☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

『古の遺愛』繋がりで「伊集院俊矩」の名を知る

2021-08-25 23:12:00 | 『古の遺愛』と島津宗信公

先日、当拙ブログのアクセス状況をチェックすると、

「アクセスされたページ」の中に『「古の遺愛」とは?』が上がっていたのです。

 

記事の中の何かが検索でヒットしたか何かなのでしょうけど、何を書いていたか自分でも見直してみたんです。

 

で、ここに貼ってあったリンク先を久しぶりに読み直してみたところ、

最初の項「一  「古の遺愛」について」にあった「伊集院俊矩」という人物が気になったわけです。

 

この伊集院俊矩という人は「宗信の傳育役」で、

「その事績を収録した「伊集院俊矩言行集」も篤烈(=名越左源太時敏)は書写している」とありました。

 

そこで「伊集院俊徳」で検索したところ、『第七部 鹿児島の金石文』という、

鹿児島市のHPの史料がヒットしたので、このPDFのどこにこの名前が載っているのか探してみました。

 

すると、ページ「七六一〜」の「17. 福昌寺址諸碑(池之上町)」の中の

「島津重豪公神道碑銘」(七六三〜七六六)に続いて「伊集院俊矩之碑」というのが出てきました!

碑文については‥‥ちょっと読みこなせないので割愛しますが(汗)、

「17. 福昌寺址諸碑」に記されているということは、福昌寺跡の墓地にあるということなのでしょうか?

 

 

 なお、この鹿児島市史の『鹿児島の金石文』PDFには、

更にいろんな石碑の碑文が載っているので、

興味のある方はじっくり読んでみることをお勧めします

私も「29 水神碑」以降はざっと目を通しただけなのですが、

それでも「三原藤五郎」とか「西村時彦 撰」など

気になる名前もいくつかありました。

また時間をかけて見てみたいと思います。

  画像は、今となっては懐かしい、御楼門復元前の鶴丸城入り口

 (2008年1月27日撮影)

 

 

 

 

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浄光明寺と南洲墓地 in 2018

2021-08-25 17:05:29 | 浄光明寺と竹公園

 今日もご覧いただきありがとうございます

 

さて、これまで島津吉貴公や竹公園のことは記事にアップしていましたが、

 ☆郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

 ☆西郷南洲顕彰館と竹公園

 ☆「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」

先日の南日本新聞の桐野作人さんのシリーズ記事『かごしま街道見聞記』【29】で、

「浄光明寺」の名前が上がっているのを知り、このブログ内で検索してみたところ、

2017年6月25日の『西郷南洲顕彰館と竹公園』の1件だけでした

多分FBでアップしたことで、このブログにも残したつもりでいたようです

 

と、いうことで、今頃ですが3年前に訪ねた時の画像をアップしたいと思います 

  画像は全て、2018年3月30日撮影

 

 

 

 

浄光明寺、場所はどこかというと、南洲顕彰館の駐車場から南洲墓地の入り口鳥居へ向かう途中、右手にありました。

進行方向左手は南洲墓地です。

 

更に進むと南洲墓地の鳥居が見えます。

 

浄光明寺の堂内には入りませんでしたが、建物の周りには仏像がいっぱいありました。

   

ここからも、桜島を望めます。

 

 

 

すぐ横には長い階段が2つあり、急な傾斜の男階段、緩やかな方は女階段だそうです。

 

 

 

仏像が並ぶ庭から振り返ると、向こう側に南洲墓地の墓石が見えます。

 

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歴代藩主の母親は?

2021-08-24 11:38:10 | 島津家の女性

 いつもお読みくださって、ありがとうございます

※トップ画像は何年か前の曲水の宴を見に行った際に撮った仙巌園からの桜島

 

 さて、これまでに随分と限定的ながら島津のことなど一通り書いてきたので、

もう書くこともあまり無いかな〜と思っていたのですが‥‥。

ひょんなことから、俄然、書きたいことが出てきたのです  

 

今朝、目が覚めて何となく考えたのが、

鹿児島で名越家を起こすきっかけになった、

お須磨さん(月桂院殿)と吉貴公のことや、嫡子・継豊公のこと、

それから重豪公の母・都美さん(正覚院殿)が継豊公の弟・島津貴儔の娘であり、

貴儔さんもまた、お須磨さんが産んだ子であること、

などなど、これまでに知り得たことの思い起こしでした。

※画像は随分前にメモしたものです。文字がひどい

 

 

よくよく考えるとそれまで読みこなせずにいた『島津貴久』(新名一仁著)を

改めて読んでみたくなり、その息子・義弘公、またその子・家久公と考えると、

その義弘の子、初代薩摩藩藩主・島津家久公から4代のち(家久公の玄孫)が吉貴公なので、

吉貴公と名越家の須磨さんとの血筋にも繋がっているんだなぁ‥‥‥と思ったのに始まったようです。

  

  

 

そこで、さらに『島津歴代略記』で確認することになり、

今朝は朝食もゴミ出しもそっちのけで作業に没頭してしまうのですが、

(その後ちゃんとゴミ出しは済ませました

継豊の嫡子・宗信公も22歳で亡くなり、その後を継いだ二男・重年公も、

平田靱負が岐阜の治水工事を終えた後に自刃した(と伝わる)翌月に、27歳で亡くなっている、

(関連記事:『平田靱負と藩主・島津重年』)

などなど読み返しているうちに、

それぞれ藩主はどこで生まれ、どこで亡くなったのか

それぞれの母親(実母)は誰なのか、などまで気になり

例の生没年月日専用の手帳への書き込み作業となりました(^^;)

今後これについて少し書いていこうと思います。

 

とにかく気になったことは記しておこうと、

このブログ書き込みもいつもと違って殴り書きのようなもので、

気づいたことは後で訂正・追記することにします。

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TOKYO2020が終わる

2021-08-08 11:37:38 | 日記
 PCでご覧の方で、文字が読みにくい時は枠外左の「文字サイズ変更」の「大」をクリックしてくださいね。
 
さて、今日でオリンピック競技も終わり。
父が亡くなって2ヶ月、東京オリンピックがあることで随分救われたかも知れない。
 
思えば、6月は諸々の手続きで過ぎて行き、7月に入ると大相撲中継が始まった。
7月4日開幕、いつも父とテレビで楽しんでいたけど、
習慣的にしてもひとりで観ていても楽しめた。
 
で、7月18日、その大相撲も千秋楽だなぁ‥‥と思っているところで東京オリンピックが始まった。
(7月22日には予選競技開始、7月23日開会式。実はこの頃が精神的に落ち込み一番不安定だった)
 
特に注目している競技があったわけではないけど、ひとりで居ても気が紛れたことも確かだし、元来スポーツ観戦は好きだからどの競技も興味深く楽しめた。
日を追ってオリンピック競技でいろんな選手がそれぞれに頑張っている姿を目にして、元気をもらえた。
 
ソフトボールの日本優勝、卓球混合ダブルスの優勝をはじめ、多数のメダル獲得は嬉しいもの!
新たな競技・種目でも認識を新たにすることも多かった。
特に女子のスケートボード!お互いに讃えあう姿も素敵でした。
 
メダル獲得はもちろん、メダルを取れなかった選手だって試合にかけるその姿を目にすることで多くの人たちが感動しただろう。今日のマラソンだって大迫傑選手はじめ中村匠吾・服部勇馬 両選手の頑張りにも感動した。
 
 
もし、この2週間のオリンピック中継がなかったら、一体自分はどう過ごしていただろうか、と思ったりすることもあった。
実際にはまだやるべき事はたくさんあるのだけれど、忘れられないオリンピックになったな。
もちろん、パラリンピックも応援します^^
 
 
 ところで、Top画像に何か使える画像はないかな‥‥と探していたら、右下の写真に五輪マークが!
 偶然にも、前回の東京オリンピック開催のまさにその時期、1964年10月に日南市の幼稚園で撮ったもの。
写したのはおそらく父で、写っているのはお友達とお遊戯をする兄の前に紛れ混んでしまった弟です^^
 
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