分家のチカラ」などの展示を見に行ったりして少しずつ理解できるようになりました。

 黎明館企画展「分家のチカラ・弟たちの役割」を観に行ったのは2017年2月でした。

ブログ「おじゃったもんせ」ご紹介』 2017-05-08 11:06:37 | 歴史探索

 

また一方で、祖父母から、曾祖父母へと遡り先祖のことを知ろうとしても、曽祖父の戸籍謄本を見る限りのことしか分からなかったので、曽祖父の養父母についてのことがさっぱりわかりませんでした。

 

というのも、明治時代に曾祖父母、祖父母が台湾に移り住み、しかも昭和期には戦争があり、敗戦で台湾から引き揚げる際に家族に関するものなど一切を現地の知人に預けて来たらしく、養父家についてはさっぱり分からない状態で過ごして来たのです。

因みに、私の父は兄弟の末っ子、父方の祖父母は私が生まれる前に他界しておりましたし、父の兄二人・姉二人もすでに亡くなり、遠方に住んでいたので曾祖父母や祖父母について知りたいことも知る術もなしでした。

 

養父母の墓も家系についても手がかりも繋がりもないまま、曽祖父の姉・兄家族についても何の情報もありませんでした。

唯一わかることといえば、曽祖父の兄・時成子孫の方がまとめられた綴りからの情報でした。

 

この時成兄といえば、「薩摩藩英国留学生」のことも知っておかなくては、と思っていると、いちき串木野市に新たに記念館ができたりして、関連する事柄も増えて行きました。

そういえば、「町田久成」や「西村天囚(時彦)」とも繋がりがわかった時には

本当に、「我が家の家系って‥‥一体‥‥。」と、戸惑ったものです。

 

その上、曽祖父がどういうわけか西南戦争に参加していた、ということもあり、またそちら方面のことも知らなくてはならなくなり、「もうこれだけでも手一杯だ〜!」と思ったものです。

 

ところが周りの状況といえばそんなこと御構い無しで、『篤姫』の実家・今和泉島津家のことや、玉里島津家、さらには時代をうんと遡って、島津氏初代からの流れや宗家・分家の動向、地元の歴史もと、次から次に関連する事柄が容赦なく増えて行きました。

 

 

「名越氏」だけの話ではないことがだんだんとわかってきたのはこの数年のことでした。

養父の家系のことや、高祖父・名越左源太の弟が継いだ町田家のこと、薩州家のこと、

そこからさらに膨大に広がる家、家、家、‥‥。

 

そういうことですので、この辺りでそろそろ手を打とうかな、と思っているところです(笑)

 

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14年間の軌跡(2)

2022-03-18 22:53:33 | このブログのこと

いつもお読みいただきありがとうございます

前回『14年間の軌跡(1)』に続き、これまでを振り返り、総括してみようと思います。

 

  とっかかりは「名越左源太」という人物を(高祖父ながら何も知りませんでしたので)知るところから始まりました。

 

何しろ地元の歴史も、関わりがあるらしい島津家などについてもさっぱり頓着ない歴史オンチでしたので、母が買い集めたらしき歴史資料(主に書店で入手できる程度の出版物)の中から、『「さつま」歴史人名集』(稲葉行雄 / 高城書房)を見てみたのです。

名越氏や我が家の名字などを目にし、島津氏の項目でたくさんの「〇〇島津家」「△△島津家」に戸惑いつつ、とりあえずは母がメモしていた「島津吉貴」「島津継豊」「須磨」のあたりから「探って」行くことにしました。

 

また、『島津歴代略記』でも、初めは「吉貴」「継豊」のあたりだけ読んでみましたが、一方では大河ドラマ『篤姫』を追って行くのに明け暮れていたようにも思います。

 

2002年に、地元紙の南日本新聞で連載されていた名越(なごし)護氏の『南島雑話の世界』が1冊の本として出版されていたのですが、新聞連載時は読むことはありませんでした。

※あとがきによると「2001(平成13)年 6月5日から9月20日まで35回にわたって連載され」たようです。

本が出たのは2002年5月25日でしたが、新聞連載の2年前に母が亡くなっており、父ももちろんのこと、私にしてもそれまでとは違う、母の存在しない生活を送ることに懸命だったためか、その頃のことはあまり記憶に残っていないのです。

 

実際にその本を読むようになったのは、mixiを始めた2006年頃からだったように思います。

 

それからです、そこからが苦悩の始まりでもあり、迷宮に嵌って行くことになるとは、思ってもいなかったのです。

何しろ「名越左源太」さえ分かればいいと思っていたのですから‥‥。

→『14年間の軌跡(3)』へ続きます

 

 

前回、タイトルを「軌跡」と書いたつもりが、「奇跡」と書き間違えました〜

修正しておきました

 

 

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14年間の軌跡(1)

2022-03-18 22:01:06 | このブログのこと

いつもお読みいただき、ありがとうございます

気付けば今日は、曽祖父が家族4人で今の家を継いだ日でありました。

曾祖父が養子となった先は‥‥』 2018-03-18 23:57:00 | 曾祖父・轟のこと

 

明治15年、西暦では1882年ということで、なんとちょうど140年前のことでした

祖父は明治14年生まれ、生まれた時は名越家の人でした

曽祖父以下、今の姓になって140年‥‥なんとも感慨深いものです。

 

さて、このブログを始めて14年が経とうとしています。

この間にはいろんなことがありました。

近いところでは、昨年6月に95歳の誕生日目前だった父を送ることとなりました。

 

そもそもこのブログを書き始めたきっかけは、以前にも書いていますが、

なんとなく、ただ何となく書いてみたくなった、それだけなのです。

『 春分の日に、ブログを始めてみた。』 2008-03-20 16:45:19 | このブログのこと

 

また、2008年は大河ドラマで『篤姫』が放映される年でもあり、そんなタイミングも一因となったかもしれません。

「篤姫」を観ながら左源太さんを思う(mixi日記より)』 2008-02-26 14:36:18 | 都見物日記プロローグ

篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)』 2008-01-12 13:09:53 | 篤姫館

 

おや?2008年3月20日以前の記事?とお思いでしょうが、これは過去にmixiで書いていたものを改めて当時の日付で記事にしてみたもので、「バックナンバー」欄で一番古くは2007年5月の記事になっていたりします。

 

ただ、このブログを書いているうちに、23年前に亡くなった母が追い求めていたことが、一体どういったものなのか、またその後、先祖について分かったことなどを一人で抱えていられなくなった、とでも言いましょうか、そのようなことが少しずつ積み重なって今に至ります。

 

次回は、我が家の先祖について調べるうちに、大変な難事業となっていった事などを書いてみようと思います。

では

→ 『14年間の軌跡(2)』へ続きます。

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『夢留』を読むために‥‥

2022-03-13 21:27:02 | これまでの経緯
一つ前の記事で、下野敏見先生の訃報を目にしたこと、
その記事に『南西諸島史料集』が紹介されていたことを書きました。
  ↓
 
ところで、我が家の書棚になぜか高額の『南西諸島史料集』があります。
この第二巻、「名越左源太関連史料」なので入手したものでしたけど、
そこに収録されている『夢留』を読みたいがために、
ごく平凡な一般市民の身でありながら
18,000円(税別)もする「南西諸島史料集」を購入したことを
すっかり忘れていました‥‥💦
 
家に届いたのは2008年11月7日のことでした
 
ただ、「現代語訳になって読めるのかと思っていたのは浅はかであった」と反省していたことまで、以前このブログで書いておりました(苦笑)
   ↓
 
========================
 
『夢留』のことを知ったのは、bizaさんのブログ「幕末奄美遠島生活」の記事からでした。
  ↓
 
過去に紹介していますが、このbizaさんはのちに
『名越左源太が見た 幕末奄美の食と菓子』を上梓される方でした。
 
☆トップ画像はこの著書からです
 
 
 なお、現在bizaさんのブログを読むことはできませんのでご了承下さい。
 
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原点に帰る機会を頂いた

2022-03-12 17:28:53 | これまでの経緯

 いつもお読み下さり、ありがとうございます

 近頃は少しずつ春めいて日中も暖かくなって来ましたね

 

さて今日は、私にしては珍しく朝から当日の新聞を開いてみたところ、
下野敏見氏の訃報を知りました。
『下野敏見氏が死去 92歳 種子・屋久、トカラ…民俗研究60年余』
心よりお悔やみ申し上げ、ご冥福をお祈りいたします。
 
私はこれまで面識などありませんが、
お名前は『南島雑話の世界』(2002年発行、名越(なごし)護 著)の
巻末の諸先生方との座談会でそのお姿と共に目にしておりました。
 
つい先日も、所々読み直していたところでしたが、正直申しますと、これまではつい左源太じい様の動向にばかり気持ちが向いて、巻頭からの「奄美の世界」についての記述にはざっと目を通しただけでした。
 
今、巻末の座談会のページを改めて読んだところ、
下野先生が「ゾフリ」についての考察を述べておられ(p.277)、元々の「ゾフリ」の実態は、時代が下っての意味とはまた違うのではないか、とあり、またそのほかにも「ノロ」や「シチャガマ」など興味を惹かれるものがあります。
 
ネットニュース記事を読むと、下野先生の著書に『南西諸島史料集』とあったので、書棚にあったはず!と「第二巻」を取り出してみたら、これは「名越左源太関係史料」(2008年11月発行)の巻で「松下志朗編」でした。
下野先生によるものではなかった、残念‥‥。
 
 
これも何かの啓示かと、これまでに読んでいなかった史料など、じっくり読んでみたいと思います。
下野先生、ありがとうございました。どうぞ安らかに。
 
 
☆関連記事
 
 
 
 
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剣術・川上天真流と槍術・鏡智流

2022-03-05 11:19:00 | 名越時敏史料

 春ですね〜 梅の花も咲いています

  近くの公園では桜の花が咲いているところも

 

 

さて、先日、左源太じい様の武術について書いたのに →『旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ
剣術の流派と師範のことを書き忘れていました💦
 
 
剣術は「川上天真流」とあったのだけど、ネットで検索した限りでは分かりませんでした。
 
ただ師範は「加藤権兵衛」とのことだったので調べたら、『日本掃苔録掲示板』の「島津家関連」トピックの書き込み「南林寺由来墓」(2005.6.18)の暮石一覧に
 
「4列目 加藤権兵衛 藩士・天真流」とありました
 
まだ南洲寺に行ってないけど、行く前にこの件を見つけられたのは良かった
 
「南林寺由緒墓」関連記事(2022.7.22 追記)
名越彦太夫とは?』 (2019-10-07 カテゴリー| 名越彦太夫 )
 
 
で、さらに槍術「鏡智流」について調べてみた。
 
槍術の「鏡智流」では鹿児島大学デジタルコレクションに『鏡智流槍術由来』というものがあった。
著者は「梅田九左衛門」とある。左源太じい様(20代前半当時の名前は篤烈)の師は「梅田九之丞」だけど、関連は? 
 
「鏡智流」で検索すると、「本心鏡智流」で尼崎の槍術とか出てくるので、
「鏡智流 梅田九之丞」と師範の名前とでチェックしたら、いろいろわかって来た!
 
梅田治繁の子が、薩摩で鏡智流の師範となるのか🤔 
 
盛庸の次男「盛香」は1806年没。その次代の人物が「九之丞」かな?
 
「盛香」の子孫の項には「子の盛秀が家督を継ぐ」とあった。 また「安政年間に大山巌に槍術を教えた梅田九左衛門治哲も子孫と思われる。」とある🤔! でも「九之丞」ではない。この「九左衛門治哲」とも別人?
 
 
 
 
 
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旧国宝の刀発見から篤烈の槍術へ

2022-03-02 14:36:05 | 名越時敏史料

 3月になりましたね

いつも読みいただき、ありがとうございます

 

さて、最近はFBでの投稿・活動が多いのですが、先日、鹿児島神宮の宝物の刀が見つかったというニュースから、刀剣のことを話題にしていたのです。

 

 

 

それに関連して、日置市の青劔神社の刀は「三条小鍛冶宗近」の作だという話も知りました。

  

刀剣には詳しくないのですが、たまたま刀剣・刀工の特集が載っている、父が以前購入していた雑誌を目にしたばかりだったので、それをパラパラめくって読んでいくうちに、刀はいつ頃から盛んに作られ出したのかとか、どのように変遷していったのかとかも気になったり、刀だけではなく、薙刀や槍はどうなのか?など興味が広がりました。

 

 

そこから、そういえば左源太じい様についての説明書きにも「槍術」とあったなぁ、と、

昨日は左源太じい様の槍術の流派を確認しようと、『鹿児島県史料 名越時敏史料』の 一巻 〜 三巻 を調べていたのです。

槍術は「鏡智流」という流派だったようです(梅田九之丞に師事)

安藤 保 氏の「解題」を読むと、「名越の得意とする武術は弓術」だそうで、弓術は日置流(平田平七郎に師事)との事

 

で、その「解題」を改めて読んでいて気が付きました

「三男・吉次郎、四男・徳熊」についても左源太じい様が素読など自ら指導していたことなども、安藤氏によって丁寧にきちんと書かれているではないですか

これまでは拾い読みばかりして名前の記述を見つけては喜んでいたことを反省した次第

 

言い訳になりますが、手引きとなる冊子「黎明館調査研究報告」があったため、そちら頼みで、各巻の解題をじっくり読んでいなかったのと、気になる「身内」に関することにばかり着目していたので、気付かなかったのです

 

そんなこんなで、『鹿児島県史料 名越時敏史料』各巻のインデックス代わりのノートを作ってみたのです。

まだ第一巻から第四巻までですが、

(一)

 ・p.3~70 文久元年(1861)九月〜十二月

 ・p.71~317 文久二年戌(1862)正月〜十二月

 ・p.318~467 文久三年 癸亥(1862)正月〜十二月

 

(二)

 ・p.1~71 文久四年 甲子(1864)正月〜七月

 ・p.72~169 元治元年 甲子(1864)八月〜十二月

 ・p.170~244 元治二年 乙丑(1865)正月〜七月

 ・p.245~302 慶応元年 乙丑(1865)八月〜十二月

 ・p.303~358 慶応二年 丙寅(1866)二月〜七月 嫡男・平馬は英国へ留学中

    ・

    ・

といった感じ

 

で、第三巻に収録されている「常不止集(とことわしゅう)」は日記と書写が入り混じっていて、初め目を通した時にはいささか戸惑いました。で、こちらはほぼそれっきり‥‥

ただ、今回「解題」を読んでいて気が付いたのですが、この「常不止集」は、左源太じい様がまだ23歳〜26歳(数え年)の若い頃の日記で、「名越篤烈」と称していた頃のものなのですね。

(第三巻 → 天保十二年二月〜同十三年八月、第四巻 → 天保十三年九月〜天保十五(弘化元)年十二月)

 

☆ 参考までに、天保十二〜十三年は1841〜1842年、天保十五年(弘化元年)は1844年 

左源太は西暦だと文政二年十二月(1820年初め)の生まれだから実際には満21〜24歳かな?(2022.7.23 追記)

 

そして「篤烈はこの時すでに結婚しており、長女の藤(天保十三年四月には三歳)がいる。」とありました。

 「お藤」は曽祖父の長姉で、のちに『都見物日記』を書くことになる川上いさ様  

 

左源太じい様も先祖のことや島津氏の歴史を勉強するのにひたすら書写をしていたことを改めて知ったのだけど、「‥‥私も同じことしてるような‥‥。」と思わず笑ってしまいました〜

 

左源太じい様もその父親も、更に2代上まで町田家から養子入りしているので、左源太じい様も名越氏の先祖や島津吉貴、継豊親子などのことも勉強していたのだろうな〜と思います。→『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』に収録の「常不止集(とことわしゅう)」参照

 

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