☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

郡元墓地の川上家累代合葬墓など('08.12.6 撮影)

2023-03-09 12:57:45 | 名越左源太と家族

 以前「郡元墓地」について書いた記事を検索していて、

後日アップする予定で2年近くもそのままになっていた物があることに気付きました。

・ここです↓

『 歴史探訪時系列インデックス』(2017-08-13)カテゴリー| インデックス(主なイベント) 

 

ここに自分で書いておきながら、すっかり忘れていました。

「☆ (2008年の)12月6日には郡元墓地の『篤姫の父上・母上のお墓』を訪ねたことも。(2018年3月11日に日記アップ)

  実はここを時成さんのご子孫・U氏に教えて頂いた後、もう一度父を連れて訪ねてみたのがこの日でした。

  その際には、曽祖父・轟の姉イサさんが嫁いだ川上家のお墓を撮影したので、後日アップ予定です

  (以上、2021年4月9日追記)」

 

2008年12月に訪ねた際に撮った、と書いてあるけど、

写真の画像情報を見ると「2011年7月2日」になっている。ファイリングした時の日時記録だろうか??

今のところ、ちょっと不明。

 

 全部で9枚あります。

右が「川上家累代合葬墓」。

・関連記事『川上式部邸跡と「授産社跡」』(2019-10-19)カテゴリー| 都見物日記プロローグ

 

 川上久逹の墓石には、長男・川上玖琅、その妻・イサ合葬とあります。

左には「橋口精一之墓」とありますが、この方がイサさんの二男で『都見物日記』を纏められた方。

・関連記事『【第4話】紹介者は、寺師若法師さん』(2019-09-06) カテゴリー| 都見物日記プロローグ

 

背面。

 

川上久逹(ひさゆき)墓石(天保三年四月廿二日生)

 

 

川上久良(玖琅)氏により(南林寺墓地から改葬)建立されたそう。

 

 

また、この墓地には子孫にあたる平瀬実武氏の墓もありました。

最初に訪れた際、時成子孫の内村氏が教えてくださいました。

 

 郡元墓地(露重墓地)にて撮影。

 

チェックしてみたら、内村氏に教えていただいた時は写真に撮らず、やはりその後父を連れて行った2008年12月の撮影だったようです。

・関連記事『篤姫の父上・母上のお墓』(2018-03-11)カテゴリー| 大河ドラマ『西郷どん』

 

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「於枝様」に気付いた話

2022-08-04 12:47:37 | 名越左源太と家族

昨日、FBにも書いたのですが、以前このブログで書いた記事の画像を目にして、あることに気づきました。

小松帯刀清廉の誕生日に 』(2020-12-03) カテゴリー| 曾祖父・轟のこと

以下、FBで投稿したものをそのまま載せておきます。

===================

今日(8月3日)、拙宅ブログでこの6時間以内に読まれた記事リストを見て、その中の一つをチェックしてみたところ、その中の画像から気付いた事がありました。

記事タイトルの「小松帯刀の誕生日」はこの際関係ないのだけど、『鹿児島県史料 名越時敏史料 一』のp.74に文久二年(1862年)の正月の名越家の家族構成を書いてあり、よくよく見てみると、その中で「文化二年乙丑八月三日誕生 於枝様 一 母上様御歳五十八歳」とあるのです!
 
それに気付いたのが今日、8月3日とは‥‥。
 
ただ、「於枝様」と名前に様付で書いてありますし、文化二年は1805年、高祖父・名越時敏は「拙者四十四歳」とあり「母上様」との年の差は14歳なので、時敏の実母ではなさそうですね。
 
 
今までは高祖父・時敏や、曽祖父・轟(当時は郷十郎)の二人の姉と兄弟について知りたいと、このページの下段ばかり読んでいて、上段の端にある両親のところをよく読んでいなかったのですが、時敏の父・名越盛胤についても初めてちゃんと読んでみたのです。
 
「天明七年丁未十月七日誕生 一 父上様当年御歳七十六歳」とあり父上については名前は書いていません。
 
ここで自作の「家族・親族の生没年カレンダー手帳」を見ると、こちらも旧暦・新暦の違いはありますが亡き父の次兄の誕生日と同じでした!
 
同じ日といえば、時敏三男の吉次郎(曽祖父・轟の長弟)の誕生日が、私の亡き父と同じ日だったことにまたビックリ!
前にも一応目を通してはいるはずなのですが、今日はこれについても改めてメモを取りました。今日の収穫でした♪
 
なお、三男・吉次郎と四男・徳熊(曽祖父の弟達)については詳しいことはわかっておりません。
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名越時敏が名越右源太篤烈だった頃

2022-02-02 17:32:46 | 名越左源太と家族

 

いつもお読みいただきありがとうございます

 

さて、前稿で「惠祥院殿菩提」の石塔について書きましたが、「名越右源太篤烈夫婦」ということはいったいいつ頃のことなのかを、はっきり認識しておいた方が良いだろうと思いつき、長女・イサさんの誕生日の1年前くらいを計算すれば、1839年(=天保10年)初めには夫婦だったのだろうと思うわけです。

関連記事:『イサさん生誕170年! 』  2010-01-07   カテゴリー: 名越左源太と家族

    :『いささん、51歳 』   2008-04-10  カテゴリー: 都見物日記プロローグ

 

実は最近、島津登久包について新しい情報が届いたのです。

それで思ったのですが、島津登久包は、高祖父・名越時敏の妻・タネの実父であり、高祖父の舅となったのが天保10年頃として、その頃以降に建立された石塔であろうと思われるわけです。

また、高祖父は奄美・小宿に遠島時代(1850~1855年)の「南島雑話」の下書きにある署名の「名越時行」→ 小林居地頭の頃には「名越時敏」、明治に入って「名越泰藏」と順に改称します。

なので、「名越右源太篤烈(夫婦)」だったのは1839年〜1849年の間の何年間かだと思われます。

 

その頃に亡くなった「惠祥院殿」とはどなただったのか、今後も少しでも情報を掴めればと思います。

 

  画像は季節外れに咲いたナスタチウム

 

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親族目線で『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』を読む

2021-10-31 14:06:06 | 名越左源太と家族

 

☆ 『鹿児島県史料 名越時敏史料』ですが、私個人としては歴史史料としてよりも、

やはり、親族としての注目・着眼点というのがあります。

例えば、小林地頭に任命された頃の日記が収められた『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』ですが、

以前からじっくりと読んでみようと思っていましたが、今回のきっかけは、

小林の郷土史に関心を持つFBFが、ある1ページを画像にアップして紹介していたことでした。

 

その画像は『鹿児島県史料 名越時敏史料 三』のp.236でした。

「常不止集(とことわしゅう)」(六・七・八之巻)が収められている部分です。
調べてみたら、天保12年(1841年)8月19日の日記ですので、これは名越左源太時敏の父親も地頭職ということなのか、詳細はわかりません。
 

それから、『同 名越時敏史料 二』を持ち出してきて、もう少し丁寧に目を通してみることにしたのです。

 

サブタイトル〈『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』に見る左源太の次女・筆、吉次郎と徳熊の名前〉

として少し書きます。

 

 「お筆」は曽祖父・轟の次姉です。

 また、「吉次郎」「徳熊」は曽祖父・轟の弟に当たるようです。

(『同 名越時敏史料 一』の文久二年(1862年)の正月の日記に「三男・吉次郎、四男・徳熊」と記載あり)

  →『没後130年2011-06-16 23:38:01 | 名越時敏史料

 

 

《 関連記事 》

小松帯刀清廉の誕生日に』 2020-12-03 22:35:40 | 曾祖父・轟のこと

「5月6日 佐原芳どのを訪問、 天王寺の吉次殿とは?」2020-05-06 16:11:36 | 『都見物日記』

数年越しでのコメント返信2018-02-10 13:30:09 | このブログのこと

8月もあと3日。その後のことあれこれ。2011-08-29 08:46:42 | 名越左源太と家族

名越左源太泰藏の子供たち2011-01-20 13:37:52 | 名越左源太と家族

 

 

 

元治元年=西暦1864年

名越時敏が小林の居地頭に任命されたのは元治元年の九月十六日で、居地頭は228年ぶりのこと。

期間は、小林地頭仮屋に着任した同年十月五日着任から2年程の間

 

 

『鹿児島県史料 名越時敏史料 二』より

 

p.152〜

日史第四十二   名越時敏(花押)

 

元治元年甲子十二月中

 

元治元年十二月

朔日 雨後晴、

朝六ツ起、薬種取調いたし、四ツ前より右不足之品 岩次郎江申付け求に遣し、伊福十郎太出候、伊福十郎左衛門・(以下、14名の氏名記載あり)出勤二而候、九ツ時分より面高与蔵殿 入来、八ツ過より同伴、今日は武術式日ニ而 不時為見分差越候、尤、稽古所出席人数 堀伴之助・(以下45名氏名略)、

 右 稽古之甲乙 星之大小を以て分つ、

右相済 円岳寺江参、示現流見分、名前 左の通り、(柳川伝四郎・以下18名氏名略)ニ而候、大鐘比帰り風呂ニ入、珍敷今晩ハ独りニ而 焼酎少々給候、夫より四ツ前歌集とも見候而慰ミ臥候事、

 

二日 快晴、

朝六ツ前起、六ツ過より‥‥(中略)‥‥

一 先日小林郷士年寄 堀之内半五右衛門江 申付置候、‥‥(以下略)

 

三日 快晴、

今暁 時計見損シ、七ツ半之考ニ而八ツ半時起出、皆々起し飯共為焚、も

 

四日 

 暁六ツ前起、詠歌三首、

  へたてなく幾千世守神ならん 熊野の杜の枝もさかへて

  けふよりハ宮ゐ新になりぬれは 猶行末を神や守らん

  祈るそよ君か恵の露の玉 民の草葉にかゝるへしとは

右者此節当所熊野権現御社 伊福十朗左衛門祖母寄進ニ而 新ニ出来替り、今日御遷座ニ付参詣者如何之旨承、‥‥(中略)‥‥暮過帰宅、‥‥(略)、拙者事、明日者高原江(へ)差越筈候故、今日参詣之事為申と存候、帰候得者 平馬より書状来、兵左衛門(福留平左衛門事)よりも同断(※)、鹿府并拙宅無事、お筆(千石馬場 町田家)平産(=安産)、女子出生之段 申来候、

 (※)同断=同様

 

お筆姉さんは弘化二年(=1845年)六月十六日生まれだから、この時は19歳ですね。

この前後を読んでいないので、状況がわかりません。今後の課題

 

「平馬」は曽祖父・轟の兄、名越時成

 

 

・・・・・(間省略)・・・・・

 

二十四日 間々小雨、

五ツ半時分 国府出立ニ而、加治木・帖佐・重富・吉野・たんたとふ筋帰り、七ツ過ニ 野やしき迄参候而 夕方帰宅候事

 

二十五日 晴、

今日者 終日在宿ニ而候、町田民部(久成)殿川上勘解由殿 入来候、其外来客不記候、

 

二十六日 小雨、

今日初而出 殿、御届申上候事、

 

二十八日 雨、

今日も出殿候事、

 

 

 

 

p.170〜

元治二年乙丑 正月ヨリ七月ニ至ル

日史第四十三

元治二年正月

十一日 晴、

暁大鐘過起、平馬事、今日五ツ時 右衛門殿より小森新蔵 御取次を以 御用承知ニ付、六ツ半時出候、拙者ニも

五ツ前出勤、四ツ時御用承知、平日学文武芸致 出精心掛宜段被 聞召上詰衆被仰付候、誠ニ難有次第ニ而

 

p.178〜

元治元年二月

三日 晴、

「朝六ツ起、吉次郎江素読、岩次郎同断、‥‥(以下略)」

四日 曇、

吉次郎徳熊召列参候而無程帰候、夜入五ツ過臥候事、」

 

 

名前が出てくる箇所がまだまだ沢山ありますが、取り急ぎ上げてみました。

また追記・編集あるかも知れません。

 

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9月、命日と誕生日もいろいろ

2021-09-18 15:21:14 | 名越左源太と家族

5年前に作った「家族・先祖の生没年月日専用ダイアリー」↓ですが、

2016年4月のあれこれ及び、先祖の生没年月日専用カレンダー式手帳完成!』(2016.4.23)

今も役立てています。

 

で今月、9月には誕生日や命日が割に多いのです。

 

7日は、父の長姉の命日(2009年、96歳没)で、

15日は町田久成(一時期曽祖父の次姉の夫だった)の命日だったり、同日は父の伯母(明治9年生まれ、吉野・実方の川上家)の誕生日だったりします。

 

また、22日は伯母(父の義姉、旧姓津曲、1984年没)の命日

24日は曽祖父・轟の実兄・名越時成(なごや ときなり 薩摩藩英国留学時の変名:三笠政之介)の誕生日(弘化四年=1847年生まれ)

 

さらに江戸時代の旧暦ながら、

第22代・島津継豊公の命日が九月二十日

(宝暦十年=1760年、磯別邸に没、六十歳)

     

その父で第21代・島津吉貴公の誕生日が九月十七日

延宝三年(=1675年)鶴丸城に出生

 〜延享四年(=1747年)十月十日、磯別邸にて死去(享年73)

    

   

 

などなど見られるのですが、25日は五代友厚の命日です。

 天保六年(=1836)12/26〜明治18年(1885年)満49歳没

 

FBでも五代友厚に関するトピックを見かけるのですが、

郷里の誕生地跡が地域の公園として整備され、その完成前後に父と訪ねたことをに書いていたので、読み返して見たところです。

五代友厚公の命日に誕生地を訪ねる』(2019.9.25)

最後に訪ねて随分経った気がしていましたが、2019年の命日に訪ねており、2年も経っていませんでした。

工事前→   工事中 →  

完成後→      

 

 

また同じ日、25日は父方祖母の実母・寺山スキの命日だと知ったのは2年ほど前のことでした。

(慶応三年=1867年12/18生まれ〜明治32年=1899年、31歳没)

祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』(2019.9.25)

 慶應三年(1867年)十二月十八日生まれ

「明治十九年五月十日に鹿児島郡稲荷馬場町 町田藤蔵 長女に入籍ス」

明治三十二年九月二十五日 午前十一時 臺北縣 臺北北門街二丁目三拾八番戸ニ於テ死亡

 

また、祖母・ふく(婦久の草書表記)には 兄・用麿、姉・節 の二人がいたことも知ることができた。

 

兄・用麿さんは、明治21年8月27日生まれ、残念ながら大正9年に32才になって間も無く小倉市で亡くなったようです。

姉・節さんは、明治25年5月17日生まれ、大正5年7月に清水町151番地の肥田木健介さんと結婚し、除籍。

ふくばあちゃんは、明治27年(1894年)11月27日生まれで、大正2年(1913年)4月15日 18歳の時に篤彦(31才)と結婚。

 

 

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高祖父・名越左源太泰藏の命日に、皇徳寺跡へ再び

2020-06-16 23:33:59 | 名越左源太と家族

 今日6月16日は高祖父・名越左源太時敏(のち 明治期に改め、泰藏)の命日

 

明治14年(1881年) 5月16日は 私の祖父・篤彦が生まれた日。

泰藏二男・轟の長男であり、泰藏の孫である。

 

その一ヶ月後に、名越泰藏は亡くなっている。

 

 以前にも、左源太の命日関連のことを書いていますが、

カテゴリーもバラバラ( 爆!)

 

ざっと上げてみると、

 『 没後130年 』(2011-06-16 )カテゴリー: 名越時敏史料

 『名越左源太のお墓は? 』( 2017-06-16 )カテゴリー: 名越左源太と家族 

 『6月の左源太時敏もしくは泰藏 』( 2019-06-19 )カテゴリー: 奄美大島と名越左源太 

   ↑↑この記事の最後に、

「2021年6月16日には「名越左源太の命日、没後140年」」って書いてる。

そういうことになりますね。

 

 そして、 この6月16日は、左源太の二女・筆さんの誕生日でもあるようで、

昨年10月に書きました↓

 『大正14年まで生きた筆(フデ)さん 』( 2019-10-20 )カテゴリー: 大伯母・名越フデのこと

 

さて、そんな今日ですが、名越家のお墓に参るわけでもなく(名越家直系の方々とはお会いしたことがありませんし、他所様のお墓ですから)、先日からの流れで、以前訪ねた「 皇徳寺跡 」を再び確かめに行きたくなり、父親を誘って行ってきました

日中は暑いので、夕方遅くになりましたが、今の時期は日が長いので、写真を撮れるくらいに明るいですね 

 別途に次回以降、アップ予定です。

 

 

 

 

 

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川上いささんの命日でした

2020-04-29 17:27:04 | 名越左源太と家族

なかなか進まない『都見物日記』ですが、

そうこうしているうちに、イサさんの命日であるこの日のアップをしそびれてしまいました。。

(実はこれ、後日5月7日の投稿

 

左源太時敏父さんの日記によると、

イサさんの子供の頃の名前は「お藤」なのかもしれません(詳しいことは確認出来ていません。。)。

 

2011年1月20日の記事『名越左源太泰藏の子供たち』にも書きましたが、

イサ(いさ)さんは左源太時敏の長女で、天保11(1840)年1月7日生まれ

代々島津家に仕える家柄の川上勘解由(かげゆ)久逹(ひさゆき)の妻となります。

(※川上久逹は明治18年没)

そして、大正9年(1920年)4月29日に亡くなったそうです。享年81。

 

明治23年4月から5月にかけて、一緒に東京見物を楽しんだ弟・轟の曽孫として、ここに記しておきます。

 

今年はちょうど没後100年になるんですね。

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小林居地頭着任の日

2019-10-05 23:58:02 | 名越左源太と家族

2008年7月に「左源太の任期」でも書きましたが、

10月5日は高祖父・名越左源太時敏が小林に居地頭として着任した日、でした。

1864年(元治元年)のことでした。

 

『南島雑話の世界』によると、「『小林市誌』によるとそれまでの小林地頭は、赴任しない「掛持地頭」が長く続き、居地頭は実に228年ぶりだった。」ということです。

 

同年9月16日に急遽、現在の宮崎県小林市の「居地頭」に任命されたそうです。

そして、左源太は10月2日に家族同伴で鹿児島を発ち、5日に小林に着任しているとのこと。

 

なお、左源太の長男・平馬(のち時成、変名・三笠政之介)が 薩摩藩英国留学生の1人として渡英したのは、

左源太がこの小林地頭時代の1865(慶応元)年3月のことでした。

 

 今日小林居地頭着任の日、という事でメモとして記しておきます。

画像は2008年7月撮影

<関連記事>

小林市の地頭仮屋跡』 2008-07-25  カテゴリー : 名越左源太と家族

 

  

  

   

  

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祖父・篤彦の命日、没後70年

2018-01-25 21:18:59 | 名越左源太と家族

☆いつもお読みいただきありがとうございます

タイトル通り、今日は父方の祖父・篤彦の命日でした。
まだ私が生まれる前の昭和23年(1948年)のことです。
台湾から家族で引き揚げて来て数年後、享年66でした。
父は末っ子でその時は21歳、若くで父親を亡くしました。

今このブログをチェックしたら、過去の1月25日の日記に残してありませんでしたので、今日FBに書いた記事を貼り付けておきます。

お読み頂けるとうれしいです。

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夫婦で誕生日が同じ♪

2017-12-28 23:18:44 | 名越左源太と家族
誕生日
今日、12月28日は、左源太時敏とその妻・タネさんの誕生日です。そう、二人そろって同じ日が誕生日なんです。あと3年(ん?4年かな?)で、左源太の生誕200年、です。以前......


去年アップした記事です。
左源太とタネ、日記によると一緒に誕生日を祝ったりしてるようで
きっと仲が良かったと思います(*´-`)
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高祖母・タネの命日でした

2017-12-01 23:29:42 | 名越左源太と家族
本日12月1日は高祖父・左源太の妻、タネ(タ子=たね)の命日でした。
明治40年、享年83歳でした。

左源太が明治14年に亡くなったので、その26年後。
明治の終わり近くまで生きたんだなぁ、と感慨深い。
西暦では1907年なので没後110年になりますね。

実は忘れていたのだけど、昨日何となく確認したところで気付いたのでした。前日に気付いてよかった(笑)

これまでに書いていたつもりでしたが、ブログ内を検索しても見当たらないので、記しておこうと思います。
ちなみに、誕生日は左源太と同じ12月28日。
これは以前書いたかも?→ありました!『誕生日』
文政7年(12月だから西暦にすると1825年2月?)生まれでした。

左源太は文政2年生まれでタネとは5歳違いだけど、随分早くに亡くなってるから正直ちょっと遠い感じ。
タネは明治40年まで生きてるし、私の父からすると曾祖母にあたるので、そう考えると遠い気がしない。
‥‥って、左源太も父から見れば曾祖父なんだけど(笑)

では、今夜はこの辺で
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曾祖母・ツタの誕生日

2017-10-23 22:48:56 | 名越左源太と家族
今日10月23日は曾祖父・轟の妻、ツタの誕生日。

安政5年(1858年)生まれなので旧暦なんですが、
来年は生誕160年ということになります。

ひいばあちゃんが生まれてそんなに経つんですねぇ……、
と言いながら、近いような遠いような、あまりうまく想像できません。。

「明治維新150年」というキーワードが頭に浮かんだので「明治維新」をWikiで見てみると、「改革の時期」の項目には
「開始時期については諸説あるが、狭義では明治改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)となる。」とありました。

ともあれ、曾祖母が生まれたのは、その10年前、ということになります。
う〜〜ん、、やはり遠いような、、、

曾祖母・ツタの命日について、昨年の『2016年4月のあれこれ』に書きました。
大正12年の4月に台湾で亡くなっています。

こちらは父が生まれる3年前、ということになるので、
ちょっと近くに感じられるかな(笑)

では、今日はこんなところで


〈関連記事〉
『家族写真を掲げる』('17.3/12)
 
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曾祖父・轟と台湾

2017-09-13 09:12:47 | 名越左源太と家族
曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける
秋場所も始まりました。皆様、ご無沙汰しております。夏の暑さもようやく治まりつつあるこのごろ、久しぶりにブログを書いてみる気になりました。前回の記事をアップした直後、U室......


1年前(の昨日)書いた記事です。
台湾へ渡った経緯は未だにわかりませんが、ここで再度ブログに上げておこうと思います。
台湾へは2度ほど父の同窓会のお伴で行ったことがありますが、
今後行けるかどうかは分かりません。
台湾語(台湾華語?北京語?)、勉強したいなぁ。。。。
CDブックは買ってあって、一応目を通したくらいですが、集中して勉強しないと身に付かないですね。

本当は現地に行って、国立台湾大學図書館の田代安定文庫の資料も見てみたいんだけどなぁ‥‥。

いつか叶うと良いな、という夢です。
名越護氏も著書『田代安定』のあとがきで書いていたけど、
もっと研究が進んで、資料の開示がされることを望んでいます。
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名越左源太のお墓は?

2017-06-16 23:52:00 | 名越左源太と家族
名越左源太没後135年
今日は名越左源太(なごや さげんた)の命日。明治14年(1881年)に亡くなって135年になります。と言って、別段何もないのですけど。亡くなった時は「泰藏」でした。数え......


去年はこんな記事を書いていたのですが、
左源太の命日の今日、直系の子孫のお宅のお墓を御参りしてきました。

墓石には「先祖代々」とありましたが、
以前、時成さんの娘さんの子孫の内村氏が纏められた冊子にあったように
直系の子孫の方はあまり詳しいことはご存じないようで、
ここは時成さんの男系子孫の方のお墓であって、
おそらく左源太の墓は存在しないものと思われます。
(※あくまでも推測です。もしかしたら子孫の方のお墓に骨壺などがあるのかもしれないけど、確認取れません)


前にも書きましたが、南洲墓地でスケッチ画を描くうちに、
そこを訪れる方達に何度となく墓石のことを尋ねられたことが切っ掛けで
ご先祖の墓石を探しにくる子孫の方達の為に
西南の役で亡くなった方々について調べ聞いたことをホームページでまとめておられた湯場崎さんという方がありました。

☆以前の関連記事:
『墓標を縫って 南洲墓地にて』の作者、湯場崎末次郎様へ。('10. 10/8 記)

そのホームページの(今は無い)記事で読んだところによると、
明治24年の区画整理で、元あった長谷場墓地(福昌寺跡墓地)から、市内の別の場所に移築される際に、
どこぞの墓石屋さんが喜んで持って行ったとか。。。


左源太の墓石には息子・時成による碑文が刻まれていて大層立派だったそうなので、そんなこともあったのでしょう。

おそらくは、無縁仏のひとつとしてそのためのお堂のどこかにあるのかもしれません。

☆以前の関連記事:
これまでの経緯−2('08. 4/25記)
  ↑この記事に書いてある中から抜粋すると、以下の通りです

  ('08) 3/11(火)
   福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。
  * ネットで探して移設のことを知ったのは↓このHPでした。
              『名越左源太公の墓』(← ☆リンク切れです)
           ☆一応念のため、元のURLはコチラ→ http://www2.synapse.ne.jp/hanjirou/nan/yubatop.htm

   墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
   名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

  昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
  全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

   *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
   市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
   まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
   左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

最初に行ったのは2008年の3月10日。結局翌11日再訪した際に上のような状況がわかったのです。
☆以前の関連記事:
坂元墓地で猫の兄弟に出会う(mixi日記より)('08. 3/10 記)

  
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月桂院とは

2017-05-19 19:31:52 | 名越左源太と家族

前の記事で「月桂院」の名前が出てきましたが、もう少し詳しく説明したいと思います。
名越家の歴史がここから始まったと言えるお話です。

島津吉貴公(左奥)と月桂院様の御墓(中央)

☆1-後の月桂院・須磨さんは江戸高輪屋敷で島津の若君・又三郎(のち吉貴)様の目に留まり、三男三女をもうける。
☆2-月桂院は第22代藩主・島津継豊の実母で、その兄は妹の薩摩入りに伴い江戸から薩摩に入った後、名越姓を名乗った名越恒渡(つねただ)です。

 この記事を書いたのちに教えて頂いたのですが、実際には薩摩入りする事なく江戸で亡くなったということでした 2023.4.10 追記)

☆3-名越恒渡の孫・恒篤の養子に町田久亮二男・盛尚、またその養子町田久輔二男・盛胤が左源太時敏の父、ということです

☆4-そして、盛胤次男で左源太時敏の実弟は、町田家に養子に入った町田内膳久憲(家老)

また、月桂院が生んだ三男三女のうち、長男は前述の通り、島津家第22代藩主・島津継豊。
そして二男は垂水島津家第9代当主・貴儔(たかとも)。貴儔の長女・都美は従兄である重年夫人となり長男(のちの重豪)を産んだ後、産褥で亡くなる。
 ※ 継豊の長男=宗信、同じく二男=重年

以上は、時成さんの子孫・内村八紘さんの『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)』に基づくもの。
また、一部は黎明館史料と照合・検証されています。


 このように、いろんな事象がめまぐるしく我が身にのしかかってきた為、これまでの長きにわたりこのブログに書いてきました。
そろそろ一応の区切りをつけようと考えています。

コメント (2)
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