☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

④ 第22代・継豊公夫人の墓、二つ

2022-07-05 21:13:49 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

吉貴公墓所の右隣に、同じくらい立派なお墓があります。(↑トップ画像)

吉貴公嫡男で第22代・島津継豊公の夫人の墓が並んでいるのです。

 こちら↓は前にも載せましたが吉貴公の墓。画像整理していても見間違うほど似ているのです! 

 

 写真を撮ってからずいぶん時が経ち、その間いろいろな事がありましたので、すっかり忘れていましたが、

この「継豊夫人」の墓石をぐるっと回り込んで後ろから撮ったものもありました。

 

 

 おもて面を撮っていなかったようですが、側面の神号の画像があります。

一部不明ながら「改號 可◯(天?)霊華姫命」と読めます。

 

今度行くときには、おもて面に刻まれている法名も確認したいと思います。

 

 

 墓所案内図で確認しますと、「21代吉貴」の右隣(画像では上隣)に「継豊夫人」とあるのがトップ画像の墓です。

 

おや?と思われた方があるかもしれませんが、有名な「竹姫=浄岸院殿」は図の左奥に表記があるように、「継豊夫人」と書かれたここではありません。

 この墓の配置に関して詳しいことは存じませんので、ご質問は受け付けておりません。何卒ご了承下さい。

 

・まず、吉貴公の隣にある「継豊夫人」ですが、継豊公には「竹姫」の前に、毛利長門守吉元の女子、皆姫=瑞仙院殿がおられました。

なので、最初写真整理をしているときはこの墓については、

「継豊夫人」とあり「後夫人」ではないので、最初の「正室」瑞仙院殿の墓かな?と思っていたのです。

ここでお断り:私の情報はほぼ全て『島津歴代略記』の表記順によります)

 

また、「竹姫」の次に記されているのは、

渋谷喜左衛門貫臣の女子、お嘉久=妙心院殿。

更に、島津求馬久房の女子、お登米=嶺松院殿。

となっております。

 

 それで、今回の写真整理の際に、2018年5月19日投稿↓の自分の別ブログを読み返し、

福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓

なかなか深く分析していたなぁ、と自分でも感心したのですが(笑)、

継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、

その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生

とあるのです。(『島津歴代略記』参照)

 

福昌寺墓地には「継豊夫人」の墓の表記はこの2つだけなので正しいかどうかわかりませんが、宗信公の墓所もすぐ近くにあり、あながち間違いでは無いのでは?と思っています。

   ・

   ・

   ・

☆と、ここでこの説はひっくり返ってしまいました

これに関して最後に書いていますが「妙心院殿」の墓は別の場所にあることがわかりました

なので、吉貴公の右隣の墓はやはり「瑞仙院殿(皆姫)」の墓のようですね。 

 

 「妙心院」の刻銘がある石碑(2017年6月4日撮影) これも供養の石碑かな

 

この宗信の母「妙心院」の名が刻まれた石碑は継豊公の墓所内にあるものだったと、気付きました。手前の石碑が上画像石碑の裏側で、画像奥に継豊公の墓があります。↓

宝暦十一年とあります。継豊公は宝暦十年(1760年)九月二十日、鹿児島に60歳で亡くなったそうです。

 

 

・さて次に、「竹姫」の墓ですが、吉貴公の墓の右手奥にあります。↓

 

こちらが「浄岸院殿(竹姫)」のお墓です。(↑2008年2月29日撮影↓)

 

美しい墓石だと思います (右奥は斉彬公の男子・哲丸さまのお墓)

 

 「改號 清川玉藻姫命」とあります。

(史料も何も見ていないので、法名や神号についての確認まではしていません)

 

 

‥‥と、 ブログにここまで書いてきましたが、

画像をよく見ていたら、案内図画面の左上↓にある「哲丸」墓の更に奥まった所(図の左奥)に

「継豊後夫人(宗信実母)」とあるのに気付きました 

こちらが「妙心院殿」ですね〜確認出来てよかった〜

『ー 略記』の配置図とも照合して「継豊後夫人」二人についても

更に(自分の中で)判明したことがあるので、また次回

 

 改めて、自身の画像整理のためにメモとして記しているだけ、画像を並べているだけなので、

地元の観光を盛り上げる目的でも、歴史について語る目的でもなく、

何かの参考になればそれはそれで嬉しいですが、

ご質問は一切受け付けておりませんのでご了承下さい(まぁ、ないとは思いますが

では

 

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③ 吉貴公後の夫人の墓、その2:慈恩院殿

2022-07-05 18:26:00 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

前回の月桂院殿の墓に続き、もうひとりの吉貴公 後の夫人の墓です。

墓所の案内図画像↓、中央付近に小さく「吉貴 後夫人」とあります。

福昌寺跡の墓所には、それぞれの墓全てに表示があるわけではありませんので、重立った方以外は墓前での確認はできません。

『島津歴代略記』巻末の配置図のコピーを持って行った時もありましたが、5年前のこの時も後で画像を見ながら案内図と照らし合わせることに。

  

 

その中で、「これは‥‥墓石、なのか?」と思うものがあり、後で見てもわかるようになるべく周りの景色を写り込ませつつ写真に収めましたが、未だよくはわかりません。

それが、こちら↓です。

【画像1】(2017年6月4日撮影)

 

背の高いものはおそらく「六地蔵塔」。

手前のものが墓石なのか石碑なのか、今もこういった石碑や仏教に関するものなど詳しくはないのですが、4年前、別ブログにアップした時にも「六地蔵塔」というものもよく分かっていませんでした。

(神道についても特に詳しくはありませんが…

 

また、一見墓石に見える石柱も、反対側には刻字があり改めて読んでみました。

画素数が小さく拡大してもはっきり読めないのですが、まず「浄國院殿‥‥」と読めます。

そのあとはよく読めませんが、左2行には「光明真言 百万遍」「光明真言 七十万遍」とあり、

亡くなった方への供養として奉納された石碑のようです。

【画像2】(2017年6月4日撮影) 後ろの階段は「宗信公墓所」への入り口↓です。

 

 

【画像1】にも写っていますが、『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』の記事で書いた「鍋保丸」の墓の右隣にある「重豪女子」の墓が右奥に見えます。↓

左手の石垣の向こう側は一段高くなっていて、「継豊公」の墓所区画です。

【画像3】

 

 ← 継豊公墓所への入り口。鍋保丸墓の向かい(Click

 

ここの案内図や『島津歴代略記』の巻末の墓地配置図で確かめてみるのですが、

「吉貴後夫人」の墓がはっきりしません。

もしかしたら、【画像2】の平台のようなものがそうなのかな?とも思いますが、

墓石が立っていません。いったいこれは、なんなのでしょうね?

 

ということで、「吉貴公後の夫人、慈恩院殿」の墓石ははっきりしませんでした。

※ 慈恩院殿 ‥‥ 相良大蔵長賢の女子

『島津歴代略記』には

夫人 ‥‥ 桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。零竜院殿。

      名越右膳恒渡の妹。お須磨。月桂院殿。

に続いて記載されています。

 

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② 吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

2022-07-05 17:49:05 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

 前回の『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』に続き、

カテゴリー「福昌寺跡島津家墓地」として過去に撮った画像で綴ってみます。

 

墓所の案内図にあるように、第21代・島津吉貴公の後の夫人の墓が2基あることがわかります。

その1基は吉貴公の墓の左隣にあります。

トップ画像中央の1基で、隣り合って立っているのは重豪公の後の夫人の墓です。

 

☆ここからは2008年2月29日に撮った写真をいくつか並べてみます。

継豊公墓所を背にすると、吉貴公の墓の前の通路があります。(福昌寺墓所 案内図) 

 

 第21代・島津吉貴公の墓(2008年2月29日撮影 )

 

吉貴公の墓に向かって左隣に、2基並んでいますが↓

右が「吉貴公後の夫人・月桂院殿(名越右膳恒渡の妹、お須磨)」の墓。亀趺碑(きふひ)があります。

2基のうち左は「重豪公後の夫人・慈光院殿(市田喜内貞行の女子、お登世)」の墓です。

さらに画像左に写っているのは、案内図によると「吉貴女子」の墓ですね。

 

☆追記:2022.7/6(15:21)あとになって見つけた画像、こちらの写真にも左端の「吉貴女子」の墓が写っていました(2017年6月4日撮影)

 

 慈光院殿(左)と月桂院殿の墓石が並ぶ墓所。亀趺碑も見えます。右には5年前の父がちょこっと写っています(笑)

 

 

亀趺碑越しに吉貴さまのお墓を写しました。(2008.2.29)

 

 吉貴公墓所の前の通路

 

 通路の向こう、階段を降りた奥には斉興公とお由羅様(真了院殿)の墓所があります。

  

 

 こちらは2017年6月4日撮影した島津吉貴公の墓です。2008年当時よりも綺麗になっています。

玉龍高校の生徒さん方が墓所のお掃除をされると確か聞きましたが、

お手入れしてくださったのかな?と思います。ありがたいことです

左隣↓に2基、月桂院殿(吉貴後夫人)と慈光院殿(重豪後夫人)の墓も見えます。

 

 

さてさて、吉貴公後の夫人・月桂院殿です。

前に『月桂院とは2017-05-19 カテゴリー: 名越左源太と家族 として書きましたので、ご一読いただけると嬉しいです。

画像を並べてみます。ここからは主に5年前、2017年6月4日撮影のものです。

 

残念なことに、墓石のおもて面は剝落、というか削られた?と思えるほどの損傷。

劣化・風化もあるかもしれません。

  

後ろには特に何も無いように見えました。

 

側面です。ハッキリとはわかりませんが、「桂(?)光珠姫命」と読める、かな?

 

斜め前から。かなり劣化も見られますが‥‥

 

2008年の画像↓とそう変わりはないようです。

 

亀趺碑の画像もいくつか。

 

表には梵字と「奉唱滿愛染明王咒一百万遍成就所」とあります。

(残念ながら知識なく、意味はわかりません…)

 

裏を見てみます。

 

 ←亀さんの尻尾〜

 

 

「太守継豊公御實母爲御武運長久 御‥‥」、上部がよく読めないので、2008年の画像も並べてみます。

 

上の続き、「御子孫繁栄國家安全◯民豊楽‥云々」と読めますね。

「享保萬年第十乙巳八月吉祥日」とあります。

 

調べたら1725年が「享保十年 乙巳」でした。

吉貴公が亡くなったのは延享四年(1747年)十月十日、齢七十三。

‥‥ということは、月桂院殿は吉貴公より22年も早く亡くなったのでしょうか?!

継豊様が生まれたのは元禄十四年(1701年)十二月 二十二日(江戸高輪藩邸に出生)

お須磨さま、おいくつだったのでしょうね‥‥(これって正しい解釈?)

 

(↑2008年2月29日撮影↓)背面から。中央が月桂院殿、右が慈光院殿。

 

 慈光院殿(重豪後夫人)の側面。こちらは5年前の2017年6月4日にも撮っていました。

「改號 慈心明慧姫命」と読めます。

 

 慈光院殿の墓、おもて面です。「慈光院殿佛心慧證大姉」とあります。

こちらは月桂院殿の墓と比べるとずいぶん鮮明に文字も読める状態。

吉貴公が第21代、重豪公は第25代、それぞれの室ですから年代が違うのでそれもそうかもしれませんね。

ただ!残念なことに、こんな綺麗な状態なのに、背面を見ると‥‥

落書きが刻まれていました〜 残念ですね。。(2017年6月4日撮影)

 

 

以上、吉貴公後の夫人の墓2基のうちの1基、月桂院殿の墓の画像と、

隣接する重豪公後の夫人・慈光院殿の墓、でした。

「ご覧いただきありがとうございました

 

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