☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪

2019-05-26 21:55:04 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
 トップ画像は
黎明館開館30周年記念企画特別展「島津重豪 薩摩を変えた博物大名」のチケット
その下は調所広郷の似顔絵を名越左源太時敏が29歳の頃に描いたもので、
これをもとに、よく知られるあの肖像画が描かれたと聞きます。
 
昨日の投稿記事「平田靱負と藩主・島津重年」で島津重年とその嗣子・重豪について少し書きました。
 そこで、今日は重年とその子・重豪について書こうと思います。
 
島津重年は、第22代藩主・継豊の二男で、兄・宗信(継豊の長男)が22歳の若さで亡くなったため、
21歳で藩主を継ぎました。
 
※以前の関連記事
 
※また、宗信に関する記事を昨年『雪見月のチェストブログ』↓に書きました

福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓 

 

『島津歴代略記』より

島津宗信 [享保十三年(1728)- 寛延二年(1749)]

  継豊長男。母は渋谷喜左衛門貫臣の女子。お嘉久。妙心院殿。

  享保十三年六月十三日、江戸の芝藩邸に出生。初め益之助・又三郎・忠顕。

  同二十年(1735)継母・竹姫に伴われて八代将軍 徳川吉宗に謁し、「誠に英物なり」と褒められたといわれます。

  翌二十一年(1736)元服。元文四年(1739)元服の礼を行なって松平姓と諱を賜り「宗信」と改めました。

(中略)

  延享三年(1746)父・継豊(46歳)が隠居して宗信が封を継ぎました。・・・この時、宗信19歳ですね。

 

一方、翌十四年(1729)二月十一日生まれの弟・重年の実母は、島津求馬久房の女子。お登米。嶺松院殿。

・・・という事です。

 

また、重年の夫人は、

  垂水家島津備中貴儔(たかとも)の女子。都美。正覚院殿。

  花岡家島津大学久尚の女子。お村。智光院殿。

とありますが、重年長男・島津重豪(第25代藩主)の母は、垂水家島津備中貴儔の女子。都美。

この島津貴儔は継豊の同母弟、須磨(=名越右膳恒渡[つねただ]の妹)の子なので貴儔の娘・都美は須磨の孫娘。

なので、その子・重豪は須磨の曾孫、ということになります。

 ☆名越右膳恒渡[つねただ]は妹・須磨が江戸・高輪藩邸で島津吉貴夫人となり、自らも薩摩藩に仕えることになり名越家を起こした

 ☆須磨(=月桂院)についてはこちらを→ 「月桂院とは

 

延享二年(1745)十一月七日、鹿児島城下の加治木島津家邸に出生。初め善次郎・兵庫・久方・又三郎・忠洪(ただひろ)。

宝暦三年(1753)鶴丸城にて元服。・・・重豪この時9歳

翌 四年(1754)父・重年に従って江戸に上る途中、薩摩藩士による木曽川治水工事を巡察。

さらに同 五年(1755)、11歳の時に父・重年が亡くなったため本家二十五代藩主を継ぐことになる。

宝暦八年(1758)九代将軍・徳川家重に謁し、同年元服の礼を行ない、諱を賜って重豪と改めた・・・そうです。

 重豪は幼年であったので、初め祖父・継豊が藩政を後見したが、木曽川治水の直後でもあり、藩の負債は

金八十八万六千両に達していた・・・とあります。

 

前稿で書いた通り、第23代藩主・宗信が若くして亡くなった寛延二年(1749年)の藩の負債:金五十六万両から更に三十三万両近く脹らんでいるんですね!

 

結局、長男・二男ともに先立たれ、孫の重豪の後見となった継豊は 、宝暦十年(1760)九月二十日、鹿児島で亡くなります。

歳六十。

ということは、重豪が後を継いで5年、将軍・家重に拝謁・元服の礼から2年後、16歳の時に祖父・継豊が亡くなったんですね。

それぞれがそれぞれに大変な思いをされたのだなぁ、と思います。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平田靱負と藩主・島津重年

2019-05-25 17:43:35 | 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊
☆いつもお読みいただきありがとうございます。
前回の投稿から少し間が空きましたが、その間のことを別ブログに書きましたので
宜しければご覧下さい ⇒アメブロ「ゆきの時間」”『西郷どん』から、菊池源吾と名越左源太と”
 
 
さて、今日5月25日は、平田靱負の命日です。
毎年鹿児島市内の平田公園(平田靱負屋敷跡)では「薩摩義士慰霊祭」が催されます。
 
 
 
平田靱負は江戸時代中期の薩摩藩家老で、宝暦3年(1753年)の木曽三川治水工事(宝暦治水)の責任者でした。
検索するといろんなサイトに各記述があるのでここでは詳しいことは省略させていただきます。
※参考までにWikiの「平田靱負」を以下にリンクしましたのでご覧頂ければと思います。
 
※以下、Wikiより抜粋し、併せて当時の年齢を書いてみました。
 
平田靱負 宝永元年8月12日(1704年9月10日)
 
   九歳 正徳2年(1712年)4月15日:島津吉貴の加冠をうけて元服し、平蔵から兵十郎に改名。
  十四歳 享保2年(1717年):藩法により、将軍徳川吉宗の諱の字を避け、諱を「正輔」と改名。
 
 四十五歳 延享5年(1748年)1月21日:島津宗信により家老に任じられ、
            同時に薩摩国伊佐郡大口郷《現在の伊佐市大口地区》地頭職兼務。
            両方とも死去まで勤める。この任期中、通称を新左衛門から掃部、靱負の順に改める。
 
  五十歳 宝暦3年(1753年)徳川幕府は琉球との貿易によって財力を得ていた薩摩藩を恐れて、
            毎年氾濫による被害が多発していた木曽三川の分流工事を薩摩藩に命じる。
 
 
『島津歴代略記』を読むと、第24代藩主・島津重年が参勤交代で江戸に登る途中、まだ幼かった嗣子・重豪(しげひで・当時十歳)を伴って工事現場を巡察し、平田靱負以下を激励してその労をねぎらったとあります。
 
 
治水工事は、宝暦4年(1754)〜翌5年(1755)四月、一切を完了し見分の上、幕府に引き渡されました。
治水工事の総奉行・平田靱負は工事の後始末を全て終えた後、配下に多くの犠牲者を出したこと、工事費に莫大な予算超過をしたことなどの一切の責任を負って、美濃大牧の陣所に自害して果てました。
五月二十五日。この時五十二歳でした。
 
若き藩主・重年の心労も重く、平田靱負の自刃後一ヶ月にして、江戸の芝藩邸に歿しました。
宝暦五年(1755)六月十六日。重年、二十七歳の時でした。
 
 
 
※『島津歴代略記』より引用
島津重年
  享保十四年(1729年)二月十一日、鹿児島鶴丸城に出生。善次郎・兵庫・久門と称した
  重年は初め加治木家島津久季の養子となり、元文二年(1737年)元服
 
  寛延二年(1749年)兄の藩主・宗信が若くして亡くなり後嗣が無かったので、重年が本家に復し、第24代藩主を継ぐことになった
  同年、初めて江戸に上り、九代将軍・徳川家重に謁して松平姓を許され、また元服の礼を行なって諱を賜り「重年」と改めた
(この年の藩の負債:金五十六万両に上っている)
 
 
  
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする