☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

楠木正成像と石谷町

2021-03-31 12:22:10 | 町田家の人々

 こちらもFBにアップした記事です

 

午前中にアップした記事、上野戦争からの楠木正成
先ほどシェア投稿した、2018年の記事「国士有馬新七」に関する投稿記事でコメント欄にもアップした、町田敬二著『国士 有馬新七』のこのページを読み直してみたところ、気になる事が!
水戸の光圀公が作らせた3体の楠木正成像、その一つが石谷に移され「楠公神社」が建立されていた?!
では、その像は今どこに?
と、ネット検索したら、鹿児島商工会議所のHPで見つけました!
宮之城の楠木神社に納められているそうです。
「現在は宮之城にある楠木神社に木像は移されて、そこで祀られている」とありました↓
 
 以下、鹿児島商工会議所HPより
 
「かつてこの場所(石谷)には、楠木正成を祀る楠公神社があった。 楠木正成は、河内国赤坂(現在の大阪府千早赤坂)を拠点に活躍した南北朝時代の武将である。後醍醐天皇のもとで足利尊氏らと対峙したが、建武3(1336)年5月に摂津国湊川(現在の神戸市兵庫区)において敗死している。ただ、南朝の後醍醐天皇に忠義を貫く姿勢から、特に幕末期、勤皇の志士らより崇拝されている。 楠公神社も文久元(1861)年9月4日、当時石谷奉行をしていた有馬新七が、神戸の広厳寺より楠木正成の木像を譲り受けて建立したといわれている。ただ、創建に関しては、石谷領主の町田久甫が広厳寺から譲り受けたものを、有馬新七らで協議して祀ったという説もある。どちらにしても幕末期の薩摩藩において、勤皇の志厚い有馬新七が関わったことは事実のようである。 さてこの楠公神社は、英国への派遣が決定した留学生らが、鹿児島城下から船出の地となる串木野郷羽島村へ向かう途中に立ち寄った場所でもある。一行が鹿児島城下を出発したのは、慶応元(1865)年1月17日のことで、その日に同社を訪れている。勤皇のシンボルでもある楠木正成を祀る神社への参拝は、英国行きへの決意とともに、海外で学べども日本人であることを決して忘れないとの思いも込められていたのかもしれない。 また、神社のある石谷郷は、留学生に選ばれた町田兄弟の出自である町田家の領地であった。留学生の一行は、参拝前に出水筋こと薩摩街道沿いの横井で昼食をとり、参拝後は伊集院の妙円寺(現在の徳重神社)を訪れている。 明治に入ると、楠木正成の木像は私学校に安置されることになり、神社などは取り壊されることになった。現在は宮之城にある楠木神社に木像は移されて、そこで祀られている。 この地の石碑などは地域の人々によるもので、神社があったことを伝えようと建立されたものである。その場へは、舗装されていない細長い参道が続いている。留学生らもこの土の道を歩いたのかと想像すると感慨深いものがある。」
 
ちなみに、「青葉茂れる櫻井の〜♪」と言う歌、楠木正成公の歌だったんですね〜 
『青葉茂れる桜井の 桜井の訣別・別れ』  (←歌詞と解説のサイトです)
今回のことで父に教えてもらって、初めて知りました
 
楠公の歌~櫻井の訣別~
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上野戦争と銅像

2021-03-31 11:54:28 | 日記

 FBへ投稿したものをこのブログに記します。

 

『英雄たちの選択』で「上野戦争」を取り上げていたのを視聴('18.8月の再放送)
上野の西郷隆盛像、作者は誰だったか確認していたら、いろんな事がわかった!
 
その1
だけど、首から下は「岡崎雪聲」の作だった!
 
その2
「高村光雲」のWikiを読むと、代表作のところに「傍らの犬は後藤貞行の作」とあった!
上野の西郷さんが連れている犬は作者が違う、って知らなかったなぁ。
 
で、ここに楠木正成像の画像が載っていたのでよく見ると、
「馬は後藤貞行の作」とあったので、では、楠木正成像の作者は誰?
と検索したところ行き着いたのが、これ↓
 
「楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されもの」だそうです!これも知りませんでした〜
 
「当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌(明治23)年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。 」とある。
 
これで、「その1」に書いた「首から下は「岡崎雪聲」の作」に繋がりました〜
 
当時、こうして色んな銅像が作られたのでしょうね。
 
補足:(上記のリンクHPより)
「馬を担当した後藤は、若い頃に騎馬術を習い、軍馬局で種馬について研究した後、理想的な馬の姿を描きたいと日本画、洋画を習った経歴の持ち主で、それでも飽き足らず彫刻を覚えたいと光雲のもとを訪れた人物。その才を見いだした光雲が、馬の製作担当に推挙した。巨大な馬像に挑んだ後藤は、並外れた熱意を見せた。」      
 
☆↓拾い物です
怪談風朗読 高村光雲「上野戦争当時のことなど(うえのせんそうとうじのことなど)」
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先祖のお墓探しは前途多難っぽい

2021-03-20 23:19:11 | 日記

少し前に『曽祖父の養父母の墓は‥‥どこ?』で先祖のお墓がどこにあるのか、あったのか、探さなくては!と書きましたが、2017年の6月に書いた『名越左源太のお墓は?』を読み直す機会があり、そこに自分で書いたはずのことをすっかり忘れていることに気づきました。

しかもそれは、2008年4月の『これまでの経緯ー2』に記していたものでした(正直ショック

※ 以下の通り

 

  ('08) 3/11(火)
   福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。

 墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
 名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

 *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
 市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
 まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
 左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

 

 目的が泰藏さん(名越左源太時敏)のお墓探しだったので、「資料・名簿などは残っていない」と聞いたことはすっかり失念していました。

ということは、用行さんや須賀さんのお墓・遺骨はどちらかの墓地から改装されていたとしても、もはや無いのかも知れません‥‥(それが一番のショック

 

 追記:(2021.3.21)

2008年に坂元墓地に行った時に撮った立て札には、「興国寺墓地」も「南洲寺墓地」も書かれていない

なので、まだ探す余地は残っていそう

「寺山家」の墓のこともあるし

  → 『薩州島津家と寺山源右衛門家』(2020.10.18)

   『曽祖父の養母・スガの命日でした』(2020.4.18)

 この記事↑の最後に書いたことを再録しておきます 

 「 そう言えば、スガさんのお墓って、どこにあるんだろう??

  父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??

 訂正:2021年11月29日に『祖母が戦後お参りしようとしていたお墓』で訂正していますが、「スガさん」は曾祖父の養母なので「祖母のおかあさん」には当たりませんでしたゴメンナサイ

 

  その時は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でしたが、おそらく「興国寺墓地」ではなかったかと思われます。

  興国寺墓地は島津家のお墓をはじめ、古い家のお墓があるところです。私も以前二度ほど行ったことがあります。

  長澤鼎のお墓を見にも行きましたが、結構急な傾斜があるし、ただ行くだけでは見当もつきません。

  墓めぐりには時間と体力が必要です。第一、また行けるかどうか。。。 」

 

関連記事:『「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より』(2008.3.27)

 

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いづろの和田屋

2021-03-08 12:10:05 | 『都見物日記』番外編

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 さて、『【第3話】和田屋のすみばばと相良酒屋のばば』のタイトルにある「和田屋」について、昨年になってわかったことがあるのでここに記しておきたいと思います(確か、これまでには書いていないと思います)。

 

 FBで鹿児島の歴史を学ぶグループやFBFの投稿などで刺激を受けることも多く、興味を持ったことをネット検索する中で唐鎌 祐祥先生と北 隆志さんの共著ブログ『鹿児島市歴史地理散歩』を見つけました  

 

嬉々としてブログを読み漁ると、『⑥ 「下町の商店街」』(この著者は北 隆志さん)を見つけ読んでみたところ、

この「呉服商」の項に「明治22年ころの石灯籠通りの主な呉服商」として、いくつか店舗名を紹介する中に

 「呉服太物琉球反物商和田店」

という記述があり、これが「石燈籠(いづろ)の和田屋」ではないか!?と思ったわけです。

おそらく間違い無いと思うのですが、どうでしょう

欲を言えば、「和田屋のすみばば」と同行の「上町柳町の酒屋の相良」さんもわかるといいな、なんて

 

2021.3.12(金曜日)追記

冒頭で「確かこれまでに書いていないと思う」‥‥と書きましたが、今日改めて見てみたら、

昨年5月に『いづろの和田屋のおすみ殿』で書いていました〜(^-^;) コラコラ

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島津仲家の女性のお墓が福昌寺にあった!

2021-03-07 16:04:57 | 福昌寺墓地探訪その後 '20~'21

☆タイトルを『画像の見直しで思わぬ発見も♪』から変更しました('21.3.9)

 

以前『本立寺跡へ、ちょこっと福昌寺へ』に載せた画像(2020年6月23日撮影)で、

「三原藤五郎武◯」の名が入った石塔(画像③)画像をアップしましたが、これは島津重豪公の墓所ではなく、島津斉宣公の墓所にある石燈でした。

①    ②   ③ 

これは「調所笑左衛門」の刻銘のある石燈(画像①)の二つ右隣にあります

 

またそれとは別に、2008年2月29日(閏年)に撮った画像を見ていたら、

島津重年公の墓所近くで撮ったと思われる画像に気になるものがありました。

 

 花入・水皿の部分に十文字紋がある、彫りの凝った墓石を撮っていたのです。(上下2枚とも2008.2.29撮影)

 

これは南洲墓地の「栗川久澄」の墓石と同じ紋です →  

 

福昌寺の十字紋墓石、撮ったことすら忘れていたけど、これはきっと、何か関連するのではないか

と、昨日夕方確認に福昌寺墓地まで行ってみました。こちら↓は昨日撮ったものです

 

 

撮った時には暗くてわからなかったのだけど、画像整理しながら側面を見ると‥‥

 

「島津仲 久健 女 大奥御年寄格 壽賀」とありました

島津仲家の女性だったようです(第4代 久健の女子のどちらか。「島津家家臣団系図集」参照)

 

それで同じ島津仲家の「栗川久澄」さんと同じ十字紋だったのですね

☆関連記事:『薩州家のこと、島津仲家のこと』(2020.11.6)

   〃  :『曽祖父の養父母の墓は‥‥どこ?』(2020.12.22)

 

この↓左向こうに見えるのは、重年公のお墓です。

 

 

 

ところで、昨日ここを訪ね当てた時、墓石群の前で足元にあったレンガひとつ分ほどの穴に気づかず、コケてしまいました

でも、一面苔むしていて、とっさに付いた両手も膝をついた両脚も怪我なく済みました。苔に助けられたようです

もしかすると、いえ、きっと所縁のこの方が守って下さったに違いない、と思いつつ、

不幸中の幸いを喜んだのでした

 

 

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