☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

「なぜ?」

2017-04-30 19:10:06 | mixi日記アップのお知らせ
2008年3月10日のmixi日記より
「なぜ?」
過去日記にアップしました。

自分でも「こんなことも書いてたんだ〜」と驚いたりしながら過去日記を読み返しています。

左源太のお墓を探した末、その後、曾祖父の兄・時成さんの子孫である内村氏から教えていただくことになるのですが、
それはまた次の日記で紹介しようと思います。

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「名越左源太別邸跡→残るはお墓探し」

2017-04-29 13:51:03 | mixi日記アップのお知らせ
      ☆Topの写真↑は2008年3月6日に撮影したもの。当時は「Nagoya」の"N"が"M"になっていた。

2008年3月8日のmixi日記より
「名越左源太別邸跡→残るはお墓探し」
過去日記にアップしました。

☆昨夜ある検索をして目にした「明治維新とかごしまみて歩き」さんの記事https://www.facebook.com/meijiishin150/posts/1025803960773584
左源太の野屋敷跡の案内板の誤植(「Nagoya」の"N"が"M"になっていたもの)が訂正されていたことを知りました。

このmixi日記もgooブログにアップする予定でしたが、
雑事に追われ体調不良もあり(夜更かしのせいでもあるが。。。)滞っていたので、
左源太さんだか誰だかに、「早くアップしなさい!」と言われたのかもしれません。。

  
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名越時成の「留学派遣」時の年齢

2017-04-24 12:04:22 | 薩摩藩英国留学生


23日の記事「7年ぶりの串木野・羽島(2)」でふれた、「時成の年齢」について、書いてみようと思います。

まずはその前に、館内の展示物は非常に見応えのあるもので、かなり充実したものでした。

館内に入ると音声が聞こえてきました。14〜15分ほどの紹介動画が2本交互に放映されています。
ちなみに、その動画ではフリーアナウンサー(元・公共放送局アナウンサー)の住吉美紀さんが語ってらっしゃいます。

「スミきち」さんにこんなところでお目にかかれるとは思っていませんでしたが、ご活躍のご様子でなにより、と思いました。
スミきちさんは弁士に扮装したり、羽島の岩場に立って留学生たちの残した手紙や当時のエピソードなどの紹介をしたりしています。
留学生たちが出発前の2か月間ほどお世話になった逗留先のご子孫の紹介などもあります。
当時の様子を想像するのに十分な内容でした。

また、長沢鼎の自筆雑記帳もあり、一番若かった長沢少年の苦悩が現れている「prison(監獄)」の落書き(殴り書き?)も見られました。
貴重な資料ばかりで何度も来てみたいと思わせる展示です。


さてそこで、前述の通り、表記が17才だったり21才だったりという問題
正直ちょっとばかり戸惑ってしまいました。
 


この「時成の年齢」に関する資料があります。

県の歴史資料センター黎明館の調査史料室・前室長・内倉昭文氏から頂いた、前室長ご自身による
 黎明館調査研究報告 第29集(二〇一七年三月)別刷
 「※名越時敏(左源太)」小考(二) ー "誤説" の訂正など ー 
の中で取り上げて下さっていますが、様々な刊行物や展示を見て年齢表記が不統一であることに疑問を抱く方もおられるのではないかと思います。
(※ ご承知とは思いますが、名越時敏は世間一般に知られている名越左源太のことで、名越時成の父)

細かいことではありますが、『鹿児島県史料 名越時敏史料 一 』に集録されている「名越時敏日史」には時成(幼名・壮之進)の生年月日が明記されていて、当時は満で17才だったことがわかります。

ついでながら、時敏の著書「常不止集(とことわしゅう)」「続常不止集」などによると、時成より前に「長男・源太郎」がおり、不幸にも一歳に満たないうちに、流行していた疱瘡(天然痘)で亡くなっていることが記されており、時成については「長男」ではなく「嫡子」と表記されてもいるようです。

また、同じく『同史料 二 』に集録の「名越時敏日史」にある左源太時敏の、息子・時成の異国への派遣に関する「弁明」にも「(時成は)まだ年若く修行中の身であり、今派遣されるとその(修行の)時期を逸してしまう、二十一・二才になれば、お受けしたいのだが、」というような内容で、長男を幼くして亡くし、また嫡男である時成までも失ってしまうのではと心配する親としての心情が現れていると、紹介されています。


以上のようなこともあり、このブログで時成に関するあれこれを書くことにしました。

 鹿児島県歴史資料センターの調査史料室長だった内倉氏は4月から別の部署に異動されたということなのですが、これまで本当にいろいろご教示いただき、親子共々大変感謝しております。
ここで、心より御礼申し上げます。(また改めて伺いますね)


 留学からの帰国後についてもあまり知られていない名越時成ですが、いえ、知られていない人物であるからこそ、時成のことに限らず、諸氏の情報についても、混乱を来さないよう、せめて年齢その他、現時点で分かっていることについては、今後再度検証された上で、統一表記されることを望みます。


☆来年2018(平成30)年は明治維新百五十周年ということで、また大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」の放送予定もあり、ますます関連イベントなどやそれに伴う資料・刊行物・ネットでの情報提供なども増えることでしょう。
 関連する機関の方々には、記念事業の一過性に終わらせることなく、今後の更なる検証が成され、益々興味を持ってもらえるような魅力ある展示・行事となることを願うばかりです。

 

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1年前のブログ記事を振り返る

2017-04-23 23:58:24 | 日記
2016年4月のあれこれ
以前、外出先でもふと気になった時に困らないようにと、小さなノートに家族・親族、祖先の命日と、せっかくなので誕生日も書き記すことを思いついたのです。(何故なら、父方母方ともに墓守り......



以上。
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7年ぶりの串木野・羽島(2)

2017-04-23 23:53:51 | 歴史探索
初めて羽島を訪ねたのは、2010年の4月17日でした。

※以前の日記「薩摩藩留学生渡欧の地、羽島」

その4年後の10月に出来た薩摩藩英国留学生記念館。
オープンしてから2年半も経つのに、訪れたのは初めて。

が、しかし!
火曜日、休館日だとはしらず、事前に確認することもなく行ってしまった。。

仕方がないので、建物の外観と、裏に回って記念碑などを写してきた。





風が強く、波もだいぶ立っていた。


記念碑がいくつかある中で、名越時成の年齢が、方や21歳、ユニオンジャックと日の丸の旗の近くにある案内板には17歳と書かれている。


ツイートでも書いた通り、時成兄は1847(弘化4)年生まれで当時は満17歳でありました。
数えで言っても19歳。21歳と17歳ではかなり違いますよね。

この件については、後に別途投稿しようと考えています。
           ↓
☆ 4月24日の記事『名越時成の「留学派遣」時の年齢』に書きましたのでこちらをご覧下さい。('17 5.1 追記)
  
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7年ぶりの串木野・羽島(1)

2017-04-23 14:42:52 | 日記

今週の火曜日と水曜日、7年ぶりに串木野・羽島へ行ってきました。
   ↓以前書いた記事。他のブログにも同じ文章で書いています。
☆雪見月のチェストブログ☆

今、ブログに文章を書く余裕がないので、とりあえずツイートをまとめてみます。

☆以下、ツイート集







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「祖父と徳富蘇峰のエピソード」

2017-04-11 22:19:57 | 徳富蘇峰
2008年1月30日のmixi日記より
「祖父と徳富蘇峰のエピソード」
過去日記にアップしました。

いくつか持っているブログのどこかに書いたと思っていた
「祖父が蘇峰と台湾の澎湖島でビリヤードをした」というエピソードが、
以前のmixi日記に書かれていたのでこちらにアップしてみました。

日記ではメモに残ってた「徳富蘇峰」と「吉田松陰」の因果関係が分かっていませんでしたが、
徳富蘇峰による「吉田松陰」という著作があるのですね。

※リンク先がなくなっているので、可能な限り後日貼り直します。

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「お墓参りからご先祖さんに思いを馳せる」

2017-04-11 13:45:07 | mixi日記アップのお知らせ

   

2007年8月19日のmixi日記より
「お墓参りからご先祖さんに思いを馳せる」
過去日記にアップしました。

この頃に、のちに『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』(南方新社)を出版される方のブログに出会っているのですね。

残念なことにブログはもう無くなっていますが、ご本はアマゾンでも取り扱っているようです。

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「南洲神社」

2017-04-11 12:33:48 | mixi日記アップのお知らせ
2007年8月19日のmixi日記より
「南洲神社」
過去日記にアップしました。

もう10年近く前になる日記です。

来年は大河ドラマ「西郷どん(せごどん)」も始まりますが、
10年前の私は、山形県酒田市にも「南洲神社」があるということも
その経緯さえも知りませんでした。

当時のマイミクさんのブログを見て知った訳ですが、
自分の歴史探訪初期の日記を見返し、再発掘する毎日です
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「"ワイン王 長沢 鼎" というひと」

2017-04-11 01:14:46 | mixi日記アップのお知らせ
2008年10月7日のmixi日記より
「"ワイン王 長沢 鼎" というひと」
過去日記にアップしました。

※リンク先がなくなっているので、可能な限り後日貼り直します。
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「平川の国生先生」

2017-04-10 13:41:39 | mixi日記アップのお知らせ
2008年10月7日のmixi日記より
「平川の国生先生」
過去日記にアップしました。

※リンク先がなくなっているので、可能な限り後日貼り直します。
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「実方(さねかた)というところ」

2017-04-08 11:03:00 | mixi日記アップのお知らせ
2008年10月28日のmixi日記より
「実方(さねかた)というところ」
過去日記にアップしました。

※カテゴリー「歴史探索」に分類しています。

※リンク先がなくなっているので、可能な限り後日貼り直します。

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関 秀夫著『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(☆翌4月5日追記あり)

2017-04-04 23:50:15 | 町田久成(敬称略)

先日購入した『 博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー 』を拾い読み。
(2005年5月著作 6月21日 第一刷発行)


この本では「ひさなり」と読み仮名が振ってありますが、
私としては敢えて「ひさすみ」と読ませていただいています。
(一新朋秀氏の論文にアルファベット表記がされているらしい)
       ↓
桐野作人さんのブログ「膏肓記」コメント欄を参照ください


さて、焦らず頭から読もう、と思いつつ、やはり気になるのは私生活。

というのも、以前にも書きましたが、曾祖父の姉・筆さんの元夫だったからなのです。
       ↓
2010年4月21日の記事「名越フデさん」

そこで、思ったことなどをつらつらと書いてみようと思います。

     ☆☆☆


まず、
「終章 晩年の町田久成」の中の「橋場の町田久成邸」の件を読んでみた。
「出家後の消息を伝える明治二十三年一月の『読売新聞』の記事」の紹介があり、
「浅草橋場にあった本邸と向島小梅の別邸」を売却したことなどが書かれていた。

☆ここで、「明治二十三年」に反応する私。
というのも、川上イサさんが記した日記(※↓後述『都見物日記』参照)が明治23年のものだったから
そのあたりの年代には自然と敏感に反応する習性がついた。(☆この部分、翌4月5日追記しました)

その先を読んで驚いたのは、
「明治十二年まで独身で家庭をもたなかった」(P.217)と書かれていたこと。

えっ?! そうだったの?

筆さんと離婚したのが明治17年9月12日。

これについては、名越時成さんのご子孫の内村氏から頂いた戸籍謄本のコピーに
「明治十七年 九月十二日 鹿児島懸日置郡石谷村 町田久成 妻 離婚に付き復帰」とあります。
亡き父・名越(左源太時敏 改め)泰藏の後を継いだ時成さんの戸籍に復帰しているのです。

町田久成さん46歳、筆さん39歳の時。


ってことは、やはり現在の久成さんのご子孫は筆さんの子供のご子孫?

読み進めると、「(島津)久光が鹿児島に戻った三年後の明治十二年に結婚している。」
とあり、
「‥‥(略)‥‥確かなことはわからないが、そのころ町田は浅草の橋場にも邸宅を持っており、橋場町二十九番地を公式の住所として内務省に届けている。」
「結婚後、三男一女をもうけたが、長男と妻を早く亡くしている。」と。

おや?ではその妻とは、筆さんではないの?

そして、
「出家のとき、二男で九歳の秀麿(明治十三年生まれ)と、
三男で七歳の茂(明治十五年生まれ)がいて、
後添えの千代が長女 媟子と二人の息子の世話をしていた。」
と書かれていて、私は益々困惑するのでした。

(ついでに言うと、私の祖父・篤彦が生まれたのは明治14年だからフデおばさんの二人の息子と同年代)


一瞬、その千代さんが筆さん?で、筆さんの変名?などと思いましたが、
そんなはずはない、と思い直しました。

更に先を読むと「町田久成の出家」のところには
「久光の死を見届けた町田久成は、奈良で内室の千代を出家させ、」(P.227)とあったのです。
(島津久光は明治二十年十二月六日、七十一歳で亡くなる)

正直なところ、筆さんに関する記録がほとんどない中で、
これも以前このブログでも度々取り上げてきた、左源太の長女・イサさんの『都見物日記』(↓)には、妹・筆(フデ)に関する記述があります。

その中の5月10日の日記には、「(前略)‥‥、八時過ぎより泉岳寺御仏像、由良の助御墓、皆々四十七人のお前拝見いたし候。それから大円寺の名越家御祖先の墓へ御参りいたし、三人(※↓)にて草とり掃除いたし候。お筆どの子供の墓へも参り、少々下にて有之(これあり)候。此れより又浅草の観音に参詣仕候也。‥‥(以下略)」とあり、この「お筆どのの子供」とは、亡くなった長男では?と推察できると思うのですが、どうでしょう。

それから、ウチの曾祖父の戸籍にも「町田久成」の名が記されているのです。
久成さんと筆さんが離婚し、筆さんが兄・時成戸主の戸籍に復帰した日付けで
「明治十七年九月十二日 鹿児島懸日置郡石谷村 町田久成二女入籍ス‥‥(以下略)」として、「養女 テウ」という女性の名があります。
「テウ」は「ちょう」と読みますね。
ということは?もしかしたら「蝶子」とは同一人物?

と、ここで、「テウ」さんは明治16年生まれとあることに気づき
蝶子さんではないことは明らかになるのですが、(←❌ のちに「長女=長子ではない」と気付く

(↑これについては2019年4月に『テウさんについて』に書きましたが「蝶子=テウ」のようです〈2021,3,30追記〉)
テウさんの明治36年生まれの男児もウチ(曾祖父・轟)の戸籍に記されています。
この方のご子孫は鹿児島におられるそうです。面識はありませんが、
前述の内村氏に教えていただきました。


前にも書きましたが、様々事情がありそうですし、あまり推測するのもどうかと思いつつ、あれこれ考えてしまうのです。
こんな風で、なかなか書き出せなかったのですが、どうにかまとめることが出来ました。


ちなみに、「奈良で内室の千代」さんを出家させた後の記述は
「久光三回忌の仏式供養に合わせて、明治二十二年十二月一日に滋賀県の園城寺で桜井敬徳和尚(剃髪の二週間後に示寂)の手により剃髪した。法名は久成(きゅうせい)とした。同時に二人の幼い息子も剃髪させ、稚児僧としてかれのそばにおいたと当時の新聞にもある。」


また、冒頭の「はじめに」の中には、こう書かれています。

「いまでは、かれの名を知る人は少なくなったが、明治時代の新聞にはしばしば登場して、数多くの話題をふりまいた文化人の一人である。JR西鹿児島の駅前に「若き薩摩の群像」という記念塔が立っている。‥‥(中略)‥‥その最上段に、当時の薩摩藩大目付で留学生の督学をつとめた二八歳の町田久成の姿がみえる。」



☆町田家については、お名前や家系図など今ひとつ把握しきれていないので、さらに勉強しようと思います。


☆もし町田家の方なり、この件(フデさんや蝶子さんなどにも)に関してなにかご存知の方がおられたら、ご一報いただけるとありがたいです。
コメント非表示希望の方はそのように明記して下さいませ。


()名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ大坂・西京・東京・日光・金比羅参詣などを巡った際の日記で、寺師若法師さんにより薩摩狂句の『さんぎし』に紹介されたもの。明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。

     ☆☆☆

《'17. 9.17追記》
幸いなことに、この約3ヶ月後のフォーラム『子孫が語る薩摩スチューデント』で町田家の方とお話しする機会を得、いくらか確認することが出来ました。


 

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別府晋介誕生地@実方

2017-04-03 11:36:23 | 別府晋介&桐野利秋

町田久成さんに関する記事を書く前に、「別府晋介」の生誕地を父と訪ねた記事をどのブログのどこに書いたのか分からなくなったので自身の過去のブログをあちこち見ていたら、

2011年8月末の記事を目にしました。

で、そこから遡って行き着いたのがmixi日記。
2008年10月28日のmixi日記

mixi日記は閉じているので、見られない方の為にも
当時の日付けで過去日記をアップしていこうと前々から計画中なのですが、過去記事テキストは簡単に移せますが、まず当時のデジカメ写真のファイルからアップした画像を移さなくてはならなかったりするので、手間取ってなかなか思うように行きません。
出来る範囲でぼちぼちやっていこうと思っています。

肝心のことを忘れていました。なぜ、別府晋介の話を持ち出したかというと、
その別府家のひとりの女性が、私の祖父・篤彦の姉の嫁ぎ先である川上家のご先祖のどなたかの奥方とのことです。
(☆後日確認したところ↑こちらの女性は別府晋介の姉で、川上忠太郎と結婚しています。西郷南洲顕彰会『敬天愛人』第14号P.247に記載あり)'17. 6.18追記

お墓は、ご存知の方もおられるかもしれませんが、隣同士です。
川上家の方のお話では、実際に、訪ねてこられる方もあるとのことでした。

☆2008年10月27日に訪ねた吉野・実方(さねかた)の別府晋介誕生地の写真をアップしておきます。

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町田久成さんについて

2017-04-02 00:49:50 | 町田久成(敬称略)


30日に届いた『博物館の誕生 ー 町田久成と東京帝室博物館 ー』(関 秀夫/著、岩波新書)を読んでいてあれこれ考えを思いめぐらせていたら、脳が疲れてきたので明日感想を書きます。

とりあえず今日は、町田久成さん関連でTweetしたいくつかをまとめてみます。

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

桐野作人さんのブログ
 ※ここ↑のコメント欄参照(H.N.「雪見月」が私です)


<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>

<script async src="//platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
 
 

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