☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

谷山地頭館跡

2019-03-03 19:30:15 | 谷山街道散策2008
いつもお読み下さってありがとうございます

カテゴリー:谷山街道散策2008 第5談

引き続き、11年前に投稿した『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』の画像をアップし直すために新たに書いています。

今回が最後で、「谷山地頭館(じとうやかた)跡」のご紹介です。


鹿児島市内南部の谷山地区にあります。現在は谷山小学校となっています。

以下、「地頭館跡」の案内板より

 薩摩藩は、鹿児島城下のほか113の外城(とじょう)という区域にわかれ、その
うち直轄の外城には、地頭館(役所)が設けられていた。地頭館の周囲は、麓という
武士集落で、その外城の軍事・行政を管轄していた。
 谷山には、この付近に地頭館がおかれ、周囲に郷士が住んだ。 地頭館は石垣に囲
まれ、本門のある正面側は棟石のある石造りとなり、高さ12m、長さ113. 5m
にも及んだという。境内には、杉・楠・柞・孟宗竹等があって森山といわれた。この
前の通りを仮屋馬場と呼んだ。その後、地頭館は子弟を教育する稽古所さらに立志館
とかわり、明治5年(1872)には、第15郷校となり、明治9年 谷山小学校と
なった。


「地頭」というと、すぐに「小林市の地頭仮屋跡」を思い出すのですが、こちらの「地頭館」は役所と書かれていますね。
「仮屋」というのも役所の機能ももしかすると成していたのでしょうか?「住居」的なイメージを持っているのですが。

「仮屋」で思い出すのは、小松帯刀の領地であった「吉利(現・日置市内)」の「御仮屋跡」です。
御仮屋跡にある吉利小学校や小松帯刀ゆかりの園林寺(おんりんじ)、小松家の墓地などを訪ねたのはもう10年以上前になりますが、最近またツイッターなどSNSでも「小松帯刀」が注目されているようで、また行ってみたいと思っています。

ということで、最後の画像は吉利にある小松帯刀の像です

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「是枝柳右衛門の碑」

2019-02-22 22:04:39 | 谷山街道散策2008

カテゴリー:谷山街道散策2008 第4談

引き続き、11年前に投稿した『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』の画像をアップし直すために新たに書いています。

今回紹介するのは、寺田屋騒動に関わった町人出身の武士で屋久島に流された後48歳で亡くなった是枝柳右衛門、
その頌徳(しょうとく)碑、「是枝柳右衛門の碑」です。
谷山街道沿いの上松崎公民館横の奥にありました。


隣は谷山商工会館だったことを失念していましたが、FBFの方の投稿で確認できました!
(古瀬さんありがとうございます♪)


生家はこれより南へ200mほどのところにあったという事です。
(↓クリックすると拡大されますが、画質が悪く分かりにくくてすみません。。。)


是枝柳右衛門が残した日記に『羈中浮草(きちゅうぶそう)』『志天之友』等があるそうです。


2008年に訪ねた際はあまり幕末・維新期の歴史に馴染みが薄かったので、「寺田屋事件」も名前を聞いた事はあるもののどんな人たちが関わっていたかなどはほとんど知らないに等しいものでした。当然、説明板を読んでも理解できたとは言い難く‥‥。

況してや、「是枝柳右衛門」と言われてもピンと来ませんでしたが、最近フェイスブックでのお友達の方たちの投稿に、是枝柳右衛門の名を見つけ、「確か以前谷山街道まち歩きの際に目にしたのがこの人だったような‥‥??」と思い『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』の画像を確認した事から、この「谷山街道散策2008」シリーズを再編成したうえで立ち上げたのでした。

《谷山街道の表示》


街道沿いに見つけた「名越」さんの表札。立派な門構えと御庭でした。
(こちらの読みは「なごし」かな?「なごえ」かな?)


谷山街道散策は、次回最終回の予定です。

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谷山の春日神社と辻之堂地区

2019-02-17 23:21:24 | 谷山街道散策2008
カテゴリー:谷山街道散策2008 第3談

11年前に投稿した『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』の画像をアップし直すために新たに書いています。

今回は、谷山の春日神社と辻之堂地区の2件の公民館

春日神社


 





鹿児島では住宅街でも繁華街でも「石敢當(せきかんとう・せっかんとう)」を目にする事があります。
魔除け・厄除のためのものです。

「広辞苑」によると「沖縄や九州南部で、道路のつきあたりや門・橋などに、「石敢当」の3字を刻して建ててある石碑。中国伝来の民俗で、悪魔除けの一種。いしがんとう。」とありました。

辻之堂公民館


つづいて、辻之堂公民館


辻之堂後公民館/桜島爆発紀念碑(大正4年正月建立)


まち歩きの道すがら、ふと見た庭先に西郷サンがいらっしゃいました(^-^)♪

2008年のことですので、大河ドラマ『西郷どん!』はまだ原作も無い頃です。
生粋の西郷さん愛、ですかねぇ(^。^)

撮影:2008.5.18
 

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木之下の田の神さぁ

2019-02-17 22:33:30 | 谷山街道散策2008
カテゴリー:谷山街道散策 2008 第2談

前回の『伝・豊臣秀頼の墓』に続き、2008年8月5日の『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』の内、鹿児島市谷山の「木之下」地区についての「まち歩き記録」です。

当時のまち歩きガイドのお話によると、「木之下」という地名も「豊臣秀頼の伝説」に関連しているのかも知れないということでした。

木之下公民館


木之下公民館前の石碑


半鐘建設記念碑


半鐘寄付者の名前


田の神さぁと馬頭神と


田の神(木之下)


「田の神」(案内板より)
  田の神像は、鹿児島県本土と、宮崎の一部にしかみられない貴重な民俗文化財です
 江戸時代中頃から稲の豊作を願って、用水路や田んぼのあぜに立てられたもので、”タノカンサァー”と呼んでいます
 また、昔は、この"タノカンサァー"を囲んで宴を催す「田の神講」も盛んに行なわれていました(以下略)

撮影:2008.5.18
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伝・豊臣秀頼の墓

2019-02-17 13:45:44 | 谷山街道散策2008
いつもお読みいただきありがとうございます

2008年8月5日に上げた『5月の歴史探訪フォトアルバム-3』で、ブログに載せた画像がクリック表示できなくなっていたので、改めて画像フォルダに取り込み、アップしてみました。

鹿児島市谷山地区の「伝・豊臣秀頼の墓」です。
時々テレビの歴史番組等でも紹介されるのでご存知の方も居られる事と思います。

もう10年以上前に「かごしま探検の会」に参加して訪ねたのですが、現在どうなっているのかは分かりません。
個人のお宅なので、訪ねるときはご配慮願います。

「伝・豊臣秀頼の墓」への途中、小さな公園があります。


かわいい「田の神さぁ(たのかんさぁ)」がいらっしゃいます♪


ゆるく曲がっている谷山の住宅街の道


「伝・豊臣秀頼の墓」まで150mの表示










お花が綺麗に手入れされていました


撮影:2008.5.18
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