☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

曽祖父が残した明治30年の澎湖の水産業レポート

2022-08-11 10:23:41 | 曾祖父・轟のこと

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

6年前に書いた記事『曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける

2016-09-12) カテゴリー| 曾祖父・轟のこと

この記事に貼っていた「国立台湾師範大学」のサイトのリンク先が見られなくなっていたので、先ほど「栗川轟(陳春暉 譯)(1939)」で探してみたところ、

logo

というサイトで見ることが出来ました

 

「篇名」というのは何でしょうか『澎湖白沙地區的社會與經濟變遷』となっていました。

作者:王右邦 出版年月:2007年

「出版品名称」『臺灣師範大學歷史學系在職進修碩士班學位論文』で、指導教授の名前も表示されています。

 

 この論文の「参考文献」一覧に曽祖父・轟の書いたものが上がっています。

上のリンクから画面をスクロールすると結構下の方にあります

  ↓↓↓

「栗川轟(陳春暉 譯)(1939) 

1999〈一百零二年前澎湖之水產業概況(原名:〈四十二年前の澎湖の水產業〉),《?咕石:澎湖縣立文化中心季刊》16:2-12。

 

 元記事に追記したように、この西暦表示がややこしいのですが、一百零二年前澎湖之水產業概況」というのは、1999年から102年前=1897年(明治30年)ということですね。

元となる書物が原名:〈四十二年前の澎湖の水產業〉」として1939年(昭和14年)に出版されたと。

その本の出版時(1939年)から42年前=1897年(明治30年)ということで、それが曽祖父がレポートしたものですね。

それが1999年に「一百零二年前澎湖之水產業概況」が《澎湖県立文化中心季刊》で掲載されたもののようです。

 

「原名」が「四十二年前の澎湖の水産業」と日本語ですが、昭和14年に「陳春暉」という方が日本語で書いて台湾語に訳したのか?それとも、1999年出版の際に台湾語に訳したのが「陳春暉」という方なのか、ちょっとはっきりしません‥‥。

曽祖父・轟は大正11年に亡くなっています。

 

肝心の明治30年の水産業レポートは国立中央図書館台湾分館に存在するようで、ツイッターで繋がった片倉佳史氏が冒頭にあるブログ記事を読んでくださって、のちにFBで繋がった際に8頁に渡るものをご教示頂きました。

 

 

 また、「「台湾総督府職員録系統」の明治29年の616ページ 」は2022年8月11日現在も見ることが出来ます。

画面のスクリーンショットを撮ってみたので載せておきます

 

リンク先のページからのスクショ、三段組みの下段に確認出来ます

 

それでは〜

 

 

 

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曽祖父の養母・須賀の前夫、島津務(司)久命とは?

2021-10-22 15:16:43 | 曾祖父・轟のこと

以前、『島津 登について』で頂いたコメントの中で、

「島津務(司=つかさ)久命」という人が気になり、今頃ですがネット検索してみました。

この方、曽祖父の養母・御須賀さんの最初の夫・「島津務(司)久命」だったようだ、とのこと。

(「久命」の読みがわかりません 「新納久命(ひさのり)」という名前があったので同様かな?)

 

検索した結果、そこから「島津歳久」→「島津常久」→「島津忠隣」と見ていったら、

「木脇祐定」の名前を見つけました。こちらは日向伊東氏の一族とのこと。

 

この結果、「島津務久命」についてはわかりませんでしたが、

自分用のメモとして取り敢えず並べてみることにします。

 

「島津歳久」 

これは単に「島津」と「久」に反応してヒットした模様 

 

島津 歳久(しまづ としひさ)は、戦国時代武将島津貴久の三男で、島津義久島津義弘の弟。日置島津家の祖にあたる。

【生涯】【略記】

祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ[1]、若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。

その初陣は、天文23年(1554年)、歳久が17歳の時の祁答院良重が拠る大隅岩剣城における合戦で、同母兄の義久、義弘もこの合戦で初陣を果たす。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院地方(現在のさつま町の大部分と薩摩川内市の一部)へ退くこととなる。

しかしその1年後の大隅蒲生北村城の合戦においては島津勢は敗北を喫し、義久・義弘兄弟は戦場より辛くも脱出し、歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。

永禄5年(1562年)、島津氏・北郷氏相良氏の三氏は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するのだが、歳久は北原氏への恭順に応じない北原旧臣北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久は永禄6年(1563年)から吉田城(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦の統治を任され、44歳になるまでの18年間を吉田城主として過ごした。

この間にかつて姶良地方を追われ祁答院地方の虎居城(現・宮之城屋地)に拠った祁答院良重は、なお入来院氏東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保ったが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(島津実久の娘)によって暗殺され、祁答院氏の勢力は急速に衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院氏、東郷氏などの渋谷一族はこぞって帰順し、ここに島津氏は鎌倉時代以来強勢を誇った渋谷一族の拠点である祁答院地方を平定した。この平定された祁答院領には後に歳久が入る事になる。

天正3年(1575年)には先行した弟の家久に引き続いて、歌道の伝習のために上洛。ただ歌道伝習は名目的なものであり、実際は情報収集と織田信長とのパイプを強化することが最大の目的であった。

天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津勢の侵略により豊後国に一時的に退去すると、伊東氏一族の娘であった梅を梅君ヶ城に連れ帰る。梅は歳久の側室となり、後に伊集院久洪室を産む。歳久には、児島備中守女との間の長女(婿養子の島津忠隣室)と、この梅との間の次女しか子供は居ない。しかも、二人の室は、ともに連れ子ありの再婚である上、身分が正室にしては低すぎるとの事から、歳久は側室のみで、正室はいないとの見方がある。

天正8年(1580年)、先に平定された祁答院十二郷(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川)1万8千石を加増され、虎居城に入った。歳久はこの地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果して行く。その後は56歳で死去する12年間をこの祁答院虎居城(現在のさつま町宮之城)を本領として過ごしたため、歳久直属軍は祁答院衆(宮之城衆)と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの祁答院衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、君臣間の信頼が厚かったとされる。

 

「島津常久」

島津 常久(しまづ つねひさ、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将島津家の家臣。薩摩藩家老日置島津家3代当主。

天正15年(1587年)、島津家臣・島津忠隣の子として誕生した。母は島津歳久の長女・湯之尾。

誕生してわずか3か月後の同年4月17日(5月24日)の根白坂の戦いにて父・忠隣が戦死した。残された常久は祖父・歳久の手によって養育されたが、その歳久も天正20年7月18日(1592年8月25日)、豊臣秀吉の命により自害に追い込まれた。歳久夫人と歳久長女はこの処分を不服とし、常久を擁して祁答院宮之城(現・鹿児島県さつま町宮之城)の虎居城に籠城した。この事態を重く見た細川幽斎と主君・島津義久新納忠元を使者として差遣し、歳久の遺族・遺臣を害さないことを約するなど説得を行い、1か月の籠城の末、常久成人の際に旧領を回復するとの条件で開城に至った。

成人後の文禄4年(1595年)に日置(現・鹿児島県日置市日吉町日置)の山田・神ノ川3600石を賜って移住、さらに慶長6年(1601年)には藺牟田を、翌年には祁答院船木村を、慶長13年(1608年)には伊作の中ノ里などを賜った。主君家久の信任厚い家臣として活躍、家久の代理としてしばしば江戸で人質役も務めた。これらの功績に対し、鹿児島城の詰めの城である上之山城の城主に任命された。

慶長19年(1614年)、疱瘡(天然痘)により急死した。享年28。日置の大乗寺に葬られ、後に同じ日置の光禅寺へ改葬された。

 

「島津忠隣」

島津 忠隣(しまづ ただちか)は、安土桃山時代武将島津家の家臣。

【生涯】

島津義虎と御平(島津義久の長女)の次男。天正12年(1584年)、男子のいなかった大叔父・島津歳久(義久の弟)の養嗣子となり、歳久の長女を室とした。

天正14年(1586年)、叛乱した筑紫広門征伐の副将に任じられる[1]。しかし若年であり、また初陣であったことから[2]島津義久より遠矢信濃守良時木脇伊賀入道祐定を付けられた上で7月6日鷹取城攻めを行った[1]。同27日の岩屋城の戦いにも参加、取添口より攻撃し軍功を上げた[1]

天正15年(1587年)、豊臣秀吉九州平定において島津氏は一方的な防戦となり、重要な戦略拠点である日向国の根白坂(現・宮崎県木城町)を宮部継潤に占拠されてしまう[1]。忠隣は、夜襲を掛け根白坂を奪回することを提案するが、無謀な攻撃であり島津家久(義久や歳久の弟、妻方では叔父、母方では大叔父にあたる)に反対されたという。しかし、その制止を振り切り根白坂を攻撃するが、それを予測していた宮部軍の反撃により忠隣率いる島津側のほぼ全員が討死し完敗した(根白坂の戦い)。

忠隣も鉄砲傷を被り、その出血はなはだしく家臣・鎌田囚獄左衛門政金に水を所望すると、囚獄左衛門が傍らにあった青梅を引き千切り差し出した[1]。忠隣はそれを末期の水代わりと一口食べ絶命した[1]。享年19。家臣らは遺体を盾板に載せて退却した[1]

なお、その年の1月に生まれたばかりの長男・常久は歳久によって養育され、日置島津家として系譜は続いた。

 

「木脇祐定」

木脇 祐定(きのわき すけさだ)は戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国島津氏の家臣。

木脇氏日向伊東氏の一族で、祐定はその祖である木脇祐頼より続く嫡流であるが、父の祐利の頃に伊東氏より離れ、島津氏15代貴久に仕官して島津氏の家臣となった。祐定も貴久に仕えていたが、主命によりその三男である島津歳久後見となり、弘治3年(1557年)4月には菱刈氏との戦いで兜首を討ち取るなど、その元で軍功を為した。

天正14年(1586年)6月、歳久の娘婿である忠隣筑紫広門攻めで初陣を果たす際は、遠矢良時と共にその補佐に付けられ鷹取城攻めに参加する。そのときの事、祐定は土瓶に水を入れ鑓に付けて回っていたのであるが、忠隣が焼山を通って顔が黒く汚れたため、忠隣の家臣・脇元城之介がその水を所望して忠隣の顔を洗ったという逸話が『本藩人物誌』に記されている。

 

以上。メモでした。

 

「務」ではなく「中務」だとしたら?と検索したら、「豊久」さん関連しか出てきません〜〜。。

 

鹿児島もすっかり寒さを感じる季節になってきました。

では〜

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144年前の曽祖父は戦の真っ只中!

2021-04-21 23:54:33 | 曾祖父・轟のこと

 いつもお読みくださり、ありがとうございます

 

これまでに、曽祖父と西南戦争について書いていますが、

2月に出立して、

4月の今頃は各方面で戦っていたのだなぁと思うのです‥‥。

 

『西南役余話』というサイトがあります。

そのサイトの『薩軍の編成 4月21日以降』 に野村忍介率いる「奇兵隊」がありますが、池上四郎率いる第五大隊第二小隊に従軍し、2月22日に安政橋方面で傷を負い手当てを受け、隊に戻って山鹿など各地を転戦した曽祖父は、その後この奇兵隊に属したようです。

 

 これまでの主な関連記事:

北川町教育委員会様へ。』( 2010-10-03 )カテゴリー : 名越左源太と家族

曾祖父・名越轟と西南戦争−1』 ( 2017-05-27 )カテゴリー : 名越左源太と家族

曾祖父・名越轟と西南戦争−2』( 2017-08-27 )カテゴリー : 曾祖父・轟のこと

この頃↓は曽祖父について、まだいろんな点で把握しきれていなかったことがわかりますねぇ

西郷従道と台湾と曾祖父・轟と 』  ( 2018-07-20 ) カテゴリー : 曾祖父・轟のこと

『鹿児島県史料 西南戦争』第四巻 』( 2019-01-27 ) カテゴリー : 曾祖父・轟のこと

轟の命日に兄・時成と「若き薩摩の群像」のことなど 』( 2020-02-06 ) カテゴリー : 曾祖父・轟のこと

では、今夜はこんなところで。

 

 

 

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小松帯刀清廉の誕生日に

2020-12-03 22:35:40 | 曾祖父・轟のこと
いつもお読み頂きありがとうございます
 
画像を入れたブログ記事をアップしたいと思いつつ、
FBで先にアップすることが多いのですが、今日の記事もその一つ。
以下、FBで上げた記事です。
 
 
「小松(帯刀)清廉の誕生日、ということで、ちょっと確認。
(天保6年10月14日→西暦で1835年12月3日ということらしい)
 
☆名越時敏日史より
二男・郷十郎が私の曽祖父・轟の幼名。
文久2年(1862年)正月の時点で、町田家に。
郷十郎は十三歳。嘉永3年(1850年)1月26日生まれで満12歳間近の頃。」
 
   
 
 ↓ここからは当ブログでの追記です。
 
町田申四郎が小松家の養子になったのは元治元年、1864年頃?
だとしたら、曽祖父が町田家に居たのはそれよりも前のことだから、直接的な関連はないのか。
町田家、といっても、どこの町田家?まだよく読んでいないので、これからの課題。
 
 
以下の画像は、『幻の宰相 小松帯刀伝』より
 
 
 
 
久しぶりに『鹿児島県史料 名越時敏史料』をめくってみた。
 
『〜 史料 二』の「元治二年正月〜七月」の辺りを見てみたら、三男・吉次郎と四男・徳熊の名前が記されていることに初めて気づいた!
 
これを機に、年代ごとにチェックしながらしっかり目を通してみようと心に決めました。
 
その上で、私なりの方法でブログに上げていけたらいいな
 
 
 
 
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曽祖父の養母・スガの命日でした

2020-04-18 23:57:47 | 曾祖父・轟のこと

2年前、スガさんの誕生日に書いた『島津對馬の長女・スガ』でも少し触れましたが、

今日、4月18日は曽祖父の養母・スガさんの命日でした。

曽祖父の戸籍謄本に記載されていることによると、1837年(天保8)生まれで、

1902年(明治35)4月18日に鹿児島郡吉田村で亡くなったようです。(享年数え年で66)

なぜ吉田村なのか?はわかりません。。届出人の記載はありませんでした。

昨日スガさんのことを話題にしていながら、命日の今日アップするのが遅くなりました

 

そして、偶然ながら、父の従弟の命日でもありました。

別ブログの記事に書きましたので、リンク貼っておきます。

アメブロ『父の従弟』(記事は2010年 5月19日に書いたものです)

 

画像は、名越左源太時敏の写真です。

『南島雑話の世界 名越左源太の見た幕末の奄美』(名越 護/南日本新聞社)に掲載されているものをご紹介。
(※複製利用は何卒ご遠慮下さい)

小柄なのかな?この写真からはよくわかりませんが、雰囲気が父の従弟(故人)と重なります。

父の従弟は父方祖父の末弟の次男で、比較的小柄な人だったので、左源太のこの写真を見ると重ね合わせてしまいます。

以前、↓アメブロに書いたことがあったので、いつ亡くなったっけ?と読み返すと‥‥‥!!

2010/5/19 雑記『父の従弟

ちょうど10年前の明日、4月18日未明のことでした!
このタイミングってもしかして、何かが知らせたのでしょうか?

 

この写真、内村氏のまとめたものによると、明治11年1月に長崎で撮ったもののようです。

左源太60才、だそう。

最初見たときに「左源太爺さん、長崎に行ってたんだ〜!?」って思いました(笑)。何の用事で行ったのか知らん??写真撮るためだけでは無いでしょうけど(^^)

左源太爺さんの顔、ちょっといかつい感じもするかな?

左源太の次男、曽祖父・轟爺さんのイメージも少し重なったりします。

なお、写真のお墓はもうありません。福昌寺墓地から昭和24年かな?

坂元墓地に改葬になる際に、どこかの墓石屋さんが立派な墓石だと喜んで持って行ったとか。以前、南洲墓地でスケッチされていたという湯場崎さんのHPで読みました。

※湯場崎さんについては以前ブログに紹介しています。2010年10月に書きました。

『墓標を縫って 南洲墓地にて』の作者、湯場崎末次郎様へ。

 

そう言えば、スガさんのお墓って、どこにあるんだろう??

父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??

 

 訂正:2021年11月29日に『祖母が戦後お参りしようとしていたお墓』で訂正していますが、「スガさん」は曾祖父の養母なので「祖母のおかあさん」には当たりませんでしたゴメンナサイ

 

その時は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でしたが、おそらく「興国寺墓地」ではなかったかと思われます。

興国寺墓地は島津家のお墓をはじめ、古い家のお墓があるところです。私も以前二度ほど行ったことがあります。

長澤鼎のお墓を見にも行きましたが、結構急な傾斜があるし、ただ行くだけでは見当もつきません。

墓めぐりには時間と体力が必要です。第一、また行けるかどうか。。。

 

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曽祖父・轟は、篤姫の従弟ってことね!?

2020-04-17 22:32:47 | 曾祖父・轟のこと

昨年1月に『今和泉島津家と永吉島津家と』で、

曽祖父・轟が養子に入った先の養母は『島津對馬の長女・スガ』だと書いていますが、

そのスガの父・島津忠喬は、篤姫の父君・島津忠剛の養父、

島津忠剛様は島津斉興様の弟で、お二人の父君は斉宣様、

島津忠喬様の父君は斉宣様の弟で今泉島津家・忠厚様‥‥‥ 、

いや、早い話が忠喬様と忠剛様、お二人は従兄弟同士なのですよね。

忠剛様が従兄弟である今泉島津家の忠喬様を嗣いだということで、

忠剛様はスガの兄、ということになります。

で、忠剛様の子・篤姫様は、スガの養子となった轟の‥‥従姉!と今日になって気づいたという話です。

(※ 但し、系図上は、ということですので、、、。)

 

今日、父に「忠喬」のことを説明できなかったので、

もう一度ちゃんと把握しておかなくてはと調べ直したのでした。

※以上、 もし間違いがあれば、どうぞお気軽にご指摘くださいませ

 

 篤姫の従弟などとは恐れ多いことでしたので、多少修正いたしました。(2020. 4 20 追記・修正)

島津忠喬・長女、スガは、栗川用行の室となっている時点で実家から離れているので、見当違いな話ですね(苦笑)

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轟の命日に兄・時成と「若き薩摩の群像」のことなど

2020-02-06 19:01:20 | 曾祖父・轟のこと

鹿児島中央駅に「若き薩摩の群像」がある事はよく知られている。

以前から話題にのぼっては、その後進展がなかった問題が、ここへ来てまたスポットを浴びそうな兆しがある。

 

高見弥一と長崎出身の通詞・堀孝之の二人を新たに加えようという動きがあるらしい。

 

不勉強なため、門田明氏の『若き薩摩の群像』を読み返すことにした。

※ 以前の春苑堂出版のものも手元にあるけど、今回は息子さんが出された高城書房の復刻版(写真なし)

 

☆☆

 

ところで、薩摩藩英国留学生に加えられた、曽祖父・轟の兄、名越時成の渡英時の年齢については以前も書きました。

名越時成の「留学派遣」時の年齢』(2017.4.24投稿)

21歳ではなく、数えの19歳、満年齢なら17歳です。

時成さんは、弘化4(1847)年 9月24日生まれなのですから。

 

時成の直接の家系ではないにしても、鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」が話題になれば、名越時成のこともまた取り上げられることもあるかもしれないと思うと、またこの「年齢問題」が気にかかるのです。

 

☆☆

 

そういえば、昨年購入した『敬天愛人』第37号 p.205に、曽祖父・轟の名前を見つけました。

「西南戦争」で亡くなった人の名簿は目にしますが、「西南戦争国事犯・懲役人名簿」に「名越轟」で載っていました。

 

轟の命日に。

名越 轟:嘉永三(1850) 年生まれ ー 大正11(1922) 年2月6日沒 於・台湾阿喉廳港西中里阿喉街)

 

◯ 訂正:轟が亡くなった場所を「於・台南州佳里」としていましたが、

台南州佳里で亡くなったのは祖母の実父「寺山用之」でしたので上記の通り訂正(2020.2.7)

 

 

☆ 関連記事

西郷従道と台湾と曾祖父・轟と』(2018.7.20 投稿)

鹿児島県史料 西南戦争』第四巻』(2019.1.27 投稿)

名越左源太泰藏の子供たち』(2011.1.20 投稿)

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電信の・・・。

2019-06-28 22:58:59 | 曾祖父・轟のこと

いつもお読みいただきありがとうございます。

 

きょうは、曾祖父の姉、イサさんが書いた『都見物日記』をそろそろちゃんとご紹介しなくては、と思い

改めて読み直していました。

 

以前、「電信」の仕事? という記事で、

「曾祖父が明治23年時点、東京市に出向いた際に何らかの形で「電信」の仕事に携わっていたらしい」

などと書きましたが、

よくよく読んでみると、「電信の事」で出掛けたとありました。

 しかも、東京滞在中だけでなく、帰路大阪に寄った時にも「電信の事で出掛けた」と書かれていました。

 

単に、電信の事で用事があったのかも・・・。

ところで「電信の事」って、何でしょうね?

 

次回からいよいよ『都見物日記』について書いていきます♪

 

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「島津家家臣団系図集」で曾祖父・轟の新事実??

2019-06-22 18:50:02 | 曾祖父・轟のこと

昨年南方新社さんから案内があり予約注文していた「島津家家臣団系図集 上下巻」が、5月に届きました。

 

実は編者である野田さんが昨年暮れに我が家を訪ねて来られ、少しだけ参考資料などのコピーを提供しました。

今年に入り、曾祖父・轟についての確認などと併せて、新情報も頂きました。

当家には伝わっていないこともあるのか、初耳な内容だったので驚きましたが、

父方祖母の実家「寺山家」について発行前の家系図を見せて頂いたりして、こちらも驚きの情報がありました。

 

寺山家は「薩州家六男家」であることが分かったのですが、同じ流れの「二男家別立」を辿ると

あの寺山修司氏の名前が

 

この家臣団家系図、ちょっとお値段張りますが、面白いです!

 

あ、肝心の曾祖父・轟に関する新事実ですが、まだわたくし的には確認取れていないのでハッキリとは言えませんが、

やはり「栗川久澄」との繋がりがあるようだ、とだけ申し上げておきます。

またハッキリ分かりましたら、こちらに書いてみようと思います。

 
☆↓↓↓南洲墓地にある「栗川久澄 墓」 
 

☆関連記事 ↓↓↓

今和泉島津家と永吉島津家と

 

 

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『鹿児島県史料 西南戦争』第四巻

2019-01-27 14:57:54 | 曾祖父・轟のこと
前回、『今和泉島津家と永吉島津家と』
「……曾祖父・轟が西南戦争で政府側へ投降し、市ヶ谷監獄に収監された際に記した「上申書」というものがある‥‥」と書きました。

それが、こちら↓です。「三六一 名越轟上申書」とあります。



↓画像左上には「明治十一年 三月 鹿児島懸 名越轟」と書かれています。

下段、右から4行目に「我軍ノ隊長 坂元仲平・栗川少等 数名 奮戦シテ 死之、外 僅(わずか)ニ 身ヲ以テ逃ルゝ者多シ、」
とあり、ここに「栗川」の名が出て来るのです。

続いて「此の時木山の我が軍も総て矢部に引揚げるに依り 此の軍も矢部に合す」
「爰(ここ)に於いて隊号 編制あり、鳥栖・隈府方面は奇兵、我が隊は奇兵十三番隊となる、‥‥云々‥‥」と続きます。

☆以前書いた記事『曾祖父・名越轟と西南戦争−2』(2017. 8.27)の後半部分の内容(情報元は『西南記伝』下巻二 「14. 名越 轟伝」)と合致します。


これは、『鹿児島県史料 西南戦争 第四巻』として、
平成20年2月27日に発行されたものの中の「十綴之内(八)」の最後(p.478)に載っています。
黎明館の前・調査史料室室長だった内倉昭文さんに教えて頂きました。

「解題」を読むと、
 『鹿児島県史料』では、昭和五十二年〜五十四年に『西南戦争』を第一巻〜第三巻として発刊しており、
  第二巻には「西南之役懲役人筆記」が収録されている。同巻解題によると、(中略)注に
     「右の表には東京府(市ヶ谷監獄)関係のものは全然含まれていない」とあるように、
     東京府関係分は収載されていない。これは、発刊計画当時、底本を所蔵していた東京大学史料編纂所に
     東京府関係分があれば当然収載されていたであろうが、当時 同編纂所では同史料の所在が不明であった
     という理由による。その後、同編纂所で東京府関係分が確認されたため、同編纂所所蔵本を底本にして
     東京府関係分を今回発刊する。
      三〇年の間をおいて、ようやく先のシリーズの欠を補うことができたことを喜びたい。」

 と書かれていました。

と、いうことで、曾祖父・名越轟の上申書もようやく日の目を見るに至った、という話です。


☆私信:内倉昭文さん、その節はありがとうございました。ご覧になっておられましたら幸いです。
   ようやく、以前戴いていたこの資料についてのブログ記事を書く事が出来ました。ありがとうございます♪
   どうも資・史料の読み込み(インプット)と文章にする事(アウトプット)に時間がかかるので
   今になってしまいましたが、こうして形に出来たので安堵しております。(^-^)

☆関連記事
  『西郷従道と台湾と曾祖父・轟と』(2018. 7.20)
  『曾祖父・名越轟と西南戦争−2』(2017. 8.27)
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今和泉島津家と永吉島津家と

2019-01-15 00:45:07 | 曾祖父・轟のこと

なんだか、うっかり忘れていた記事や写真が
ここへ来て繋がり始めている感じです。

「知覧のぼっけもん」さんから頂いたコメントをじっくり読んでいて、
一方で以前のフォトチャンネルで関連する画像を何となく眺めていたのです。

それが、こちら


去年の今頃の記事『島津對馬の長女・スガ』にあるように、曾祖父・轟の養母・スガは「島津對馬」の長女

今和泉島津家を継いだ「島津安藝 忠敬(ただゆき)」や、永吉島津家を(一時期)継いだ「島津久敬(ひさたか)」
それに、名越左源太の妻・タネの弟・島津久籌(ひさとし)が継いでいることなども書いています。

また、2017年3月9日の『島津 登について』では、「忠敬の兄・島津久敬(ひさたか)は永吉島津家の養子に入ったけれども、のちに島津 登(藩家老)の息子、島津久籌(ひさとし)を養嗣子としている」と書いています。

最後には「あと、欲を言えば「島津對馬」についても分かるといいのですが。(戸籍によると、曾祖父・轟の養母は「島津對馬」の長女)ご存知の方は、ぜひご一報お願い致します。」と書いていますが、
前述の『島津對馬の長女・スガ』(2018年1月11日の記事)にあるように、黎明館の前・調査史料室長(現・学芸課長 )内倉氏にご教示いただいた史料には「和泉家の流れを継ぐ今和泉島津家に「島津對馬 忠喬」」とありました。

しかし、内容を確認した時期も違うため、それぞれの情報を結びつけてまとめるまでは行かず、今になって自分の頭の中でようやく繋がって来た感じです。


また更にそれとは別に、2017年5月26日には西郷南洲顕彰館へ行き、以前から気になっていた南洲墓地内にある「栗川久澄」の墓石に関することを訊きに行ったところ、戦没年月日と亡くなった場所以外の詳しいことは分からずじまいでした。
《 栗川久澄 鹿児島出身 明治10年4月24日 肥後国 木山にて戦死 》


ただ、曾祖父・轟が西南戦争で政府側へ投降し、市ヶ谷監獄に収監された際に記した「上申書」というものがあるということで以前内倉昭文氏からご教示いただいた『鹿児島県史料 西南戦争 第四巻』で再度確認してみたところ、4月20日以降の内容に「栗川」戦死の表記を見つけました。

これは「栗川久澄」に違いないと思われます。
更なる事実が出て来ることを期待しているところです。


 

コメント (3)
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『電信創業之地』碑!

2019-01-11 07:38:21 | 曾祖父・轟のこと
皆様、
 明けましておめでとうございます
   本年もどうぞよろしくお願い致します


‥‥‥って、もう11日、鏡開きの日になってしまいましたが
  昔で言う「松の内」ということでお許し下さい〜
  (※ 昔は1月15日までを「松の内」と言いましたが、今では7日までらしい ← 広辞苑による)

さて、前回の投稿から半年近くになりますが、昨日あるテレビ番組を見ていると、
いやいや、平泉成さんはおいといて‥‥なぎら健壱さんの「B面の旅写真館」とか何とかのコーナーです
「電信創業之地」というものが紹介されていました
横浜が有名らしいのですが、昨日紹介されてたのは
東京築地の明石町にあるものでした。

検索かけてみたら、色々なページがありました。

「電信創業の地 - ビバ!江戸」

『電信操業之地』のクチコミ
  「電信創業之地の碑は、築地の明石町にあります。運上所跡の碑の傍です。」


電信創業之地
   
この「電話局の写真館」さんのサイトより
電信創業之地
東京傳信局跡 明治二年十二月廿五日開始 紀元二千六百年 逓信省
電信 創業記念碑の由来 「明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所に設けられた「傳信機役所」を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業務を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、
昭和53年、南南東 約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。」
※ 碑は、公営住宅の角地にひっそりとありました。 参考リンク:
横浜側創業の地

以上、前回投稿の『「電信」の仕事?』と関連ある出来事でした。
もしかしたら「轟じいさん※」も明治23年上京時にここを訪れていたかも??
と思ったのでした
※ 「轟じいさん」は私の曾祖父=ひいじいさまです。父が「轟じいさん」というので私もそう言います(笑)

そうそう、「電信創業の地」で検索したら、画像一覧に見慣れたものがありましたよ

「鹿児島県観光サイト/かごしまの旅」より
電信の碑実際は「電信使用ノ地」となっています
  島津斉彬が取り組んだ電信実験の成功を伝える記念碑 

1857年、蘭学者の松木弘安(寺島宗則)、中原猶介は、鶴丸城本丸と二ノ丸庭園探勝園の間に電線を引き、電信実験に成功しました。実験成功後は、地雷や水雷の起爆装置に電気技術を応用。市来四郎は仙巌園で地雷の爆破実験をしたときの様子を「電気装置で通電したところ、(爆薬が)激しく爆発し振動で山々が揺れた」と書き残しています。また、電信実験に携わった寺島宗則は、電信の重要さを感じて、維新後に国内の電信網の整備や万国電信条約への加盟に尽力しました。現在探勝園は公園として整備され、電信碑が建てられています。
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「電信」の仕事?

2018-07-23 11:45:34 | 曾祖父・轟のこと
いつもお読みいただきありがとうございます




もう10年前になりますが、照国神社に初詣に行った際、その隣にある探勝園を父と散策し、
「電信使用ノ地」という石碑があるのを初めて知りました。
 
小さい画像はクリックで拡大表示されます

それから何年も経って、曾祖父・轟の長姉である川上イサさんが記した『都見物日記』をじっくり読んだ時に、曾祖父が明治23年時点、東京市に出向いた際に何らかの形で「電信」の仕事に携わっていたらしいことを知るのです。

そのことをこちらのブログに書いたように思っていたのですが、「電信」でブログ内検索したところ記事が見つかりません。。。カテゴリー欄の「轟の姉・イサさんの『都見物日記』」で探しても同様。。。



『そろそろ新年のご挨拶など』(2008. 1/7 mixi日記より)の中でまとめ日記として数枚の画像も上げていましたが、探勝園についても「電信」についても書いていなかったようですね。。。

また、この日初詣で撮った写真はどうやら別のブログに上げていたようです
  雪見月のチェストブログ「照国神社・探勝園を歩く」(しかも、10年後の今年、3月18日にアップ!)

mixi日記の過去の日付けのものをいくつか当時の日付けでこちらにも上げていますが、mixiでは写真のみをアルバムにまとめていたので、こちらでもフォトアルバムの形で上げてみました。宜しければご覧下さい

フォトチャンネル「照国神社と探勝園ほか(2008.1.4)」


※フォトチャンネルの画面上にカーソルを当てると下部に画像の説明が表示されます

曾祖父が関わっていた『電信』の仕事については、残念ながら現時点では全く分かっていません。。
  
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西郷従道と台湾と曾祖父・轟と

2018-07-20 18:14:58 | 曾祖父・轟のこと
いつもお読みいただきありがとうございます

一昨日7月18日は西郷従道の命日だったそうで、先日知りました。
 天保14年5月4日(1843年6月1日) - 明治35年(1902年)7月18日
 以上、「西郷従道」Wikiより

今日はFacebookにアップしたものをこちらに記しておこうと思います。
……

西郷隆盛の弟・西郷従道についての「歴史人マガジン」の紹介記事です。
        
https://rekijin.com/?p=27762

私の父が 湾生(第二次大戦前に台湾で生まれ育った日本人)なので、従道の名前は以前からよく耳にしていました。更には、宜蘭庁長官だった、西郷隆盛の長男(愛加那との子供)菊次郎の事も。

ただこれまでは、西郷隆盛の弟・従道と隆盛の長男・菊次郎が、私の中で途中ですり替わってしまう事が時々ありました。どちらも台湾との関わりがあるためですが、一人ひとりに焦点を当てて知る事で捉え直すことは大事ですね。

考えること・思う事が色々ありました。
例えば、曾祖父と、曾祖父の兄・名越時成とのこと。
曾祖父・轟は西南戦争に従軍し、負傷した後も延岡・長井村で最後まで戦い政府軍に投降し市ヶ谷に収監、その後上申書を残し帰郷(明治11〜12年ごろか?)。その後結婚して明治14年には長男(私の祖父)が生まれています。

と、ここで祖父の姉の誕生日を確認したら、「明治9年9月15日」に生まれていました
ということは、西南戦争に行く前に結婚し長女も生まれた翌年に参戦していたという事に今気づきました〜(゚∀゚)‼️

ともかく、曾祖父の兄は薩摩藩英国留学生🇬🇧で1865年に渡英、翌年帰国後は詳しいことは分かりませんが、史料や関連本を読む限りは郷里では思うように生きられなかったのかもしれません。英語教師をしたと書かれたものもありますが。

そして、父親である左源太時敏は長男(嫡子)を失うわけにいかないと、一時期奄美に住まわせたのかもしれません。一説には「座敷牢に閉じ込めた」と伝わっていますが、本当のところは大事な嫡男を戦争に参加させてはいけないと思ったのかも。この点については黎明館の内倉氏からご教示頂きました。

ところが次男である曾祖父・轟の方が西南戦争に参加するとは、父、左源太時敏も思っていなかったのでは?とも、内倉さんはお話しされました。

どの家族でも、子供の頃からお互いにに影響は受け合っても兄弟のその後の生き方はそれぞれなんだな、と思う事でした。
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曾祖父が養子となった先は‥‥

2018-03-18 23:57:00 | 曾祖父・轟のこと
☆今日3月18日は我が家の先祖、曾祖父・轟が栗川家に養子入りし、姓が名越から栗川に変わった日でした。
 追記:川上イサさんと写っている男の子、「久良」となっていますが、年代から、またイサさんの様子からすると、長男・久良さんではないと思われます(2020.9.22追記)
 
轟の長男である私の祖父・篤彦は明治14年生まれ。
その翌年の明治15年3月18日に、曾祖父・名越轟は妻子を伴い、栗川家に養子入りしました。
 
養父・栗川用行は、曾祖父が養子に入る時には既に亡くなっていたと思われます(詳細は不明)
養母・スガは島津對馬の長女で天保8年(1837)生まれ
計算してみると、養子である轟じい様(当時32歳)とは13歳しか違わないようです!
 
☆養母・スガについては、関連記事:今年1月11日の『島津對馬の長女・スガ』もご覧下さい。
 
☆養父・栗川用行については詳しい事がわかりません。
「さつま歴史人名集」(稲葉行雄 著・高城書房出版)には
   [ 栗川 ] ‥‥ 薩州家島津仲 正徳年間、二男以下の苗字栗川氏、諱字は嫡男 、二男以下は と命名するよう命ぜられた。
と、あります。また、今和泉島津家の家臣にも名を連ねています。 Wikiより→「栗川用常」
大河ドラマ『篤姫』でも「栗川孫六」という人物が出ていました。 過去記事「孫六さん。(mixi日記より)」
※指宿・岩本の今和泉島津家墓地にある当主の墓前の献灯には「用」の字が付いた「栗川」姓の名前がいくつか見られます。
 
※左は忠剛様の墓前、右は忠冬様の墓前
 
※鹿児島には割合に少ない姓であり、鹿児島市の教育長が同姓だったことから、中学時代に何人かの教師から度々親族か問われた事がありますが、辿れば繋がるのかもしれません。
10年程前に私がお世話になったお医者様からも聞かれた事があります。その先生は「高校時代の恩師で、教育長の立場よりも現場に籍を置くことを望み教壇に立たれた尊敬する方だった」と仰っていました。
 
 轟の姉・川上イサさんの孫にあたる方から写真のコピーなどを頂いた事があり、そこには同姓の親族らしき名前を書き込んで下さっているのですが、轟との繋がりも残念ながらよくわからないままです。
 
その写真の中の1枚に、轟の妻・ツタ(私の曾祖母)と一緒に写っている少女がいます。
名前は丹下幸代
着物姿の肩には毛糸で編んだようなケープのようなものをまとい、それとお揃いのような大きな手編み風の帽子を冠って立っていて、椅子に腰掛けたツタが背中に手を添えている写真です。
「明治26年4月22日」と書き添えてあります。
 
轟は、明治29年には台湾総督府で勤務しているので、鹿児島で撮った最期の写真だと思われます。
 
☆「丹下幸代」の名前は「さんぎし」に掲載された『都見物日記』の冒頭に出てきます。
これについては、またおいおい書いていきます。
 
☆上記リンク記事内にあるように「*月刊誌「さんぎし(竹馬)」は昭和32年に創刊され、昭和57年に復刊し、平成19年3月で300号が復刊継続」と書かれていました。
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