☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
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㉑ 島津重豪の娘・敬姫

2022-07-21 12:50:03 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもご覧いただき、ありがとうございます

私はブログを書くのも読むのもPCを使うのですが、スマホだと読みにくかったりしないだろうかといつも気にしつつ、つい長々と書き、画像も大きいものにしてしまいがちです、、、

今時はスマホでご覧の方も多いかもしれませんね。

 

PCで見ると、「このブログの人気記事」という表示があり、

今日は『福昌寺跡の島津家墓地に』(2018-03-20 カテゴリー| 歴史探索)が5番目に上がっていました。

ありがたいことです   

 

で、どんなこと書いていたっけ?と、読んでみたところ、

そこにある画像について、

「「島津安藝忠剛」と「島津山◯忠厚」 こちらも今和泉島津家。忠剛は、忠冬の父で篤姫の父でもありますね。
※写真で見るだけでは山◯がよくわかりません‥‥あとで調べてみます。」と書いていました。

 

画像が小さく、またこの2008年の写真をPCファイルなどで探しても見つからないので、「島津忠厚」(今和泉島津家第8代当主)についてネット検索してみたのです。

 

吉貴公の祖父・島津綱久墓など』や『19代・光久公などの墓所』で「敬姫(島津重豪女)」の墓を確認しましたが、この方について今日知ることができたので記しておきます。

 

Wikiで「島津忠厚」を読んだところ、島津重豪の三男とあり、長兄・島津斉宣で、次兄は奥平昌高で豊後国中津藩第5代藩主(中津藩奥平家9代)とありました。この関係性は初めて認識したところです。

さらには、奥平昌高が継いだ奥平昌男へは、昌高の異母姉・敬姫が嫁ぐはずだったと!

 

昌高の姉・広大院(=茂姫、徳川家斉室)の項を読んでいたところ、

「弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に奥平昌男婚約者)がいる。」とあり、

それで気付いたのです

 

なるほどそれで、福昌寺墓地の案内図に珍しく「敬姫」と名前表記がされていたのですね

 「鍋保丸(綱貴男子)」の上のあたりに↓「敬姫(重豪女子)」とあります

 

 

 奥平昌男に嫁ぐはずだった「敬姫」は、若くして19歳で亡くなったとありました 

そして、その奥平昌男自身も失意のうちに24歳で亡くなり、重豪次男が「末期養子(まつごようし)」として家督を継いだ奥平昌高ということなのですね。

(Wikiによると「天明6年(1786年)9月20日、急逝した中津藩主奥平昌男末期養子として6歳で家督を継ぐ」とあります)

 

また、奥平昌高の子供たちを見てみると、その中に「女子:島津忠寛正室」とあったのです。

島津忠寛は佐土原藩最後の藩主で、その三男が西南戦争で戦死した 島津啓次郎(1857年 - 1877年)なのですね。

これまでは個別にそれぞれについて読んでいましたが、ここで繋がり、関係性がよく分かりました。

 

何がきっかけになるか、わからないものだな、と思った次第です 

 

結局、最初の「島津山◯忠厚」 の表記についてはまだ判明しません

 

 では、また書きます


関勇助誕生の地

2022-07-21 09:54:31 | 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008

 皆さま、おはようございます

 

以前、『維新のふるさと鹿児島ウォーク in 2008(1)』(2017-09-19 カテゴリー| 維新のふるさと鹿児島ウォークin2008) で「関勇助誕生之地」の画像を貼って紹介していますが、この一帯を歩いて回った2008年当時はほとんど知らないことだらけでした。

 

 画像を後で見直す中で「関勇助誕生之地」に関しても、説明板を読んではみたものの、当時はあまりピンときていませんでしたが、この「関 勇助」という人物は斉彬公が最も信頼を寄せていた方なのだということです。

 

改めて調べてみると、「かごしま市観光ナビ」に観光スポットとして紹介されているようです。

2008年に撮っていた案内板(下の画像)の説明をより詳しく紹介しています。

 

【関 勇助】 (せき ゆうすけ)

生没年不詳
名は広国、南塘と号した。城下高麗町(現・高麗町)に生まれた。

1851(嘉永4)年、島津斉彬が藩主となると、深く勇助の人柄と学問を愛し重く用いた。すなわち、常平法(飢饉の年のために備える法)の施行、城下士外城屯田兵の制度、藩内諸郷に郷校を設けて育英の事業を起こすなど、勇助の業績によるものが多かった。

また、蝦夷地(北海道)開拓計画のための調査立案や、大政の権限を朝廷に帰すための七ヶ条の意見書の添削など、重要な仕事のほとんどは斉彬が勇助にさせたものである。

勇助は、当時の著者たちの指導・教育に大変熱心で、西郷隆盛や大久保利通など多くの人材を世に送り出した。ひとえに勇助が日本の国の将来を考える思慮深い人物だったからであろう。

(出典:「鹿児島市の史跡めぐり人物編」鹿児島市教育委員会・平成2年2月発行)

以上、「かごしま市観光ナビ」より

 画像は2008年当時のものです。

 

 

 その後ここへは行っていないので、現在の様子がわかりませんでしたが、鹿児島市とは別のサイトのページで画像が見られました。リンクサイトを読むと、この方も「お由羅騒動」で謹慎処分を命じられていたことがわかりました。

 

 「関 広国」が本名、「関勇助は通称」とWikiにはありました。

今のところ、極一時期の動向しかわからないようです。

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追記:2022.7.21  12:45

芳 即正著『島津斉彬』のp.85~86に関勇助のことが少し載っていました