☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

前節一覧-②/ 都見物日記

2020-05-19 09:22:35 | 都見物日記プロローグ

 これまでカテゴリー「都見物日記」で書いていたものを

新たにカテゴリー「都見物日記プロローグ」として一覧にしてみました  

 

《 2019年 7〜10月》

⑦  【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様 ( 2019-07-22 17:24:23 )

⑧  【第2話】4月17日出帆〜4月23日大坂に2泊 ( 2019-07-25 00:30:25 )

⑨  【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば ( 2019-09-05 16:09:18 )

⑩  【第4話】紹介者は、寺師若法師さん ( 2019-09-06 23:59:38 )

⑪  【第5話】麻布永坂島津氏のお染様 ( 2019-09-13 18:21:43 )

⑫  川上式部邸跡と「授産社跡」 ( 2019-10-19 11:31:49 )

 

自分でも辿りやすくするためですが、少しでもお役立ちとなれば嬉しいです 

 

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前節一覧-①/ 都見物日記

2020-05-19 07:31:29 | 都見物日記プロローグ

 これまでカテゴリー「都見物日記」で書いていたものを

新たにカテゴリー「都見物日記プロローグ」として一覧にしてみました  

《 2008年〜2018年 》

①  「篤姫」を観ながら左源太さんを思う(mixi日記より) ( 2008-02-26 14:36:18 )

②  「篤姫」と"いささん"の日記 ( 2008-04-09 13:56:27 )

③  いささん、51歳2008-04-10 14:06:54 )

④  「さんぎし」2009-03-03 10:00:30 )

⑤  川上イサさんの『都見物日記』2018-03-17 17:57:18 )

⑥  大円寺いろいろ2018-07-15 17:32:38 )

 

自分でも辿りやすくするためですが、少しでもお役立ちとなれば嬉しいです 

 

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川上式部邸跡と「授産社跡」

2019-10-19 11:31:49 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、間が空きましたが、今日は『都見物日記』です。

なかなか思うようにご紹介できないのは、構成力の無さだとつくづく感じているのですが、

曽祖父・轟の長姉、イサさんの嫁ぎ先の川上家について書いていないことに気付きまして、FBで書いた記事から再構成して記しておこうと思います。

 

以下、9月15日の自身のFB記事より 

   ☆☆☆

 

 『都見物日記』を書いた川上イサさんは、曽祖父・轟の長姉で、夫・川上久逹の父・川上式部久美は島津斉彬公・忠義公の時に家老を務めた人。


※〈補足〉

トップ画像は、時成さんのご子孫・内村氏の『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)』より

(なお、「川上久辰」とあるのは「川上久逹(ひさゆき)」の誤植と思われます)

 

画像の中のイサさんの説明に「明治二十三年第一回帝国議会を見学に上京して‥‥」とあるが、イサさん一行が議会を見学した様子は日記には見受けられません。
帝国議会が開かれたこの年、お江戸上りをする人が多かった、と書かれています。

川上式部の邸は武之橋近くでした。

イサさんの旅日記の最後にも武之橋入り口まで帰って来たことが書かれています。



『鹿児島城下絵図散歩』(高城書房)の中の平成現在の地図によると、この敷地あたりに「授産社跡」と記されている。

 

 「授産社跡」がよく分からず検索かけてみたところ、拾い物。

「第二章 鹿児島の近代化」703ページ、749ページなど興味深い。

 https://www.city.kagoshima.lg.jp/.../2012510154932.pdf

 

   ☆☆☆

参考までに、黎明館『薩摩藩家老の系譜』があります。

こういうものに特に詳しいわけではないので、時間がある時にじっくり読んでみたいと思います。

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【第5話】麻布永坂島津氏のお染様

2019-09-13 18:21:43 | 都見物日記プロローグ

昨日(12日)、新たに分かった事がありました!


『都見物日記』五月二日に東京で「麻布永坂島津氏お染様」のところへ3人で訪ねていくのですが、

ここは佐土原島津家の屋敷だったのですね。

「麻布永坂町」で検索かけて、初めて知りました!

 

その中で、金沢正脩という方のオフィシャルブログを拝読しました。とても参考になります♪

『麻布に開かれた「ジョン・ビショップ孤児院」とイザベラ・バード』というタイトルです。

 ➡️ http://seishyu.blog136.fc2.com/blog-entry-188.html

 

「麻布永坂町」は町名改正による消滅の危機を救った方々があり今に残っていることや、香蘭女学校が佐土原島津家からの借地に建てられたことなど、詳しく紹介されていました。(参考までに、香蘭女学校HPの『香蘭の歩み』

また、世界的な旅行家として『日本奥地紀行』でも有名なイザベラ・バードの名前にも目が止まり、明治24年に発生した濃尾地震による被災がきっかけで開設された「聖ヒルダ孤女院」の資金不足問題に手を差し伸べたのが彼女だった、といったことなども初めて知りましたし、とても勉強になりました。

 

 

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【第4話】紹介者は、寺師若法師さん

2019-09-06 23:59:38 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、今日は川上イサさんの『都見物日記』について、誰が纏めて誰が公に紹介したのかを改めて記したいと思います。

 

2008年4月10日の「いささん、51歳」で書いていますが、明治23年に書かれた日記を、

二男の橋口精一さんが整理されたものを、丹下幸代(=イサさんの長男・久良さんの娘)さんが『さんぎし』の寺師若法師さんに託されたものなのです。

 

 「さんぎし」とは‥‥薩摩狂句の月刊誌

 ※月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続

 

その「さんぎし」に連載された『都見物日記』の、冒頭部分をそのまま紹介します。

 

「 都見物日記(一)   川上いさ(記)

 母の鑑(かがみ)の丹下幸代おばさんといえば人よく知るところ。もう(※)昨年のこと、若法師庵をお訪ね下さつて、赤表紙の和綴ものをお見せになつた。祖母にあたる川上いさ刀自の「都見物日記」である。 」

 

(※)昨年のこと、とありますが、この掲載年月日は記載されていません。

ただ、この第一回の最後、四月二十日の末尾にこう書かれています。

 

「 以上の四日分は一つも省略していない。七十年前、若法師生れる前年の旅日記で興味津々である(若)」

 

この寺師さんのコメントから、昭和35年の掲載ではないかと推測できます。

明治23年=1890年 → 70年後=1960年   若法師さんは明治24年生まれで当時69歳という事ですね。

 

ですから、「母の鑑の丹下幸代おばさん」が持ち込んだのは、昭和34年という事になるかと思います。

 丹下幸代さんについてはこちらにも書いています。→ 「曾祖父が養子となった先は‥‥」(2008.3.18)

 

それにしても、、「母の鑑の〜」とは?当時知られていたという事なのでしょうか??

今となってはご存知の方もいらっしゃらないかもしれませんが‥‥‥、

ご存知の方がありましたら、コメントなどお寄せください

 

 

 おっと

『都見物日記』は「さんぎし」に(一)から(八)まで 掲載され、最終回のみ未掲載となっているそうですが、

ブログ記事のタイトル、ナンバリングを合わせればよかった〜。。

 ……って、時既に遅し、、、まぁいっか

 

 各章に納められてる日記の日付けを以下にまとめて表記しておきます。

 

(一)4月17日 鹿児島出帆(チリン島 山川眺めつつ 〜 19日 讃州多度津、金比羅様参り)〜20日まで

(二)4月21日 淡路島を眺めつつ兵庫着(名越氏の知人・鈴木信弥(※)、来訪 〜 22日 大坂入り)〜24日西京入りまで

       (※「鈴木信弥」という方は、鹿児島へ帰りの直前5月26日にも再登場)

(三)4月25日 西京見物(西京博覧会見物等々)27日 嵐山葉桜見物等の後、近江の湖水、むかで山、勢田の唐橋など眺め柘植へ

       28日 鈴鹿山など感嘆と共に眺め、29日 伊勢参詣 30日 豊橋 5月1日 豊橋より汽車で天竜川、大井川などの鉄橋を渡り東へ移動

(四)5月 1日  東京新橋着 〜 5月4日

(五)5月 5日  〜 10日

(六)5月11日 〜 16日

(七)5月16日(続き)〜 22日

(八)5月23日 〜 27日 美濃丸に乗船 29日(船中)

 

 未掲載分は(八)の続きで桜島らしき絵と共に、いよいよ鹿児島湾(錦江湾)に入り、天保山の前を通り前の浜に着船、端舟(はしけ)にて上陸、出迎えを受け喜ぶ様子や、無事に帰り着き「お君さん」を呼び三味線や地歌を頼んで踊ったり笑ったりして「皆々よろこび嬉しさ おめでたさ おかしきなり実に実にすぐれた初のぼりの新下り妙々」と記されて終わっています。

 

 

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【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば

2019-09-05 16:09:18 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただき、ありがとうございます

今日は『都見物日記』の続きを書こうと思います。

 

 【第1話】でも少し書きましたが、

四月十九日に「和田屋のすみばば、相良酒屋のばば、‥‥云々」とあり、四月二十二日にも同様にこの「ふたりのばば」さまが登場します。

 

四月二十二日

「今日は天気よし。七時過に目覚め 茶のみ 其より飯すぐとしまり 神戸乃停車場へ行き 少し遅くなりしより 二時間程待、九時過十時前 汽車に乗り 十一時過には大坂の増元という宿屋へ付、直に昼飯さし出し候。」

「これより御母上様、轟殿は 三原御母様 おたか様方へ御越しになり 私お留守致し候。」

などとあり、

「此宿は石燈籠(いづろ)和田屋母おすみ殿の知人にて此宿をおしえくれられ候故ここへ参り候也。」

「おすみ殿連れの人数は 上町柳町の相良の母殿、外に下町のばばどの三人 次の間におられ 幸いの事に候」

(中略)

「お留守におすみ殿 私方に参り 二人にて茶など飲みおりし所、外のばばどのたちもここへ参り茶などのみ、色々話などいたし居り候処に 御母様、轟殿 帰り来られ候」

 

「昼過より大坂市中見物に行き掛、私の蝙蝠傘一本買入 一円にて取入。雨ちんと降り出し 急ぎ買いに余り宜敷もなく候得共 詮方なく買入候。」

 ここからが個人的には微笑ましい場面なのですが、

「夕方になり候得ば何か食べに行き度(たき)ゆえ、一寸一膳飯屋のような処へ行き、カシワなどたべ 酒飲み、これも何か話の種にならんとて行き候処 此内も電気燈を明し(設備の意か)暮々(くらぐら)と成りて 折角折角とたべる処に はたはたと明りが付、にわかに明るくなりたるとき 御母上様アラヨーと仰せにて、夫から轟殿が笑い出し それそれでました と申され、脇辺にあまり人がなく幸にて只々三人にて大笑いの事。」

 

要するに、薩摩ことばが出てしまい、周りに人がいなくて良かったね〜って三人で笑い合った、ということですね

 

この日の夜には、三原氏母様と西村時彦様(天囚)とが宿に出向いて来たようです。

「夜に入るとすぐ 内へ帰り候得ば、三原氏母様と西村時彦様(天囚)と此方へお出にて、今晩はぜひぜひ大坂道頓堀の芝居へ御出あれとの事にて、又直ぐと芝居へかけ出し車にて急ぎ行き候得ば、御両人ともにお待ち 色々よき馳走有之候。芝居は三桝大夫と申物にてあわれなる外題に候、何(いづれ)も何も面白き事也、帰りは十二時過し事。」

 

 ところで、和田屋のすみ婆殿はその後、五月二十二日、帰りの大坂泊の日記に再登場します。

 

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【第2話】4月17日出帆〜4月23日大坂に2泊

2019-07-25 00:30:25 | 都見物日記プロローグ

 いつもお読みいただきありがとうございます

この記事はカテゴリー『都見物日記』として書いております。

シリーズでお読みいただくためにはカテゴリーから『都見物日記』をクリックしていただくと読みやすいと思います

 

今回は、大まかな旅程や宿泊先などを記してみようと思います。

明治23年4月17日の出帆から5月29日の鹿児島到着まであるので、

まずは、4月17日〜4月23日大坂への宿泊まで。

 

 『都見物日記』とは 

名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は、

先日の 「永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様」 でも少しだけ内容紹介を書きましたが、

川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ、讃州多度津〜金比羅参詣〜兵庫・大坂・西京・津〜伊勢参詣〜東京・日光・などを巡った際の日記で、明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。

      

 

明治二十三年 四月

『都見物日記』 川上イサ 五十一才

 

《 ザッと主な流れ 》

 

M. 23  4.17  AM9時過ぎ出立しほどなく乗船

       PM2時前 出帆(豊瑞丸)

 

    4.18  終日船内

    4.19  雨。霧。昼食後、讃州多度津の港に着く

      4時頃豊瑞丸から釣り船に降りて、夕方陸に上がる  

      総勢26名、汽車にて金比羅様へ(夜10時頃まで)

          帰りに大茶屋「虎屋」で食事

       夜10時頃、汽車で浜近くまで、それから舟で豊瑞丸を目指すも

      霧で何も見えず、小舟にて26名で夜を明かす

 

   4.20  天気よし。朝霧にて何も分からず昼寝。夜、沖に船(豊瑞丸)を見つけ

      皆騒ぎ立ち賑やかに。ほかに大勢が乗り込み、夜中0時頃までせわしく

      1時頃寝入る

 

   4.21  朝4時より船出帆、天気よし。

      少し風も出て晴れ上がり、船も揺れず昼寝。

      午後、淡路島を眺め、兵庫港入り

           宿屋「薩摩屋」 ※名越家と川上方へ端書を送る

           神戸楠公社へ参詣

 

   4.22  天気よし。7時過ぎに目覚め茶飲み、飯食べ、

      すぐに神戸の停車場へ行き、二時間待ち。

      10時前に汽車に乗り、11時過ぎには大坂の「増元」という宿屋着き昼飯

          イサさんは宿屋で留守番

      出掛けていた姑さんと轟さんが戻り、昼過ぎより大坂市中見物

      夜は道頓堀へ芝居見物

※大坂2泊

 

   4.23  雨。昼は「増元」にて。夜は三原氏お母様と4人で「源水楼茶屋」へ

 

 三原氏お母様は、曾祖父・轟の妻、ツタの実母です。曽祖父ら三人とは別に鹿児島市から大阪へ出向いていたということでしょうか。

 

《次回へ続く》
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【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様

2019-07-22 17:24:23 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただきありがとうございます

 

さて、6月28日の『 電信の・・・。 』で、「次回からいよいよ『都見物日記』について書いていきます♪」と書いておきながら随分と間が空いてしまいました。。

 

10年以上前に mixi で書いていた日記と画像を、たくさんの皆さんに読んでいただけるように、このブログに書き写す作業をしています。

いろんなところに行った記録として、自分でもいつでも見られるように、また、こちらのブログでもリンクを貼れるようにという目的もあります。

そういうことですので、どうぞご了承下さいませ〜

 

『都見物日記』を語るにあたり、只今、構成に頭をしぼっておりますが、

簡単な流れを以前の記事から拾ってみます。

 

2018年3月17日の「川上イサさんの『都見物日記』」より

名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は、以前少しだけ内容紹介を書きましたが、
川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人船や鉄道を乗り継ぎ、讃州多度津〜金比羅参詣〜兵庫・大坂・西京・津〜伊勢参詣〜東京・日光・などを巡った際の日記で、明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。


寺師若法師さんにより薩摩文化月刊誌の『さんぎし』に紹介されたもので、昭和34年3月〜11月号に9回にわたって掲載されたようです。

私の母が存命中に、曾祖父・轟の兄、名越時成の子孫の内村八紘さんからコピーを頂いていたものです。
母から教えてもらい一度は目を通していましたが、全編に渡りしっかりと読んだのは、1999年7月に母が亡くなって数年経った頃でした。

その後、これがいつ頃掲載されたのか知りたくなり、父と鹿児島県立図書館へ行って司書さんに問い合わせところ、寺師若法師さんはだいぶ前に亡くなっているので随分前のものだと思う、との事でした。

 

2008年4月9日の 「「篤姫」と"いささん"の日記」より

日記によると、初日、「昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候」
と書かれており
「夕方より少々気分悪敷候得共吐き方これなく」済んだようですが、
翌18日は朝食は「食べる事はいかず、矢張矢張ごろごろ休み」、
九時過初めて用足しに出、顔を洗い、お茶を飲んだら少しは気分宜しく、
お昼はお粥を食べた、等々、船旅での様子が詳しく書かれていました。

川上のお姑様も「少し昨夜御はき遊ばされ御気分あしく、
今日はよろしく私と同敷(おなじく)昼飯より御召し上りなされ、‥‥」と
船旅は難儀なようでしたが、
3日目の19日には、雨が降り天気も船から見る景色も悪いものの、
「朝より飯食べ皆々元気にて気分宜敷実に嬉敷事。
一時頃には昼飯食べ程無く讃岐近くに砂の瀬に乗りかかり、云々」
と、早速立ち寄り先の事を綴り始めます。

ここから途中伊勢参詣も果たし、泊まった宿屋の名前や、
車や汽車の乗り継ぎも書き付けつつ東京滞在は5月1日から18日まで、
横浜から神戸・大坂に数日泊まり、
5月下旬、鹿児島に帰り着くまで日記は続きます。

 

と、こんな感じの旅の記録です。 

その中の東京滞在中の日記では、最近になって「この人、親族だったんだ!」と分かった「永吉の九良賀野 辰彦」 という人物が出て来ます!曽祖父・轟の従兄弟にあたります。

以前紹介した『島津家家臣団系図集』により確認すると、永吉島津家に養子入りした、左源太の妻・タネさんの実弟・島津久籌(島津登久包の長男)の四男(長男は早世なので、三男?)が、この「辰彦」さんで、「駅長 九良賀野六郎 嗣」とあります。

永吉島津家からは、島津久敬から二代遡って「久良賀野 亘」という別立された方がおられました。

 

また日記には「九良賀野 辰彦」と一緒に 「水上(みっかん)の野元彦十郎」 という人物も出て来ます。

このように地元鹿児島ならではの地名や、滞在先の大坂や東京市での来客の名前もたくさん出て来るのです。

 

例えば、4月19日に讃州多度津に船が着き、そこから汽車に乗って向かった金比羅様へは

鹿児島からの知り合いとして「和田屋のすみばば、相良酒屋のばば、藤武殿」などが登場します。

 

この「ふたりのばば」さまは、4月22日の日記で

「石燈籠(いづろ)和田屋 母おすみ殿」「上町柳町の相良の母殿」と書かれています。

それだけではなく、滞在先の宿の名前なども、もしかしたら、今も残っていたりする?などと興味は尽きません。

そんなこともあり、このブログをよんで下さる方でちょっとでも興味を持っていただけると楽しいな、なんて思います。

登場人物の名前や店の名前にお心当たりがある方は、どうぞコメントをお寄せ下さいね♪ 

 

ところで、昨年5月18日に興国寺墓地を見て回った時にたまたま目に留まった「九良賀野家之墓」があり、その時にはなぜ気になったのか分かりませんでしたが、川上イサさんの この『都見物日記』に書かれていた名前が頭の片隅に残っていたからだと腑に落ちた次第です。

 

近くには「種子島時中之墓」もありました。

前述の 『島津家家臣団系図集』 で「時中」を調べると、3名ほどあり、どの時中様かは不明。(種子島家はとにかく多い!)

 

 

ここにある燈籠↓には「九良賀野 ◯◯」とあるので、繋がりがある事が分かります。

 

 

ほかにも五月十三日には「西田の有川氏」(この方は銀行努めの人)とか「永岩直次郎さん」とか、とにかく一ヶ月半の間の事ですから登場人物は多いです(笑)

 

五月二日には「麻布永坂 島津氏お染様の所へ‥云々‥」などとあります。

「お染様」についてはまた改めて書きたいと思います。

 

五月十日には泉岳寺を訪ねた後、「大円寺の名越家御祖先の墓へお参致し」草とり掃除をしたり、ここより少し下にある「お筆どのの子供の墓へも」お参りしたそうです。

 

大坂では「西村時彦様」とも会っていたりします。(西村時彦は、のちの西村天囚)

《関連記事》→『「西村天囚」からの「島津吉貴の時代」』 

 

今後は、先々で泊まった宿屋や、食事をした店、歌舞伎を見に行った事なども書いてみたいと思います

 

 追記 (2021.2.9)

☆ 九良賀野辰彦登場の回はこちら→『「5月2日 新橋松元屋から 京橋区加賀町へ宿替え 麻布永坂島津氏お染様の所へ」

 

 

 

 

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大円寺いろいろ

2018-07-15 17:32:38 | 都見物日記プロローグ

いつもご覧頂きありがとうございます

今日、当ブログの人気記事ランキングで「目黒区の大円寺」が2位に上がっていたので、気になっていた事を少し書きます。

以前、2008年3月5日のmixi日記『目黒区の大円寺』をアップしました。
この中で、目黒区の大円寺に先祖の墓があったようだと書いていますが、最近ツイッター及びFBで、ある歴史小説家の先生(はっきり言えば、桐野作人さん)にご教示いただいたところ、島津家の菩提寺は杉並の大円寺であり、目黒区の大円寺は宗派も違うので考えにくい、とのことでした。
※島津家菩提寺である福昌寺は曹洞宗(参照→) 鹿児島市観光サイト よかとこ かごんまナビ/福昌寺(島津家墓地) 

   ↑※リンク切れ('20. 5.19調べ)

なので、一応ここで修正させて頂きます。

曾祖父の姉、イサさんが『都見物日記』に書いていた「名越家御祖先の墓」があったのは、
おそらく杉並の大円寺であったのだろうということです。
※ただし、イサさんのいう「名越家御祖先」とは何を指すのかは不明です。

曹洞宗寺院の大円寺 

杉並大円寺 

目黒区の大円寺は天台宗

 

☆追記:'20. 5.19

「鹿児島市観光サイト よかとこ かごんまナビ/福昌寺(島津家墓地)」はリンク切れだったので、「福昌寺」で検索したら、「島津久光公像」 しか出てきませんでした。。
確かに、福昌寺は「観光スポット」ではなく、「歴史スポット」という事でしょうね。

参考までに→ 『かごしま市観光ナビ』観光スポット  

☆よく見ると、「カテゴリを選択」の欄に「歴史・史跡」がありました。

 

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川上イサさんの『都見物日記』

2018-03-17 17:57:18 | 都見物日記プロローグ

いつもお読みいただきありがとうございます

☆新しいカテゴリー 轟の姉・イサさんの『都見物日記』 を作りました。
☆また、カテゴリー設定が違っても、欄外右上の検索機能を使って「このブログ内で」の設定でキーワード都見物日記でも関連記事を読む事が出来ます。

名越左源太時敏の長女・イサが記した『都見物日記』は、以前少しだけ内容紹介を書きましたが、
川上家のイサさんのお姑さん、イサさん、それと弟である私の曾祖父・轟の三人で船や鉄道を乗り継ぎ、讃州多度津〜金比羅参詣〜兵庫・大坂・西京・津〜伊勢参詣〜東京・日光・などを巡った際の日記で、明治23年4月17日鹿児島出発から5月29日までの旅の様子が書かれています。
寺師若法師さんにより薩摩文化月刊誌の『さんぎし』に紹介されたもので、昭和34年3月〜11月号に9回にわたって掲載されたようです。

私の母が存命中に、曾祖父・轟の兄、名越時成の子孫の内村八紘さんからコピーを頂いていたものです。
母から教えてもらい一度は目を通していましたが、全編に渡りしっかりと読んだのは、1999年7月に母が亡くなって数年経った頃でした。

その後、これがいつ頃掲載されたのか知りたくなり、父と鹿児島県立図書館へ行って司書さんに問い合わせところ、寺師若法師さんはだいぶ前に亡くなっているので随分前のものだと思う、との事でした。


こうしてブログに書くにあたり、その時に書き付けた2008年のメモ帳を見てみると、7/1(火)の食糧買い物リストの下に

☆『さんぎし』S.34 3月〜11月号(9回) 翻刻連載
   発行者:寺師若法師(宗一)氏

と、あります。メモ帳の日付けは多少前後するかもしれませんが、ほぼ7月初めにメモしたものだと思います。

また更に遡って、日付け:3/26(水)として行動予定リストの下には

  本名:寺師宗一  寺師若法師
       薩摩文化月刊誌「さんぎし」
      「南日狂壇」南日本新聞
      (※↑これはおそらく、当時の薩摩狂句のコーナー名だったと思います)
とありました。
※ちなみに行動予定リストの内容は、
  ◯ 谷山支所
  ◯ 採血結果をきく →3/29(土)AMに
  ◯ 県立図書館
       鹿児島市史 指宿市史も!

などと、なっていました。
成る程確かにその日の記録がmixiブログにも書いてありました。
こちらのブログに転載したものがあります。
  「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より


今後、少しずつ「都見物日記」の内容を紹介していこうと思っています。
気長におつきあい下さいね
 

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「さんぎし」

2009-03-03 10:00:30 | 都見物日記プロローグ

左源太の長女の川上いささんが書いた「都見物日記」のことは、以前このブログでも紹介しましたが、その日記が連載で紹介されていた地元の月刊誌「さんぎし」のことをネット検索してみました。
 ※関連記事
 『「篤姫」と"いささん"の日記』
 『いささん、51歳』

すると、鹿児島西ロータリークラブのHPに行き着きましたよ?!
 ※残念ながらリンク切れてます

「さんぎし」って薩摩狂句の月刊誌だったんですね~~
しかも、鹿児島西ロータリークラブの本部が山形屋(鹿児島市にある百貨店)内にあったなんて知りませんでした。(すみません‥‥?)

*あとで気付いたのですが、HOMEから「沿革」によると
'90年に鶴鳴館から移ったらしいです。

こういう発見をした時には
「へぇ~~~?!」と楽しくなってしまいますねー♪

「さんぎし」のことを知ったのは、去年の日記↑にあるように鹿児島県立図書館の司書さんに教えて頂いたのが切っ掛けですが、鹿児島市立図書館に蔵書があるようです。(県立図書館にもあるのかも?)

ただし、いささんの日記が掲載された時期もハッキリしませんし、その頃のバックナンバーが残っているものかどうかもわかりませんが、とにかく、近いうちに行って調べてみようと思います。

*月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続(上記リンク先の掲載記事より)


それから、左源太が小林の地頭所勤務だった頃の日記も残っているとかで、内村氏から頂いた文書にも紹介があった「小林市史」も、一度読んでみようと、昨晩父とも話したのでした。

夕べは、左源太の名前が「泰藏」に変わったのはいつだったのだろうと気になって、内村氏がまとめた資料を久しぶりに読んでいたところ、明治4年廃藩置県になってからのことでした。そのあと明治6年6月から明治7年4月に依頼退職するまでの間、以前の任地だった宮崎の小林で、宮崎県十二大区区長(西諸県郡長に相当)として勤めるワケですね。

結局、寝る前になって小一時間ほど資料を読みふける父と私でした

コメント (3)
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いささん、51歳

2008-04-10 14:06:54 | 都見物日記プロローグ

きのう、川上いささんの「都見物日記」の事を書きましたが、

 ※「「篤姫」と"いささん"の日記

天保11年(1840年)1月生まれのいささんは
この時51歳、満で50歳になって間もなくの江戸上りだったのですね。
さぞかし好奇心旺盛な方だったんだろうなと思います。

実は母が亡くなってから、この7月で9年になるのですが、
母が残した書き付けや先祖に関する史料など、少しずつ整理してきて
最近になってようやく片付きそうなのです。
(長い。。いや、ものが多過ぎて‥‥。)

そんな中、いささんの日記の最後の部分のコピー用紙が
先月の末にひょこっと出てきました。

それまでは、この日記を紹介している「若法師」って誰なのか、
何に掲載されていたのかがわからないまま、
たまたま先月県立図書館へ行ったときに、司書の方から
「'若法師'と言えば、『さんぎし』という地元の文芸誌にいろいろ書いてらっしゃる
寺師若法師という方じゃないでしょうか。随分前の方ですけど。」
と聞いたばかりでした。

昨日アップした時点では、5月22日までの日記しか読んでなかったので
その点がハッキリしなかったのですが、
この最後の1枚にしっかり載っていました。

やはり、寺師若法師さんが『さんぎし』に掲載していたもののようです。
そしてどういういきさつかはわかりませんが、最後の部分は「未完の項」であったと
書いてあり、いさ日記原本から猶野耕一郎・芳 即正両氏のご協力を頂き、
いさの孫(川上某氏)が完結し、関係者と子孫の数名に贈った、とありました。
(日付は「平成6年3月27日」)

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「篤姫」と"いささん"の日記

2008-04-09 13:56:27 | 都見物日記プロローグ


大河ドラマ「篤姫」、前々回は船旅の様子が見られましたが、
左源太の長女、いささんが書いた「都見物日記」を思い出していました。

といっても何だかわからないかも知れませんね。^^;

国会開設の年(明治23年)、全国から大勢の人が東京見物に出かけたそうで、
川上家に嫁いだ名越左源太の長女、いささんも、この年の4月に
お姑さんと弟の轟さんの3人連れでお江戸上りをされました。
    (↑これが、私の曾祖父です。^^ ♪)

その時の旅日記をいささんの二男の方が整理され、
のちに若法師さん(おそらく寺師若法師さんか?)が
雑誌(おそらく「さんぎし」か?)に連載されたものを
左源太の子孫である内村さんからコピーで頂いていました。
今年に入って、ようやくじっくりと読む事ができたのですが、
船旅の大変さを垣間見ることが出来、そこから、
篤姫さんの船旅の様子とシンクロした、というワケです。

明治23年(=1890年、というと、今から118年前のことなのですね~)、
4月17日午前中に船に乗り付け、2時前に出帆。
チリン島、山川を眺め、四国は金比羅参詣、それから大坂、西京、
そして東京まで旅の記録が、日々楽しい筆致で綴られています。

マメな日記は父親譲りなんですかねぇ?(笑)
それとも、日々日記を書き付ける事が当時は当たり前なのか知らん?

日記によると、初日、「昼飯はおいしく夕飯はトントトントいけず残念に候」
と書かれており
「夕方より少々気分悪敷候得共吐き方これなく」済んだようですが、
翌18日は朝食は「食べる事はいかず、矢張矢張ごろごろ休み」、
九時過初めて用足しに出、顔を洗い、お茶を飲んだら少しは気分宜しく、
お昼はお粥を食べた、等々、船旅での様子が詳しく書かれていました。

川上のお姑様も「少し昨夜御はき遊ばされ御気分あしく、
今日はよろしく私と同敷(おなじく)昼飯より御召し上りなされ、‥‥」と
船旅は難儀なようでしたが、
3日目の19日には、雨が降り天気も船から見る景色も悪いものの、
「朝より飯食べ皆々元気にて気分宜敷実に嬉敷事。
一時頃には昼飯食べ程無く讃岐近くに砂の瀬に乗りかかり、云々」
と、早速立ち寄り先の事を綴り始めます。

ここから途中伊勢参詣も果たし、泊まった宿屋の名前や、
車や汽車の乗り継ぎも書き付けつつ東京滞在は5月1日から18日まで、
横浜から神戸・大坂に数日泊まり、
5月下旬、鹿児島に帰り着くまで日記は続きます。

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「篤姫」を観ながら左源太さんを思う(mixi日記より)

2008-02-26 14:36:18 | 都見物日記プロローグ

  

先日の『篤姫』、いよいよ島津本家に入りましたが、
「ちょうどこの頃、奄美大島で過ごしていたんだなぁ、左源太さんは…。」
と、感慨深く観ていました。

 

そういえば、Wikiに名越左源太さんの項目を発見したと、
いつものサイトに載っていました。
http://sagenta.nature-f.com/?eid=816061  →※リンク切れです。。

内容がまだ充実してないので、もの足りませんが。。。
資料に依ると、

生まれたのは「下竜尾町」らしいのですが、 →※これは2008年当時の情報で、その根拠は不明
「下」が抜けて「竜尾町」ってなってるし。。。     当該 名越家の屋敷は春日町(2018.7.4追記)
う~~ん、誰か直してくれないかなぁ。。
私も編集の仕方がよく分かんないし~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに、左源太が赦免になったのは、安政元年(1854年)旧暦8月13日で
風向きが、じきに北風になってしまうために
上国の(国に帰るための)船便が無くなり、
翌年の春まで待たなければならなかったのです。

さらに言うなら、左源太は
嘉永5年(1852年)春に「島中絵図書調方」の内命を受けているのですが、
(奄美大島を拠点としてオランダとの貿易構想を練りながら、
  同時に琉球を拠点として新たな外国貿易計画も考えていた島津斉彬は
   代官、見聴役と一緒に島中を調査するように左源太に命じた)
流罪中の者に公職を依頼するのは異例のことで、
「この時点で赦免されたも同然だった」と
かの原口泉先生も語っておられる
とか。

まだまだ興味が尽きない左源太さんです。


*「名越左源太(なごや さげんた)」についてはこちらが参考になります
http://www.city.amami.lg.jp/naze/museum/museum/sonotanobunnkazai.htm →リンク切れ↓こちらをどうぞ!
https://www.city.amami.lg.jp/bunka/kyoiku/bunka/bunkazai/annai.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

興味が尽きない、と言えば、、
名越左源太の長女が書いた「都見物日記」という読物があって
そのコピーしたものを何年か前に手にしていたのですが、今になって
やっとじっくり読むことが出来ました。

おそらくずいぶん前に地元の南日本新聞に掲載されたのだと思うのですが、
   ↑※いやいや、これは「さんぎし」に掲載されたものでした(2018.7.4追記)
長女のいささんと、姑さん、それに
いささんの実弟(左源太の次男)の轟さんの3名で、
             (*↑この人は私の曾祖父にあたる)
明治23年の4月17日に鹿児島から船で発ったあと
四国の金比羅山へよって、兵庫~大坂(2泊)~西京(京都3泊)と
汽車や車で旅して、それから途中「お伊勢参り」をしたあと
4月30日深夜から5月1日にかけて
豊橋から東京まで終日汽車に乗っていった様子や
(もう、これだけで盛りだくさん!でしょ?)
宿泊した宿屋の名前まで書いてあったり、
チョッとした出来事や思ったままの感想が上手いこと書かれていて
それを読みながら、また日本地図を拡げて照らし合わせながら
すっかり旅気分の毎日を過ごしていました。

いささん、このとき51歳(満50歳かな?)。
日記を追っていくと、東京に着いたのは5月1日で、
泊まっている宿屋に訪ねて来る知り合いの様子や
そのときにあった「上野博覧会」とか美術館を観て回ったり
歌舞伎の見物をした様子、また中1週間ほど雨続きで
ちょっとうんざりしてしまったことなども綴られています。
このあと、5月22日までの分が掲載されたようです。

5月1日から少なくとも22日までは東京滞在!!これも凄い。。
途中、息子さんから手紙で「早く帰って来るように」と言って来た
とも書いてありました。<笑


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ともあれ、
私、なんだかんだで、こんな毎日を送っています。
(写真は2008年2月18日に行った時に撮った、仙巌園から眺めた桜島です)

 
 

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