☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

金木犀の香りもそろそろ終わり

2010-10-17 13:21:50 | 日記
おとといからPCの調子が悪く、しばらくは携帯からのアクセスです。
したがって、リンク先を見るのもコメントや長文の日記など書き込むのもままなりません。。

今日はとても穏やかな秋晴れです。

おととい昨日と、風邪気味で身体の節々が痛くて何だかふらふらしていましたが、薬を飲み養生したので大分良くなりました。
もとはといえば、夜中1時過ぎまでPCのトラブル解消を試みた為。

それはともかく、少し生活を見直す必要があるようです。

と、云うことで
いっときネット活動は自重しますのでよろしく。
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『墓標を縫って 南洲墓地にて』の作者、湯場崎末次郎様へ。

2010-10-08 00:38:14 | 名越左源太と家族

名越左源太についてネットで調べ始めた頃に出会った、
『墓標を縫って 南洲墓地にて』というホームページ。

ここの「名越佐源太公の墓」に書かれていた、左源太の墓石の話から、旧墓石が立派なものだったため、都市計画で改葬される際に墓石屋が喜んで持っていったらしいことや、その後市内の坂元墓地に移されたらしいことなど手がかりをもらいました。

名越家の墓の場所を知りたかった私は、一縷の望みを持って市内の坂元墓地を父と尋ねてみたのですが、到底墓石を見つけ出すことは出来ないと思い、墓地事務所に行って改葬の際にまとめられた骨壺を見せてもらいました。
たくさんの骨壺がいくつもの棚に並べられていましたが、ほんの一画の棚の中を見せていただき、偶然にも蓋外側に「町田」と書かれたものを複数見つけただけで、あきらめて帰りましたした‥。(町田=名越家とは縁戚の姓)


また、長谷場墓地だったと思われる福昌寺跡や、その後ろの山腹にある龍源寺だか発照寺だかの墓地に登ってみたりしました。
でもそこにあったのは、何年も前に台風で壊れたと思しき墓石の塊とその中に残るわずかなお墓だけでしたが、この墓地の場所を市役所で教えていただいた時に、一画には加治木島津家の墓もあるという話で、確かに「丸に十の字」の大きな墓石もありました。

    ☆☆☆

ホームページ作者の湯場崎末次郎さんは、南洲墓地で趣味の日本画のスケッチをされているうちに、南洲墓地の墓石の文字が立派なことに惹かれ、拓本取りをされていたそうです。

そんな中、西南戦争で亡くなった方のご子孫や観光で来られた方達に
それぞれの墓石の場所を尋ねられたりするうちに、
この墓地に眠っている方々にまつわるエピソードをいろいろと調べられ、
ご自身でまとめられたのがこのホームページ、ということのようです。

その後、ご本人は亡くなられ、
末次郎様のご子息がご自身の別のホームページに
目次付きでそのまま保存掲示されておられるご様子です。


     ☆☆☆

名越左源太だけではなく、桐野利秋(今、映画『半次郎』上映中ですね)や村橋久成(薩摩藩英国留学生のひとりで、帰国後北海道でビール製造に尽力)にまつわる話や、「西郷札」に関する興味深い話など、また、南洲墓地を訪れた方々(中には俳優さんなども)とのエピソードなどもあり、とても読み応えがあります。

(その他のページへは最上のリンク『墓標を縫って 南洲墓地にて』の「もくじ」からどうぞ☆)


いろんな方々にも是非この湯場崎さんのホームページを読んでいただきたくて、以前からこのブログでも紹介しようと思っていました。


湯場崎末次郎様、根気よくホームページにまとめて下さって、
本当にありがとうございました。
敬意をもって心より御礼申し上げます。
ありがとうございました。

また、ご子息様には
断り無く紹介させていただきましたこと、
どうぞお許しください。

コメント (3)
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改めて『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』の紹介

2010-10-04 11:32:56 | Books
5月26日にこちらで2冊の本を紹介しましたが、
昨日の南日本新聞日曜版の11面、『読書』コーナー(書籍紹介)に
『名越左源太の見た幕末奄美の食と菓子』の紹介が載っていました。

著者は今村規子さん。
ブログ『幕末奄美遠島生活』を綴ってらっしゃる方です。
左記のブックマーク欄にもリンクが貼ってありますが、
当のブログは今は多忙につき<お休み中>のようです。



☆なお、新聞に掲載された紹介では
左源太の大島滞在期間は、わずか6ヶ月となっていますが、
正しくは、嘉永三年(1850年)から安政二年(1855年)の足掛け6年、
5年余りの期間ですので、お間違えのないように。

おそらくbizaさんがこの著書の冒頭で「日記に記された人名は60を超えており、小宿での日記が約6ヶ月分に過ぎないことを考えれば、かなり広い付き合いであったのでは‥云々」と書かれているのを
この紹介記事を書かれた方は勘違いされたのかな??と思うのですが。


ともあれ、これでまた奄美の食文化や左源太のことに興味を持って下さる方が
少しでも増えると良いなと思います。
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北川町教育委員会様へ。

2010-10-03 15:55:28 | 名越左源太と家族
以前から書いておきたいことがあったのですが、
梅雨入り前くらいから夏場に掛けてはじっとPCに向かってるのが苦痛で
前回アップしてからこんなにも時間が過ぎ去ってしまいました。

10月に入ってようやくPCに向かう時間が取れるようになったので
ここら辺りで記してみようと思います。

   ☆☆☆

以前、母が遺した数々の史資料に目を通した中で
『西南戦争、戦跡を訪ねて』(北川町教育委員会編発行 平成3年)
という冊子を見つけたのですが、(→そもそもの始まりはこちら
その中に、轟(とどろき)じいさんのことが載っていました。

*轟じいさんは私の曾祖父で、名越左源太時敏の次男。
 西南戦争後、明治15年に妻と長女・長男(私の祖父)を伴い
今の家系に養子に行ったので、まだこの当時は名越姓でした。
 (ちなみに父の父・篤彦は明治14年生まれなので、
 名越家生まれということになります。
 これもあとで年表を書いたり
 相関図を書いたりした中でわかったことですが。)


で、同じ内容のものを1枚のコピー用紙で見ていたのですが、
この冊子が原本だったことには一昨年から去年に掛けて気付きました。

この北川町って、どこにあるんだろう?と思っていたのだけど、
ネットで検索してみたら、宮崎県の北部で大分県に隣接するところなんですね。
以前は東臼杵郡で、その後2007年に宮崎県延岡市に編入されたそうです。

西南戦争と言えば、私の乏しい知識では
田原坂など熊本県が舞台になったイメージが強かったのですが、
少し調べてみたところ九州を縦横に走り回っていたんだなぁと
今更ながら気付いたのです。

鹿児島市内の戦跡や西郷南洲翁の終焉の地などは当然承知していますが、
しかし正直なところ、未だ西南戦争について把握しきれていないのです。

でも、こうして自分の曾祖父の名前を関係資料に見つけ、
わずかながらも戦中の動向を垣間見ることが出来るなんて、
なんだか嬉しいような有り難いような、不思議な感じがします。
第一、曾祖父が西南戦争に従軍していたことも知らなかったのですから。


ということで、北川町教育委員会様、貴重な資料を残して下さって
本当にありがとうございました。
父と、亡き母に成り代わりまして心より御礼を申し上げます。
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