☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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霧島神宮誌で歴代宮司名を確認

2021-11-30 23:50:57 | 永吉島津家

今日、前々から行こうと思っていた霧島神宮へようやく行ってきました。

明日からは寒くなるということだし、明後日の2日から23日までは国宝指定が決まった社殿などの特別拝観も始まるので混むだろうから、どうしてもその前に行かなくては!と思い立って行ったわけです。

 

紅葉もまだまだみられましたが、落ち葉もだいぶ積もっていました。

   

帰りにはだいぶ雨に降られましたが、平地に降りるまではどうにか保ってくれたので助かりました。

帰路はさらに西側山手の道を辿り、紅葉を楽しむことができました。

途中の温泉郷や川の流れなども目にして楽しめました。今度は温泉にも行きたいな♪

 

ところで、霧島神宮へ行った目的は、今回の国宝認定とは関係なく、島津登久包の嫡子であった島津久籌(高祖母・タネの実弟)が、明治7年に霧島神宮の宮司であったことを確かめることが目的でした。それは数年前からの想いでもありました。

 

去年だったか、『霧島神宮誌』に歴史や歴代宮司について載っていると、FBFに教えてもらったことで、ますます一度行って確かめてみたいと思っていたのです。

   

 

それが今日叶ったわけですが、社務所で問い合わせると、社務所の前にある参拝者休憩所兼売店に『霧島神宮誌』があると聞き、見本を手にとって歴代宮司の名前を確認すると、初代は田尻務(つかさ)で、明治7年6月だったか、西南戦争で神宮の財を提供したことにより処罰を受け職も解かれていて(これについては既知)、そのあとの2代目宮司は福崎氏(名前を失念)で明治7年12月からとなっていたのです。

ちなみに福崎氏は川上式部の次男で、『島津家家臣団系図集』によると、

「川上久美の次男・親之(藤次郎) 福崎助八季修養子 改 藤次郎季連」

とありました。川上式部久美の嫡男・久達はこれまで書いてきた通り、左源太の長女・イサさんの夫なので、義理の弟が2代目の宮司だったことは、これはこれで驚きでした!

再度社務所へ行き、問い合わせてみる事に。

霧島神宮の宮司(権禰宜?)の方がおっしゃるには、

「どういうわけか、ネットなどで書かれているようですが、記録にはありません。」

との事だったので、やはり少し落胆してしまいました。

「ネットで書かれている」というのは、元の情報源は何だろうか?

ネット情報は根拠が曖昧、という印象ですが、

このブログも入っているのか??

 

 帰宅後確認すると、これまでの記事に「明治7年に霧島神宮の宮司を務めた」と自分で書いていて、

島津 登について   2017-03-09 』

「5月26日 神戸最後の夜に・・・」 2020-05-26 』

何を根拠に書いたか確かめたところ、内村八紘氏の

『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)(第一回薩摩英国留学生の消息)』

に書いてあったのでした。

名越左源太の子孫の一人である内村氏がネットからの情報を載せることはないだろうし、、、。

何からの引用なのか、機会があればまた確かめたいと思います。

 

尚、最後になりましたが、

霧島神宮の宮司さんには、お忙しい中対応していただき、感謝しております。

ありがとうございました。

   

 

 

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祖母が戦後お参りしようとしていたお墓

2021-11-29 13:10:30 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

以前、今年の3月20日の日記『先祖のお墓探しは前途多難っぽい』の中で、父が「終戦後、台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話」を書きました。

  〈以前の日記より引用〉

  「父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??」

  「その時(昭和21年ごろか?)は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でした」   

 

 記事を書いて以降気になりながらも、興国寺墓地には行く機会がないままですが、今日になってふと頭に浮かんだのです。

思い返すと、祖母・ふくの「お母さん」とは、祖母が5歳になる前、明治32年9月に死別した「寺山家に嫁いだ実母」か、嫁ぎ先の、祖母にとっては義母に当たる「(旧姓・三原)ツタ」のことになるわけで、曽祖父の養母「栗川スガ」ではない事に気づきました。

(曽祖父の養母だと一代飛び越してるし、頭がこんがらがっていたようです

 

しかも、祖母・ふくの義母である、私の曽祖母・ツタは台湾で亡くなっており、お骨は我が家の家系の墓に納めているわけですから、祖母が言っていた「お母さんのお墓」とは、寺山家の墓所に納められた、実母・スキのお墓のことでは‥‥。

 

 あれ?

 

※ 実はここまで書くうちにも「寺山家の墓」かとは思っていたのですが、

よくよく考えると、祖母の実母・スキは稲荷馬場の「町田」から寺山に嫁いだ女性で、寺山の曽祖父との間に3人の子供(私の祖母・ふくと、その兄・姉)がありました。

 『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)   2019-09-25

ここ↑に書いていますが、

没年については、「明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡

 同 十月三日届出     同 十一月二十日受付」とあるのですが、遺骨が何処に納められたのかまではわかりません。

 

もしかして、町田家の墓所だろうか‥‥?

いや、スキさんは寺山家の女性となったわけですからそんなことはないですよね。

 

 明治32年に亡くなった後、台湾にお墓を作っていたのか、それとも、台北から台南へ移る際にでも本土に送り、もしかしたら寺山家の墓に納めるべく祖母の兄(長男・寺山用麿)がのちに本土に持ち帰り、遺骨を納めたのか、‥‥。

 寺山用麿は明治21年生まれ、大正9年に小倉で亡くなっているようです→『寺山源右衛門家』)

 

でも、祖母の父・寺山用行は台湾で暮らし台湾で亡くなっているから‥‥、今となってはわかりません。

興国寺墓地に寺山家の墓があるのか、ないのか‥‥。

今ある先祖供養の墓石に、これからも静かにお眠りください、とお祈りするばかりです。

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