☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

「実方(さねかた)というところ」mixi日記より

2008-10-28 23:50:14 | 別府晋介&桐野利秋

昨日は、とてもお天気が良かったので
家の中にいてももったいない、お昼時でちょうどお腹も空いてきたことだし
じゃぁ、お昼を食べに行こう!ということになり、
それならば~、とちょっと足を伸ばして前々から行こうと思っていた
「吉野台地探訪」に、父とドライブしてきました。

寺山公園へは去年の8月に初めて行きましたが、→ mixi日記「寺山展望台へ。(8月23日 処暑)」☆これは後日当ブログにアップした記事があります↓

 『「寺山展望台へ。(8月23日 処暑)」mixi日記より』(2007.8.24)

今回はそこへ向かう途中にある上之原(かみのはら)から実方神社へ向かい、
その近くにある別府晋介誕生の地などを見て回るのが目的。
       
実は今月9日の地元南日本新聞の夕刊に載っていたのですが、
そこで紹介されていたコースを逆に上から麓へ辿ってみました。

☆この実方というところは、
戦後父が四国の海軍航空基地から鹿児島へ引き上げてきた時に、
吉野・実方(さねかた)の親戚の家を訪ね、
その後2ヶ月ほど暮らした場所なのだそうです。

 その親戚の家へ行くのに、市内の上町(かんまち)から皷川を通り、
たんたどの坂道をひたすら歩いて(車なんてありませんから)
登って行ったそうなのですが、
 
〈名越(なごや)どん坂〉   〈新実方橋〉 ☆画像をクリックすると拡大表示されます

当時の道と比べ、現在の道路ではすっかり変わってしまっているうえ、
手がかりの「実方橋」も過年豪雨で流され、
今では幹線道路が「新実方橋」を通っているので、
父は「今行ってもわからないだろう。」と諦めていたのです。

そうなると、俄然確かめに行ってみたいのが、私(笑)
今日を好機と出かけたというワケです。

       ☆☆☆

上之原(かみのはら)へ到着すると、桜島を眼前に上之原振興会館があり、
同じ敷地内の一角に、原五社神社と
上之原集落発祥220年祭(平成10年10月建立)記念碑があります。


   

この、「上之原(かみのはら)集落」というのが何なのかというと、
1779(安政8)年10月の桜島大噴火の際に、
桜島・黒神から避難してきた人たちが、初めは城下に造られた長屋から
現在に吉野中学校の土地へ移った後、永住の地として
故郷の桜島を望める現在の場所を選んで開墾したのだそうです。


そこから吉野町の中心部を抜けると
 〈松十文字バス停〉  〈駄馬落バス停〉
 

「新・実方橋」手前(下りの場合・左手)に
実方神社と、西南戦争の終焉の地・城山で西郷隆盛を介錯したと伝わる別府晋介
誕生の地があります。
   〈実方神社〉



〈別府晋介誕生地の入り口〉      〈別府晋介誕生地跡〉
  



近くに桐野利秋の誕生地もありますが、
今回は車で通り過ぎただけでした。(桐野利秋は別府の従兄)

結局、父がしばらく住んでいた親戚の家のあった所はわかりませんでしたが
おそらくこの辺だろう、という場所は小川(稲荷川)が流れていて
なんだか懐かしいような、郷愁にかられる風景が広がっていました。
 

☆‥‥‥と、ここまで書いて、やっぱりもう少しハッキリさせたくて
今父と、地図を開いて昨日辿ったところを思い返しながら話しをしてみたら
だいたいの目星がつきました! しつこく訊いてよかったです。
まぁ、親というのはあまり多くを語らないものですね、
こちらが訊いてみない限り。(笑)

おそらく、別府晋介の誕生地の下の、川沿いであろう、という結論でした。
また、時間を作って行ってみようと思います。

 

☆以上、2017年4月8日に過去日記アップ☆
当時撮った写真もこちらに追加アップしておきます。
〈御内用方の跡〉


    
 

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「同い年のいとこ」(mixi日記より)

2008-10-24 07:13:41 | mixi過去日記

以前から気になってたのだけど、
中学時代の女子バスケ部の集まりでもらっていた旧部員の名簿を
ふと、思い立った今月初めに
同じバスケ部員だった同い年の従姉に送ったんです。
               
彼女は私と同じ年で、あちらが3ヶ月ほどお姉さん。
遠く県外で暮らして、もう何年経ったでしょう。
子どもたちも幼い頃にあったまま。
今ではすっかり大きくなったことでしょう。


あまり、というかこれまで手紙や年賀状のやり取りをすることなく
それぞれの時間を過ごして来たその従姉に
初めての手紙を添えて送りました。


実は諸事情があって、住所を知らされていなかったので
叔母(その彼女の母親で、私の亡母の妹)に訊ねたのですが、
その際に、今どうしているのかも聞いてみました。

すると、
「今ねぇ、病気らしいのよ。入院してるんだろうけど‥‥
私もよくわからないのよねぇ‥‥。」とのこと。
「でもそれもあって、もう直き連休に帰ってくる予定なのよ。
帰って来ても滞在期間は短いんだけどね。」
という話しでした。


「え?!‥‥病気‥?」と
この時少しだけ、『虫が知らせたのかなぁ‥‥』とも思いました。
いえ、正直手紙を書く時点で、
なぜか「病気なんかになって無いか知らん‥‥。」という思いが
ちらっと頭をよぎりました。

とはいえ、普段人様に手紙を書く時にもそんな思いが浮かぶもので、
この時もそういった程度だったと、思います。

手紙と名簿は、行き違いになってもあちらには子どもも居ることだし
と、現在暮らしている住所宛に送りました。

もう少し、早くに連絡を取っていれば、様子もわかっただろうに…
とも思い、自分自身の筆無精を悔やみました。


     ☆☆☆

彼女には子どもが3人。
夫とは事情があって離婚。それからは親子4人で暮らしている。
上二人は自活して一番下の子は高校生とのこと。

私は、9年前に亡くなった母からの話でしか
彼女のその時々の近況を知ることはありませんでしたが、
ひとりで3人の子を育てる生活は、さぞかし大変だったろう、と思います。

私が前勤めていた職場にも、離婚してひとりで子どもを養っているひとが
何人もいましたから、想像に難くなかったのですが。


     ☆☆☆

しかし、いくらたっても、叔母からも当の本人からも
何も言って来ないまま10日以上が経ちました。

気にはなりつつ、それでも先方からの連絡待ちしていたのですが、
(叔母は補聴器をしているのですが、それでも聞こえづらいようで
まして電話では詳しいことが聞けないという事情がありました)
つい3日程前(21日)、弟からの電話で
従姉が肺の癌で入院しているそうだと聞いたのです。。

あまり芳しい状況ではないようだ、とのことでした。。。


まだ今、こちらにある彼女の実家の様子も状況もわからないので
(母が健在だった頃に比べると、あちらの状況がわかりにくいこともあり)
これから連絡を取ってみようと思っているところですが、
私に出来ることがあれば、出来る限り力になりたいと、思います。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

☆別のことが切っ掛けでふと4時頃目が覚め、
従姉のことも思いめぐらしているうちに眠れなくなってしまい、
それならば、と、こうして書き留めている次第です。

外が すっかり 明るくなってしまいました。


☆中学時代の女子バスケ部の集まりの様子、以前mixi日記に書いていました。
今年 2/1の日記
*同じく今年8/3の日記にも。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

'08 10/24 16時42分追記:肺の癌、というか、「扁平上皮癌」というものらしい。




☆以上は、10月24日にミクシィ日記に書いたものをこちらに転載したものです。
 

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いよいよです♪

2008-10-22 23:37:05 | 名越左源太と家族
待ってました、『南西諸島史料集 第2巻』!!
          2008年11月第2巻刊行

今年3月26日に県立図書館で
以前から読みたかった『夢留』をコピーして綴ったものを
書庫から引っ張りだしてもらって手にしたものの、
ちょっと読むのが困難で、半ば諦めていたのですよね。。

しかし!これで待望の『夢留(ゆめとどめ)』を読むことが出来ます♪


これも、紹介してくださった『幕末奄美遠島生活』のブログ主、bizaさんのおかげです!
ありがたいことです。(^-^)
  
      ☆  ☆  ☆

南島の歴史・民俗研究家、待望の一冊が登場する。南方新社HP
           
限定500部    
第2巻『名越左源太関係史料』遂に発刊

江戸末期の南島の風俗を描いた不朽の名著「南島雑話」で名を残す薩摩流人・名越左源太の関係史料集。
「大島遠島録」をはじめ、翻刻は困難と言われていた「夢留」の活字化に成功。今回、編者が新たに発見した「南島雑話」の異本「南島雑記」も収録。
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黄色い彼岸花

2008-10-08 00:32:15 | 日記
最近は、朝夕も随分過ごしやすくなって
少し肌寒いくらいです。

そろそろどこかへドライブにでも行きましょうか。

また近いうちに新しい画像をアップ出来るといいな♪
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「平川の国生先生」mixi日記より

2008-10-07 22:35:29 | 日記
鹿児島市のホームページが面白いです!
(追記 2017. 4. 10/注:残念ながらリンク先はなくなりましたので
   代わりになるページがある分はリンク貼っています)

こういうの見つけると、つい、いろいろ読んでしまう
県や市のホームページって、使いにくかったり
ちょっとつまらないイメージがあったけど、
いつからこんなに充実したんだろう??
といっても、日頃よく見てたわけじゃないのですが。


<メモ>
「国生先生記念碑」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_29834.html#2
大正三年の桜島大爆発後、平川小学校の校長となった国生岩右衛門先生は、子供たちの家庭が貧しいためよく学校を休むことから、平川の教育は貧乏から脱け出さなければ成功しないと考え、土質、気候のよく似ている桜島と同じように、びわの木を植えることを思いつきました。ーーーーーーー


「島津久光」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_28685.html#2

 西郷隆盛が参議を辞めて帰国した後、内閣顧問に任ぜられ、翌年、左大臣に任命されたが、保守的な傾向が強くて政府首脳と対立し、一八七五年(明治八)辞任して、郷里鹿児島の玉里邸に隠退した。そして、一八八七年(明治二十)十二月六日、七十歳で病死し、国葬によって福昌寺墓地に葬られた。現在、照国神社隣りに、斉彬、忠義、久光の銅像が建っている。ーーー

☆玉里邸(島津久光の別邸)跡は、私の母校の中にあるのです♪


「若き薩摩の群像」&「長沢鼎(磯永彦助)誕生地」
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666/_28680.html#3

このページも残っていません。
 変わりに、以下に該当するページを貼っておきます。(追記 2017. 4. 10 )
 内容については当時とは変わっていますのでご了承ください。
「若き薩摩の群像」「長沢鼎誕生地」
「磯永彦助(長沢鼎)」


などなど。
きっとあなたもハマること間違いなし!

さあさ、こちらからどうぞ。
    ↓
<名前からさがす>
http://www.city.kagoshima.lg.jp/_1010/kanko/_28665/_28666.html

☆このリンク先も残っておりませんので、
 コチラは当時のものではありませんが
 代わりとなる『偉人賢人』のページを紹介しておきますのでご了承ください。(追記 2017. 4. 10 )

  
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「"ワイン王 長沢 鼎" というひと」mixi日記より

2008-10-07 19:26:08 | 歴史探索
先程、アメリカ・ニューヨークにお住まいのマイミクさんの日記から
関連記事へとんで、「NY永住組」というコミュを見つけました。
mixi内にも本当にいろんなコミュがありますね。
改めて、海外で暮らしている方々も多いのだなぁと感じること暫し。

そこから日系人のためのサイトへ飛んだら、
幕末の薩摩からイギリスを経て、アメリカへ渡った
「長沢鼎(ながさわ かなえ)」に関する記事がありました。
       ↓    ☆以下、リンク先が残っていないものが多々あります(追記 '17. 4.11)
   「グレープ・キング」長沢鼎の足跡

鹿児島出身の方ですから、当然名前も知っていましたし、「ワイン王 長沢鼎」としても有名ですが、イギリスに留学した後、アメリカで偉業を成し、彼の地に骨を埋めた、ということくらいであまり詳しいことは知りませんでした。
(「カリフォルニアの葡萄王」となっていたり、いろいろですが‥‥)

おそらく現地に残っている資料を元に書かれたのだと思いますが
このサイトの記事はとても興味深く、詳しいことが書かれていました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


[長沢鼎(ながさわ かなえ)](1852~1934)
http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzon.html#nagasawa

>> 元薩摩藩士。藩の名門校、開成所で英語を学ぶ。1865年、藩費留学生として
森有礼、鮫島尚信らとともに若干13歳でイギリスに渡る。<<
                     ーー 上記記事より ーー


☆上記記事にもあるように、
長沢らがイギリスに留学した当時は鎖国中であり、
幕府に対して彼らは脱藩・密航して国外に出たという筋書きになっていた。
「長沢鼎」という名前はこのとき藩主から与えられた変名であり、本名は実は「磯永彦助」。



記事によると、
>> スコットランドの中学校に入学して英語を学んで2年が経ったころの長沢に、劇的な出会いが訪れた。宗教家トマス・レーク・ハリス。カリスマ的指導力を持つアメリカ人である。<<

宗教家が絡んでいたんですねー、知らなかった。

そこで、改めてWikiで「長沢鼎」を検索したのですが記載がなく、
そのかわり、「トーマス・ブレーク・グラバー」というスコットランドの商人の記事がリンクされていました。
長崎グラバー園の、あのグラバーさんですね。

グラバーさんは「政治的混乱に着目して薩摩・長州・土佐ら討幕派を支援し、武器や弾薬を販売。薩摩藩の五代友厚・森有礼・寺島宗則、長沢鼎らの海外留学の手引きもして」いたらしい。
そんな関わりがあったことは知りませんでした。



長沢鼎に関する記事のつづき ーー

>>このころ本国日本ではいよいよ倒幕の気分が沸騰し、その対応に忙しい薩摩藩は留学生の生活を一時的に見放していた。1867年、長沢ら留学生有志はハリスに同行して渡米。ニューヨーク州ブロクトンにある教団コロニーに居住し、ワイン醸造などの労働に従事しながらハリスの教えに従った自給自足の集団生活を送ることになる。
 1868年、明治維新の報に森らは帰国したが、ひとり長沢のみはハリスの希望により教団に残された。<<ということらしいです。


☆「長沢ワイン」でGoogle検索するといろんな記述があります。
http://www.sommelier.jp/higashikanto/CALIFORNIA14june2004_3.htm
↑ここからのリンク
http://www.sf-japan.or.jp/news/0407/0407-03.htm


「ナガサワワイン」
http://www.rakuten.co.jp/yamakataya/1821359/378185/


ちょうどNHK大河ドラマ「天璋院 篤姫」が、
次回辺りからこの頃を舞台に展開していくので、
想像をめぐらせると2倍3倍に楽しめます。


*ちなみに、薩摩藩留学生15名の中には、名越左源太の長男もいました。
私の曾祖父のお兄さんですが、こちらは薩摩に帰って来てからは
なかなか思うような生き方が出来なかった、と聞いています。

註: 渡航したのは総勢19名ですが、藩費留学生は15名で、
   新納久脩・松木弘安(寺島宗則)・五代友厚の三名と
   通訳:堀孝之(長崎出身)とともにイギリスに派遣。

☆ 鹿児島市のHPより「磯永彦助(長沢鼎)」(← '17. 4.11 追記 )

☆ 下の2枚の写真は2008年3月16日に訪ねてみた興国寺跡墓地で撮ったもの(← '17. 4.11 追記)

興国寺跡墓地で見つけた長沢鼎の墓への案内表示。


*墓地への入り口。

 
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