☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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実方の別府家と川上家

2021-09-24 23:21:40 | 西南戦争
 トップ画像は『敬天愛人』第37号p.205より 
 
9月24日は、明治10年(1877年)に城山で西郷隆盛らが終焉を迎えた日。
 
今日はニュースでもFBでも、#西南戦争 関連の記事を多く見かけました。
自分でもちょっと整理するために関連事項を書いてみます。
 
#桐野利秋#別府晋介 の従兄だと云うことはよく知られているけど、別府晋介と兄・別府九郎の父、別府十郎の姉・スガが、同じ実方の桐野兼秋と結婚し、二男として利秋が生まれた。
(『敬天愛人』第14号 1996年9月24日発行より)
 
 関連記事
 『桐野利秋の実像は?』('18.9/9)
 『桐野利秋生誕地』('18.1/22)←※ と書いておきながら、
    FBにしか記事を書いていなかったことに気づく!
    あとで記事をアップしてリンク貼る予定です
 
 
 別府晋介の兄、別府九郎の墓石。(墓所の画像は全て、2011年7月2日、7月4日に撮ったもの)
 
 
 
西郷南洲顕彰館には、桐野が別府兄弟(晋助の弟・作四郎を含む)と並んで撮った写真(皆、まだ髷があり刀を差している)がある。
 
その写真にはもう一人、「川上忠太郎の長男・笑左衛門」が写っており、彼も西南戦争で亡くなっている(享年18)。
写真の川上笑左衛門の顔は残念なことに、墨か何かで黒くなっており判別できない。
 
 
笑左衛門の父・川上忠太郎は、別府九郎・晋介兄弟の義兄(姉の夫)である。
別府家と川上家は松平墓地に隣り合って祀られている。
(☆歴史好きな方はずいぶん以前から知られていると、当時初めて会った再従姉から聞きました)
 関連記事
 『別府晋介誕生地@実方』(2017.4.3)
 
 
前述同書に『別府九郎と西南戦争』と題し、塩満郁夫氏が墓の写真を掲載して以下のように書いている。
要約すると、
 
別府九郎は市ヶ谷監獄に収容されたが、懲役5年のところ、明治14年には釈放される。長男・九郎は国事犯となったため除族されたが家を継がせた彦兵衛(おそらく九郎の子供)はまだ幼く、十郎が家を守って来た。隠居するにあたり、九郎は平民となったが家督を譲りたいと、明治14年2月の隠居相続願いが残っているそうだ。
おそらく跡を継いだであろう九郎だったが、釈放からわずか1年余りの明治15年旧5月18日に41歳で亡くなっている(前述同書 p.259より)
 
なお、二人の息子を亡くした父・別府十郎は、明治21年に83歳で亡くなったそうです。(前述同書より)
 
川上忠太郎の長男が川上笑左衛門
 川上忠太郎の妻の墓石↓には別府家の家紋を入れている(画像後ろの墓石・2011年7月4日撮影)
  
 
  
☆↑小さい画像をクリック↑すると家紋がわかります(南洲墓地の「別府(晋助)景長墓」'18.3.30撮影)
 
 また、忠太郎の二男は(↑画像左)川上良助といって、その後妻に入ったのが、私の父の伯母(曽祖父・轟の長女)であり、その伯母の息子(=父の従兄)が、戦後実方に身を寄せていた父に算盤を教え、港湾の仕事を持ちかけた人であり、実方の川上家に碑銘を建てた人である。
父はずいぶん前に偶然どこかの病院で見かけたと言っていたが、再会するに至らず、この従兄は平成16年元日に亡くなっている。
 
※以前「伯母の長男」と書いていたところ、先妻との息子さんがおられるので「伯母の息子」と書き換えました。
本日読み直して気づきましたので、お詫びして訂正いたします。失礼いたしました。('21.12.5 記)
 
 
 
 ちなみに、別府家と川上家の後方に「西郷家」の墓があるけど、これは父の姉夫婦が眠る墓。
 
 
「西郷吉左衛門」と云う方が西南の役にて40歳で戦死しているけど、どう云う方かは不明です。西郷家で「吉」がつくので、勘違いされる方もおられるようですが、こちらでは全くわかりません。従姉に訊いてもよくわからないようでした。
 
 
姉夫婦をお参りする父('11.8.2 撮影)
  
コメント
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