☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

五輪塔板碑だった!

2020-06-29 16:37:21 | 歴史探索

ずいぶん前に行った鹿児島市吉野実方の「御内用方」の跡に、気になる物があったのです。

屋根の形をして、丸い模様や二つの塔のようなものが彫られた平板な石碑のようなものです(↑トップ画像)。

「実方(さねかた)というところ」mixi日記より 』

 

 

その時にはよくわかっていなかったのですが、クマタツさんのブログによく似たものを見つけました!

「本立寺跡」の記事内の画像ですが、「五輪塔板碑」というのですね、これ!(トップ画像↑)

島津家廟堂を訪ねる 』

勉強になります〜♪

 

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本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ

2020-06-29 12:26:26 | 歴史探索

ちょっと日数が経ってしまいましたが、アップするのを忘れていました

先週火曜日、23日に「本立寺跡」を訪ねてみました。

事前に他の方のブログ記事いくつかを参考に。

 そのひとつ、九州下町おやじさんのブログ『本立寺跡(島津家5代墓所)と、奈良原助八殉死の地と ~鹿児島市の史跡 』、

そしてもちろん、クマタツ1847さんのブログも参考にしました → 『 島津家廟堂を訪ねる 』

なので、リンク先をご覧いただくと同じような画像になってしまいますが、、、。

 

 

   扉が閉まっていて遠くからのズームなのでうまく撮れませんでした。。

 

 

 

  

先月末に「本立寺馬場」を訪ねた後に、「本立寺跡」を知ったのですが、今回は場所の確認だったのでこんな感じです。

また折を見て中も拝見したいと思います。

《 関連記事 》

  『仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて 』

  『「堂の前(どのまえ)」、、、とは?! 』

 

 それと、この日はもう一つの目的がありました。

「調所笑左衛門広郷」さまの刻銘が「島津重豪公のお墓の後ろ側の献灯にもある」と、

FBFにさせていただいている調所様直々に以前教えて頂いたのです。

 

     

    

 

「ここだよん♪」とでも言っているような三毛猫さんの案内付きでのぞいてみると、、、

ありました (4基並んだ左から2番目、後ろの石塔)

 

 

一番左↓に「調所・・」と読めます、が、その下が残念ながら読めませんでした。。

 

他の石塔を見ると、「三原藤五郎武◯」「有川勇馬貞◯」などもあります。

 

 

重豪公の墓所を訪ねる前に、右隣にある別の入り口から入り、「忠済公」夫妻のお墓も訪ねました。

 

    

ここで、まずは白黒猫さんが高い所で出迎えてくれました♪

 

何度も訪ねたくなる福昌寺、ですが、ヤブ蚊もいますのでご注意ください。 

《 関連記事 》

調所笑左衛門などの刻銘を確かめに 』

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島津直江久敬でコンプリート~!!

2020-06-28 13:11:56 | 爲恵祥院殿菩提石塔

いつもお読み頂きありがとうございます

 

これまでカテゴリー『「爲惠祥院殿菩提」石塔』でいくつか書いてきました。

  最初の記事は、2016年12月20日『名越右源太篤烈とは? 』

 

この石塔に刻まれている名前を調べていましたが、最後までわからなかったのが、

画像左の「島津直○久○」でした  

 

昨夜、別件で『島津家家臣団系図集』を見ている中で、

市成島津家「土岐氏本家」(主水家)一所持」 の久浮(23代?)の娘が

「初 二階堂蔀 行経室 後 島津直江久敬室」 と書かれているのに目が止まったのです

(野田さん、女性の情報まで載せて頂き、ありがとうございます!!)

 

以前書き留めたメモには「島津求馬家」5代・島津求馬久憑(画像右)の次代に「久敬」の名前があり、「愛之助 直江(早世不継家督)」 とあったのですが、「早世」を「夭逝」と同意だと思い込んでいたため、「これは違うかな」と判断していたのです。

 

最近になって35歳くらいで亡くなっても「早世」と書かれているのを目にしていたので、この記述もその類なのかと考えが及び、2012年11月16日に撮った画像を見直してみました。

 

やはり「島津直江久敬」と読めると確証した次第です

これで全員の名前が判明したことになります

 コンプリート〜

 

で、この方が幾つで亡くなったかはわかりませんが、

島津直江久敬様がご存命中にこの石塔が建てられたということになりますね 

 

この石塔、個人のお宅にあるのですが、我が家としてはどうにもなりません。。。

なんとか、どんな形であっても保存して頂きたいものです

 

 

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寺山源右衛門家

2020-06-25 23:52:50 | 曾祖父・寺山用之と後添いさん

今日は父方祖母の実父、寺山用之の命日でした。

昭和16年(1941年)なので、来年は没後80年になります。

昨年、『曾祖父・寺山用之の命日と曾祖母の名前 』を書いた時点では分からなかったことも少しずつわかってきました。

 

 昨年7月には除籍謄本を取り、曽祖父・寺山用之の兄が「寺山用信」であり、「寺山源右衛門」を継いでいること、明治20年9月7日に兄から戸籍を相続している事などもわかりました。

(昨年9月25日の記事『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に) 』)

 また、同じ稲荷馬場町の町田藤蔵の長女・スキと結婚したこと、子供は3人だったこと、長男・用麿は明治21年に生まれ、大正9年に小倉市で亡くなっていること、長女・節は明治25年に生まれ、妹より3年後に清水町の肥田木氏と結婚していること(その妹というのが次女・ふく、私の父方祖母)などもわかりました。

 祖母に兄・姉がいたことや、姉が肥田木に嫁いだことは父からも聞いたことがありましたが、確認出来て嬉しかったです。

 

ところで、『鹿児島城下絵図』で「寺山源右衛門」の住所をみてみると、安政6年・天保13年共に上竜尾町で今の南洲神社の下(北東)あたりだったようです。(ちなみに、隣は「伊集院伊膳」の名前になっていました。)

 これは以前チェックしていて、「ー 絵図」に載っているのは「寺山」姓は1件だけで、上町なのでこれかなぁ〜程度に思っていたのですが、「寺山源右衛門家」だということは『島津家家臣団系図集』に載っていたので鹿児島市内地図で現在の地番でもチェックしていました。

その時にはピンと来なかったのですが、「ー 絵図」で確認すると「大乗院坊中 善聚院」となっており、「'19. 6/25付」でメモにも書いておいたので、昨夜改めてそれを見てビックリしました

↑  これは間違いでしたので訂正 ('20.10.20追記) →『薩州島津家と寺山源右衛門家』('20.10.18にて)

 

先日も「仁王堂水」を訪ねて歩いていた↓「坊中馬場」のことだ

仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて 』

 

 で、今日は思い立って法務局まで父と出かけ、寺山の家があった場所の土地台帳を確認に行ったのです。

 結果は‥‥‥‥、明治35年以降のものしかなく、それ以前の寺山の記述を確認出来ませんでした。。

 

でも、いいこともありました

以前コメントで教えていただいたので一度見ていた「名越泰藏」「名越時成」と、それに続いて曽祖父の名前が記録されている土地台帳のコピーを入手することができたのです

 

コロナ対策で長時間滞在せずに済むようにコピーサービスをするようになったのかな?と思い尋ねると、以前から無料でいただけるようになっていたとかで、前回閲覧したときにはメモに取っただけでしたが、今日再度行ってコピーも手に入って、来た甲斐がありました

寺山の用之爺さんが繋いでくれたのかなぁ〜、なんて嬉しくなりました

 

帰りには、コロナ禍で外食を控えて以降、久しぶりに行きつけのうどんそばのお店で遅い昼食をいただいて帰りました

帰りつく頃に雨になりましたが、暑いくらいのお天気で満腹、満足な一日でした

 

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水上の野元彦十郎様も

2020-06-23 13:45:22 | 永吉島津家

またまた『【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様 』からのお話。

 

東京でイサと轟に会いに、従兄弟の九良賀野辰彦様と一緒に宿を訪ねて来られた

水上の野元彦十郎様」についてわかったことがあります

 

数日前のこと、別件で例の『島津家家臣団系図集』をみていたところ、

島津登家の系図に「彦十郎」の名前がありました。

以前もみてはいたのですが、今日はその下の「野元氏嗣」

に気が付き「はっこれは」と思ったわけです 

 

ということで、左源太の妻・タネの弟・島津久籌の息子が「永吉の九良賀野辰彦」さん、

さらに3番目の弟・久馨の三男・彦十郎さんが「水上の野元彦十郎」さんだったようです

 

野元彦十郎様も島津登久包の孫であり、イサと轟の従弟であったようです

は〜スッキリした 

 

でも、悲しいかな、彦十郎さんのところに「35歳卒」とありました。。

東京で会った時がいくつだったのかはわかりませんが、

明治23年、イサさん51歳、轟が41歳だったことから考えても

彦十郎さんが亡くなったのは数年後のことだったかもしれませんね。。。

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興国寺墓地を再訪(2018. 5.18)

2020-06-21 14:19:03 | 興国寺墓地

 いつもお読みいただきありがとうございます

 2年前の5月、興国寺墓地を再訪したのですが、

FBだけに画像をアップしていたのでブログにも記しておきます 

以下、自身のFBより転載

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昨日(2018. 5.18)再訪したのは、ここ!興国寺墓地でした〜♪
☆以前訪ねたのは、もう10年前になるんだなぁ。。
   ↓
「"ワイン王 長沢 鼎" というひと」mixi日記より
車で行っても付近には駐車するところはありません。
前に訪ねた時は車をどうしたかハッキリしなかったけど、現地に行ってみて思い出しました。
前回も同じ状況で、冷水峠の「びくに坂」の辺りを過ぎてもタクシー以外、墓地方向へ車で入れる道が無く、引き返して「尾辻病院」の先のコインパーキングに止めて、91歳の父とハイキング。
どうにかこの大階段を昇らずに行く道は無いものか、と見渡しても分かりませんでした。。
付近全体を見るための市内地図を持っていかなかったので、結局、前回同様、長ーーーい階段の下から昇る事に‥‥。
帰ってから地図見てみたら、どうやら南洲公園から延びる横道から入ってこられそうなので、次回また試しに行ってみたいと思っています。
前に行った時には詳しい資料も無く、「長沢鼎の墓」の場所が分かりませんでしたが、今回は目的の場所2〜3カ所(田代安定の家の墓地など)も判明し、更には思いがけない発見もありました。
ただ、広くて全体くまなく巡るには時間も体力も足りません。。しかも、暑くて汗びっしょり〜。。
(高崎五郎右衛門の墓だけはわからず断念。残念。。)
☆詳しくは、またブログに書こうと思います。
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
 
ということで、フォトチャンネルもアップしてみました。
興国寺墓地 2018
 
 ちょうどこの日に上町の勉強会のツアーがあったのだけど、
一度行って知った驚く程の長い階段や暑さに父が耐えられるかわからなかったので、参加予約はしていませんでした。当日になって「行ってみるか」とその気になってくれたので、二人で出かけました。
     
 
     
 
 勉強会の方々と同じ時間になり、遠くに姿が見えましたが、長澤鼎の墓や、田代安定の家の墓地を見るのが目的だったので、そこそこに帰りました。
 
    
 
 昨年7月22日の『【第1話】永吉の九良賀野 辰彦様と水上の野元彦十郎様 』にアップした画像もこの日見つけたものでした。
     
日が差して実際暑かったです。水分補給しながら墓地の右手の「島津家」の墓石などを眺めたあと帰路につきました。  
           
    
頭の上で野鳥の声がしました。足元にはキジバトも♪
    
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後醍院真柱(ごだいいんまはしら)誕生地碑

2020-06-20 12:57:34 | 歴史探索

FBをやっていると、過年の同日の自身の投稿記事を知らせてくれるのですが、

自分でも忘れていることが多々あります。

この「後醍員真柱誕生地」を訪ねたことも忘れていました。訪ねたのは昨年6月20日でした。

以下、1年前のFB記事よりコピペ(一部加筆しました!)

 

「後醍院真柱(ごだいいん まはしら)」
通称:彦次郎
国学者・大河平(おこびら)隆棟の二男、後醍院良次の養子に

 

従兄がTL(タイムライン)で誕生地碑をアップしていたので
「後醍院」という苗字も珍しいなと思い調べてみた。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/後醍院宗重

なるほど!後醍醐天皇の子孫で「後醍院」なんですね〜
それも「懐良親王」の子孫!

☆夕方父と一緒に行ってみたら、草に覆われて石碑が見えませんでした。

おまけに説明板も無くなっていて、残念なことでした。。(写真5枚)
個人宅のようだったので、全体像は撮れませんでした。

『後醍院真柱誕生地碑』
http://meiji-ishin.com/godaiinmihashira.html 

_______________________

  以下追記:2020.6.20 

上記リンクページの表示を改めて読んでみると‥‥、

「お由羅騒動」に関わった人だったんだ!と今更ながらに気付きました

  でも、どう関わったのかまではわかりません。。。

  以下、コピペ

「 後醍院真柱・・・薩摩藩士。国学者。
 大河平隆棟の二男として生まれ後醍院良次の養子となる。
 江戸で平田篤胤の門下生となり国学を学ぶ。
 嘉永3年(1850年)お由羅騒動に連座し謹慎を命じられる。のち許され藩校 造士館の訓読士となる。
 維新後は明治政府が設立した皇学所御用掛を勤め、明治10年に吉備国神社宮司となる。
 文化2年(1806年)12月2日誕生。明治12年6月13日死去。 」

! 6月13日は命日だったようですね

     以上、追記 

_______________________


もうひとつ↓(かごしまデジタルミュージアムより)

『後醍院真柱の誕生地』 の解説から
  「 文化2年(1805)国学者大河平隆棟(おこひらのたかむね)の次男として生まれ,後醍院家の養子となった。
 平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学び,造士館訓導(ぞうしかんくんどう),明治政府の役人,吉備津宮神社の宮司を務めた。
 著書として「神代三陵志」「参宮日記」「東行日記」などがある。 」

 

 

 

 

 

 

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ドルフィンポートの思い出と、古地図遊び♪

2020-06-19 15:57:15 | 日記

鹿児島市本港区の商業施設ドルフィンポートは、新型コロナ禍の最中、取り壊されてしまった。

最後にもう一度、と思いながらとうとうお別れにも行けないままだったので寂しい限りです。

 ↓ドルフィンポートからの眺めと「篤姫展」の思い出)

    

そんな思い出のドルフィンポートで催された、2008年の「篤姫展」の写真を見ていたら、

出口付近にあった古地図を写した画像があって、見比べてみると面白かったのでご紹介 

  

   

   

 

  

 

    

貝汁も美味しかったなぁ。。

   

父の同僚でもあった、故・谷川信夫さんの作品展も、昨年ここドルフィンポートでありました。

9月19日に行った時に、娘さんともお話することができ、父も昔を懐かしんでいました。

      

 

 

 

 

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12年前の画像とブログ記事

2020-06-19 12:56:09 | 日記

「皇徳寺跡」や「白山神社」で撮った写真を探してる中で、

2008年の12月のファイルに、こんな画像があった。

 

桐野作人さんのブログへの私の書き込みでした。日付は「 2008/12/21(日)」

記念に画像に撮ってたんですね。

 

で、この頃はどんなことやってたっけ?と、ブログ内を探してみたら、

こんな感じでした。→ 「2008年12月のブログ記事一覧」

 

12/12  『気がつけば師走 』とか、

12/24 『 ネズミがチュ~!(mixi日記より) 』とかの合間に書いたものということになりますか。

   これ↑見ると、2008年の前半の動向がわかります。大河ドラマ『篤姫』放送の年ですね。

  更には、前年の2007年を振り返って書いた

 『やっぱり、今年を振り返ることも大事ね。(2007年のmixi日記より) 』なんて記事も読めた(笑)

 

今はもう取り壊されてしまったドルフィンポートで開催された「篤姫展」

 

 右端の写真、左下に「ドルフィンポート(現在地)」という表示↑があった♪)

先祖のことを知りたいと思っていた私にとって、一つのきっかけを与えてくれたのは確かです。

そこで偶然見た「名越家」の文字の入った古地図、そこから屋敷跡を探しに行ったり、

(下↓の画像にあるのは「名越家」の場所を指す父の指 ^-^)

「たんたど」の「名越どん坂」や別邸跡(お由羅騒動の発端の密談の舞台となった場所)を探したり、

お墓はどこだろう?とネットで調べたりもしたのも、この年だったなぁ、と今では懐かしく思います。

 

後半の7月には、懐かしい上町の若宮神社の六月灯へ行ったり、

九博で東京大学史料編纂所史料の展示を見に行ったり、

小林市の地頭仮屋跡を見に父と車でドライブしたりしたのでした。

 

体力的にあちらこちらへ行くことは無理だし、そろそろこういう探索も一区切りかな、と思う今日この頃。

まぁ、わからないけど

 

 

 

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皇徳寺跡 2020

2020-06-18 23:04:09 | 歴史探索

前回の予告通り、『皇徳寺跡』を再訪した記録です。

(無駄に写真撮ってる気もする、けど

   ← ☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます

 

 

大きな岩の下にあった、首のない小さめの石像。これもおそらく廃仏毀釈の影響。

 

    ← ☆小さい画面はクリックすると拡大表示されます

もう少し進むと崖の下の竹林で薄暗くなっていますが、すぐにひらけて左手に

無外円照和尚、円照の師・峨山禅師の供養塔が並んでいます。

 

 

  ← ☆クリックすると拡大表示されます

更に進むと大きな石塔。「山本親匡(ちかまさ)塔」とあります

   

 

その角の左手奥には‥‥

 

 

 広い空き地に只々雑草が生い茂っていました・・・。

 

     

     

以前、2005年11月に来た時も、この空き地を見て「これが皇徳寺跡か‥‥。」と思って帰ったのだけど、歴代和尚の墓もなく、新聞記事の観音様(石像?)もなかったので、腑に落ちないままでしたが、今回も失敗〜

 

道は更に続いていたものの、空き地の隣は民家だったし、それ以上道の先へ進むという考えも浮かびませんでした。。 

で、今回もここまで。

あまり時間をかけると父も疲れてしまうし、日も暮れかかってきたのでこの地を後にしました。

      

 

 

 

↓仁王像も埋もれ気味です。。。

     

小道を元の場所に戻ると、こんな景色が広がっています。田植え時期なので、水田に水が張ったところに映り込んだ景色も綺麗です♪

画面右の小山は地域の氏神様「黒丸神社」。これも2009年3月8日に訪ねた場所。これもまたブログにアップします。

 

 

「皇徳寺跡」についてはいろんなかたがブログなどに上げておられます。

帰宅後に再度見てみたのですが、「かぶめ」さんという方の記事には歴代和尚のお墓まで辿り着けたことが載っていました

ご紹介しておきますね 

  『 皇徳寺跡 その2(鹿児島市) 』

では、今回はこれまで〜

 

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高祖父・名越左源太泰藏の命日に、皇徳寺跡へ再び

2020-06-16 23:33:59 | 名越左源太と家族

 今日6月16日は高祖父・名越左源太時敏(のち 明治期に改め、泰藏)の命日

 

明治14年(1881年) 5月16日は 私の祖父・篤彦が生まれた日。

泰藏二男・轟の長男であり、泰藏の孫である。

 

その一ヶ月後に、名越泰藏は亡くなっている。

 

 以前にも、左源太の命日関連のことを書いていますが、

カテゴリーもバラバラ( 爆!)

 

ざっと上げてみると、

 『 没後130年 』(2011-06-16 )カテゴリー: 名越時敏史料

 『名越左源太のお墓は? 』( 2017-06-16 )カテゴリー: 名越左源太と家族 

 『6月の左源太時敏もしくは泰藏 』( 2019-06-19 )カテゴリー: 奄美大島と名越左源太 

   ↑↑この記事の最後に、

「2021年6月16日には「名越左源太の命日、没後140年」」って書いてる。

そういうことになりますね。

 

 そして、 この6月16日は、左源太の二女・筆さんの誕生日でもあるようで、

昨年10月に書きました↓

 『大正14年まで生きた筆(フデ)さん 』( 2019-10-20 )カテゴリー: 大伯母・名越フデのこと

 

さて、そんな今日ですが、名越家のお墓に参るわけでもなく(名越家直系の方々とはお会いしたことがありませんし、他所様のお墓ですから)、先日からの流れで、以前訪ねた「 皇徳寺跡 」を再び確かめに行きたくなり、父親を誘って行ってきました

日中は暑いので、夕方遅くになりましたが、今の時期は日が長いので、写真を撮れるくらいに明るいですね 

 別途に次回以降、アップ予定です。

 

 

 

 

 

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伝・「三條小鍛冶宗近遺跡」 2005

2020-06-15 23:55:24 | 散策日記 2005

前回に続いて、2005年12月1日に訪ねた

鹿児島市五ヶ別府町 三重野(みしげの)の「三條小鍛冶宗近遺跡」です。

案内板にあるように、「京の役人、三条小鍛冶宗近が、薩摩国に流されて、この地に住み、刀鍛冶を学んだ」と言われているそうです。

ただ、伝わっている、といったほうがいいのかも知れません。

以前ネット検索したことがあったので、今回再度見てみたら、

コメント欄にクマタツさん(最近ブログを通してお友達になった方)のブログのURLがリンクされていました!

自家焙煎コーヒー「Gaya通信」」さんの2014年5月4日のブログ記事、

「伝説が史跡に…? 三重野「三條小鍛冶宗近遺跡」~五ケ別府」のコメント欄のトップで、

書き込み日付が「2014.6.14」だったので、クマタツ1847さんのブログのその辺りを見てみると、、、

ありました 2014年6月11日の「南九州市の知覧を訪ねる(その三) 製鉄遺跡」でした。

コメント欄も参考になります。ご覧ください〜 → コメント欄

 

  

 

 

入り口付近から撮影。父の向こうに小さく見えるのが石碑。

 

 

15年前の父、この時はまだ70代だった〜(^。^)動きというかポーズが若い(笑)

被ってるのは亡き母が使っていた帽子、着てるのも母が着てたコートですね、これは。

 

 

最近撮影された方のブログなどをみると、

周りも整備されて看板があったりしてわかりやすいようですね。

 (例えばchiroさんのブログ記事『三重野観音他 』←  '20. 6.30追記)

また久しぶりにこれらの史跡を巡ってみたいと思いました。

 

撮影地:鹿児島市五ヶ別府町 三重野(みしげの)

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隠れ念仏跡入り口と紅葉 2005

2020-06-15 23:17:54 | 散策日記 2005

訂正があります 2020.6.20にご指摘をいただきました

「隠れ念仏跡入り口」と書きましたが、こちらは私有地であり、

実際の隠れ念仏跡「三重野観音」は別の場所にあるようですので、訂正します。

以下は、以前書いたものですので、当時のままにしてあります。ご了承ください。。。

代わりに、と言ってはなんですが、季節違いの紅葉の画像をどうぞお楽しみ下さい〜

(bi~no3さん、あなたのお山を「三重野観音」と間違えてごめんなさい〜

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

2005年12月1日、地域の地図にいくつかの史跡が掲載されていたので

巡ってみたくなり、父と出かけたのです。

この坂を登っていくとあるらしいのですが、あまり入り込めそうになかったし、

ちょっと登ってみる勇気がありませんでした。。。

(↑  訂正した通り別の場所ですので入っちゃダメですよ〜 

 

 

☆この年は格別に紅葉が鮮やかでした

 

 

 

   

 

  

 

2005. 12. 1 鹿児島市 山田 谷地区〜三重野(みしげの)

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皇徳寺跡 2005

2020-06-15 23:02:55 | 散策日記 2005

ずいぶん前に撮った写真をブログにもアップしておきたくなりました

mixi をやってた頃のものですが、一度退会したので2006年までのものが

どのブログにも残していないのです

季節が違いますが、2005年11月24日に撮ったものです

細かい説明はここではしませんので悪しからず

《 関連記事 》☆雪見月のチェストブログ☆『歴史秘話ヒストリア 』

 

 

皇徳寺跡の仁王像と案内板でした。

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西村天囚と三原家の繋がり

2020-06-10 19:35:50 | 西村天囚(西村時彦)

昨日、西村時彦(ときつね)さんのことを書きました。

『懐徳堂』について覚えがなかったのですが、三原家の女性たちの確認のため、以前黎明館調査史料室 前室長の内倉昭文 さんから頂いていた黎明館調査研究報告第24集(二○一二年三月)別刷「『鹿児島県史料 名越時敏史料』について」を読み直していたら、その中に『懐徳堂』の名前も出ていました。

 

西村時彦すなわち、西村天囚氏の妻・タカさんと、私の曽祖母・ツタとの年齢差や親兄弟の名前の確認のために読み返したところだったのですが、それについて少しまとめて記しておこうと思います。

 

まず、曽祖母・ツタの生年月日は『 曾祖母・ツタの誕生日 』にも書きましたが、

  安政五年(1858年)10月23日

また、書いたつもりでその形跡が無かったのですが、我が家の除籍謄本に

「三原經賢 二女」とあります。

 

で、西村天囚氏の最初の妻・タカさんは、前述の黎明館調査研究報告第24集別刷 によると、

「(天囚より)二つ年下の鹿児島市生まれの三原経倫の妹」で、「慶応三年十月二十八日生まれ」(註「西村家戸籍謄本」によると同年十月十八日生まれ)」(p.55)

とのこと。戸籍謄本を重視して、

  慶応三年(1865年)10月18日

ということは、ツタより7歳年下になりますね。

 

さらに、「西村天囚の最初の妻は「三原タカ」で、まさしくこの「都見物」の帰りの大阪見物の時期(明治二十三年五月)は、天囚自身「大阪朝日」に入社した翌年であり、また「三原タカ」との結婚(同九月)の少し前でもあり、時期的にはその準備の期間といってもよい。」(同上p.55)とあります。

残念なことに、「明治二十五年死去したため 再婚したのが幸子夫人」(同じくp.55)とあり、明治23年の『都見物日記』から2年後には亡くなっているんですね。

 

そして『西村天囚伝』によると、西村天囚氏と再婚したこの「幸子夫人=サチ」も、「タカの親戚にあた」り、「三原経典」(註「西村家戸籍謄本」によると「三原経倫」の長女」ということで、ここも戸籍謄本を重視して考えればサチさんは「三原タカさんの姪」ということですね。

三原サチさんの生年月日は、

  「明治七年六月五日生まれ、鹿児島住」とあります。

  明治七年(1874年)6月5日生まれで、タカさんより9歳若いですね。

 

『都見物日記』で曽祖父・轟が4月22日に「三原御母様」と「おたか様」の所を訪ねていますが、

「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」 )

5月28日には「三原氏母様」もイサさんたち3人と一緒に鹿児島へ帰っています。

「5月28日 三原氏母様も一緒に鹿児島へ」 )

 

ここでも「三原氏母様」のお名前が無いし、曽祖母・ツタの母親の名前もわからないので確認はできません。

女性の戸籍を辿るのも簡単ではありません。。

また「三原經賢」と「三原経倫」の関係性もわかるといいのですが。。

 

☆「 黎明館調査研究報告」p.52を見ると、「トキツネ」という表記がありました。。

『西村天囚伝』、読んでみたいですね。上・下巻あるようです。

(後醍院良正編『西村天囚伝(上・下)』(一九七二年)だそうです)

 

コメント (2)
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